第39話:カノープス④

 彩は一人、平原を歩いていた。


 ゲートがあった地点は森だったが、優香と別れたあとにはすぐ平原に出ていた。それからずっと、行けども行けども大した起伏もない平原だ。


 こういう経験はいつぶりだろう。少なくとも、異世界から帰ってきてからは初めてだ。こんな人の痕跡を感じられない場所を、一人で歩くなんて。


 車の音など一切しないし、人工的な空気の匂いも一切しない。あるがままの自然という感じだが、逆に自然臭いとも言える。


「もしもーし、だれかいますかー?」


 無線越しに呼びかけるが、返答は期待していない。カノープスがいるらしい目的地には近づいているものの、まだ遠い。


 目的地自体はずっと前から見えていた。平原の中にそびえる巨木だ。


 巨木は文字通りかなり大きい。並のビルより大きい。


 手紙には『だいたい80メートルくらいのクソデカ巨木』と書いてあったが、それ以上あるかもしれない。


 そろそろ無線が通る距離に入ってもいいが、入っていなくてもおかしくはない。


「はー……行けども行けども、って感じね」


 確かに優香が言っていた通り、今まで全く危険らしい危険に遭遇していない。


 特筆することと言ったら、何か野生の食物連鎖の後らしき、骨を見つけたくらいだ。ちょうど鹿程度の大きさの骨だった。


「もしもーし、だれかいますかー?」


 何度目になるかわからない、定型分になりつつあるそれを無線機に呟いたとき。


『あー! やっと誰か来た! 聞こえるー? カノープスワンだけどー』


 無線機から応答する声が聞こえた。


「あ、はい。サンドグラス2ツーです」


『んん? サンドグラス2? ……まぁいいわ、ここ、見える?』


 どこのことかと思えば、巨木の中程から光がチラチラしている。


 鏡か、あるいは光を反射する何かを振っているのだろう。


「はい、見えます」


『そこにいるわ。ちょっと身動き取れないから……悪いけどこっちまで来てくれる?』


「了解です」


 歩きながら考える。あの巨木が80メートルあるとして、光はその中頃かちょっと下くらいに見えた。


 つまり、少なく見積もっても30メートルから40メートルくらいの間にカノープスはいる。


 30メートルはどれくらいだろう。少なくとも、子供が木登りするようには登れないはずだ。


 そんなことを考えながら歩き、残り1キロを切ったくらいの時だった。


 突然無線から大きな声がした。


『カノープス1からサンドグラス2! 走って、走って! 八時の方向に注意! 咲希、降りてカバーに回って!』


 驚いて背中がビクッと跳ねたが、すぐに走り出せた。そしてすぐに左後ろを振り返る。


「な、なにあれっ」


 白い狼のような動物——魔物というべきか——が三匹、ものすごい勢いで走ってきていた。


 馬より小さいが、猪より大きい。毛の代わりに棘のような鱗がびっしりと生えている。


 それらは一直線に彩に向かって走る。圧倒的に人間より速く走っているし、もしかしたらテレビで見たチーターよりも速いかもしれない。


 突然一匹が横に吹っ飛んで転がった。あとから銃声が聞こえてくる。カノープスの援護だろう。


 ただ、その一匹は地面に転がってすぐ体勢を立て直し、また彩に向かって走り出す。傷がついている様子は見えない。


「っ……! 槍!」


 走って逃げ出せる気は全くしなかった。だから彩は杖を取り出し、攻撃魔法を展開する。


 自身の周りに光の槍がいくつも展開され、それぞれ魔狼に向かって飛んでいく。


 多くが避けられたが、そのうち一本の光の槍が魔狼に突き刺さる。魔狼は感電したように体を大きく痙攣させて倒れ込んだ。


 驚いたことに、それらを見た残り二匹はそこで走るのをやめた。立ち止まり、彩を睨みながら後退りをする。


 やがて二匹で協力し、倒れた仲間を咥えてなんとか逃げ出した。


「た、助かったの……?」


 彩は極度に緊張した頭をなんとか落ち着かせようとする。逃げ場のない場所で、獣に追い回される恐怖は久しぶりだ。


『大丈夫? 見てたわよ。今のところ他に姿は見えないけど、なるべく急いでこっちに来て。カノープス3が引っ張りあげるから』


「あ、えぇ、はい。わ、わかりました」


 息切れをなんとか整えて、早足で巨木の根元に向かう。


 そこには朝に見た、カノープス3——優香が言うところの咲希先輩がいた。彩と同じ制服を着ている。違うのはリボンの色だ。


「来たわね……捕まって」


 と言いつつ咲希は彩の腕を掴んで上に飛んだ。急激なジャンプというより、エレベーターのようにすーっとした移動だ。


 そしてたんこぶのように木から少し飛び出した、枝とも言えない出っ張りに着地する。


 出っ張りと言っても、人が座れるスペースがあり、そして幸いなことに下側にへこんでいたので落ちづらい形をしている。


 巨大な鳥がちょうど巣を作れるような、そんなスペースだ。


 そしてそこにいたのは鳥ではなく、人間だった。


「会えて嬉しいわ。私がカノープス1。友希乃って呼んで」


 カノープス1が挨拶し、握手をしてくる。ずいぶんフレンドリーな人だ。


「サンドグラス2——彩です」

「よろしくね——で、こっちがカノープス2。朝日るねって言えばわかるかな。私たちはって呼んでる」

「よろしく〜」と手を振るあさひ。


 彩は見ていないが、確か配信活動もしていて、その名前が『朝日るね』だったはずだ。


「こっちの無愛想なのがカノープス3、咲希ね」

「よろしく」


 先ほど彩を連れて登った、先輩だ。彩よりも背が低い。


 彩の記憶が正しければ、友希乃が大学三年生、あさひは大学二年生だったはずだ。咲希は記憶に頼るまでもなく、一つ上の高校三年生。


「悪いわね、こんなところで身動き取れなくなっちゃって。あのクソ狼に苦戦して、ここに逃げ込んだのよ。流石にここまでは登ってこれないらしいわ」


 友希乃が説明する。


「おまけに一人、文字通り動けなくなったわ」

「足折れちゃった〜」


 他人事のようにヘラヘラ笑うあさひ。


 先ほどから気になっていたが、足には血の滲んだ包帯が巻かれている。単純に折れているだけではなさそうだ。


「うわ……ちょっと、見てもいいですか?」

「いいけど、優しくしてね〜。あ痛っ」


 彩が聞くと触れる前から顔をしかめるあさひ。笑っていても、痛いのは違いない。

 彩はゆっくりと包帯をナイフで切っていく。最高に切れ味がいいというわけではないが、普段使いには困らない程度には手入れしている。魔法使いでもなんでも、委員会の人間ならナイフは大抵持っている。


 包帯を外すと痛々しい噛み跡があった。そして微妙にだが曲がっている。


「衛生医療の講習とってるの?」

「いえ、でも治癒魔法ならあります」


 彩の魔法は人の持つ治癒力を強く促進させるもので、傷ついて時間が経っていると効果が薄い。しかしこれくらいなら効き目がありそうだ。


「マジ〜?! 超助かるんだけどー!」


 一際高いテンションであさひが答えるので思わずびっくりしてしまった。


「ごめん、テンション間違えた……とりあえず、治してくれると嬉しい……」


 一転してしおらしくなるあさひ。


「なんにせよ、回復魔法持ってるのはありがたいわ。お願いできる?」

「はい」


 彩が集中して杖に魔力を込めると、あさひの傷口が淡く光り出す。


「私の魔法はすぐに治るものじゃなくて、ちょっと時間がかかるんです。もうしばらくこの態勢でいてください」

「わかった、ありがと〜」

「にしても彩ちゃん……渡りに船で助かるわ。貴重な回復魔法持ちだし、狼もなんとかなりそうだし」


 感心したような友希乃の言葉に、彩も照れてしまう。


「いや、そんな大したことないですよ。私、器用貧乏な魔法使いで……」

「謙遜しないで。本当に助かってる。治療もそうだし、狼もそう。私とあさひの銃は狼に弾かれるし、咲希の魔法も物理寄りだから効きづらかったの。彩ちゃんの魔法は効き目あったし、希望が見えてきた」


 感激したように彩にぐいっと近づき両手を握る友希乃。距離の近さに流石の彩もたじろいでしまう。


「ちょっと気分が晴れてきたわ……あ、聞き忘れてたこと思い出した。優香ちゃんは?」


 優香の名前が出てきたことに一瞬驚いたが、一瞬だけだった。


「優香はシリウスの方に向かいました。そしてあたしがこっちに。終わったらどうにか連絡を取るから、それまで待機しててってことでした」

「ん……りょーかい」


 あっさりと飲み込む友希乃。やはり優香が元カノープスというのは間違いないらしい。


「とりあえず、ちょっとゆっくりする時間はあるわね。サンドグラスの新人ちゃんの話も聞きたいし」


 友希乃が茶化すように言いながら木の内側に腰掛ける。彩もようやく、しばらくぶりに休むことにした。

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