第7話 朝のひと時

 ピピピピッ!!


 小うるさいアラームの音が響き渡り、俺は近くに置いていたスマホを手に取る。

 12月25日。時刻は朝7時。

 俺はスマホを適当な所に置き、隣にある柔らかで暖かな感触へと目を向ける。


 そこには俺の腕にガッチリとしがみ付いたまま規則正しい寝息を立てるクレアの姿だ。


 ああ、そうか。


 昨日、この子を拾ったんだったな。それで一緒に過ごしていたんだ。

 俺は優しくクレアの手を取り、腕から引き剥がそうと画策する。

 しかし、クレアはすぐさましかめっ面になる。


「ん~んぅ……」


 拒否反応である。

 より強く俺の腕にしがみ付き、決して離そうとしない。

 確かに嬉しい。こういう事をしてくれるのは。でも、今はまずい。


 拒否反応を示しているクレアの腕を力づくで引き剥がし、素早く、俺の枕を差し込む。

 すると、満足げな顔をしてから、クレアは規則正しい寝息を立てる。


 何か抱き締めていないのダメなのか?


 そんな疑問が一瞬生まれたが、すぐに用意を進めるため、俺はリビングを後にする。

 洗面所で顔を洗い、歯を磨き、服を着替える。

 それから朝食の用意を進める。


 そういえば、クレアはどっち派だろうか。

 

 パンか、ごはんか。


 クレアは欧州出身。だとすると、やはりパンか。

 そんな結論を頭の中で付けてから、俺は朝食の準備を進める。

 とはいっても、そんなに大変なものは用意しない。

 それこそ、ウインナーと卵焼きくらいなものだ。


 俺はそれらを用意してから、一度リビングへと戻ると……。


「あ、クレア。起きたか?」

「うにゅ……ここは……」


 ぼぅっとした様子のクレアは眠そうに目を腕で擦る。

 それから身体をゆっくりと起こし、じーっと俺を見た。


「ハルト?」

「ああ。もうすぐ朝ごはんが出来るぞ? 顔、洗って来いよ」

「んぅ~……」


 俺がそう言うと、何故かクレアはベッドの中へと戻り、寝転がる。

 いや、何してんの?


 俺はベッドへと近付き、寝転がり、再度眠ろうとしているクレアに声を掛ける。


「クレア、ほら、起きて。昼まで寝る気か?」

「まだ、早い……私は寝る……」

「こら。今日はもう帰らなくちゃいけないんだろ?」

「……帰りたくない」

「……はぁ~、ったく」


 ベッドの中に入ったまま、顔だけ出してそう言うクレア。

 これは流石に心を鬼にしなければ。


 俺はクレアが掛けている布団を手に取り、一気に引き剥がす。

 すると、クレアは信じられないと言わんばかりに目を見開き、身体を震わせる。


「さ、寒い……」

「ほら。起きなさい。俺は甘くないぞ」

「うぅ~……ハルト、優しくない。キライ」

「嫌いなら、君の両親の所に連れて行こうか?」

「いじわる」


 観念したのか、クレアは身体を起こし、それから両手を広げ、何かを待つ。

 その目は何かを期待しているかのような眼差しだ。

 俺は掛け布団を畳み、首を傾げる。


「何、それ」

「ハグ。おはようのハグ」

「……まぁ、それくらいなら」


 俺はクレアの正面に移動し、そのままクレアを優しく抱き締める。

 クレアも俺の背中に手を回し、嬉しそうに肩に顔を擦り付ける。さながら、マーキングをしている犬のようだ。

 それからクレアは耳元で言う。


「このまま洗面所に連れてって」

「えぇ~……ったく、しょうがないな」


 俺は抱き付いているクレアを抱えやすいように移動させ、一つ気合を入れる。

 それから右腕をクレアの肩に。左腕をクレアの膝裏に差し込み、一気に持ち上げる。


 お姫様抱っこだ。


 流石に同い年の女の子。それなりの重量感を感じるが、流石に女の子に向かって『重い』なんて言う程デリカシーのない人間ではない。

 

 俺の行動にクレアはご満悦なのか、ニコニコと笑顔を浮かべたまま、俺の首元に顔を埋める。


「えへへ……お姫様抱っこ……」

「あんまり首元の匂い嗅ぐな」

「えぇ~、私、ハルトの匂い好きだよ? そうそう。ハルト、知ってる?」

「何を?」

「良い匂いがする人とは遺伝子の相性が良いんだって。つまり、私はハルトの匂いが好きって事は、私はハルトと遺伝子レベルで相性が良いんだよ」


 はえ~。そんなのがあるのか。

 何て思っていると、クレアが笑顔を浮かべたまま尋ねる。


「ねぇ、ハルトは私の匂い、好き?」

「え?」

「ふふ、今だって嗅げちゃうよね? 私の匂い、嗅いでいいよ? ほら」


 そう言いながら、クレアは俺の手から離れ、洗面所を前に真正面から抱きついて来る。

 まるで、俺に匂いを嗅げ、と言わんばかりに。

 いや、普通に女の子の匂いを嗅ぐのは失礼なんじゃないか。それに、起き抜けの匂いなんて。


 何て頭の中では考えていても、俺の鼻にはクレアの甘い香りが届いてくる。


 優しくも暖かい、甘い香り。

 俺の脳をジリジリと焼き切ってきそうな、俺の理性という鎖を断ち切る程の強烈な香り。

 嫌いな訳が無い。むしろ、ずっと嗅いでいたいと思ってしまう。

 俺の脳を溶かし、思考を奪い取ってくる麻薬。


「……もうやめとくよ」

「えぇ~、もっと嗅いでもいいのに」

「……クレアは積極的すぎだ。俺が理性ある人間じゃなかったら、今頃、襲われてるぞ?」

「んふふ、襲っても良いって言ったら、どうするの? 襲っちゃう?」


 何処か挑発的な眼差しで俺を見つめ、抱きついたまま耳元で囁く。


「私は……君のモノになるならそれでも良いよ。それとも……私と君が一生離れられないように、赤ちゃん、作っちゃう?」

「はい、洗面所に行って、顔を洗いましょうねぇ~」

「ちょっと!! ハルト!! 酷い!! 無理矢理引き剥がすなんて!!」


 いくらなんでもからかいすぎだ。

 俺はクレアの背中を押し、洗面所へと押し込む。


「ほらほら。顔を洗ってらっしゃい。その間に朝ごはんの用意するから」


 そう言ってから、俺はピシャリと洗面所の扉を閉める。

 それから大きく深呼吸をし、壁に手を付いた。


 あ、あっぶねぇ!!!!



 理性が弾き飛ぶ所だったッ!!



 ああいう子だったっけ!? 絶対にからかってるって分かってたけど、何!? 子ども作って一生離れらないようにするって!?

 そんな物理的な方法で解決とか絶対に無しでしょ!?


 か、からかっているとはいえ、それだけ好意を寄せてくれるのは有り難いし、是非とも受け入れたいけれど、それは流石にまずい気がする、社会的に!!


 俺は心の中で叫び、冷静さを取り戻す。


「落ち着け、俺……どんな時でも冷静な自分をイメージするんだ」

「ハルト、顔洗って、着替えたよ!!」


 ガラっと洗面所の扉を開け、飛び出してきたクレア。

 服装は昨日と何も変わっていない。それから浮かれた足取りで、俺の側に近付き、すぐさま腕にしがみ付く。

 ふよん、と柔らかいモノが腕に当たるが、今更この程度、である。


「すぐにくっつくのね」

「うん。だって、くっつきたいんだもん。ハルト、朝ごはんは何?」

「パンとウインナーと卵焼き。クレアがごはんかパンか分からなかったから、パンにしたよ」

「どっちでも良いよ。ハルトが作ってくれたものだったら」


 キッチンに置いていた朝食を二人でリビングへと持っていく。

 それらを机の上に置き、クレアが手を合わせる。


「じゃあ、いただきます」

「いただきます」


 俺とクレアはそう言ってから、食事を進めていく。


「ねぇ、ハルト」

「何?」

「今日はどうするの?」

「あー……」


 クレアが聞いてきた事に俺は思わず天を仰ぐ。

 そう、流石に今日帰らないのはまずい気がするが、俺はクレアを見る。

 俺の心中とは正反対にクレアはニコニコと、今日、俺と過ごすというのを信じて疑っていない顔に見える。

 だとしても、やっぱり、一度帰らせなくちゃいけない気がする。


 俺には両親が居ない。でも、両親ともなれば、子どもが心配になって当然だ。


「なぁ、クレア。真面目な話なんだけど、やっぱり、一度は帰った方がいいんじゃないか? お父さんとお母さんも心配するだろうし、俺も着いて行くよ?」

「……帰ったら、多分、ハルトに会えないもん」

「ああ、国に帰るから?」


 俺の問いにクレアはふるふると首を横に振る。


「多分、婚約者がハルトと会わせないようにしてくるから……私はまだハルトと一緒に居たい」

「……じゃあ、せめて連絡は? スマホ、持ってない?」

「置いてきた。どうせ、GPSでつけられると思ったから」

「徹底的だな……ん~、そうか……」


 俺は必死に考えるが、やっぱりどうしても、常識的な考えが頭に浮かぶ。

 両親の下へと帰す事。

 それが当たり前の選択なんだろうけど、クレアはそれを望まない。

 クレアが望まない事を俺はさせたくない。


 だとすると、やっぱり。これしかないか。汚名は全部、俺が背負えばいい。


「じゃあ、分かった。もう帰れとかは言わない。本当にクレアが帰りたいっていうまで、面倒を見るよ」

「ほ、本当に!? 良いの?」

「ああ。その代わり、ちゃんと良い子にしなくちゃダメだぞ?」

「うん。良い子にする!! えへへ、ありがとう、ハルト」


 ふにゃ、と嬉しそうに笑うクレアを見て、俺は一つ息を吐く。

 本当にずるいなぁ。

 この笑顔を見るだけで、全部、許してしまう。


 ピンポーン。


 と、部屋の中にインターホンの音が響き渡る。


 何か荷物でも頼んでいたか。それとも、俺の友達か。


「ちょっと見てくるな」

「うん、分かった」


 俺は立ち上がり、玄関へと向かう。

 そして、すぐに開けるのではなく、玄関にある覗き穴から扉の向こうを見た。


「……誰だ?」


 扉の前に立っているのは知らない初老の男性。

 しかも、身体には皺一つない執事服を身に纏っている。執事服……。

 なるほど、そういう事か。


 俺はリビングへと戻る途中、クレアに手招きをする。

 クレアは不思議そうに首を傾げると、近付いてくる。


「何?」

「クレア、扉の向こうの人をあの穴から見てくれ」

「うん、分かった」


 クレアも出来るだけ音を立てないように近付き、覗き穴を見た。


「……げっ!? ワイズマン……」

「ワイズマン?」

「わ、私の家の執事だよ。ど、どうして、ここが分かったの!? け、携帯も置いてったのに……」

「どうする? クレア」


 ピンポーン。ピンポーン。

 二度、インターホンが鳴らされた。これはもしかして、向こうは居る事が分かっているのか。

 俺は考える。

 ここで居留守を使った所で向こうも居場所が割れているんだとしたら。

 多分、引き下がる事はないだろう。


 だったら。俺はクレアに声を掛ける。


「クレア。賭けてみないか?」

「か、賭け?」

「クレアの気持ちを全部、伝えるんだよ。あの執事さんに。どっちにしろ、婚約パーティから逃げてきたのだって、クレアがイヤだって思ったからだろ? だったら、それをまずは執事に伝えるんだ」

「……か、変わるのかな?」


 どっちにしろ、これから先、クレアは婚約したくないのなら両親と相手の婚約者だって説得しなくちゃいけない。

 だったら、その前哨戦。クレアが自分の望む未来を手に入れる為に。

 俺はクレアの手を優しく握ると、クレアが身体を震わせる。


「大丈夫。俺が側に居る。それじゃあ、勇気は出ないか?」

「ハルト……ううん、そんな事ない。うん。ハルトの言う通り、やってみる!!」

「分かった。じゃあ、一旦、クレアはリビングに居てくれ。応対は俺がやる」

「わ、分かったよ!!」


 そう言ってから、クレアはリビングへと消え、それを確認してから俺は扉を開ける。

 すると、執事の男性が恭しく頭を下げる。


「突然の訪問申し訳ございません。私はクラーラ家の執事をしております、ワイズマンと申します。あの、つかぬ事をお尋ねしますが、こちらの方を知りませんか?」


 ワイズマンと名乗った執事は俺に一枚の写真を見せてくる。

 それは間違いなく、クレアの写真。俺は頷く。


「ああ、知ってます。今、家で面倒を見ています。」

「さようでしたか。それはそれは有難うございます。では、クレアお嬢様は私達がお預かり――」


 ワイズマンの言葉を遮るように、俺は口を開く。


「その前に!! 一つ、クレアさんのお話を聞いてもらえませんか? どうして、パーティを抜け出したのか。何でこんな事をしたのか。ちゃんと、彼女の口から聞いてあげて下さい。お願いします」


 俺が一つ頭を下げると、ワイズマンは目を丸くする。

 それからしばし考えてから、小さく頷いた。


「……そうですね。畏まりました。御父様もお母様も何故、こんな事をしたのか分かっておりませんでしたので」

「そうでしたか。それじゃあ、入って下さい」

「お邪魔致します」


 俺は執事を家の中へと導き、扉を閉める。


 さて、後はクレア次第だ。大丈夫、クレアの気持ちをしっかりと伝えれば、状況は多少なりとも好転するはずだ。

 そんな期待感を胸に、俺はリビングへと足を進めた。

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