第16話 プール実習
7月。
蝉の声は日常のノイズとして耳に馴染み、意識にのぼる事すら無くなってきた、そんな頃。
「さて、いよいよ今日からプール実習が始まる訳だが」
朝のホームルーム、マキエ先生からの連絡事項。
「伝えてある通り、プール実習は一年生全クラス約百名による合同実習だ。全四クラスのうち一クラスが執事担当、残り三クラスが水泳訓練及びお嬢様担当となる」
「おおー、お嬢様! そんなの言われた事無いよ」
「うんうん、執事としては『お嬢様こちらへ』とか言ってみたいところだけど、自分がそう呼ばれるのもちょっと憧れるかも」
マキエ先生は騒つく生徒達が落ち着くのを待ち、話を続ける。
「それでだ、今日の実習は我々A組が執事担当となる為、実習前の時間はプールサイドへのパラソルとチェアの設置、そしてドリンクや食器類調理器具類などの準備となる。最初に説明を行うのでこの教室で待機するように」
そして一時間目と二時間目の授業を終え、日が高くなってきた三時間目。
「いいか、水に入ると体力も消耗するし体調の変化も激しい。プールでは常に仕える方の様子から目を離さない事が重要だ。そして休息の際には水分・糖分・塩分などを摂取していただく事を忘れるな。ドリンクは決してお洒落のための小道具などではないのだ」
とここでマキエ先生は教壇に両手をついて更に熱弁を振るう。
「紫外線から肌を守る事も重要だ。若いうちに浴びた紫外線は将来の時限爆弾となる。なので主はもちろんだが、君達も十分注意するように。時は……戻せないんだ」
どうやらマキエ先生、多少無茶した過去があるらしい。
プール用倉庫からパラソルとチェア、実習用食品庫からドリンクやフルーツなどの軽食、それに氷や調理器具を搬入し、セッティングを開始する。
「マキエ先生、実習でアレやらないんですか、『お嬢様、オイルをお塗りします』って」
「ああ、お互い同意の上でなら構わないぞ。カリキュラムにはないが、特段禁止事項という訳でもないからな」
「「「「「おおーーーー!」」」」」
生徒達の思わぬ反応の大きさに驚くマキエ先生。
「何だ君達、皆そんなにやりたかったのか?」
「やりたかったっていうか……漫画やドラマなんかだと定番のシチュだし」
「「「「「うんうん」」」」」
「「「「「だよねーーっ」」」」」
とここで勇者が!
「わたしマキエ先生にオイル塗りたい!」
「「「「「おおーーー」」」」」
どよめく一同。
「いや、気持ちはありがたいが……私は既に全身に日焼け止めクリームを三度塗りしているからな」
マキエ先生はかなり紫外線を敵視しているようだ。
そして自分が水着になる可能性がゼロではないと考えているらしい。
その可能性とは溺れた生徒の救助か、それとも自らが実習の教材に……
実習のセッティングが完了する頃、他クラスの生徒達が集まってきた。
水着の上から撥水執事服を着ている者、水着姿に大きなタオルを羽織った者……
「おおーーーっ」
「学校のプールが南国リゾートだぁ!!」
「凄い!!」
「ヤバっ、これはアガる!!」
そしてプール(サイドでの執事)実習が始まる。
聖バスティアーナ学園にて行われるプール実習とは、主に次のような内容である。
・着衣水泳(執事服着用)
・救助訓練(執事服着用)
・一般水泳(水着着用)
・執事担当(執事服着用)
クラス単位で担当する執事担当以外は各自自由に内容を選択できるが、スタンプラリー方式となっていてシーズンオフまでに全ての内容を必要数受講しなければならない。
チェアの脇に立つノアの前に、水着姿の彼女がやってきた。
(おっお嬢様来たーーー!)
「っを嬢様、こちらでお休みになられますか?」
「うむ、よきに計らうがいい」
「キュウッ」
アカリお嬢様である。
この日の為に白いワンピースの水着を新調したアカリお嬢様である。
そして、真っ先にノアのお嬢様担当になろうとタイミングを伺っていたアカリお嬢様である。
どこからか取り出したサングラスを掛けたアカリお嬢様がチェアに寝そべると、
「お飲み物はいかがですか?」
すかさず執事ノアから声がかかる。
「いただこう。ミックスジュースに炭酸マシマシで」
まるで『ごっこ遊び』のようだがこれも授業の一環、二人とも大真面目である。
「では少々失礼いたします」
ノアはアカリお嬢様に軽く一礼すると、リクエストのドリンクを用意するためプールサイドの隅に設置された簡易キッチンに向かった。
ぼんやりとその後ろ姿を見送るアカリに、隣のチェアを担当する執事から小さく声が掛かる。
「そうそう、さっきうちのクラスで話題に上ったんだけどさ――」
「なっ何だと!?」
ぽそぽそと小声で囁かれたその内容に、アカリは大きな衝撃を受けた。
「可能だというのか、そのような……」
「しかも先生公認だよん」
愕然とした表情でドリンクを作るノアの姿を見つめるアカリ。
そしてそのアカリを見つめる情報提供者マイカは、
(さぁて、どうなっちゃうかなーっと)
ノアが戻ってくるのを待ち遠しく思いながら、楽しそうな笑みを浮かべるのだった。
「お待たせいたしました、お嬢様」
トレイに載せたドリンクをそっとアカリお嬢様に差し出す執事ノア。
「あ、ああ」
若干目を泳がせながらそれを受け取るアカリお嬢様の頬には、パラソルの影に入っているにも関わらず一筋二筋と汗が流れ落ちる。
緊張から強い喉の渇きを覚えたアカリお嬢様はドリンクのストローを勢いよく吸い、そして――
「ぶふうっ!!」
マシマシの炭酸に喉を刺され、盛大に吹き出した。
日の光にキラキラと輝く噴霧、そしてそこに一瞬掛かる小さな虹がプールサイドに映えて美しい。
だがその虹を掛けたアカリ自身には虹を鑑賞する余裕などない。
涙目でゴホゴホと激しく咳き込み続けているからだ。
「だっ大丈夫、アカリちゃん!?」
思わす素に戻ったノアは、激しく揺れるグラスをアカリから取り上げ、その小さな背中をそっとさすり続ける……
暫く咳き込んでようやく落ち着いたアカリは、心配そうに自分を覗き込むノアに気付き、軽く息を整えて不適な笑みを浮かべた。
「ふっ、どうやらヤツの呪いに打ち勝てたようだ。だがこの呪いもまたヤツの魅力のひとつ(うう、油断してたら思いっきりむせちゃった。でもこのシュワシュワが止められないんだよね)」
「もうっ、ビックリさせないでよアカリちゃ――っと、落ち着かれたようで安心いたしました。お嬢様、こちらはまだお飲みになられますか?」
「ああ、いただこう。我が執事アクアルナよ」
差し出されたグラスを受け取ろうとしたアカリお嬢様であったが、ここで先程のマイカの言葉をハッと思い出す。
「いっいや、そそその前に汗ばんだせいか日焼け止めが取れて……てて手の届かない箇所を塗ってくれないかなー」
何というか……
怪しい。
言葉遣いが怪しい。
全力で泳ぐ目付きが怪しい。
そして、キャラ崩壊が怪しい。
だが一方の執事ノアはと言えば、先程のマキエ先生の『お互い合意の上なら』を思い出し、
「分かりました。ではまず背中からお塗りしますので、横になっていただけますか?」
無邪気な笑みを浮かべてそう答えた。
ワンピースとしては広く開いた背中。
執事ノアはアカリお嬢様から受け取った日焼け止めクリームをたっぷりとその手の平に乗せ、お嬢様の背中へと当てた。
ポチョっと。
「ひゃうっ!?」
その感触に思わず声を上げたアカリお嬢様に、
「では始めます」
と声を掛け、執事ノアはクリームを背中全体に伸ばし始める。
背中から肩、からの両腕。
そして上半身が終われば次は当然下半身。
ノアの手は太ももから膝裏そしてふくらはぎを経由して足先へと進み、やがてアカリの背面全てにクリームを塗り終えた。
「背中側は全て塗り終わりました。前はどうされますか?」
そんなノアの質問に息も絶え絶えのアカリは、
「む、無理ぃ……ごめんなさいもう許して……」
ギブアップを宣言。
これにより、宿命のライバルの初めての戦い?は、ノアが制したのである。
そんな二人の勝負は、いつしか瞳をキラキラと輝かせた少女達に見守られていた。
そして……
「「「「「きゃあーーーーー」」」」」
アカリの陥落を受け、執事ノアの前に日焼け止めクリームを持った少女達が続々と列を作っていくのだった。
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