継承
この街の鍛冶場は実に扱いやすかった。
鉄の鍛錬を永く繰り返した経験からか、道具の配置が実に機能的なのだ。
吹子という足踏み式の送風機は特に便利で、これのお陰で温度を上げるのが格段に楽になった。
ボルサもこれがあれば、涙を流しながら吹く必要もなくなるだろうと思った。
アゼルは焼入れ作業をしていた。
自分で作ったものと目標とする刀で、表面の冴えが違う理由についてデネブに尋ねたところ、焼入れ温度の違いだと言う。
どちらが機能的に優れているかは実際のところわからないが、より高い温度まで上げると、出来上がりの地景にやや差が出るのだという。
アゼルはデネブに言われるまま、吹子で温度を上げた。
いつも自分がよしと思う色を超えて、更に温度を上げた。
そして、今だという声を聞いて、アゼルはその色を頭に焼き付けて、水に投入した。
アゼルは抜け目なく、投入前の水の温度を指で確認していた。
十分冷えたところで取り出して、次の工程に入る。
成形して研ぐのである。
アゼルは研ぎがまだできないと言うので、街一番の研師をデネブが連れてきた。
その作業をアゼルはじっと見ていた。
隣にオリガがいた。
オリガは刀の巾木に興味を持ったらしく、彫金師に付きっきりだったが、アゼルが刀を打つと聞いて見にきたのだった。
刀の研ぎは難しい。
真平に研ぐのではなく、合わさった貝殻のように研ぐ。
その加減が分からなかった。
やってみるかと言われ手をつけたが、残念ながら止められた。
最初に一部分を研いで出来を見るのだが、研師の男はニヤリとしてアゼルを見ると、彼には見せずに作業を進めた。
研ぎにも数日かかかるため、アゼルは他の作業を見に行った。
工芸院では様々なものを作っている。
陶器から木工、金属、革や織物など原材料は様々で、技術継承のために制作し、それを街の者は日常的に使用する。
アゼルが特に気に入ったのは、漆器であった。
漆とは樹液を採取、精製して作る塗料だ。
アゼルがこれまで再現できなかったのが、鞘の塗装だった。
器の塗り方と鞘の塗り方は、実は全く違っていた。
漆器は極限まで薄く削った木に、麻などの布を漆に浸して貼り付けて下地にし、幾重にも厚く塗り重ねていく。
しかし鞘は厚く盛らないのだ。
何層にも重ねるのだが、研ぎ出して薄く重ねていく。
そのようにすると柄の太さと鞘の太さがほぼ同じになり、連続的な美しい弧を描くようになる。
その過程で螺鈿や蒔絵を加え、最後に透き漆を塗り、研ぎ出すと、アゼルが譲り受けた刀のような鞘が出来上がる。
アゼルは漆器を幾つも見るうちに、貝の蒔絵や螺鈿に目を奪われてしまった。
いつか自分が作った刀にもあのような細工を施してみたいと思った。
今自分の二振りの刀の鞘の、作り直しを依頼しているのだ。
アゼルがあまりに見つめるものだから、仕方ないなと、職人が鞘に螺鈿を入れてやると言った。
「どんな模様が良い?」
改めて問われると何が良いか思い浮かばず、オリガなら何を入れるか尋ねたところ、彼女はしばらく考えるとこう言った。
「ハグロトンボ」
彼女がエレノアの家の池で見た黒い羽の蜻蛉だ。
「お、それは面白いね」
と、職人も乗り気になった。
いつもは幾何学模様を描くが、生物を描くには絵心も問われるため、あまり使われない題材だった。
どんな姿だったかと、記憶を探ると、職人はなるほどと言って顎を指で撫でた。
オリガは念を使っていた。
ハグロトンボの姿はアゼルにも伝わった。
この蜻蛉は雄と雌で体色が異なり、雄は金属光沢のある緑色をしているが、雌は黒いのだ。
羽はどちらも真黒だ。
黒呂色漆の鞘では表現が難しい。
「なかなか難易度の高い注文だね」
「だけどアゼルの刀二振りあるから、雄雌で意匠を変えたら素敵だよ」
「オリガは絵が得意だろう? ちょっと描いてみてくれる?」
職人はそう言って頼むと、オリガは幾つか絵を描いてみた。
職人とオリガが図案で議論している様子を、アゼルは楽しげに見ていた。
オリガの絵の才は一部で話題になっていた。
紙とインクだけで様々なものを描いて記録していたのだ。
彼女はその才を、工芸に活かそうと考えていた。
写実的に描いても、鞘に描くと冴えない印象になりそうで、思い切って単純に羽を広げた姿を真上から描いた。
「これで行こう。羽の表現はちょっと考えてみるよ」
「ありがとう!」
アゼルは大喜びだった。
「それで、鑷子はできそうなの?」
アゼルは返答に詰まった。
アゼルは彼女に細かい作業に使える
「何度か試作をしてるんですが、硬さの調節に手間取っています。幾つか試作品があるので、今度持参しますから、ご意見を下さい」
「分かった。待ってるよ」
二人は手を振って別れた。
セリムが街に訪れて、不可思議な現象を体験した後、二人には突如皆と同じ力が発現した。
念による意識の共有ができるようになったのだ。
最初は考えていることが周囲に筒抜けになる程垂れ流していたのだが、訓練を受け、徐々に制御できるようになってきた。
これを使うことで、皆と同じように意思疎通ができるようになった。
しかし不思議なことに、皆言葉を発するのを止めようとはしなかった。
声の響く日常が賑やかで楽しみを感じるようになったのだろう。
更に楽器演奏を楽しむ者たちは、声を使って音階で発声する訓練なども始めていて、詩を歌うことに真剣に取り組んでいるのだ。
文学院の管理官が提案した『歌』という新たな目標は、街の者たちに深く浸透し、変化を促した。
しかしあの現象は何だったのだろうと、皆が積極的に記憶の共有を行い、多くの人の間で議論された。
特に文学院で大きな議論が巻き起こった。
これに関して、ある研究者が仮説を披露した。
我々が焔と呼ぶものは、力の循環を示しているのではないかという説だった。
例えば炎の上に、焦げない程に離して綿毛を放つと浮き上がり、ある程度まで上がると落ちて来るのだ。
力と一概に呼ぶものは、方向づけされて初めて力として作用するのではないか、と言うのだ。
念や物質に影響する力を我々は持っているが、これは例えるなら、器と水のようなもので、我々は両方を持ち合わせているから、水は器の中に収まり、器を変えてやることで水の形を変化させることができる。
しかしアゼルは生まれた時に膨大な量の水を持って生まれたが、器を持っていなかったのではないか。
器のない水はただ無秩序に溢れるだけだ。
逆にオリガは非常に大きな器を持って生まれた。
その器でアゼルの水を安定させたのではないかと言うのだ。
これには皆納得した。
とても合理的な説明に感じられたからだ。
炎帝の焔は、互いに欠けたものを補い合う触媒のように作用したのではないかと考えたのだ。
では、エヴニルの頂上に安置された大きな焔は何であるのか、という疑問が新たに生じたが、誰も尤もらしい仮説を提示できなかった。
それについては一先ず置いておこう、ということになった。
その夜、アゼルは床の中で念を受けた。
頭の中に『炎』という形の像が幾度も現れた。
そしてエヴニルの上の八角系の耀く社、その後ろに鱗に覆われた巨大な生物の姿があった。
アゼルは飛び起きて、寝巻きに上着を羽織ると、エヴニルの頂上に駆け上がった。
脳裏に見た生物がそこにいた。
実に巨大な生物だった。
赤い鱗を持ち、一対の前脚と後脚、長い尾と翼を持っていた。
それは横たわるような姿で、首をもたげていた。
よく見ると、頭から背と翼は、鳥のような羽毛に覆われていた。
首は長く、その先には細長い頭部があった。
「僕を呼んだのは貴方ですか?」
声に出して尋ねた。
すると、その生物の前足の影から、人が現れた。
「貴方は誰ですか?」
『私はへレナ』
念話だった。
『私はあなた方が言うところのエルオールの生き残りです。これまで二千年の間、同族の滅びを見ながら生き続けた歴史の傍観者であり、亡霊のようなものです』
『二千年…、炎帝より前からずっと?』
『そう。ずっと貴方と話をしたかった』
『僕と? 何故ですか?』
『あなたが、全てのエルオールとマリテが待ち望んでいた子だからです。これまではあなたとこうして話すことができなかった』
アゼルは頷いた。
『あなたは二人目の男子です。以前一人目の男子にもこうして会って話をしたことがありました。その時私はある提案をしました』
『どんな提案ですか?』
『エルオールの記憶の継承です』
『エルオールの記憶…』
『彼らの知恵や歴史、そして願いです』
『皆継承するのですか?』
『あなたの母だけです。これまでは、マリテの後継者にだけ伝えられてきました。しきたりによって、あなたの姉はあなたの母から受け継ぐでしょう。あなたはどうしますか? 一人目の子は拒絶し、別の道を歩むと決めました。あなたも、あなた自身の意志で選ぶことができます』
『選ぶ……。どちらが正しいことなのか分かりません』
『何方も正しいことなのでしょう。選択によって生じる結果が異なるだけです』
『記憶を受け継ぐことで、僕自身が変わると言うことですか?』
『少し違います。膨大な数の書物が収められた書庫を開く鍵を受け取る、と言った方が分かりやすいでしょう』
アゼルは分からなかった。
突然選べと言われても、選びようがなかった。
アゼルはこの人があまりに感情が薄いことが気になった。
この人からは、どうしたいのか、意志が感じられないのだ。
アゼルは尋ねてみようと思った。
『あなたの願いは何ですか?』
『私の願い?』
アゼルは頷いた。
『エルオールの一人であるあなたの願いは、何ですか?』
ヘレナは、永すぎる人生の中で、自分が何を望んでいたのかを思い出そうとしていた。
膨大な時間の中で、感情すら消えてゆき、心を動かされることももうなくなってしまった。
正に亡霊のような存在だ。
私が望んできたもの…。
気がつけば、小さな雪が舞っていた。
空から無数の粒が、空を漂いながら落ちてきた。
どれくらいの時が過ぎたか、彼女はゆっくりと話し始めた。
『私とマリテの子供たちに願うことは、願うことは……、どうか、私たちの願いを叶えて欲しい』
『どんな願いですか』
『私たちはヒトの隣人になりたかった』
『隣人と言うと、友達みたいなものですか?』
『そうですね。私たちはヒトの神として祀られることを望んだ訳ではない。王でありたいわけでもない。共に手を携えて生きていきたかったのです。それが私の、私たちの願いです』
『分かりました。受け継ぎます』
アゼルは答えた。
『ありがとう…、ありがとう…』
ヘレナの瞳から一筋の涙が溢れた。
もう随分この暖かな雫を感じていなかった。
嬉しいのだな。
自分は喜んでいるのだと感じた。
アゼルは自分の後ろに人の気配を感じた。
それは少しずつ増えていくようだった。
皆何も言わず、その光景を見守っていた。
ヘレナは社の方に歩み寄ると、手を翳した。
アゼルは今初めてヘレナという人の姿をはっきりと見た。
背の高いほっそりとした女性で、黒く長い髪は丁寧に編み込まれ、首元から前に垂らしていた。
白く艶のある服は、たっぷりとしており、くるぶしまでを覆っていた。
左手には一振りの剣を持っていた。
誰かによく似ている。
タレイアだ。
彼女はこの人にそっくりだ。
誰かが背に手を置いた。
母の手だった。
前に進むように促していた。
アゼルはゆっくりと、耀く社へと進んだ。
ヘレナの手から光が逆流して、社は輝きを増していた。
アゼルが近づくと、アゼルにも光が繋がった。
意識が流れ込んできた。
悲しみや嘆き、そして喜びが記憶と共に伝わった。
彼女の記憶だ。
夥しい量の情報が通り過ぎてゆく。
その中に氷で閉ざされた広大な空間に、沢山の人が座っている光景が見えた。
その大半はもう朽ちかけていて、その中の片隅に、小さな少年の姿があった。
その時オリガが声を上げた。
「あの子だ」
オリガが生まれる前に見た記憶のことだろうか。
オリガにも見えているのかもしれない。
アゼルにはその少年がかすかに笑っているように見えた。
時を遡るように、記憶の濁流の中にアゼルは立っていた。
喜びや悲しみ、そして一際大きな絶望があった。
人々は絶え間なく続くかに見えたその光景をじっと見守っていた。
やがて耀く社は次第に暗くなってゆき、辺りは闇に包まれた。
誰かが議場の篝火を灯した。
小さな灯りが闇を少しだけ溶かした。
社のすぐ傍で、竜の手の上に横たわるヘレナの姿が微かに見えた。
アゼルは彼女に駆け寄ると、彼女の手を取った。
「あなたの願いは受け取りましたよ」
ヘレナは笑っていた。
そして涙を流し、幾度も頷いた。
「ありがとう。あなたにあえて本当によかった。私の子供たちに囲まれて。最期に人として終われるなんて。これで私も皆の元に帰ることができる。何と有難いことか……」
そう言い残して、彼女は息を引き取った。
『どうか安らかに、母よ』
アゼルはその言葉が竜から発せられていることに気づいた。
『人の言葉がわかるの?』
鳥類のような目がアゼルを見ていた。
『無論』
『母と言った?』
『言った』
『どういうこと?』
『この人は我を救って育ててくれた。我にとっては母のような存在だ。母は人として逝くことができた。礼を言う』
竜は跳躍して羽ばたき、上空を旋回した。
『我の力が必要な時は呼ぶが良い。我が兄弟よ』
そう言うと、竜は北へと飛び去った。
最後のエルオールがこの世を去った。
アゼルは彼女を抱き抱えると、エヴニルを下った。
皆アゼルとヘレナのために道を開けた。
彼女は『子供たち』と、そう呼んだ。
今ならわかる。
我々は皆、マリテの子とヘレナの間から生まれたのだ。
ここに住む全ての者の遠い母親は、幾度も自分の子と死に分かれながら、エルオールの血を幾度も繋ぎ、見守ってきた。
ギルボワが生まれた時、一番喜んだのは彼女だったが、ギルボワは彼女の願いには答えなかった。
心が砕けそうなほどの悲しみに襲われた。
二翼の竜が、瞑想状態で生きながらえるエルオールを生かし続けたが、それももう尽きかけていた。
そして彼女自身の寿命は、とうに尽きていた。
竜の祝福を呪いに変え、一年のほとんどを眠りに費やしながら生き続け、十八年前にタレイアを産んだ。
そして母カルネは僕とオリガを孕った。
僕が母の胎内にいた頃に、残された最も若いエルオールの命が尽きた。
その子は胎児だったオリガに会いに来たようだ。
そして冬至の日に、僕とオリガは生まれた。
その時彼女は目覚めなかった。
もう彼女も限界だったのだろう。
最後の力で、竜に連れられてここに来た。
僕に会いに。
「大丈夫です。思いはきっと繋ぎますから」
アゼルは若い女の姿のままのヘレナに言った。
オリガがアゼルの上着を掴んでいた。
彼女も泣いていた。
あの少年が繋いで、オリガにも見せていたのだろう。
ヘレナの遺体は母の部屋に安置された。
灯りの下で見る彼女は微笑をたたえ、まるで眠っているようだった。
街の皆はまだ暗い中、ヘレボルスや水仙の花、山茶花や椿を探してヘレナに手向けた。
最期に彼女が抱えていた剣をカルネが持っていた。
蒼い刀身を持つ剣だった。
青銅によく似ていたが、違うのだと言う。
偶然にできたもので、これまで一度も再現されていない。
アゼルは彼女の遺灰とこの剣を社に安置したいと母に願うと、彼女は受け入れてくれた。
「アゼル。記憶を継いだのね?」
アゼルは頷いて応えた。
「ならばもう母が言うことはありませんね。あなたの思うようにしなさい。ただ何をするか、私には話して欲しい」
「分かりました」
カルネは、目が赤く腫れたままのオリガを見て言った。
「あなたも見ましたね?」
オリガは頷いた。
「二人でよく考えるのですよ」
「わかりました」
二人は母に答えた。
冬至の日の朝日が登ろうとしていた。
その日、オリガとアゼルは十七歳の誕生日を迎えた。
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