人魚 3
空を舞うのは獣の足だった。足は水の上に落ちて周囲を赤く染め上げる。マクベスが冷気を纏う魔剣で水面を斬ると氷柱が形成されて、先端がカレアの足をわずかにかすめた。行動範囲を狭められ、無理な姿勢も構わず足で氷柱を薙ぎ払おうとするが、その隙にマクベスは舞うように双剣で斬り上げる。飛ばされた足から流れ出る血が、土砂降りの空に赤い軌跡を描く。
「この、このッ!!」
カレアは爪を振り下ろすが、翻るマントを裂くことすらできない。次に魔術で形成した、禍々しい魔力を帯びた槍をいくつか飛ばすが、マクベスは全て避ける。軽業師のような重力を感じさせない動きはまるで猫のようで、さらにカレアを苛立たせた。
マクベスが風を纏った魔剣を振り下ろし、突風を生み出すとカレアをよろめかせる。聖職者の祝福を受けた魔剣にまたしても足が斬り落とされ、彼女はなんとしてでも心臓部を、悪霊が現世に留まり続けるために必要な霊魂を守り通そうとする。
カレアは決して戦闘が不得手な魔術師ではなかった。むしろ悪霊となった今の方が、生前よりも凶悪なまでの力を得ていた。ただ、それ以上にマクベスの方が強い──それだけの話であった。
いくつもの足を無力化し、マクベスは霊魂が宿る左胸部に狙いを定めた。放たれた魔力の槍を掻い潜り、双剣で爪撃を斬り払う。水面を蹴り上げ跳躍すると、カレアの頭上を飛び越え、
「じゃあな」
吐き捨てるような物言いで別れを告げた。無防備な背中に向けて魔剣を投擲すると、風の刃を纏う魔剣は、霊魂ごとカレアの華奢な上体を切り裂き、貫いた。
「あ……あァァアア──!」
傷口から突然、泡と魔力のオーラのようなものが、霊魂が溢れ出る。皮膚が虹色の泡へと変化し、傷口も泡で覆われる。魔剣が水面へと滑り落ち、何度か跳ねて転がった。カレアは胸元に手を当てるが、一度形を崩した魂は指と指の隙間から外へと放出されていく。巨体が倒れ、水面に触れた瞬間に泡になる。泡に飲み込まれるように、かつて優秀な魔術師として名を馳せていた女の姿は、綺麗な虹色の泡と共に弾けて消えた。
その瞬間、世界に亀裂が入る。細かな白いヒビが世界中を埋め尽くし、隙間から光が差し込む。マクベスは息をつくと、落ちた魔剣を拾いホルダーに収めた。ガラスが割れるような甲高い音が響き、嵐が吹き荒れる景色は瞬時に焼け焦げた室内へと変化した。
半壊したカレアの家。その薄暗い地下室にマクベスは立っていた。目の前には鉄製の箱を抱えた遺骨があり、状況から察するに、それがカレアの遺骨であることは間違いないだろう。焼けた木材や溶けたガラス、手術台に実験動物を入れるためのケージ──その他、燃え尽きて元がなんだったのかわからないものが、あちらこちらに散らばっている。
鉄製の箱に手を伸ばし重い蓋を取ると、中には折り畳まれた紙が入っていた。その一つを手に取り開く。それはカレアが
「これを書くのに何人犠牲になったんだ?」
マクベスは苦虫を噛み潰したような顔をすると、おぞましい研究レポートを全てベルトポーチに突っ込んだ。
部屋を出ると地上への階段を登っていく。積もった雪を踏みながら地上へ戻ると、いつの間にか雪は降り止んでおり、太陽は沈みかけていた。静寂な森は、今は綺麗な夕焼けに照らされている。
森を抜けて住宅街に戻ると、依頼人の一軒家の戸を叩く。慌ただしく廊下を走る音の後、玄関の扉が開かれた。
「マクベスさん! ご無事で何よりです」
怪我一つ負っていない冒険者の姿にエディンは安堵し、部屋へと招き入れる。リビングにはテーブルの周りをぐるぐると回るジーナの姿もあった。エディンはジーナを抱きかかえ、二人は向かい合って座った。
「ほらよ、これが
マクベスはそう言いながらベルトポーチに手を伸ばし、折り畳まれた多量の書類を掴み取って差し出した。それらを受け取り、書き連ねられた文字を目で追うエディン。
「……師匠とその先祖が書いたもので間違いありません」
エディンは暖炉の前に立ち、研究レポートを焚べた。紙は一瞬で灰となり跡形もなくなった。席に戻り、彼は肩の荷が下りて長く息をついた。
「マクベスさん、師匠はなんと……?」
その質問に、マクベスは正直に答えた。
「最期まで人魚の肉に固執していたぜ」
「……そうでしたか。無理を言ってすみません」
エディンは目を伏せた。慕っていた者の本心、あるいは狂気に憂い沈むが、気持ちの整理をつけるには時間がかかると判断し、まずはやるべきことをするために一度深呼吸をした。
「本当にありがとうございます。こちらが報酬です」
マクベスに報酬が入った麻袋を手渡した。マクベスは袋口から覗く硬貨を目分量で確認し、
「確かに受け取ったぜ」
ベルトポーチに突っ込んだ。マクベスは腰を上げるとそのまま立ち止まり、ジーナをじっと見つめる。
──棚にしまい忘れた劇薬を飲んでしまったようで、ジーナが倒れていたんです──
──ですが師匠は人魚の肉の試作品が無いと騒ぎ、聞く耳持たずで……それどころか、何故かジーナを殺そうとしたんです──
──なんでも食べたり飲んだりしてしまうので、お世話が大変なんですよ──
エディンの話を聞いていて、マクベスは口には出さなかったが気になる点があった。世話をされない劣悪な環境で、しかも劇薬を飲み倒れ伏した老猫は、はたして一命を取り留めたりするものだろうかと考えていた。
飼い猫をカレアが殺そうとした理由はなんなのか。エディンはわからないと述べたが、カレアの言動や状況から、マクベスはある予想が思い浮かんでいた。もしそれが事実であるなら、誰かがジーナを守る必要があると思い、エディンを憲兵に突き出さないと数刻前に答えたのだった。
「なぁ、その猫……」
「ジーナがどうかしましたか? ……あっ、やっぱり撫でてみます?」
エディンはマクベスに近寄り、ジーナに「怖がらなくていいんだよ」と優しく声をかけた。彼は自分の手堅い看病が功を奏したと思っており、愛猫が不老不死になった可能性があることなど夢にも思っていないだろう。だがもしジーナが不老不死になっていたとして、接する態度や言動から今度こそ間違いを犯すようなことはしないと、マクベスは自信を持って言える。なので予想は告げずに、ジーナの頭を撫でようと手を伸ばした。次の瞬間、ジーナの眼が鋭く光るのと、マクベスが素早く手を引っ込めるのは同時だった。ほんの一瞬前まで手があった空間には、首を伸ばして空を噛んだジーナの顔がある。
「わわっ、すみません! まさか噛みつくだなんて……!」
「ギャハハ! だから言っただろ、動物はオレのことが嫌いだってな!」
エディンは慌てふためき、マクベスは相変わらず動物に好かれることのない自分に笑ってしまった。ジーナは目の前のエルフが撫でるのを諦めたと思い、警戒を解いた。しかしその瞬間をマクベスは見逃さず、油断していたジーナは頭をくしゃくしゃに撫でられた。
「ニャッ!?」
水を振り払うように首を左右に動かして手を退かす。まるで勝ち誇ったような得意顔で腕組みをするエルフに、爪痕の一つや二つ刻んでやろうと四肢をばたつかせるが、エディンの腕を振りほどくことはできなかった。
満足げに笑い声を上げながら、マクベスはリビングから出ていく。玄関を出ると薄く雪の積もった道路に足跡をつけた。一人と一匹に振り返り、
「じゃあなエディン、元気でな」
「ええ、マクベスさんもお元気で」
そう別れを告げて片手を振った。エディンはジーナの手を握って左右に振るが、肝心のジーナはまるで手本のようなご機嫌斜めの表情でマクベスを睨みつけていた。
エルフの青年の姿が見えなくなると、エディンはジーナに話しかけた。
「賑やかな人だったね」
「にゃー」
ジーナは肯定するように鳴き声を上げる。
「……それに、優しい人だ」
「ニャッ!?」
今度は異議を唱えるように短く鳴く。それに対してエディンは、やはり変わらぬ優しい表情でジーナの頭を撫でた。
「何年、何十年先の話になるかはわからないけど……僕がいなくなっても、君はたくましく生きてくれよ」
「……にゃーん?」
愛猫は飼い主の意図が読めずに首を傾げ、エディンは微笑むと踵を返して家の中へと戻っていった。
***
流星雨の玄関扉を開けると、ロビーにいるのはクレディアだけだった。彼女は椅子に腰かけて二丁の魔法銃の手入れをしていた。分解したパーツに不備は無いかどうかを念入りにチェックしている。カウンターの奥にあるキッチンからわずかに物音がするので、そこにドルファがいるようだった。
「おかえりなさい、マクベスさん」
クレディアはマクベスに気づくと笑顔で声をかける。
「あたしのかけた祝福はなかなかのものでしょう?」
「ああ、助かったぜ」
「えへへ、同行した際はもっと頼ってくれていいですよ!」
「えー、分け前が減るからヤダ」
「何回言う気ですかそのセリフ!?」
ツッコミを入れるクレディアを面白がって、マクベスは癪に障る笑い声を上げる。頬を膨らませてクレディアはそっぽを向き、手入れの続きを行う。マクベスは向かい側に座り、帰り道の途中で買った、ケーキの入った箱を置いて頬杖をついた。
「この匂い……チョコですか?」
「礼はケーキがいいんだろ? 寄った店で一番の売れ筋商品らしいぜ、そのチョコレートケーキ」
「そうなんですか? それは食べるのが楽しみです!」
クレディアは満面の笑顔で言い、マクベスもつられて笑った。
「……なぁクレディア」
「なんですか? あっ、やっぱり悪霊相手なら同行してほしいんですか?」
いつの間に取り出したのか、皿とフォークを持ったクレディアが先ほどの笑顔を湛えたまま訊いた。コップには牛乳が注がれている。
「えー、分け前が──って、さすがに四回目は言わねぇよ。アンタはさ、永遠に生きてみたいと思うか?」
「えっ? それってあれですか、不老不死みたいな存在になりたいかってことでしょうか?」
眉をハの字にしてクレディアが言う。質問の意図が読めずに困惑しているようだった。
「そう身構えんなって。ただ、なんとなく訊いてみただけだぜ」
「そうですか。うーん、あたしは……」
下唇に人差し指を当て、上を向いてしばらく考える。
「……長生きはしたいですけど、永遠はちょっと嫌です」
クレディアは両手の指の腹を合わせ、視線を下に落とした。
「あたし、悔いの無いように生きたいんです。いつ死んでしまうかわからないからこそ、できることや今はできないことも、全力で取り組みたいって思えるので……」
「へぇー。アンタらしい考えだな。いいと思うぜ」
「えへへ、そうですか? しかしどうしていきなりそんなことを……」
褒められ照れ笑いを浮かべるクレディアだったが、その表情は段々と別のものへと変わっていく。青ざめた顔になって、クレディアは叫んだ。
「ま、まさかマクベスさん不老不死だったんですか!? そうしてまで女性とイチャイチャしたいんですか!?」
水袋に口をつけていたマクベスは、クレディアにかからないよう横を向いて水を噴射させると、手の甲で口を拭った。
「勝手な憶測で人を色情魔にしてんじゃねーぞ!? それに向こうからの誘いしか乗ってねーからな!!」
「やっぱりすることしてるじゃないですかー! インキュバスすら貴方にはドン引きしますよ!!」
クレディアの発言にマクベスは、見る者の神経を逆撫でするような笑みを見せる。
「けっ、夢魔も大したことねーな」
「そこで勝ち誇った顔ができる意味が理解できませんっ!!」
ギャーギャーと騒ぐクレディアとギャハハと高笑いするマクベスの声を聞き、キッチンで明日の仕込みをしているドルファはつぶやいた。
「お前さんたちの夫婦漫才は、永遠に見ていたいかもしれんなぁー」
その声は小さいはずだったが、しっかりと二人の耳には届いていたようで、床を踏み鳴らしながらマクベスとクレディアがキッチンに入って同時に叫ぶ。
「誰が夫婦だってぇ!?」
「こんな女たらしな旦那は絶対に嫌です!!」
くだらない内容の喧嘩をキッチンで再開するマクベスとクレディア。ドルファは言い争う二人の姿が微笑ましく、その顔を見られないよう料理の続きをするのであった。
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