深雨の中の旋律 3

「な、なんてことを──!!」


 教師は悲鳴に似た甲高い声を上げ、斬り落とされた腕を這いつくばるような格好で拾い上げる。父親は歯を食いしばりながら、絶望に染まった男の背中に剣を振り下ろす。気づいた教師は避けるが、右腕を斬られて鮮血が飛び、両者は赤に染まった。

 教師は深い傷を負った右腕を押さえながら、父親の左腕を抱きしめたまま廊下を駆け抜け、一目散に洋館から出ていった。

 意識が朦朧とし始めた父親は剣を落とし、廊下の突き当たりへ体を引きずるようにして移動するが、倒れ込んでしまう。


「返さなければ……」


 震える手で絨毯を掴み──最後の息を吐いて目を閉じた。父親は光に包まれ、光る球体となると床を突き抜けていった。同時にセピア色の世界は一瞬で消え去り、元の廃館となった。


「…………」


 二人は血で変色していたらしい絨毯を見つめていた。ロウゼンが掴み、それを引き剥がす。そうして現れた床には正方形状の四角い切れ目があり、魔法陣が描かれていた。


「解除するぜ」

「頼む」


 マクベスが屈み、魔法陣に触れる。魔法の詠唱を終えると魔法陣は光り輝き、収束すると同時に床ごと消え去った。地下への階段が二人の前に姿を現し、暗闇へと誘うように続いている。


「きっとこの先に……」

「楽譜があるはず、だな」


 マクベスは魔剣を抜き、刃を魔法で光らせ光源とした。先導し、ゆっくりと地下へと進んでいく。ロウゼンも後方を警戒しながら、まとわりつくような嫌な肌寒さを感じながら、無機質な階段を一段ずつ下りていった。

 階段の先には錆びた鉄の扉があり、マクベスが仕掛けの有無を確認していた。何も無いと判断し、ドアノブを回す。

 扉を開けるとかびくさい臭いが二人の鼻についた。床に散乱した書物や楽器、道具はボロボロで見るも無残な姿になっている。だがそんなものよりも二人の目を引いたのは、


「どこだ……どこにあるんだ……」


 半透明の人間の男だった。足元は完全に透き通り、壁を片側しかない手で引っ掻いていた。男は間違いなく、過去の記憶で何度も見た少女の父親だった。目は白目の部分まで黒く変色し、見る者に恐怖を植え付けるには十分な異様さだった。

 二人の存在に気づき、少女の父親が振り向いた。底知れない闇のような眼を向けられても、二人が動じることはなかった。目の前の幽霊は人に仇なす存在などではなく、後悔の念に駆られ、今もなお娘のために彷徨さまよう一人の父親だからだった。


「お前たちは何者だ?」

「俺たちは──」


 ロウゼンが答えようと口を開いたが、父親は首を左右に振った。


「いや、そんなことはどうでもいい。俺は誰かに返さなければならない……何かを……」


 幽霊の父親は二人に興味を示さず、すぐに背中を向けて周囲を探り始めた。伸ばした手はバイオリンを掴むことなく通り抜け、意に介さず父親は掴む動作を繰り返す。物を投げるような動きをして、必死に見つけなければならない物を探し求める。


「何年も前から、ずっと楽譜を探してたんだな」


 そう言ったマクベスの表情を、後ろにいたロウゼンには知ることができなかった。だが、自分と同じように憐憫れんびんの眼差しを向けているのだろうと思った。

 

「あの人のためにも見つけよう」

「ああ、父親まで悪霊になっちまったら後味悪いしな」


 ロウゼンとマクベスは手分けして地下室を調べ始める。戸棚や引き出し、楽譜が保管されていそうな箇所を重点的に調査する。

 しばらく時間が経つが、走り書きがされた紙や作曲途中の楽譜を見つけても、少女が求めている楽譜らしき物は見つからない。焦りが生じ始めたロウゼンは、まずは落ち着くべきだと深呼吸をした。そのとき、ぎっちりと本が並べられた棚に目が留まった。そこで偶然にも、本と本の間に何か挟まっているのを見つけた。本を取り出すと、同じくらいのサイズの封筒が隠されていた。封はされておらず、すぐに中身を確認できた。

 数枚の紙に、黒く記号や線が書かれている。まさかと思い、すぐに中身を取り出した。


「マクベス、これじゃないかな?」


 机の下に潜っていたマクベスに声をかける。マクベスは立ち上がり、楽譜を受け取る。真剣な面持ちで譜面に目を走らせ、


「この譜面は……あの娘が弾いていた曲で間違いねぇ」


 頷いてみせるとロウゼンに返した。目的の物が見つかり、安堵して胸を撫で下ろすロウゼン。そのとき、声がかけられた。


「それは……」


 二人が声のした方に顔を向けると、父親がゆっくりと二人に近づいていた。驚きで目を丸くし、わずかに口が開いている。


「それだ、俺が探し求めていたのは……」


 目的を果たした父親の姿が、少しずつ薄れていく。


「俺は……娘に悪いことをした。自分の娘だからとピアノを弾かせ、縛りつけてしまった。だが、あの娘をピアノから離すのはさらに悪手だったのだ……」


 父親は拳を握り締めるが、その力をゆっくりと和らげた。


「なにもかも遅くなってしまったが……どうか、それを娘に渡してくれないか?」


 二人に頼むと、父親は頭を下げた。


「もちろん。必ずお渡します」


 ロウゼンの返事に、父親は満足げに頷く。次の瞬間には、その姿は完全に景色へと溶け込んでいった。残されたのは埃とかびの臭いと、少しだけ和らいだ寒気だった。


「マクベス、行こう。あの娘が待ってる」

「ああ」


 マクベスは頷くと、階段を照らしながら上っていく。二人は一階の廊下へと戻り、あることに気づく。


「音が……」


 ロウゼンが天井を見上げながらつぶやいた。降りしきる雨の中、よく耳を澄ますと一度聞いた旋律が再び奏でられていた。しかしテンポが崩れており、奏者が焦燥感に駆られているように感じた。

 急いで螺旋階段を登りきり、開けっ放しだったホールに足を運ぶ。前と変わらず、白い影の幽霊は必死に鍵盤を叩くが沈むことはなく、しかしピアノの音が響き渡っていた。


「見つけたよ。君が探している楽譜はこれだろう?」


 ロウゼンが幽霊に楽譜を見せるが、その瞳に映ることはなかった。


(気づいていないのか……?)


 思い返せば、最初から少女はロウゼンとマクベスを認識していなかった。楽譜を譜面台に置いてみるが、それでも無反応だった。少女のすすり泣く声が混じり、何とかしなければとロウゼンは思案を巡らす。


「…………」


 対して、マクベスは置かれた楽譜の内容を目で追っていた。ロウゼンにはわからない様々な記号を一通り眺める。少女が演奏の手を止め、だらんと両腕を垂らした。


「ちょいっとお邪魔するぜ」


 マクベスはそう言いながら少女の隣に立つ。何をする気なのだろうとロウゼンが様子を見ていると、彼は少しだけ前屈みになりながら両手を鍵盤に添え、白鍵を叩いた。綺麗な音が鳴り響き、わずかに顔をほころばせると、少女が奏でていた曲と同じものを演奏し始めた。


「マクベス?」


 ロウゼンはピアノが弾けたのかという驚きと、演奏を始めた疑問を含めて親友の名を呼んだ。マクベスはちらりとロウゼンに視線を向けるが、任せろと言いたげにウィンクをして演奏に集中した。


「あっ……」


 驚いたのはロウゼンだけでなく、少女もだった。まぶたを服の袖で拭うような動作をし、譜面台にある楽譜を見つめた。すると白い影だった少女に髪やまぶた、瞳、服が象られていく。見る見るうちに白い影は二人が記憶の中で見た少女の姿となった。半透明の少女はあるはずのない物が目に留まり、思考が停止したのかあんぐりと口を開いて、何度もまばたきをした。その様子は生きている人のようだった。

 ようやく二人の存在に気づき、ロウゼンとマクベスを交互に見る。恐る恐る鍵盤に触れ、マクベスの顔を覗き込む。


「弾きたかったんだろ? 思う存分奏でるといいぜ」


 マクベスの言葉に、少女は花開いたような笑顔を浮かべた。その瞬間、ホールに漂う悪寒が掻き消える。


「あの、良かったら一緒に……」


 少女の冷たい手が、マクベスの革手袋に触れる。


おおせのままに」


 少し気取った態度と口調でマクベスは了承した。隣に腰を下ろし、鍵盤に指を置く。少女も同じようにして深呼吸をした。真剣さと不安が混じった顔をしていたが、意を決して演奏を始めた。

 少女は先ほどとは異なる、穏やかで優しい旋律をホールに響かせた。マクベスも少女に合わせてピアノを弾く。二人の演奏をロウゼンは深く聞き入っていて、その耳には雨の音など入ってこなかった。


(たしか、一つのピアノを二人で弾くことを連弾と言うんだっけ)


 ロウゼンは初めて顔を合わせた者同士とは思えない、息の合った連弾に感動を覚えた。じっくり聞くために、ボロボロだがまだ座れそうな椅子に腰かける。

 マクベスが高音部を、少女が低音部を奏でる。時折、音を外すところもあったが気に留めず、二人は楽しそうに弾いていく。

 曲は終盤へと向かい、メロディーが落ち着いたものへと変わっていく。テンポもゆったりとしていき、最後の音がホールに響いていく。音が鳴り止むと、ロウゼンは拍手をして二人の演奏を賞賛した。少女は嬉しそうに、少し気恥ずかしそうに頭を下げる。そして立ち上がり、マクベスの方を向いた。


「一緒に弾いてくれてありがとう、親切なエルフさん」


 スカートをほんのりと摘み、上品にお辞儀をする。


「礼には及ばねぇよ。久々に弾けて楽しかったぜ」

「それは良かった。私もこんなにも心躍るのは久々だわ」


 偽りの無い笑みで少女は言った。


「……私ね、お父様がピアニストだったの。天才と言われていて、コンサートが開催される度に絶賛されてた。私はそんなお父様の娘だから、小さい頃から弾いていたんだけど……本当は気づいてたんだ。自分にはお父様のような才能は無いってこと」


 ピアノを見つめ、少女は話を続ける。


「でも、ピアノ以外に真剣に打ち込んだものがなくて……他にできることはないんだって、勝手に思い込んじゃったの」


 記憶の中で見た、花束を落とし涙を流す姿や楽譜を返してほしいと必死に迫る少女の姿を思い出し、


「それは辛かったね」


 慰めるようにロウゼンが言った。


「とても辛かったわ」


 少女はわずかな悲しさを落とした笑みを浮かべ、しかし首を左右に振った。


「だけど、ピアノのことしか考えられなくなっていた私を、お父様は止めようとしてくれていたの。他にできることを探せるように。……わかってたの。自分の子供だからと、お父様が私にピアノを押し付けてしまったことを、後悔しているのはわかってたのに……」


 少女はうつむき、しばらく沈黙した。

 ロウゼンの脳裏に、楽譜を渡してくれと願った少女の父親の姿がよぎる。


「そこまで理解しているなら、君のすべきことは一つだろう?」


 ロウゼンが促せば、意を決した少女が顔を上げた。


「そうね。私、お父様と仲直りしなきゃ。いってくるね」


 少女は二人に手を振って別れを告げる。


「いってらっしゃい」


 ロウゼンが軽く手を振り、マクベスもそれにならった。

 少女ははにかんだ笑顔をして、ホールの外へと駆けていく。彼女の姿は徐々に薄れ、ホールから出ると同時に消えていった。

 少女が消えた後も、二人はしばらく出入り口をじっと見つめていた。


「ありがとう。あの娘を斬らずに済んだのは君のおかげだ」


 先に沈黙を破ったのはロウゼンだった。マクベスへと振り向き、礼を述べる。


「どうってことねぇよ。ロウゼンこそ、楽譜を見つけてくれてサンキューな」


 マクベスは両腕と足を組み、目をピアノに向けた。ロウゼンは疑問に思ったことを口にする。


「それにしても意外だよ。マクベスがピアノを弾けるなんて。習ったことがあるのかい?」

「ガキの頃に少しな。それに、これは有名な連弾の練習曲だから弾けただけだぜ」

「それでも、あの娘とすぐに連弾ができるのはすごいことだよ」

「だろ? もっと褒め称えてくれてもいいんだぜ?」


 マクベスは無邪気な子供のような笑みを浮かべる。そして鍵盤に視線を落とし、


「なんつーか、あの娘の気持ちはわからなくもねぇな」


 白鍵はっけんを撫でながらつぶやいた。


「あの娘の気持ち?」

「ああ。周りのことが見えてねぇ奴って、何か一つできることがあるとそれにばかりすがろうとするんだ。自分はこれしかできないから、今よりも上手くならねぇと駄目だって思い込んじまう。……そしていつの日か、躓いたときに絶望するのさ」

「ひょっとして、君にとってのピアノがそうだったのかい?」

「……まぁな」


 マクベスは少し黙り込み、どこか遠い目をして肯定した。マクベスが自身の過去を話すのは珍しく、いつもなら癪に障る笑みで「それはどうだろうな」と言ってはぐらかすので、ロウゼンは驚きを隠せなかった。

 親友がピアノに関してどのような経緯いきさつがあったのか──ロウゼンにはわからなかったが、だからこそ正直に述べた。


「俺は君と違って音楽に詳しいわけじゃないし、専門家のような批評もできないけれど……君とあの娘が奏でたピアノは、とても胸を打たれたよ」


 ロウゼンが素直な感想を伝えると、マクベスは少しだけ目を丸くして、


「そうか。ガキの頃に練習した甲斐があったぜ」


 照れくさい気持ちを隠すように、したり顔をして見せた。

 マクベスは視線を横に流すと、割れたステンドグラスの向こう側を見ながら言った。


「雨、止んだな」


 ロウゼンも目を向けると、外は相変わらず鈍色にびいろの雲が広がってはいるが、土砂降りだった雨は嘘だったかのように止んでいた。森と空の境目が、太陽の光で温かなオレンジ色に彩られている。


「本当だ。それに、いつの間にか朝になっていたんだね。気づかなかった」


 窓に近づき、ロウゼンがつぶやく。


(ん?)


 ふと、何者かの気配を感じたロウゼンは下を覗く。雑草で埋め尽くされた庭園の傍に、墓が三つ立てられているのを発見した。その墓の前で見覚えのある女が──少女の母親がロウゼンを見つめていた。彼女は淡い光を纏っており、それはロウゼンが洋館を見つけるきっかけとなった、雨の中で見た光と同じだった。

 母親は微笑み、丁重に頭を下げて礼をした。


(そうか……俺たちをここへ導いたのはあなただったんですね)


 ロウゼンが返事代わりに片手を上げる。すると一陣の風が吹き、一瞬だけ飛んできた木の葉で母親の姿が隠れ、次の瞬間には姿を消していた。

 ロウゼンは踵を返し、ピアノをじっと見つめているマクベスに一つ、頼みごとをした。


「なぁマクベス、死者を弔う曲を弾いてくれないか? 雨が止んだ今なら、きっとあの世に届くだろうから」

「あー、葬送曲ってやつか。構わねぇぜ、オレが弾けるもので良ければな」


 マクベスはピアノに向き直ると、天井を仰いで息を吐いた。集中し、鍵盤に触れる。哀調を帯びたメロディーがホール中に流れ、かつてこの洋館で命を落とした者たちをいたむ。

 重々しいが、どこか包み込むような優しさのある曲は、死者の逝く先の世界にも届いているはずだと信じ、ロウゼンは幽霊たちを偲びながら目を閉じた。

 マクベスの奏でる葬送曲は、洋館中に響き渡っていく。雨雲の切れ間から差し込む光が、死者のために音楽を捧げる奏者を照らしていた。

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