願い
収穫祭を前に、セリム・メルクオールは辞職を表明した。
高齢によるものとされ、多くの者がそれを惜しんだ。
最後の仕事を終えて、第二北門から出るセリムを、民衆が取り囲み、彼に感謝の意を伝えた。
中には寺院の高僧までおり、未だメルクオールの影響力は衰えていなかった。
エリンも出迎えにきており、皆が次代の存在を喜んだ。
彼は民衆に好かれており、その求心力を警戒する者もいたが、彼を外しては民衆が納得しないため、手が出せなかった。
中央の者にとっては眼の上の瘤だった。
引退後の彼の動きは誰もが気になるところであった。
しかし、その日を境に、彼の姿を見たものはいなくなるのである。
夜半過ぎ、メルクオールの庭の灯りも消え、周りの家も寝静まった頃に、裏門に三人の男の姿があった。
ギムリスとかつての旅仲間で、カールーンとトゥベルと言った。
そこにセリムとエリンの姿もあった。
二人は互いに手を握り、別れを告げた。
声には出さず、強く抱き合い、互いの思いを伝えた。
どちらの目にも涙が溢れていた。
ギムリスの後ろに二人が並び、二人は交差するようにしてギムリスの肩を掴んだ。
そしてしゃがむと、セリムを乗せた。
三人は足音をたてぬように、裏路地を駆け抜けた。
エリシアムへの旅に出るのだ。
出発の時期が難しかった。
これより遅くなると洞窟は氷に閉ざされてしまい、溶けるのは春先になる。
しかし春先になると滝の水量が増すため、洞窟は川のように水で埋まってしまって、老人の足では進めないのだ。
よって、未だ塞がらぬ今しかないと判断された。
珍しく、ザラストラから東風に鳥が来て知らせた。
鳩では心許無く、隼を使ったようだ。
野生の猛禽が民家に降りることなどないため、人に気づかれてはまずいのだが、プルトがいないため仕方なかったのだろう。
プルトとエレノアがギムリスと入れ替わって東風に戻ることになる。
四人は東風の裏門から母家に入り、セリムを休ませた。
翌日の閉門時間の後に、地下を通って街を出るのだ。
セリムは布で包んだ箱を大事に胸に抱えていた。
それ以外の荷物は何も持たなかった。
己の人生の最後の仕事と決めていた。
東風についた時、我儘に付き合わせてしまったことを詫び、深く礼を伝えた。
翌日から、セリムの家の周りには妙な者が行き来するようになった。
監視がついているのだろう。
エリンもそのことには気づいているようで、昨夜のうちに送り出したのは正解だったと思った。
何事もなかったように、エリンはいつも通りの時刻に仕事に出かけ、そして帰宅した。
メルクオール邸周辺に偵察に出たカールーンから、ギムリスは報告を受けた。
この男は南のセドナでの情報収集を任されていた。
トゥベルは彼の腹心として働いている。
両名とも、それどころかエレノアやタレイアもギムリスの弟子であった。
ヘルクスも若い頃はギムリスに剣を習っていた。
彼はもう衰えたと自嘲するが、誰も彼と立ち合おうとする者はいなかった。
剣を持たせたら、右に出るものは未だにいないのである。
敬意を表して、彼らはギムリスを師匠と呼ぶが、本人はそれを煙たがっていた。
ギムリス・サラザード、本名をギブリと言い、彼の剣の冴えを評して贈られた二つ銘は剣聖であった。
剣聖とは、並び立つ者がいないと言う意味だ。
そんなギムリスだが、ここ数年刀は帯びていない。
彼の刀はヘルクスに預け、その刀をヘルクスはアゼルの守刀として贈った。
あの二振り一対の刀だ。
アシェルが目指す刀は、当に至高の二振りなのである。
セリムは充てがわれた部屋で静かに過ごした。
産まれてから今までずっと尽くしてきた街だった。
預言者の家系に生まれ、人々の模範であれと諭され、人々の思いを知り、正に人生をこの街とここに生きる人々に捧げてきた。
祭りの夜に一人街をそぞろ歩きするのが好きだった。
賑やかに今を楽しむ人々の顔を見るのが何よりの報酬であった。
セリムは深く感謝し、時を待った。
これより先のことはエリンとヘルガに頼んだ。
ヘルガの父が二人に継承の礼を尽くしたように、彼もまた、密かにヘルガを招き、二人に後の事を頼むと頭を垂れた。
私を滅して公に尽くすのは辛いことである。
その責を次代に背負わせるのはしきたりとは言え心苦しかった。
それは自分が一番よく知っていた。
六十を過ぎ、人生の終わりが迫った頃に、
一つの光明を見た。
それに賭けたいと願うのは、最初の我儘であった。
二人は受け入れてくれた。
心の赴くままにと、そう言って背中を押してくれたのだった。
セリムは何より嬉しく、深く頭を下げた。
そして今、時を告げにくる者がいた。
「セリム様、参りましょう」
ギムリスはセリムの前を進み、地下へと向かった。
地下室の隅に鉄の引戸があり、それを開けると、更に下へと続く階段があった。
ギムリスは松明を持って先に進み、カールーンはセリムを支えた。
殿をトゥベルが務め、地下道へ進んだ。
壁の紐には触らぬようにと言われ、セリムは警戒しつつ進んだ。
「紐は危険なのですか?」
「はい、万が一追手に迫られた時のための仕掛けが施してあります。天井から油をかぶる羽目になるので、ご注意ください」
恐ろしいことを言うものだとセリムは思い、壁や足元を注意しながらゆっくり進んだ。
螺旋階段を抜けると大きな空間に出た。
石積みの広い空間だ。
「これは放棄された下水道ですか?」
ギムリスは笑顔で答えた。
「ここをご存知とは、流石セリム様ですね。おっしゃる通り、ここからティルナ河の堤に出られます」
「もしやあなた方はこれを知っていて、サラザードに接近したのですか?」
ギムリスはセリムの方を振り返って頭を掻きながら答えた。
「手厳しいですねぇ。正直に申せばそれもあります。しかし、主な目的は海賊と銀行ギルドの癒着を示す文書を手に入れることでした。それらは全て、サラザード家にお預けしております」
「確かにその通りです。しかし何故500年もの間表に現れなかったあなた方が、今こうして我らに素性を明かしたのでしょうか?」
ギムリスは言葉を選びながらゆっくりと答えた。
「新たな光明を見出したからです。500年が経ち、ギルボワに代わる新たな光です。再び世に出て、人々の前に立つ覚悟を、我らも致した次第です」
それを聞いてセリムの目が輝きを増した。
「男子がお生まれになったのですね? どのようなお方ですか?」
「セリム様はもうお会いになっておられましょう」
ギムリスは笑顔で応えた。
「まさか、やはりあの少年がそうなのですか?」
ギムリスは振り返り、頷いて答えた。
「なんということか。あのように真直に育ってくれましたか。神に感謝せねばなるまい」
セリムは手で顔を覆い、立ち止まってしまった。
一同はセリムの心が落ち着くのを待った。
「エリンよ、ヘルガよ、アルナスよ、時が満ちたのやもしれぬ。世界は揺れるであろう。だがしっかりと立つのだぞ」
セリムは天に向かって祈りを捧げた
アルナスとは、太陽神エルを祀る寺院、エルファト院の院長である。
この家はグシュナーと言って、やはりメルクオールから別れた家だ。
メルクオールは6つの花弁を表す図案を持ち、サラザードは3つの半円で描く三角形を表す図案を持っていたが、グシュナーは円の中心に中黒を持つ図案をシンボルとして持っていた。
これは焔を上方から見下ろした時の図案である。
三つの家はそれぞれ焔に因んだ図案を家紋として持ち、互いにその図案を用いて手紙をやり取りしていた。
セリムは、今はただ天に祈るのみであった。
一同は再び歩き出した。
エリシアムへの道はまだ始まりであった。
道中は三人でセリムを担いで進んだ。
途中プルトの山小屋で物資を集め、小休止した後、また歩き始めた。
追手が付いている様子はない。
途中森に入ると、予想以上に足場が悪く担ぎ方を変えた。
交代しながらセリムを背負って歩くことにしたのだ。
露出した根が滑りやすく、転びそうになりながらも、なんとか滝に到着した。
塞がっていないことを祈った。
斜面を登り、細い絶壁の通路を進むと、先の方から音が聞こえた。
ザクザクと何かを削っていた。
ギムリスは先に進み、滝裏の洞窟を見ると、ほとんど塞がっていて、人が通れる隙間がなかった。
それを反対側から削っていたのだ。
「エレノアか?」
「お父さん? もう着いたの?」
そこにセリムを背負ったトゥベルがやってきて、セリムを下ろした。
「塞がっちまったか」
トゥベルはナイフを手に取ると、こちらからも氷を砕こうとした。
「お待ちください。あまり使いたくはないのですが、これを使いましょう」
セリムは胸に抱いた包を地に置くと、布を解いて箱を開けた。
中から光が溢れた。
「これが炎帝の焔か…」
カールーンはため息混じりにそう言った。
「この焔は僅かですが熱を放出しています。中心部はかなり高温なのですが直ぐに拡散してしまうようです。でも氷を溶かすくらいなら、十分でしょう」
セリムは焔を安置する鉄の器を手に、氷に翳した。
器から漏れる光の六花弁が、厚い氷に不思議な模様を作り出した。
何とも美しい光景で、皆息を呑んで見守った。
焔を翳した周辺の氷はたちまち溶けてゆき、厚い氷に路を作った。
セリムは器を箱に仕舞うと、布を巻いて、また胸に抱えて洞窟へ入った。
中にはエレノアとプルト、そして数名の衛兵がいた。
皆今の光景を内側から見ていた。
「エレノアさんご無沙汰しております」
「セリム様もお元気そうで何よりです」
エレノアはセリムを見て安心したのか、笑顔で彼を出迎えた。
「アシェルさんはお元気ですか?」
「はい、相変わらず鍛冶場にこもって何やらやっておりますよ。覗いてみて下さい」
セリムはそれを聞いて何度も頷いた。
「エレノア、店は頼んだ。今はタレイア一人だ。早く帰ってやれ」
「あの子なら大丈夫ですよ」
「あいつは怒りっぽいのが玉に瑕だ。危なっかしくてな」
「大丈夫です。弁えていますよ」
「だと良いんだがなぁ」
カールーンとトゥベルはエレノア達と再び山を降りて行った。
ギムリスはセリムを背負ってお、長い洞窟を下った。
先ほどの光景を見ると、思い違いではないことを確信した。
セリムを背負うと不思議と温かく、力が湧いた。
この焔が力を与えていたのだろう。
不思議なものだ。
発生してから千五百年以上経過しているにもかかわらず、未だに光を発し続けている。
エヴニルの頂上にもより大きなものが安置されているが、焔とは何かについては、彼らにも明かされていない。
誰が何のために作り、そこに置かれているのか、実は誰も知らないのだ。
生まれて物心ついた頃にはそこにあったものだから、当たり前のように皆思っているが、ギムリスは焔とは何かと思案した。
やがて洞窟の出口に到着すると、ギムリス達は舟に乗った。
「セリム様、お疲れではありませんか?」
ギムリスが気遣って尋ねた。
「あなた方のおかげです。疲れはありません。ありがとうございます」
セリムは和かだった。
湖の水は底が見えるほどに澄んでいて、水面は穏やかだった。
空気は冷たくも、遠くまで冴え渡っていた。
舟はゆっくりと川を下り、街へ向かった。
セリムは鼓動が高鳴るのを感じた。
舟を降りると、二本の巨大な杉の木が出迎えた。
セリムは立ち止まって見上げた。
天に向かって伸びる太い幹には神々しさを感じた。
いつからここにいたのだろうか、そう思わずにはいられなかった。
「この木はいつからここに立っていたのですか?」
「我々にもわかりません。ここに住み始めた頃には既にあったようです」
幹の直径は6尺はあろうかという太さだった。
セリムは頭を垂れた。
不思議とそうしたくなったのだ。
「先日風の強い日がありまして、この木の下で大鷹の幼鳥が落ちていたのをアゼル様が見つけられて、今はお部屋で様子を見ているようですよ」
「良くなると良いですね。しかし、こんな立派な木ですから、鷹も住みたくなるのでしょうなぁ」
一向は通りを真直に進み、衛府に向かった。
エヴニルの頂上で迎えようと考えたが、階段を登るのも辛かろうということで、急遽正面の衛府を空けて、そこで迎えることとなった。
衛府には首領以下全ての議員と八葉が列席し、初めての来訪者を迎えた。
二千年前に初めてエルオールに迎えられた一族が、時を経てこの地に迎えられることには何か運命的なものを感じずにはいられなかった。
通りの両側に、エリシアムの住人が多数立ち、セリムの来訪を歓迎した。
衛府の正面の扉は木製の大きな扉で、今は開け放たれていた。
社殿の前には数段の階段があり、そこで履き物を脱いで、中へと進んだ。
大きな広間の左右に人々が座り、セリムに頭を下げた。
奥に一人女が座り、その隣に亜麻色の髪の男女が座っていた。
セリムはそれを見て、安堵した。
衛兵は奥へと促したが、セリムは広間に入るとそこで腰を下ろし、胸に抱えたものを床に置くと、荷を解いた。
頭を下げていたもの達は不思議がって皆セリムの行いを見守った。
箱を開けると光が漏れ、セリムは中から器を取り出した。
辺り一面を、幾つもの光の花弁が照らした。
セリムは器を床に置くと、箱を脇へやり、器を両手で抱えて立ち上がった。
そしてゆっくりと、首領の前に進み出た。
するとこれまで器の中に納まっていた光が、器をすり抜けて出てきたのだ。
これにはセリムも驚き、立ち止まった。
何が起こっているのか分からない様子だった。
ここにいる者全てが、光の玉の全容を見た。
それは細かい光の粒が集まってできていた。
その粒はゆっくりと規則正しく動いていた。
よく見るとそれは完全に対称な林檎の実のような形で、周囲を螺旋を描きながら無数の光の粒が回っているのだ。
そしてその中心から上下に放射された光は、また林檎の実外側に戻って行って、規則的にまた螺旋を描くのだ。
ふと、上側に放射された光の粒が揺らぎ、螺旋に戻らずに、真直に伸びて行った。
真直に見えたが、それも螺旋を描いていた。
その先端が、アゼルの胸に到達した時、夥しい炎が光の螺旋を逆流して、光の玉の方へ流れ出した。
アゼルの炎は光の粒子と同化しながら、規則正しく螺旋を描いた。
それはまるで小さな太陽のようだった。
そして下側に放射される炎は今度は螺旋を描きながらオリガの胸に到達した。
その時、皆の頭に言葉が届いた。
『我らの子等に祝福を』
その言葉は広く伝わった。
その時炎の玉は少しずつ小さくなり、二人の中に吸い込まれて行った。
アゼルの周囲を、光の粒が螺旋を描いて回っていた。
オリガの周りでも同じことが起こっていた。
そしてそれぞれの中央から放射された光は、アゼルとオリガとを繋いでいた。
「混沌に秩序を齎す……、これが……、このことか…」
セリムは目の前で起こっていることを必死に理解しようとしていた。
ここに列席した者達も、何が起きているのかわからないでいた。
頭に届いた意思が善意に溢れていたから、ことの成り行きをただ見守っていた。
それにしても美しく神秘的な出来事が、目の前で起きていた。
二人を包む螺旋の光はやがて収まって行った。
そして光が消えた時、少年と少女は互いに向き合って手を取り、涙を流して微笑んでいた。
亜麻色だった髪は、闇夜のごとく深い黒に染まっていた。
「奇跡だ…」
列席者の誰かがそう呟いた。
皆が頷いた。
興奮状態だった。
拍手と大きな声が上がった。
先ほどの念を受け取り、衛府の怒号を聞いて街の人々が何事かと集まってきた。
「皆さまお鎮まり下さい。皆が何事かと集まってきております」
イリアだった。
「二人に異常は…、ないようだから、セリム殿をまずは歓迎しよう。皆には後程説明しよう」
カルネは姉弟の黒髪に目をやりながら言った。
「セリム殿、ようこそおいで下さいました」
広間の中央で呆然と立っていたので、カルネはセリムの方へ歩み寄って、彼の手を取った。
「老い先のない者にこのような奇跡を、何と勿体無いことでしょう」
セリムは泣いていた。
「我々は炎帝が焔を授けてくれた日の言葉を今も伝えて参りました」
皆セリムの言葉を聞いていた。
「『いつかこの焔を必要とするものが現れたら、渡して欲しい。この焔は混沌に秩序をもたらす』。炎帝はそのように仰せになったと伝え聞いております。その言葉は真実であったと、確信いたしました。そしてその役目を果たすことができましたことを、心から嬉しく思います」
千五百年前の約束を果たし、万感の思いからか、セリムは声を上げて泣いた。
ここに集うものは皆、セリムに向かって深く頭を下げた。
カルネはセリムを支えながら、その場に座らせると、袖から手巾を出して、セリムの涙を拭って肩を抱いた。
アゼルとオリガも歩み寄り、セリムの手を取った。
皆、笑顔だった。
オリガの黒く長い髪が風に揺られて踊っていた。
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