帰国
出航から2日目の朝、海は荒れていた。
小さな船で縦帆だけの簡単な船だ。
マストにしがみ付きながらブレアスは前を睨んだ。
余り沖には出られないため、岸からそう遠くないところを航行しているが、怖いのは座礁だ。
吹き荒れる風を逃したり捕まえたりしながら進んだ。
波を被り、風を受けると、当に凍えそうだった。
ダナンと二人の男が必死に作業していた。
船のことは全く分からず、ただ見ているしかできなかった。
日が登り始めていた。
やがて風の流れも変わるとダナンは言っていたが、そんな様子は微塵もなかった。
飛ばされないようにマストと体をロープで縛っていた。
ブレアスがティルナビスに戻ったのは夜半過ぎだった。
以前馬車を下ろした波止場に行くと、薄明かりの中でダナンが待っていて、二人の男を紹介した。
レイ・ディランとフラム・ボアズと言った。
ティルナビスで商いを営んでいたが、どちらも両親が破産して自殺していた。
彼らはこの町で盗みをやって生きていた。
ある時運悪くヘルガの商いに手を出して捕まり、彼女の護衛にのされた。
ヘルガに鉱山送りか下働きのどちらか選べと言われ、下働きを選んだ。
鉱山に行っては生きる望みはなかったからだが、ヘルガの仕事を手伝うようになり、彼女の人柄に惚れ込んでしまったらしい。
彼女は何があっても身内を切り捨てなかった。
二人が粗相を働いた時も、此方に非が在れば、彼女が頭を下げて詫びた。
逆に相手に非が在れば徹底的にやった。
そしてお前の行動は間違っていないと背を押してくれたのだ。
彼らにとっては彼女は母であり父であった。
男勝りで気風が良く、彼女に惚れた男は数知れない。
中洲で娼館を営むヤクザ者も、彼女には一目置いていた。
女の扱いが酷すぎると口論になったことがあったが、理で説明されて改善したところ、客が増えたのだ。
女であるが故に扱いも心得ており、それを金に変える知恵もあった。
実は、ブレアスにも彼らは敬意を払っていた。
何しろ自分の主人と同じ服を与えられ、私室にも入れるのだ。
ブレアスが彼女を尊重しているのは皆も知るところであり、彼女の指示は守るため、敬意を払うほかなかったのである。
だが当の本人は全く気づいていないようだった。
しかしヘルガに言わせれば、何あいつはあれで良いのさ、と言うだろう。
ブレアスは黄色く染まる朝日を左舷後方に見た。
西側に流されて沖に出ているのだ。
ダナンもそんなことには気づいているだろう。
必死に舳先を南東に向けようと奮闘していた。
「ブレアス! 舵を持ってくれ」
ブレアスはロープを切ると、ふらつきながら舵を代わった。
「このままでいい! とにかく抑えていてくれ」
「分かった!」
帆を担当していたフラムの体力が限界だった。
フラムを船室に行かせて休ませると、ダナンの指示でブレアスは舵を切った。
幾度も修正を加えながら、なんとか軌道を修正した。
太陽が高く登った頃に風が落ち着いた。
ブレアスは舵を握ったままだ。
ダナンに言われた通りに操舵した。
彼がブレアスの肩を叩いた。
疲れていたが良い笑顔だった。
やがてキルシュの港が見えてきた。
桟橋に接舷すると舫を結び、フラムの様子を見に行った。
彼は熱発して船室に横たわっていた。
ブレアスはダナンに宿と医者の手配を頼むと、荷物を抱えてフラムを背負って船を降りた。
鎧を着て鞄を襷にかけ、剣を差し、槍を片手にフラムを肩に背負っていた。
まるで戦場にでもいるような姿だ。
レイが槍くらいは持つというが、これは俺の命だからな、人には預けられんのだと笑って断った。
レイは二人分の荷を担ぎ、船を降りた。
長い桟橋を行くと、その先の入管手続きで身分証を求められた。
ブレアスはレイにカバンから重い包みを出すように頼んだ。
包の中は矛の穂先だった。
穂先の穴の奥に書類があるから取り出すように言うので、細い木の枝で何とか穿り出すと、くしゃくしゃになった紙を見つけた。
それを丁寧に解いた。
紙は幾重にも重ねられ、一番最後に薄汚れて小さく折り畳まれた書類が出てきた。
それを丁寧に開いてゆくと、掠れて薄くなっていたが、アルバレス・メンデルとあった。
サルマンが発行した古い身分証だった。
「通ってよし」
レイは矛と身分証を丁寧に包み、胸に抱えてついていった。
入館を通過すると、宿と医者の手配ができたらしく、ダナンが走ってきた。
異様な出立のブレアスを見て圧倒されたのか、ダナンはしばしその姿を見ていた。
なんて奴だ。
「手配できたのか?」
「あぁできてる。ついて来てくれ」
ダナンは港に近く治安の良い区画で宿を見つけていた。
部屋は2階で、既に医者は部屋の前で待っていた。
ブレアスの姿を見て医者は後退りしたが、ダナンが宥めて部屋に押し込んだ。
四人でも十分な広さの部屋だった。
槍を置いて寝台にフラムを横たえると、医者は彼を診た。
レイもダナンも疲れている様子だったため、後は見ておくから休むように言った。
居間でブレアスは鎧を解くと、海水でベタついた服を脱いで、仕方なくヘルガにもらった服を着た。
槍と剣を海水につけるわけにもゆかぬので、船室の壁のフックに紐で固定していたので、水に浸からずに済んだのは幸いだった。
ブレアスが海水をかぶった防具の手入れをしていると、寝室から医者が出て来た。
先ほどとは異なり立派な身なりのブレアスを見て安心したのか、ゴランの容体を細かく知らせてくれた。
二、三日で改善するというので安心した。
もし悪化するようならすぐに呼ぶようにと住所を控えて置いて行った。
ブレアスは礼を伝え、謝礼を払うと丁重に見送った。
居間で鎧の手入れを続けていると、ダナンが鳥を抱えて慌てて入ってきた。
彼の隼だ。
「怪我はないか?」
「大丈夫だ。船酔いしたらしい。前にもこんなことはあったさ。大丈夫だろうが少し様子を見る」
ブレアスは広めの器に水を入れてダナンに渡した。
「ありがとう」
窓を開けて風を入れながら、隼が回復するまで付いているようだった。
ブレアスは窓の外の街並みを見ていた。
帰ってきたのだな。
戻らないつもりで出てきたが、捨てられないものだと思った。
ダナンはテーブルに突っ伏して眠ったようだ。
仕方なく、ダナンを担ぎ上げると、カウチに転がした。
鳥は水を舐めていたので、問題はないだろうと思い、窓を閉めてやった。
仲間も疲れている。
今日はここまでだとブレアスは思った。
その夜、ブレアスは夕食を部屋に運んでもらうよう宿の主人に頼んだ。
フラムの様子を見ている必要があったからだ。
夕方過ぎにレイは起きてきて、フラムの様子を見ていた。
大分熱も下がってきたらしく、皆安堵していた。
食事を食べながら、今後について話し合った。
何をするにしても四人では何もできないし、どこから手をつけて良いかも分からなかった。
まずはヘルガに言われた通りに、港湾組合の総代に会いにゆくことにした。
現在の総代はバジル・アルサードと言った。
ヘルガが認めた招待状はダナンが持っており、これを見せれば取り次いでは貰えるだろう。
次の日の5時のこと、ブレアスは港湾組合に向かった。レイとフラムは宿で待たせた。
港湾組合と言うだけあって、税関の傍に建物はあった。
入口には屈強な男が二人立っていた。
その男にダナンはヘルガからの紹介状を渡し、バジルへの取次を依頼した。
「渡しておく。だが今バジルさんは出かけている」
「いつ頃戻られる?」
「夕刻には戻られる。その後ならいるだろう」
「分かった。改めて来る」
二人は街を見て時間を潰すことにした。
街の中心には貿易公社の巨大な建物があった。
王政府直轄の貿易会社で、特産品の輸出を手がけていた。
主に香辛料だが、香木などの希少品や工芸品も扱っている。
また穀物の輸入についてもここで一括で交渉して国内の卸業者に振り分けられた。
今の状況は彼らには不都合だろうと考えられたが、外から見ている限り、落ち着いた様子だった。
ブレアスが国を出た頃、兄はこの公社に配置換えとなった。
まだ居るとは思えないが、調べてみることにした。
ブレアスは公社の玄関に向かった。
「おいブレ……、アルバレス。大丈夫なのか?」
ブレアスは大丈夫だと笑って言った。
この男こんな顔で笑うのかと思うほど、悪戯小僧のような顔だった。
ブレアスは入り口から入ると、受付の女に声を掛けた。
「アルバート・メンデルさんはおられますか?」
女は和かに応対した。
「どのようなご用件でしょうか?」
どうやらまだいたらしい。
ダナンが驚いたような顔でブレアスを見ていた。
「アルバレス・メンデルが来たと伝えてくれ」
女は怪訝そうな顔をしながらも、奥へ消えた。
「アルバート・メンデルってもしかして…」
「俺の兄だ。以前は国営農場の管理をしていたが、十年前にここに配置換えになったと言っていた。まだいたらしいな」
ブレアスは笑っていた。
突然奥の方からどかどかと床を鳴らす音が聞こえると、勢いよく扉が開いた。
「この愚か者が! 十年もどこをほっつき歩いておったか!」
受付の女が飛び上がるほどの剣幕だった。
しかしブレアスの意外なほど整った身なりを見て、逆に驚いたような表情を見せた。
アルバートは受付の女に詫びると、何事か話し、ブレアスの方へ歩み寄った。
「生きていたか。何の沙汰もないから、父も私も諦めていたよ」
「母は元気か?」
「元気だ。母だけはお前はちゃんと生きてると信じていたよ」
アルバートはブレアスの背に手をやると、ここを出るように促した。
「こちらの方は?」
アルバートがダナンについて尋ねた。
「申し遅れました。私はダナン・ロートンと申します。船乗りで、今は彼の旅仲間です」
元商人だけあって、愛想よく振る舞うのは慣れたものだ。
「弟が世話になっております」
そう言ってアルバートは頭を下げた。
少し早いが飯にしようと、兄は郷土料理の店を選び、個室を手配した。
懐かしい料理が並べられた。
香辛料をふんだんに使っており、その香りが古い記憶を呼び覚ますようだった。
胸に込み上げるものを感じた。
この地域では様々な香辛料を使用する。
鶏肉ひとつとっても店ごとに香辛料の調合が異なり、それぞれ味を競っていた。
シエラに転がり込んだ頃は、何とも味気ないと感じたものだが、今ではそちらに舌が馴染んでしまった。
この店は味付けが少々辛い。
兄は辛いものが苦手だったが、わざわざ辛いものを好んだ弟のためにこの店を選んだのだろう。
「しかし随分見違えたな。いつもボロ服だった男がこうも立派な服を着ているとは。時間は人を変えるものだな」
「兄者は変わっておらん。昔のままの様子だ」
「ははは、しかしな、何故よりによってそれなのだ。その衣装を分かっているのか?」
「深くは知らん」
「だろうな。もう知るものもおらんだろうが、それは昔の宮廷の衣装だ。今はもう着る者はおらん」
ブレアスの服は不思議な色をしていた。縦糸と横糸で異なる色を使っていたので、独特の風合いがある。
赤黒と呼ばれた色だ。
「今まで何をしていた?」
ブレアスは当たり障りのない範囲で説明した。
メルクオールやエレノアのことは話せなかったため、組合の用心棒のようなことをしていると説明した。
「なるほど、それでどんな心変わりで帰ってきたのだ? ここには暫くいるのか? 母に顔を見せてやれ。喜ぶに違いない」
「うむ、機を見て顔を出す。今は仕事の一環で立ち寄ったのだ。兄者の方はどうだ? 仕事は順調か? 胡椒は値が上がって売上も良いのではないか?」
アルバートは驚いた様子で弟を見た。
まさか胡椒の値段に関心を持つとは思っていなかったのだ。
「よく知っているな。確かに売り上げは伸びている。伸びているが奇妙ではある」
「と言うと?」
「胡椒の供給は流通量を安定させているから、価格が上下しにくいはずなのだ。しかしこのところ例年になく売れていて、かと言って新たな用途に使われていると言う情報もない」
「兄者は何故上がっていると考えている?」
「憶測でものは言えん。買い占めたところで供給が続けば値は戻るのだ。損をするだけではないか?」
「では穀物はどうだ? シエラから届いているか?」
「届いていない。だがこれは船室に水漏れがあって、穀物が海水に浸かってしまい売り物にならなくなったためだと報告は受けている。次の入荷で落ち着くはずだ」
「サルマンではそう説明されているのだな。だがヘルマインでもシエラの穀物の供給が減っているらしい。ちなみに今年も豊作で、穀物は売るほどある」
「どう言うことだ」
なるほど、戦のことは勘定に入っていないらしい。
「戦が起きたらどうなる?」
「戦だと? どこがどこを攻めるのだ?」
「ロンバルドが南進する」
兄の目つきが変わった。
「何だと? それは本当か?」
「ロンバルド国内では戦の準備が進み始めた。状況からして、目的は恐らくティベル河以南の土地だ」
「戦の準備をしているのは間違いないんだな?」
「間違いない。今のところ士官連中が準備を始めた。年明けには国境の軍備が増強されるだろう」
「そんな話はどこからも入っていない。それにお前はシエラの人間になったのではないのか? 何故こんな情報を持ってくるのだ」
「俺を疑うのは構わん。俺は傭兵だ。あそこの王家に忠誠を誓ったわけではない。俺は俺の意志で動く」
「良くわからん奴だ。そう言うところは昔から変わらんな」
兄は少々苛ついていた。
ふとダナンが割り込んだ。
「アルバートさん少し良いですか?」
やや控えめに尋ねた。
「何でしょう」
「貴方なら、ティルナビスやカルバドスで胡椒を大量購入している会社を調べることはできますね?」
「可能だ」
「どれくらいで可能ですか?」
「鳥を使って二日、内容によっては四、五日程度だと思う」
「ではそれらの一覧と、登記情報を併せて送るように頼んでみて貰えませんか? 特に会社の資本関係を重点的に」
「なるほど、買い占めの元締めを探るわけか。直ぐに取り掛かろう」
ダナンはブレアスを見て笑った。
ブレアスも頷いた。
「お前も一緒に来い」
兄はブレアスの腕を掴んで公社の自室に連れ込んだ。
「自分の事務所があるのか」
「私は一応ここの売上を管理する立場だからな」
「出世したな」
ブレアスはアルバートを見てニヤリと笑った。
「お前はいい加減腰を据えて将来を考えることだ」
そう言うと兄は指示を出しに部屋を出た。
ブレアスとダナンは、アルバートの部屋のソファに座り、レモネードを飲んでいた。
香辛料でヒリヒリした舌に、すっきりとした酸味は心地よかった。
兄は戻ってくるなりブレアスの前に腰掛けると、身を乗り出して尋ねた。
「アルバレス、お前は何がしたくて戻ってきた? 詳しく話せ。でなければお前の話は信用しかねる」
ブレアスは言葉を選び、答えた。
「俺はある家族の息子を守るためにある機関の調査を始めた。その過程でティルナビスの協商組合代表の協力を得て今も動いている。俺は王家には関心がない。助けたいのはこの国の人だ。家族や昔の仲間だ。そのために来た」
アルバートはじっとブレアスの目を見て聞いた。
「ある家族とは?」
「言えん」
「ある機関とは?」
ブレアスは解答を迷った。
「……、王立術者養成学院」
アルバートは頭を抱えた。
弟が着ている服に合点がいった。
「不思議なものだな。何も知らされていないお前が、そう言う道へ行くとは」
「何か知っているのか?」
「ここでは話せん。後でうちで話す」
「では兄者の自宅を教えてくれ」
「どこか出かけるのか?」
「港湾組合に用がある」
アルバートは思案すると、自分もついて行くと言った。
「ヤクザまがいの連中と接点を持つと、後に面倒になりかねん。兄者は家で待っていてくれ」
心配そうに弟を見つめたが、承諾し、アルバートは二人を見送った。
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