第8話 クラーラ家のお嬢様

「クレア?」

「クレア……お嬢様?」


 とりあえず、執事であるワイズマンさんを部屋の中に招きいれ、俺がお茶を用意した後。

 ワイズマンさんの前にお茶を置き、腰を落ち着かせた瞬間、俺の背後にクレアが周りこみ、抱きついてきた。さながら、木に抱きつくコアラのようだ。


 そんな様子で絶句とも言うべき反応を見せるのがワイズマンである。


 俺は後ろでハグしたままのクレアに声を掛ける。


「クレア。後ろに居たら何も話せないだろ? それにそう覚悟決めたんじゃないのか?」

「き、決めたけど、どうせ、言うもん。見てて」


 半ばふて腐れたような物言いをしてから、ワイズマンさんは一つ息を吐いた。


「クレアお嬢様。そのような行動ははしたないです。今すぐに辞めて下さい。それでは『クラーラ家の令嬢』として恥ずかしい行為ですよ?」

「ね? ハルト、聞いた? クラーラ家の令嬢だって」


 憮然とした表情し、俺に抱きついたまま、恨めしそうにワイズマンを俺の肩越しに見るクレア。


「いっつもそう!! クラーラ家の令嬢、クラーラ家の人間。本当に下らない。そんなにクラーラ家が大事なの?」

「クレア、落ち着け」

「……むぅ、分かった」


 俺が声を掛けると、クレアはふん、と鼻を鳴らし、俺の背中に抱きついたままだ。

 それにワイズマンさんが大きな溜息を吐く。


「申し訳ありません、佐藤ハルト様。お嬢様の我侭に付き合わせてしまって。本日、すぐに帰らせますから」

「帰らない」

「お嬢様? 御父様と御母様も心配しております。それに昨日は婚約パーティを抜け出したので、それだって行われていません。相手方にも迷惑を掛けているんですよ?」

「だとしても、帰らないし、帰るつもりもない。私はハルトの側に居る」


 ぎゅっと少しだけ力が強くなるのを感じた。

 てこでも動きそうもないクレアをとりあえず、そのままにし、俺はワイズマンさんに声を掛ける。


「あの、少しお尋ねてもいいですか?」

「え? あ、はい」

「ワイズマンさんって、クレアがどうしてここまで婚約を嫌がるのか、婚約パーティを逃げ出したのかって分かりますか?」

「……いえ。あまりにも突然の事だったものですから。皆、困惑しました。あまりにも唐突に姿を消しましたから。それに――」


 そう前置きしてから、背中に顔を埋めているクレアを見たワイズマンは目を丸くする。


「あのようなお嬢様を見るのも初めてで。もっとお嬢様は厳格で厳粛な方でしたから」

「だって。クレア、そうなの?」

「そんなの演技に決まってるじゃん。ハルト、私はね、生まれたときからずっとずっとずぅっと!! クラーラ家の人間。クラーラ家の令嬢って、言われ続けてきたんだよ!?」


 クレアは背中から顔を離し、怒りの孕んだ声で言う。


「パパもママもそれをずっとずっと望んでるから、私だってそれに応える為にやってきた!! そういう自分を演じてね、でもね、もう限界!! したくもない結婚をさせられそうになるし、ずっとずっと家のためにって頑張って来てるのが、本当にバカらしくなったの!!

 私はクラーラ家の人間なんじゃなくて、『クレア』なの!! でも、ハルトは違ったよ。

 ハルトは最初から私を見てくれた。初めての人なの。だから、大好きなの」


 グリグリグリグリ。

 俺の背中に頭を犬のように擦り付けるクレア。

 何となく、クレアがどうして脱走したのか理由が分かってきた。


 両親の期待、周囲の期待。それに応え続ける偽りの自分。

 彼女は今までずっとそれを貫いてきた。クラーラ家の令嬢である、と自分に言い聞かせながら。

 でも、そういう演じてきたもの、偽りは必ず限界を迎える。


 それが、あの婚約パーティだったんだろう。


 したくもない結婚をさせられそうになって。そうなれば、自分の未来が決定付けられる。

 その自分の望まない未来を手にするという現実をクレアが理解した。

 

 だから、クレアは逃げ出し、俺と出会った。


 クレアの言葉にワイズマンさんは一つ息を吐いた。


「そうだとしても、クレアお嬢様はたった一人のクラーラ家の跡取りなのです。そんな自由は決して認められません。それに、クレア様は生きていけるのですか? それが嫌でクラーラ家を捨てて、たった一人で生きていけるのですか?」

「それは……出来ないけど……ハルトが……面倒見てくれるもん」

「まぁ、それは否定しないけど……」


 きっとそういう事ではない。

 と心の中で思うが、ワイズマンさんは鋭い瞳でクレアを見る。


「そうした我侭を言う事が相応しくないというお話をしているのです、クレアお嬢様。クラーラ家は世界有数の財閥であり、多くの会社を抱える世界的な名家です。にも、関わらず、他所様に迷惑を掛け、ましてや婚約者様に迷惑を掛けるなど言語道断。

 それはクラーラ家に相応しくありません!!」

「……だから、そういうのが」

「ワイズマンさん」


 背中から感じる怒りを一旦宥める為に、俺は口を挟む。

 ダメだ。今、クレアを爆発させるのは。俺はワイズマンさんの見えない所に右手を忍ばせて、クレアの足を軽く叩く。

 大丈夫、という意思を伝える為に。


 俺の呼びかけにワイズマンは首を傾げる。


「何か?」

「ワイズマンさんって、クレアの好きなものって知ってますか?」

「え? それは……」

「すぐ出てこないんですね。執事なんですから、長い時間を過ごしてきたんですよね? なのに、分からないんですか?」


 俺の問いにワイズマンは訝しげな表情になる。それでも、俺は勇気を振り絞って言葉を続ける。


「クレアは日本のサブカルチャーが大好きなんですよ。アニメ、漫画、ゲーム。特にゲームなんて滅茶苦茶上手いし、毎日俺がコツコツやってたゲームもすぐに上手くなるくらいには得意だし、大好きだ」

「それが何かあるんですか? そんなものクレアお嬢様に必要……」

「無い訳ないよ。それはクレアっていう女の子が持つ大事な要素の一つだ。クレアは朝が弱いし、夜も抱き枕がないと眠れないくらいの寂しがり屋で甘えん坊だ。それ、知ってましたか?」


 俺の問いかけにワイズマンは言葉に詰まる。

 それを見て、俺は確信を得る。そうか、クレアの感じてたとてつもない息苦しさはこれか。


「……俺、ワイズマンさんの言う事は正しいと思います」

「えぇ!? ハルト!?」

「だって、ワイズマンさんの話を聞くに、クラーラ家って滅茶苦茶デカイんだろ? それに世界中のいろんなものを背負ってる。だったら、それに恥じない子になって欲しいって気持ちはあって当然だと思うし。それはきっと、クレアだって分かってたことなんだろ?

 そうじゃないと、婚約パーティまで『理想』を演じ続ける事なんて出来なかったはずだ」


 俺の言葉を聞いて、クレアは背中で小さくなる。

 何だ、図星じゃないか。


「それに応えたかったクレアの気持ちも分かるし、それを形にしなくちゃいけなかったワイズマンさんの気持ちも分かる。二人共間違ってない。だったら、何が足りないのか。

 それは互いを知る事なんじゃないかな? 互いにちゃんと面と向き合って話す事。

 互いに互いの事を押し付けあうんじゃなくて、何を考えていて、どうして欲しいのか。それをちゃんと話していれば……こんな事にはならなかったんじゃないかって思った」

「ハルト……」

「それはクレアも分かるだろう?」


 俺は少しだけもたれかかりながら言う。


「昨日、俺とクレアは沢山話をした。色んな事も一緒にした。だから、クレアは俺を知った上で好きって言ってくれたんだろ? 俺と、一緒に居たいって思ってくれたんだろ?」

「うん」

「だったら、それをワイズマンさんやご両親にきちんと説明すれば良い。それで互いに意見がぶつかり合って、分かり合えないのなら……それはその時考えるしかない。

 だから、クレア。言いたい事はちゃんと伝えろ。君が今、どうしたいのか。

 そして、ワイズマンさんにはちゃんと聞いて欲しい。クレアがどう思ってるのか」


 俺の言葉を聞いて、おずおずとクレアが横に動き出す。

 それからじーっと真っ直ぐワイズマンさんを見た。

 ワイズマンさんも何も言わずにただ、静粛に待つだけ。


「ねぇ、ワイズマン。私は結婚したくない。クラーラ家の令嬢だからって……私はそんな『家』の為だけに生きる、傀儡のような人生なんて嫌なの。

 それに、私は……ハルトの事が好きなの。こんなにも幸せな気持ちは初めてなの。ハルトと過ごす時間は今の私にとって、すごく満ち足りていて、幸せな時間。

 それが無くなるのは嫌だ……。だから、私は帰りたくない。まだ、ハルトの側に居たい」

「……お嬢様。それはなりません。貴方とロジャー様の婚姻は今更、破棄する事は出来ません。向こうも、クラーラ家との婚姻を望んでいる……。それに、こう言うのも憚られますが、きっとロジャー様との結婚ならば、クレア様も幸せになると私はそう確信を得ております。あのような好青年は居ない、と思います」


 ワイズマンさんの言葉にクレアは冷静に言葉を返す。


「いいえ。ロジャーはそんな男じゃありません。あいつは……ただ、貴方達に良い顔をしているだけ。私との結婚なんてどうでも良いと考えているような方です。そういう方なんです」

「……しかし、そうは言いますが、そのようにはとても……」


 クレアの言葉を信じるか。

 ワイズマンさんの言葉を信じるか。

 

 恐らく『ロジャー』という男がクレアの婚約者だ。

 多分だけど、仮面を被っているんだろう。ワイズマンさんやクレアの両親の前だけ。

 そして、その男は把握していたんだろう。『クラーラ家のわだかまり』を。


 どうにも困ったもんだ。俺が考えていると、クレアは一つ息を吐いた。


「そうね。いつもそう。私の言葉なんて最初から信じていないのよ。パパも、ママも、貴方も、皆、私をクラーラ家の道具にしか見ていない。そんなに家が大事なの?」

「……そうです。そうしなければ、沢山の人が路頭に迷う事になります。このロジャー様との婚姻はクラーラ家をより大きくするものだと、御父様も御母様も言ったはずです」


 一大プロジェクト、って事か。

 大人の世界、特にお金持ちの世界については良く分からないけれど、どうやらクレアが婚姻する事でクラーラ家には大きなメリットがあるんだ。

 

 でも、それは同時に。クレアの幸福を奪い取っている事と同じ。


「それって、クレアの幸せよりも大事な事、ですか?」

「……そうだと私は思っています」

「なるほど……だったら、一つ。提案があります」


 言葉で言って分からないなら、見せ付けるしかない。


 俺はワイズマンさんの瞳を見つめ、言葉を続ける。


「今日一日、クレアを貸して下さい」

「どういうことですか? もう婚約パーティは本日行われるのですが……」

「だとしても、それまで時間がありますよね? それだけの時間があれば充分です。俺は今日、今からクレアをエスコートします」


 俺の言葉にクレアが目を丸くする。


「え!? そ、それって、デートって事!?」

「うん。クレアの行きたい所とか、クレアのしたい事を全部、俺と一緒にやろうかなって。それをワイズマンさんは遠くから見てて下さい」

「何故、そのような事を……」

「見れば分かります」


 クレアの言葉を信じるのなら、クレアが俺と過ごしているときの姿を見せれば、きっと分かってくれる。俺はチラリと横に居るクレアを見る。

 クレアは嬉しそうに目を輝かせている。もしも、耳と尻尾が生えているのなら、忙しなく動いている事だろう。それくらいに期待に満ち溢れていた。

  

 俺はワイズマンさんを見据え、口を開く。


「俺はクレアには幸せで居て欲しいんです。もしも、クレアにとってその結婚ってのが幸せに繋がるのならそれでもいいって思います。でも、今の状態じゃ、そんなのクレアにとっての幸福とは程遠いのかなって……だから、ワイズマンさんに知って欲しいんです。

 本当にクレアにとって何が幸せなのか。ワイズマンさんは……クレアに幸せになってほしいんですよね?」


 それにワイズマンさんは小さく頷いた。


「なら、遠い所から見てて下さい。俺とクレアがどういう時間を過ごすのか。そして、クレアにとって何が本当に幸せなのか。それを見てから、もう一度、聞かせて下さい。

 それが本当にクレアの幸せの為なのか。その時間を、少しだけ下さい」

「…………」


 ワイズマンさんはしばしの間考えた後、頷いた。


「分かりました。では、今日一日だけ……御父様と御母様にもそう、報告させていただきます。では、後ほど、また連絡させていただきます」

「ありがとうございます」


 それからワイズマンさんはゆっくりと立ち上がり、一礼してから、部屋を後にする。

 ガチャリ、と玄関の戸締りを確認してから、俺は大きく息を吐く。


「はぁ~……とりあえず、時間稼ぎ完了……」

「ハルト、デート!! デートしよう!! やった、ハルトとデート!!」


 ぴょんぴょん、と飛び跳ねるように喜ぶクレア。

 まぁ、クレアには分からなくても良いし、意識させる必要も無い、か。

 

 それにこれはワイズマンさんが本当にクレアの幸せを願っているのか、というのも知る事が出来る。


 だって、クレアにとって今、一番幸せのはずだから。


 だからこそ、それを徹底的に見せ付ける。俺は横に居るクレアの頭を優しく撫でる。


「わわ、何、ハルト。早くデートに行こう」

「はいはい。少し落ち着こうな。でも、クレア、幸せそうだな」

「うん!! だって、ハルトとデートが出来るんだもん!! さっきまでの不満なんてもう無いよ!! ふふ、デート……」


 さあ、後は楽しいデートをするだけ。考える事はいろいろあるけれど、俺も純粋に楽しもう――。

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