人魚
人魚 1
果てしなく広がる水面に映るのは、雲一つ無い空だった。空は朝焼けに似た
マクベスはそんな幻想的な空を映し出す水面に立っていた。沈むことなく水の上に足がつく、そんな不可解な現象に特に驚いた様子を見せず、溜め息をついた。次に水底を覗き込もうとしたが、空以外に見えるものは無かった。手を伸ばし水に触れるが、何かに阻まれ指先がわずかに沈むだけで、底の深さを推し量ることは叶わない。辺りを見渡して水平線の向こうに何も無いことを確認すると、水の上を歩き始めた。
靴底に水が触れ、足を上げるたびに水が飛び、ポチャンと小さく音を立てる。静かな世界でそんな音だけが響いていた。
何分、何十分と歩いても、変わらない景色の続く世界をマクベスは歩き続けていたが、不意に立ち止まった。ゆっくり振り返るが、やはり変わり映えしない水面と空が続いている。しびれを切らしたマクベスは、水中に潜む者に話しかけた。
「何も無いつまんねぇ場所だな。アンタも暇で仕方ねぇだろ?」
マクベスの声に応えるように、水中から一人の若い女が姿を現した。貝殻のネックレスと耳飾りをつけており、長い銀の髪が水で濡れて美しく輝いていた。パタパタと尾ひれを楽しそうに揺らすその人魚は、青い瞳をマクベスに向けると微笑んで見せた。
「あら、よく私に気づいたわね」
「職業柄、気配の察知くらいできないとやってらんねぇからな」
マクベスは腰のベルトに吊した双剣を指で叩く。
「で、ずっとオレを尾行してたアンタは何者だ?」
「私? 人魚よ」
「……んなこと見ればわかるっつーの。知りてぇのはアンタの名前」
人魚は人差し指の腹を頬に当て、何か考え始めた。
「……たぶんカレアよ」
「たぶん?」
「名前以外に自分のことを思い出せないの。交友関係とか、今まで何をしていたのか──そういった記憶が無くて困ってるのよ」
カレアと名乗った人魚は、そう言って苦笑した。
「それで、貴方は何者かしら?」
「さて、何者だろうな?」
「あらあら、意地悪なエルフさんね」
「よく言われるぜ。まぁ少なくとも、アンタの知り合いじゃねぇってのは確かだ」
「それは残念。貴方のことは後で聞き出すとして、名前くらいは知りたいわ。なんて呼べばいいかしら」
カレアは足下まで近づいて、エルフの青年の顔を覗き込んだ。マクベスは赤いメッシュの入ったクリーム色という、エルフにしては珍しく派手な色合いの髪色をしていた。
「マクベスって呼んでくれ」
マクベスは片膝をついてカレアに問う。
「アンタはこれからどうするんだ?」
「マクベスについていくわ。せっかく人に会えたんだもの、お話くらいしたいわ」
カレアは優雅に泳ぎ、先に進む。マクベスが再び歩き始めると、彼女は一定の距離を保ちながら泳いでいく。
「ねぇ、どうやってここに来たの?」
「ここへは来たというより飛ばされたな。ボロい一軒家にいたんだけどよ、気がついたらここに突っ立ってたってわけ」
「ふーん、じゃあここから出る方法は知らないのね」
残念そうにカレアが肩を落とす。
「ここから出てぇの?」
「当たり前じゃない。気がついたときからずっと一人でここにいるのよ? 人魚がたくさんいる場所に行きたいわ。そして私を知る者を探すの」
カレアは仰向けになり、やはり何一つ変わらない空を眺めながら、水の流れに身を任せた。
「そういえば貴方は泳がないの? 水の中の景色もなかなかのものよ」
「何故か水に沈まないから泳げねぇよ」
マクベスはその場で軽くジャンプをし、水滴を飛ばした。
「あら、魔法か何かで歩いているわけじゃないのね」
意外だと言いたげに人魚は目を丸くした。
「なら水中の景色はお預けね。とっても綺麗なのに」
カレアが水中に潜る。その姿はやはり空の色に阻まれて何も見えない。しばらく待つと、カレアは七色に輝く貝殻を持って現れた。
「こんな風に、煌めく貝やサンゴがたくさんあるの」
それを髪に触れさせると、貝殻はまるで髪飾りのようにぴったりとくっついた。
「どう? 似合ってる?」
貝殻は白銀の長い髪に映え、カレアの美しさを際立たせる。胸を躍らせながら返事を待つが、
「ちょっと派手だな」
遠回しに好みではないと告げられた。カレアはそっぽを向いて頬を膨らませ、貝殻を取り外すと水中へと落とした。
「嘘でも褒めなさいよ」
カレアは腹を立て、波打つ空に身を沈めてしばらく姿を見せなかった。
五分もしないうちに、カレアは鼻のあたりまで水中から顔を出した。その視線は、マクベスの異なる色の
「なんだよ?」
じっと見つめる訳を問うが、すぐには答えなかった。
「……私は貴方と違ってちゃんと人を褒めるのよ」
「そう根に持つなって。で、オレの何を称賛してくれるんだ?」
カレアは近づくと手招きをした。屈んでほしいらしく、マクベスはそれに応えた。するとカレアの両手がマクベスの頬に優しく触れる。彼女の手は冷えきっていて、人の温もりを感じ取ることはできない。
「燃え上がる情熱のような赤い右目に、海のように深く穏やかな青の左目。貴方の瞳はとっても素敵よ」
「目を褒められるのは初めてだけどよ、悪い気はしねぇな」
マクベスは少しだけ口元を綻ばせた。カレアも微笑み、手を放して少しだけ距離を置いた。
「……人の目を見て少し話せば、相手のことは大まかにわかるものなのよ」
マクベスが立ち上がり、一歩踏み出した瞬間だった。
「マクベス、何か私に隠していることがあるでしょう?」
カレアの碧眼が、射抜くようにマクベスの瞳を
「ああ。まだ話さねぇけどな」
「そう……本当に何も教えてくれないのね。訊いてみたいけど好奇心は猫をも殺すと言うし、やめておくわ」
そう言って朝焼けを映す海を泳ごうとするが、何かが引っかかって動きを止めた。
「……猫?」
尻尾の先端が白い、黒い毛並みの猫の姿がカレアの脳裏をかすめた。
「猫がどうした?」
マクベスが声をかけるが返事は無かった。愛らしい鳴き声を上げる黒猫の姿は、はたして自分が想像したものなのか、記憶が呼び起こされたものなのか判断がつかない。
「何か、何かを思い出せそうな気がするの。でもこれは、本当に思い出していいのかしら……」
カレアはただ恐ろしかった。記憶さえ取り戻せばどこかにある、帰るべき場所がわかるものだと信じていた。だが脳はそれを拒絶しているように感じる。
「……前言撤回するぜ。オレがここへ来た理由を話そうか」
今度はマクベスがカレアより先に進んでいった。
「オレはある人から頼まれてここへ来た」
カレアは、何かを知っているらしいエルフの青年の後ろについていく。
「その人は誰なの? 私の知り合い?」
「ああ」
マクベスは足元に視線を落とす。ほんのわずかではあるが、水が濁り始めていた。空を見上げると、相変わらず鮮やかな朝焼けが広がるだけで鳥一匹いない。しかし、なんの確信も無い漠然とした勘が、これから天候が大きく崩れると告げていた。
マクベスは立ち止まり、カレアの方を見る。
「なぁカレア、オレならアンタが忘れちまった記憶を取り戻してやれるぜ」
「!」
カレアは何かを言おうとしたが、マクベスの声がそれを遮った。
「だが条件がある」
「条件?」
「全ての記憶を取り戻したとき、アンタにとって最も大切なものが何かを答えてもらうぜ」
「そんなことでいいの? もちろん答えるわ。だから私のことを教えてちょうだい!」
食い入るようにカレアが見つめた。マクベスは再び背を向け、果てのない世界を歩いていく。
「ジーナって名前に聞き覚えは?」
「ジーナ……?」
カレアが女性名を復唱する。その名前を口に出すだけで心安らぐような、しかし何か焦燥感に駆られるような不思議な感覚に襲われる。
「なんとなくだけど、聞き覚えがある気がする。誰なの?」
「黒猫の名前だ。アンタが飼っている老猫のな」
再度、脳裏に黒猫の姿が
「そ、そんなの嘘でしょう? 私は人魚。猫なんて飼えるわけないじゃない」
「ギャハハ! たしかにおかしな話だぜ」
マクベスは立ち止まると、ゆっくりとカレアの方を振り返った。そして、彼女にとって信じられないことを言った。
「カレアが本当に人魚だったら、な」
衝撃的な言葉に、カレアは思わず後ずさる。
「カレアってのは魔術師ギルドに在籍していた秀才な人間の女で、冒険者のオレでも知るほどの有名人だった。だがある日、愛弟子と飼っていた猫と共にどこかへ姿を消した」
弟子という言葉に、カレアはまた一つ記憶が蘇った。それは短い茶色の髪に薄い紫の瞳の、そばかすのある気弱そうな青年の姿だった。
「……エディン」
うつむき、愛弟子の名前をつぶやく。しかし何故か、胸の奥から煮え
そんなカレアを見たマクベスはどこか諦めたような顔をして、残念そうに肩を落とした。腕を組み、水平線の向こうから顔を覗かせる太陽を眺めた。
「そうだぜ、弟子の名前はエディン。ある実験を手伝うためにアンタについていった男だ」
「実験? それはどんなものだったの?」
「……自分の体をよく見てみな」
カレアは水面に映る自身の姿を覗き込む。
「…………」
カレアは人間だとマクベスは言った。彼の言うことが事実であるなら、今の姿──人魚になる実験をしていたのだと推測できるが、何故かカレアは腑に落ちなかった。人魚になりたかった訳を思い出そうとするが、何一つ思い浮かばない。別の理由があるのではないかと再び思考を巡らせ、人魚についての知識を記憶の底から引っ張り出す。そして、
「……あっ」
人魚の伝承を思い出した瞬間、とある光景が蘇った。一匹の黒猫を、ジーナを抱えたエディンが尖った口調で叫んでいた。
「師匠! ──の研究を──!」
二人の会話は声が遠のいて聞き取れない部分もあったが、少しずつはっきりと聞こえてきた。
「馬鹿なこと──それよりも──の試作品の一つが無いの!」
「僕の話を聞いてください! 我々が研究に没頭するあまり、──は死にかけたんですよ! 必死に介抱したとはいえ、こうして生きているのが奇跡なんです!」
「……奇跡?」
その言葉にカレアが反応し、視線をエディンからジーナに移した。ある予想が思い浮かび、弟子の腕の中の黒猫に手を伸ばした。もう一方の手で刃物を持ちながら。
「師匠? ……っ! 何をするつもりですか!? やめてください!!」
エディンに突き飛ばされ、背中に何かが当たる。戸棚から落下していく様々な薬品の入ったビンが、視界の隅で落ちていき──
「……あははっ」
全ての記憶を取り戻したカレアは、しばらく呆然として自分の姿を見ていたが、徐々に笑いが込み上げてくる。
「貴方、エディンに何を頼まれてここへ来たの?」
カレアはマクベスに視線を移すと、聞く者を震わせるような、殺気のこもった声音で問う。マクベスは豹変したカレアを見て、眉間にシワを寄せた。
「いえ、今となってはそんなことどうでもいいわ。早くアレを食べないと」
「食べる? 幽霊がどうやって?」
「方法ならあるわ。でも、貴方があのマクベスなら……苦労しそうね」
カレアの白目が黄色に濁り始める。それに呼応するように空の色が歪み、朝焼けは灰色の雲に覆われ雨が降り出した。雷が轟き、雨は激しく水面を叩きつける。だが、マクベスの服や肌は雨で濡れるどころか、水滴一つ落ちていなかった。
嵐の幻影を尻目に、マクベスはカレアに問いかける。
「……さて、約束は覚えてるよな? 全てを思い出したなら答えてもらうぜ。アンタにとって、大事なものはなんだ?」
「ふふっ、なんだと思う?」
歪んだ笑みを浮かべ、カレアは訊き返した。
「質問を質問で返すなって、誰かに習わなかったのかよ?」
「貴方だって、私の質問に答えてなかったじゃない」
「……それもそうだったな」
マクベスは何者かと訊かれた際の返答を思い出し、肩をすくめた。
「しかしまぁ、結局こうなっちまうよな。ちょっとは期待してたが、仕方ねぇや」
マクベスはバックステップでカレアとの距離を置き、二本の魔剣に両手を添えた。明確な敵意を示したカレアがいつ動いても対処できるよう、神経を研ぎ澄ませる。
「当ててやるぜ。アンタの大切なものは十数年連れ添った猫でも、信頼を寄せていた愛弟子でもねぇ」
持ち手を掴み、魔剣をホルダーから抜いて答えた。
「不老不死の研究成果──すなわち人魚の肉、だろ?」
「うふふ! 大正解よ!!」
刹那、カレアが水面から飛び出したと思うと、彼女の腰から十二もの獣の足が生え、両手は背丈ほどの長さになった。それだけでなく、両手足からは鋭利な爪が伸びていた。スキュラと呼ばれる魔物に似た巨体の化け物へと変貌し、狂ったように目を見開き笑い声を上げる。
「私は夢を叶えるのよ! さぁマクベス、その体を差し出しなさい!」
幾多の足は水面を踏み鳴らし、マクベスへと向かった。体は治癒魔法で修復すればいいと判断したのか、踏み潰そうと足を振り上げ勢い良く下ろした。身を
「誰が渡すもんかよ! さっさと成仏しやがれ!!」
一方の魔剣に風の刃を、もう一方の魔剣に冷気を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます