第31話 或る少女の葛藤

最近、柑橘ライムは自分の感情を持て余していた。

それは隣の家に住む幼馴染であり親友の水月ノアに対する気持ち……


「ああもうっ! 頭の中がぐっちゃぐちゃだよっ!!」

今日もまた、ベッドの上で一人悶々と夜を過ごしていた。

(何で私こんな風に思っちゃってるんだろう)

昔から自分が望んできた事だった筈なのに……



ライムにはノアと出会った時の記憶はない。

というよりも、物心ついた時にはもう自分の隣にはノアがいた。

家が隣同士で生まれたのが同時期、しかも家族同士も親しかった事で、まるで姉妹のように育ってきた。

(まあ当然私がお姉ちゃんな訳だけど)

ライムが自然とそう感じるようになったのも不思議ではない。小さな頃から引っ込み思案だったノアは、いつだってライムの後ろをついて歩いていた。

まるでライムの影に隠れるかのように。


そんなだから小学校に入学すると男子に揶揄からかわれる事もよくあり、その度にライムが助けに入っていた。

(わたしがのあちゃんをたすけなくっちゃ)

この頃にはもう、ライムはノアに対して友達でありながら妹のような、あるいは幼い母性の芽生えにより我が子のような感情を抱いていた。

(だってわたしはのあちゃんの……)



そんな二人の関係に大きな変化が起きたのが、小学六年生の頃である。

切っ掛けはノアの祖母に病気が発覚した事であった。


――余命六か月


それが医師から告げられた祖母の診断結果だった。

ノアにこの事を伝えるか否か……家族は悩んだ。

その末に家族は決断した。ノアに伝えると。

「その時が近づいてから知ったら、きっとノアは後悔するよ。もっと早く知っていたら、きっともっと色んな事が出来たのに、ってさ」

それに、これはきっと自分がノアに贈れる『最後のプレゼント』なんだ。

自分の死を受け入れる覚悟、そしてそれを乗り越える強さを身に付ける機会というね……

そんな祖母の希望によって。



ノアは泣いた。

まるで大好きな祖母がもう死んでしまったかのように。

そして祖母を避けるようになった。

どう接していいのか分からなくなってしまって……


両親はそんなノアを心配しつつも、祖母への態度を何とか改めさせようと考えたが、「これはあの子が自分で見つけなきゃ解決しないよ。気持ちの置き場をね」という祖母の言葉に頷き、そっと見守る事にした。


ノアの様子がおかしいのはライムもすぐに気づいた。

深く沈んだ表情、優れない顔色、ライムが話しかけても上の空での生返事。

それに給食も残すようになった。しかもデザートのプリンまでも!


心配したライムはノアに何かあったのか何度も訊いたが、ノアは何も答えなかった。何か言いたそうな表情は見せるのだが、開きかけた口は途中で止まってしまう。

そんな日が暫く続いた。



その日、ノアが学校から帰ると家には誰もいなかった。

いつも持たされている鍵で家に入る事は出来たが、リビングにも他の部屋にも誰もいない。

ノアが不安に駆られ震え始めたその時、母親と祖母が帰ってきた。

「おやノア、帰ってきてたのかい。一人にしてすまなかったね。ちょっと具合が悪くって病院に連れて行ってもらってたんだよ」


ノアは祖母に駆け寄り、ギュッと強く抱きついた。

その胸元に顔を埋め暫くそのまま動かずにいたが、やがて小さな声で、

「お祖母ちゃん、いなくなっちゃ…………やだ」

そう呟いた。



「……ゴメンねノア。それはもう無理みたいだ」

ノアの頭を優しく撫でながらそう話す祖母に、

「やだ……やだ……やだ…………そんなのいやだよ」

そう繰り返すノア。

「ゴメン……ゴメンね」

「……やだよぉ」


暫く続いたそんな時間は、「ノア、そろそろお祖母ちゃんが疲れちゃうから」という母親の言葉で終わりを迎えた。

それはノアにとっても望ましくない事だったから。


祖母は自室のベットに横になり、ノアはすぐ横の椅子に腰かけた。

そのまま暫く静かな時間が流れ、やがて祖母の

「ノア、何かテレビを付けてくれるかい?」

という言葉で、二人は一緒にテレビを見始める。


電源を入れたテレビから流れたのは日本の一流執事の仕事ぶりに密着した番組。

その映像を特に見るともなく見ていたノアだったが、祖母の嬉しそうな声に振り返った。

「やっぱり執事ってのは凄い仕事だねえ。アタシも昔執事になりたかったんだけど、残念な事に神様から選ばれなかったんだ。一緒に儀式を受けた親友が神様に選ばれた時には、嬉しいやら羨ましいやらでね」

もう五十年近く昔の話さ、と懐かしそうに語る祖母の表情を見た瞬間、ノアの心にある気持ちが芽生える。

そして、先程までとは違う真剣な顔つきでテレビの続きを見始めるのだった。



その日からノアの様子は徐々に元に戻っていった。

初めは誰から見ても明らかな強がりであったが、いつしか自然な雰囲気に戻り、そして以前よりもほんの少しずつだが、明るく積極的になっていく。

それはまだ一歩にも満たない小さな変化、だが間違いない小さな成長である。


そんなノアの変化にほっと安心したライムだったが、その数日後両親からノアの祖母の病気の事を聞かされた。

ここ暫くノアの様子がおかしかった理由は判明したが、今度はライムがノアにどう接していいのか分からなくなり、暫くふたりの関係はギクシャクする。

だが生まれた時からずっと一緒だったノアとライムである。間もなく元通りのふたりに戻っていった。

ふたり揃ってひとつの大きな山を乗り越えたのだ。



それから数か月、徐々に痩せてゆき時々調子は悪くなるものの、祖母は静かで平穏な毎日を過ごしていた。その日までは。


ノアが学校から帰ると、母親が顔色の悪い祖母を支えながら車に乗ろうとしているところだった。

「お祖母ちゃん、どうしたの?」

「急に具合が悪くなったから病院に行ってくる。もしかしたら帰りが遅くなるかもしれないから、そうしたら先に寝てて」


夜になって仕事から帰った父親と一緒に夕飯を食べ、ノアは祖母と母の帰りを待った。

だがその日、祖母も母も帰って来なかった。



祖母が入院して数日後、容体が落ち着いたと言う事でノア達は祖母のお見舞いに病院へと行った。たまたま家に来ていたライムも一緒に。


病室に入ると、祖母は弱弱しく微笑んだ。

「やあノア、よく来てくれたね」

祖母はノアと他愛のない話を楽しそうに交わし、やがて面会終了時間が迫る頃、

「ああそうだ、今のうちに……こうしてしゃべる事が出来るうちに、ノアに言っておきたい事があるんだよ」

そう祖母が話を切り出した。


「いいかいノア、お祖母ちゃんはもうすぐ死んじゃうけど、ひとつだけ約束してくれるかい。お祖母ちゃんはね、ノアの笑顔が大好きなんだよ。だからノアにはいつだって笑顔でいて欲しいんだ。だから約束。ノアは明るく朗らかに、ね」

「お祖母ちゃん……」

目にたくさんの涙を浮かべながら、ノアは点滴の管が繋がった祖母の手を握った。


「うん、約束するよ。絶対約束守るよ。だから、だから……」

元気になって、とは言えなかった。

死なないで、とは言えなかった。

だからノアは、

「安心、して……」

ボロボロと涙を零しながら強張った笑顔を浮かべた。




祖母が亡くなったのはそれから数週間後の事だった。

そしてノアはライムの後ろではなく横を歩くようになり……

祖母との約束を守って前を向き笑顔を浮かべ、歩き出したのである。




「ノア、あれからすっごく頑張ったんだよなあ」

小学校を卒業し中学生になったノアは、少し気弱なところは残ったものの徐々にクラスメイトとも打ち解け、充実した中学生生活を送っていった。

もちろんライムの多大なるサポートを受けながらではあるが。


中学三年生の進路相談。

「私、執事学園に進学します」

いつか祖母とテレビで見た執事。その執事を目指してノアの夢が動き出す。


それからノアとライムは難関をくぐり抜け、揃ってバスティアーナ学園への入学を果たした。個性的な友達も出来、執事の授業に精霊との出会いやアルバイトと様々な経験の中でノアは成長し、徐々にライムのサポートを必要とする機会は減っていった。

また、ライムの代わりに他の友達がノアをサポートする場面も増えた。

その度にライムは「それは私の役目なの!」ともやもやした想いを重ねていく。


そしてこの間の実技試験。

ノアはトーナメントに優勝し、一年生の最優秀生徒「バスチアン」に選ばれた。

その時から、ライムの心にひとつの思いが渦巻き始めた。


――私はもう、ノアに必要なくなった


これまでの十六年間、ライムにとってノアが全てだった。

ノアを助ける事、ノアを護る事、そしてノアに必要とされる事。

これがライムの人生の原動力だった。

ノアがライムに依存しているように見えた二人の関係は、実はライムこそがノアに依存していたのである。


「ノアが私無しでもやっていけるようになったんだよ? ……喜ばなくちゃいなない事なのに! どうしてこんな気持ちになるの!?」




少女の葛藤は続く……

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