帰郷
翌朝、いつも通りエレノアとアシェルは稽古にのために鐘がなる前に家を出ると、オリビアも行くと言ってついてきた。
オリビアは見慣れない武器を肩に担いでいた。
その日は成り行きでアシェルとオリビアが立ち会うことになったが、なんとアシェルが負けたのだ。
エレノアが看破した通り、オリビアはアシェルに勝るとも劣らない身体能力を持っていた。
肉を落としてやや軽く作られた長巻をうまく使いこなして、アシェルを間合いに入れることなく負かしてしまった。
その時足を捻挫し、オリビアに肩をかりながら家に戻った。
オリビアは申し訳なさそうな顔で謝っていたが、アシェルは気する様子もなく、ひたすらどうしたら良かったのか考えているようだった。
やがて二人で戦術議論を始める有様で、打ち解けられたことにエレノアは喜び、笑顔で見守った。
しかしながら、試合を控えていたから、怪我のまま出場させるわけにもゆかず、エレノアは大会の運営に欠場を伝えた。
かえって良かったのかもしれないと思った。
エレノアは二人にある提案をした。
「故郷を見てみたい?」
「見たい」
アシェルは即答した。
オリビアはせっかく出られたのにまた戻ることに少々難色を示したが、アシェルも一緒なら良いと納得した。
それで、ギムリスに店を任せて、エレノアは二人に付き添うことにしたのだった。
プルトは一足先に麓の小屋に戻り、社に報告を入れた。
暫く連絡が来なかったが、『了解』とだけ帰ってきた。
プルトは連絡を受けると東風に戻り、エレノアに伝えた。
暫く街を空けることになるが、学院のこともあったため、密かに街を出ることにした。
それに打ってつけの手段があった。
地下道である。
この空間が存在することはネイル・サラザードも知っていたが、まさか自宅の真下にあるとは知らなかったらしい。
これを繋げたのはギムリスと、当時の仲間だった。
幾日も地下を掘り返しながら、土は庭の土にしてしまって、階段を作りながらついに開通させた。
このことに気づいていることは、絶対に悟られてはいけないと考え、秘匿してきた。
地下道は真ん中に深く広い窪みがあり、その両側に通路のような場所が造られていた。
床も壁も天井も、石で覆われていて、壁は平らではなく、天井に向かって緩やかに窄んでいた。
地下道は全体的にやや傾斜しており、川に向かって水が流れるようになっていた。
時折横穴が空いていて、そこは石では覆われていなかった。
ギムリスが繋いだのはその横穴の一つである。
かび臭い地下道を進むと、僅かに風が流れているのを感じた。
塞いだ壁が一部崩落して外の空気が流れているのだ。
その崩れた穴から出ると、目の前はティルナ河の堤の内側だった。
一同は東にあるプルトの山小屋を目指した。
プルト・バストークは本名をプロイグと言った。
彼ははアゼル達を社へ送り出すことに加え、もう一つの任務を受けていた。
セリム・メルクオールの社への訪問についてである。
この件には、社のもの達も頭を悩ませた。
永年捜索してきた焔の存在を確認できたのは幸いだったが、預言者とは言え外部の者を受け入れたことは前例がなかったのだ。
アゼルら一行は夜半過ぎにプロイグの山小屋に到着し、休息を取った。
プロイグはその最中にヘルクスと念話を行なっており、暖炉の前に座り込んで難しい顔をしていた。
山小屋は、大勢がゆっくり体を休められるほど広くはなく、布に包まって床で休むほかなかった。
イリアは顔に似合わず神経が太いのか、さっさと休んで寝息を立てていた。
ピリスとハイネは長時間歩き続けるのに慣れていないのか、疲労困憊しており、プロイグのベッドを借りて二人で眠った。
エルマとオリガは二人掛けのソファに重なるようにして休んでいた。
アゼルは彼らの様子を面白そうに見ていた。
エレノア・サラザードことエルマは、アゼルの母カルネの妹であり、アゼルにとっては叔母にあたる。
山小屋に向かう道中にアゼルはエルマに様々なことを聞いた。
これから向かう場所についてだ。
そこでは全ての者に役割があり、その役割は多岐にわたるが、それそれが同等の価値を持って扱われていた。
不要な役割は存在しないからである。
あなたは良い職人として迎えられるわよ、とは母言った。
オリガは何をやってるのか聞いたところ、寂しそうな顔をしていた。
彼女は役目を得られないのだ。
社の者たちは過去の経験や技術なども念話を用いて継承してきたため、オリガに教えるのが難しかったのだ。
だから彼女は、そこに生きる者達を観察し、記録をつけることにしたという。
なぜかと問うと、そこには文字による記録は一切ないからだという。
全ては伝承されるため、文字による記録が必要なかったのである。
自分のような者がこの先にも生まれたら、その者に伝えられるようにするのだという。
アゼルには早速役に立ちそうで、見せて欲しいと言うと、少し照れながら姉は頷いた。
アゼルは自分の生まれた場所がどんな所なのか、楽しみであり、不安でもあった。
それで眠れずにいた。
念話が終わったのか、プロイグがアゼルにクッションを投げて寄越した。
天日で干した麦わらを麻布で包んだ即席のものだった。
日向の匂いがした。
「寝付けないか?」
アゼルは頷いた。
「不安か?」
「それもあるけど、何だかドキドキしてる」
「物心ついた頃にはシエラに居たから、実際見るのは初めてだからな。無理もない」
「自分の両親がどんな人なのかなって」
プロイグは瓶の葡萄酒を少しだけ杯に入れてアゼルに渡した。
「心配ない。今はゆっくり休むことだ」
アゼルは少し口を付けた。
プロイグは眉を寄せて舌を出すアゼルを見て、笑った。
「まだ早かったか?」
そう言って杯を受け取ると、口に流し込んだ瞬間、暖炉に向かって吹き出した。
「くそっ、酢になってやがる」
そういうと、瓶を掴んで中身を表に捨てた。
口直しとばかりにウェスケベスを注ぐと、一つには水を足してやって、アゼルに渡した。
「悪かった、まさか傷んでるとは思わなくてな」
アゼルはゆっくりと口に含んだ。
舌がヒリヒリした。
「良い人たちだ。心配しなくて良い。俺たちもいるんだからな」
眠たそうな目でアゼルは頷いた。
そして、杯が手からこぼれると、クッションに埋もれて眠っていた。
プロイグは杯を拾うと、部屋を見渡した。
「俺の寝る場所がないじゃないか…」
まだ陽が昇らない時間にプロイグは目を覚ました。
暖炉の脇の壁にもたれて眠ったのだが、暖炉の火が弱々しく、寒くて目が覚めた。
プロイグは他の者たちを起こすと、井戸で水を汲み、顔を洗って口を濯いだ。
桶に水を汲んで、布と一緒に渡した。
「少し早いが出掛けよう。この先は山道になる」
一同は顔を拭い、眠気を飛ばすと、山小屋を後にした。
プロイグは鞄に干し肉や硬く焼き締めたパンを布に包んで放り込んだ。
山小屋から少し南東に下ると、ティルナ河の中流域に出る。
ティルナ河中流域は幾つもの支流が合流して形成されている。
アトリア山脈の雪解け水は山の麓に幾つもの滝を造り、その膨大な量の水が合流して海へと続くのだ。
アトリア山脈を形成する幾多の山は標高が高く、この山を越えたものはこれまでにもいなかったし、これからも恐らくいないだろう。
旧王家の者たちは、最も大きな滝の裏に洞窟があるのを知っていた。
滝の裾にも大きな洞があったが、そのさらに上の高いところに、突き出した大きな岩があった。
その裏にあるのだが、この時期には厚い氷で閉ざされてしまう。
春になれば溶けるのだが、滝の水量が増して、洞窟に流れる水が足を掬うため、とても使えたものではない。
プロイグたちが目指すのはその滝だった。
中流域に着いた頃に陽が昇り始め、足下をうっすらと照らしてくれた。
河に沿って傾斜を登ると、辺りは太く大きな木が立ち並ぶ森に入っていた。
この辺りの木々は伐採を免れていた。
足元が悪くて作業しにくいという点もあったが、一番の理由は洪水である。
この森が地盤を安定させているのだ。
そしてその肥えた土が畑の用水路によって引き込まれて、穀物や野菜を育てる。
さらに海に流れ込むと、魚が豊富な漁場を育てるのだ。
ヒトがエルオールから学んだ知恵は、今でもまだ生きていた。
だから手をつけず、原生林のままの状態を保っている。
ここでは多くの生き物が自然のままに生息していた。
肉食の獰猛な生き物もいたから、容易に足を踏み込めない領域でもある。
木々には苔や寄生植物が取り巻いている。
様々な種類の植物が重なり合っていたが、周りの大木が陽の光を遮るので、小さな植物が多かった。
足元には太い木の根が露出していて滑るので、脱落者が出ないようにゆっくりと進んだ。
ふと、プロイグが止まるように言って、先頭に進んだ。
何かの気配を感じたようだ。
辺りには姿が見えなかった。
プロイグは背中に担いだ弓を手に取ると、弦を弾いた。
幾度か繰り返すと、左の茂みから大きく黒い生き物が飛び出した。
黒豹だ。
プロイグに向かって掛けて行き飛びかかった。
皆一斉に武器を構えた。
「待て待て! 大丈夫だから!」
プロイグは押し倒されて黒豹に馬乗りにされながら皆を止めた。
プロイグは黒く艶のある美しい毛並みを撫で、腹を軽く叩いた。
「元気そうだな。随分大きくなった」
黒豹に顔を舐められながらそう言った。
「大丈夫なの?」
アゼルが近寄ろうとしたのでプロイグは手で制して寄らないように言った。
「余り寄らない方が良い。俺には懐いたが、他はわからん」
昔狩をしていた時に、親から逸れたのか、黒豹の子を助けたらしい。
腹を空かせていて衰弱していたのを見かねて連れ帰ったところ、懐いてしまって、暫く共に暮らした。
次第に大きくなって行くので、プロイグは共に狩に出掛けて、獲物の取り方を教えた。
やがて自分で狩を覚えると、ある日プロイグが出かけた頃に森に帰っていたそうだ。
黒豹はプロイグの横について歩いていた。
黒豹の尾が楽しげに揺れていた。
暫く歩くと大量の水が落ちる音が聞こえてきて、進むにつれて音は大きくなっていった。
滝があるのだ。
滝に削られてできた湖は大きく、溢れ出た水が川となって幾筋も流れていた。
遥か上空を見上げると、切り立った崖は高く、真ん中に大きく突き出た岩が見えた。
かなりの高さがあった。
そこまで登らなくてはならない。
水場には多くの動物が集まってくる。
対岸に鹿の親子が見えた。
黒豹を見て警戒しているのだろう、親は微動だにしないでこちらを見ていた。
プロイグは滝の横の斜面を登り始めた。
その横を黒豹はいとも簡単に登ってゆく。
アゼルたちはプロイグの後を追った。
こちら側はまだ傾斜が緩やかで、登りやすくなっていた。
中腹あたりに来ると、ちょうど人一人が歩ける程度の通路があり、それは滝の裏に続いていた。
プロイグを先頭に進むと、ちょうど張り出した岩の辺りに開けた場所があった。
水に濡れていて滑りやすく、ゆっくりと進むと、穴が見えた。
まだ塞がっておらず、隙間から通過できそうだった。
アゼル達は先に洞窟に入った。
プロイグは黒豹を撫でてやると、首をポンと叩き、別れを告げた。
洞窟の中は冷えた。
水飛沫に濡れた服が体温を奪う。
プロイグは洞窟に入って少し進むと、鞄に詰めた薪を取り出して火を起こした。
火を囲んで皆体を温めた。
プロイグは鞄から干し肉とパンを取り出すと、皆に分けた。
疲れと寒さで、皆口数が少なかった。
「この洞窟を超えたら着くの?」
「あぁ、社のある盆地に出る。そこから少し下ると見えてくるだろう」
アゼルの問いにプロイグが答えた。
「ここは掘って作られたの?」
「いや、天然の洞窟だ。おそらく長い時間をかけて水が削ったんだろう。夏場は使えなくなる」
「これじゃ誰も来られないね。黒豹もいるし」
「そうだな」
プロイグは笑った。
「もう一つ別のルートもある」
プロイグは干し肉を齧りながら言った。
「グリシャの東の鉱山の更に奥に、同じような原生林がある。そこを入って大きく遠回りするルートもあるが、そっちは黒豹どころじゃない、もっと恐ろしいものがいるから、誰も通らないんだよ」
「何がいるの?」
オリガが尋ねた。
プロイグは少し答えを迷ったが、ありのままを教えた。
「竜が住んでる」
「竜がいるの?」
アゼルは興奮気味に言った。
「ああ、あの森の奥にエルオールが住む街があった。今はそこに竜が住んでいる。知るものはいないが、誰一人近づかない場所だ」
「竜は街を守っているの?」
「そうだ」
プロイグは頷いて答えた。
「竜っているんだね。物語だと思ってた」
オリガとアゼルが顔を見合わせて笑っていた。
薪の火が弱くなってきた。
ピリスやハイネは血色が冴えなかったが、徐々に回復しているようだった。
ふと、洞窟の奥に灯りが見えた。
反対側から向かってきた者たちだ。
プロイグは立ち上がると、彼等を出迎えた。
プロイグが念話で伝えていたようだ。
「あなたがアゼル様ですか?」
アゼル様と呼ばれるのに驚きながらも、頷いて応えた。
「お会いできて光栄です。オリガ様もご無事で何よりです」
エルマは二人の肩を抱き、さぁ行くよ、と声を掛けた。
迎えの者たちの松明が洞窟を照らした。
皆の影が長く伸びて洞窟の壁に不思議な模様を描きながら賑やかに動いていた。
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