船出

 ブレアスはティルナビスから馬車に乗り、シエラの南門で降りると、ボルサの工房に顔を出した。

「おぅ、何だもう来たのか?」

 ブレアスは巾着から金貨を3枚取り出すと、ボルサに渡した。

「確かに。そういえばさっきアシェルが来たぜ。あんたが剣を買っていったと伝えたら喜んでたよ」

「怪我で欠場と聞いたが、大丈夫なのか?」

「あぁ、大丈夫らしい。街を出て療養するとかで、エレノアと馬車で出かけたよ。随分大所帯で賑やかそうだったがね」

 無事なら良い。

 街を離れるのは良いかも知れん。

 或いは怪我もその口実かも知れんな、とブレアスは思った。

「じゃ店にエレノアは居ないのか?」

「居ないだろうな。何か親父さんが帰って来てるらしいから、店は任せてあるそうだ」

「なるほど…」

 バサナートに短剣を渡した男だろう。

「では、槍はもらっていくぞ」

「おう、刃こぼれでもあれば持って来な。研いでやるよ」

 ブレアスは片手を振って応えると、街に向かった。

 胴当てを受け取りに行くのだ。

 ブレアスの胴当ては分割型になっていた。

 肋から上を覆う部分と、腹から大腿部までを覆う部分で構成されていた。

 今回は左の脇腹にできた穴を直している。

 解いて裏側から補強するのだ。

 店に顔を出すと、店主が奥の工房から顔を出した。

「できてるか?」

「ちょっと待ってな」

 そういうと店主は奥からブレアスの鎧を持って来た。

「幾らだ?」

「500でいい」

「いつもありがとうよ」

 ブレアスは金を渡し、鎧を受け取って店を出ると、自宅へ向かった。

 荷物で手一杯だった。

 道ゆく者がブレアスを見る。

 何しろ真っ昼間の大通りで、6尺もの槍を片手に、もう一方は鎧を抱えているのだ。

 道草の店先で主人が掃除をしていて、ブレアスを見つけて手を止めた。

「何だ、戦か?」

「いや、少し旅に出る」

「どれくらいだ」

「分からん」

「じゃ家賃置いていけ」

「預けた金があったろ」

「97枚だな、確か」

「50枚持っていく。家賃は残りから引いておいてくれ。後で受け取りに行く」

「分かった。用意しとく」

 金貨1枚は1万グレインだ。

 銀貨なら10枚で、さらに銀貨には半分のものと4分の一のものがある。

 ブレアスは家主に金を預けていた。

 仕事で部屋を空けることが多いため、あらかじめある程度渡しているのだが、ブレアスは稼ぎの大部分を店主に預けていた。

 補償金の意味もあるが、殆どが投資である。

 ここの店主は酒の卸売などもやっていて、その商売に資金提供をしていた。

 彼も元傭兵で、たまに言えないような仕事も受けていたから、何処に行くのかなどとは聞かない。

 ブレアスにとっては、理解のある家主で助かっていた。

 部屋に戻ると、荷物を下ろして準備に取り掛かった。

 大きな袋に着衣の替えを入れ、干し肉や焼き締めたパンなどを入れた。

 海に出るので、皮袋をいくつか入れて、一つには井戸で水を入れた。

 もう一つには道草でウィスケベスを入れた。

 昨日買った服を脱ぎ、畳んでベッドに置くと、戦用の厚手のものを取り出した。

 ブレーも袖なしのチュニックも藍色を選んだ。

 靴を履き、脛当てを付けた。

 腹当を巻き、胸当ての背側に右の肩当てをベルトで取り付けて、胸当てを付けた。

 右の肩当ての前側のベルトを締めて、籠手を付けた。

 草摺の上からヘルガがくれた帯を巻いて留めた。

 剣の差表には栗形という紐を通す穴がついている。ブレアスは組紐を通し、刀を帯に刺すと、後ろに出た鞘に組紐をかけ、八の字に回して剣を固定した。

 そして矛を手に取ると、柄を外し、穂を布で包んだ。

 上着と外套を羽織り、槍と包と袋を持って部屋を出た。

 店のカウンターには店主のグリム・ホーンドがカウンターで待っていた。

「お前が剣を握るとはね。使えるとは知らなかったよ」

 ブレアスは包をカウンターに置いた。

「これを預かってくれるか?」

 グリムは包を持ち上げるた。

「何だ、矛も置いていくのか?」

「あぁ。新調したんでね。師匠の矛は暫く休ませる」

 グリムは丁寧に抱えると、地下に運んで仕舞った。

 再びカウンターに戻って来た時、右手に皮の巾着を持っていた。

「50枚だ。確認しろ」

 ブレアスは中から金貨を取り出して並べた。

「確かに受け取った。上等なウィスケベスがあったら大きい徳利で貰えるか?」

「酒まで持っていくのか? 嵩張るだけだぞ」

「いや、ただの礼だ。傷に効く薬を貰ったんでな」

 グリムは瓶から徳利に酒を移すと、栓をして、徳利を縄で縛ってやった。

「気をつけてな。帰ってこいよ」

「ありがとう。じゃぁ行ってくる」

 そう言ってブレアスは店を出た。

 北門の前を通ると、ゴルが立っているのが見えた。

 人と話しているようだったので、声は掛けず、城壁沿いに東門に向かった。

 東風へ行くのだ。

 7時の鐘が鳴っていた。

 大会の最中でもあり、人通りは多い。

 大会が終わると収穫祭、冬至の祭りがあり、年の暮れに向かう。

 忙しい時期である。

 東風の酒場の前には、使用人が店を開ける支度をしていた。

 ブレアスは使用人に声を掛けた。

「忙しいところすまないが、タレイアさんはいるかい? 薬の礼に来た」

 ブレアスはわざわざ大きな声で伝えた。

 使用人は待つように言うと、店の中に消えた。

 暫くすると戻ってきて、中に入るように促した。

 ブレアスが中に入ると、カウンターにタレイアがいた。

「そんなに目立つ格好で来るとは、予想外でした」

「傷の手当ての礼だ」

 そう言うと、カウンターに徳利を置いた。

「頂きます」

「例の件で暫く街をあける。戻ったら連絡する」

「わかりました。お気をつけて」

「ありがとう」

 事務的な連絡だった。

 店を出ると、使用人の女が少々大袈裟に礼を伝えた。

 ブレアスは東門から街を出ると、坂を降り、開けた場所に向かった。

 タレイアとアシェルが稽古をしていた辺りだ。

 袋を置いて、少し槍を振るってみた。

 右手で使うので、左足前になる。

 相手も槍を持っているときは右足前に変える。

 突きを繰り出し、薙いだ。

 いつもの矛よりやや軽い。

 扱いやすそうだった。

 概ね矛と同じように扱えそうな感触を得た。

 ついでに槍を置いて剣を抜いた。

 柄は両手で持っても余る程度の長さがある。

 久しく剣は握っていない。

 第一刀は八相から大きく踏み込んでの斬りだ。

 矛でも好んで使う。

 左足前にやや右足に重心を置く。

 そこから右足を出しながら袈裟斬りに振り下ろす。

 そして右を踏みながら左で敵の攻撃を受け、左足を前に出しながら顳顬辺りを狙って斬る。

 これを幾度も繰り返した。

 受ける時も斬る時も足を踏む。

 重要なのは、間合いと拍子だと祖父に教わった。

 斬撃を受けるなら、切先の方で受ける。

 その方が衝撃をいなしやすい。

 祖父から教わったのは長物と剣、そして弓だった。

 弓は久しく使っていないが、昔はよく狩りに行った。

 狙うのは鹿や猪だ。

 決まって雄を仕留めた。

 若い雌や子供は狙わない。

 数が減ってしまって、獣も人も不幸になるからだ。

 人も同じ。

 女と子供は守ってやれと教わった。

 だから、子供を攫って売るという行為を目にした時、衝動を抑えられるか不安だった。

 祖父に教わった型を一通りやると、剣を納めた。

 剣は10年使っていない。

 勘を取り戻すのに暫くかかりそうだと思い、自嘲した。

 日が傾いてきた。

 ブレアスは船着場に急いだ。


 ティルナビスに着くと、ブレアスは街には入らずに南に下った。

 旧市街も通り過ぎて暫く行くと、上り坂になっていて、その先は林だった。

 その林も抜けると崖になっている。

 崖の先に立って見下ろすと、足下に階段がある。

 岩を削って造られたもので、ブレアスはそこを下った。

 崖を回り込むように造られていて、吹きさらしになっているので、踏み外すと海に転落する。

 暫く下ると、洞窟が見えた。

 鉄の扉に阻まれている。

 ブレアスは扉を叩くと、覗き窓が開いて、中から男が覗いていた。

 ヘルガから預かった手形を見せると、扉が開けられた。

 暗い洞窟をゆっくり下った。

 暫く行くと灯が見えて、空間が開けていた。

 洞窟の奥が船着場になっていた。

 先ほどのスクーナーが停泊していて、男たちが荷を積み込んでいた。

 麻の袋に詰められた穀物だろう。

 ヘルガは船の甲板から作業を見ていた。

「来たか」

 ブレアスは頷いた。

「随分と着込んで来たな。戦争でも始める気か?」

「念のためだ」

「まぁいい。部屋をひとつ貸してやる。こんなことだろうと思ったよ。部屋に服が置いてある。着替えてこい」

 隣にいた女にブレアスを案内するように指示した。

 小さな部屋だった。

 槍は壁に沿って斜めに立て掛けるのがやっとだ。

 中綿の詰まった長いクッションと、その上に服が畳んで置かれていた。

 ヘルガが着ているのと同じような服だが、極めて黒い赤だった。

 ブレアスは荷物をおろすと甲冑を脱いで部屋の隅に置いた。

「手伝います」

 女が服を脱げと促した。

自分で着ようと服に手を伸ばすと、なんとも単純な作りのもので、前開きになっていて、左右で合わせるのだが、留め紐などは一切付いていなかった。

 着方が分からないため任せるしかなかった。

 襟周りが黒い布で、それ以外は生成りのものを手渡され、袖を通した。

 前はだらしなく開いたままだ。

 次に黒い着物を手渡され、同じように袖を通した。

 袖は袋のようになっていたが、ヘルガのものほど長くはなかった。

 女は肌着を右前で交差させると、器用に押さえながらその上のものも同じように交差させ、右腰で抑えろと言った。

 丈は膝程度のものだ。

 女は帯を手に取ると、巻き始めた。

 絞りながら巻き、背中で結んだ。

 腰骨から背骨の辺りがしっかりと固定され、背筋が伸びたような気がする。

 次に袴を取ると、履くように言われた。

 帯の上に紐を添わせ、後ろに回して、一度前で交差させると、帯の結び目の下で結んだ。

 そして今度は背当てを帯びの結び目の上に当てて、紐を前に回すと、前側の紐に潜らせて結び、余った紐は横に伸ばして紐の下に押し込んで留めた。

 袴はゆったりとしたもので、襞はなかった。

 羽織を渡されたので羽織った。

 靴を履き、袴の裾を靴の中に入れた。

 剣を帯に差すと、ちょうど袴の横の逆三角形に開いたところから鐺が出てくる。

 組紐を巻いて固定した。

 腰の締め付けが気になったが、ベルトと思えば気にならず、むしろ腰の支えができて楽だった。

 女がついてくるように言った。

 甲板では出航準備が整ったのか、もやいを解いて錨を上げていた。

「様になってるじゃないか。ウチの制服みたいなもんだ」

「こんな服は初めてだ」

「だろうね。今は誰も着なくなった。昔の服だよ」

 昔の服というとキトンなど、布を巻き付けたり、前後で縫い合わせたりするものがあった。

 この服はもう少し機能的だが作りは非常に簡単で動きやすく、保温性も高いようだった。

 この港は崖の下にあった天然の空洞を使ったものだった。

 船が1隻抜けられるほどの穴が空いており、風も抜けるようだ。

 船は縦帆だけで、ゆっくりと進み始めた。

 所々浅い場所があるのか、蛇行しながら穴を通過し、崖から出た。

 崖から離れると横帆を降ろして、風を受けて進んだ。

西の空はもう赤く染まっていた。


 ブレアスは船尾の縁にもたれて座っていた。

 皮袋を片手に沈みゆく太陽を見ていた。

 船は波を乗り越えるように進み、大きく揺れた。

 東の空には星が輝き始めていた。

 そこにヘルガがやってきて、腰を下ろした。

「船酔いはないようだが、酒は控えた方が良いな。船を汚されてはかなわん」

「そうしよう」

 ブレアスは皮袋に栓をして、革紐で縛ると脇に置いた。

「あんたは何でエレノアに肩入れするんだ?」

 突然の質問にブレアスは驚き、返す言葉に詰まった。

 暫く考えていた。

「惚れたのか?」

「そうかも知れん」

 ブレアスはセドナの街で偶然エレノアに出くわした時のことを思い出していた。

 宿に入った時に一人の女と目があった。

 地味な色のキトンが、女のふくよかな胸や腰、そして踝に至る緩やかな曲線を描き出していた。

 丁寧に編み込んだ髪をほっそりとした首元に垂らし、締まった顔立ちにほっそりとした鼻筋、そして一際大きな目が、ブレアスを見ていた。

 ブレアスは女の姿に目を奪われた。

 ふとその顔に見覚えがあることに気づいた。

 何処だろう。

 そんなに前ではない。

 ごく最近だ。

 その時、思い出した。

 馬上で兜もつけず、見慣れぬ藍色の鎧を纏い、見慣れない細い刀を持ち、巧みな馬術で翻弄したあの女だった。

 そう気づいた時、彼は咄嗟に声を掛けて女を呼び止めた。

 女も気づいたのか、既に身構えて、あの時の戦場の目をしていた。

 ふくよかで柔らかな曲線は、しなやかに躍動するものに変貌していた。

「そうかも知れないな」

 ブレアスは笑っていた。

 照れていたのかもしれない。

「それなら合点がいく」

 ヘルガの目は笑っていた。

「どういうことだ」

「負かされた相手に肩入れする理由だよ。食い扶持紹介して貰った程度で体張らないだろう?」

 ブレアスははにかみ、何も答えなかった。

「まぁ良いよ。これであんたのことが少しわかったよ」

 ヘルガは何がおかしいのか、ずっと笑っていた。

 ブレアスが眉を顰めて妙な顔をしているのに気付くと、笑うのをやめて、言った。

「嘘くさい奴だと思ってたんだよ。まぁそういうことなら信用できるな。で? その女に挨拶はしてきたのか?」

「タレイアという女に連絡だけした。エレノアはアシェルの療養で出かけているらしい。今はギムリスが店を見ているそうだ」

「何だって? 戻ってるのか、あの男。よし、あんまり風に当たるんじゃないよ。体を冷やす」

 そう言って彼女は立ち上がると、操舵手に何やら話をしに行った。

 操舵手は別の者に交代すると、船室に入って行った。

 ヘルガも船室に向かい、暫くすると戻ってきた。

 操舵手の男も戻ってきた。

 左腕には鳥が一羽留まっていた。

 大きな鳥だ。

 灰色の翼で腹は白く、縞の模様が見える。

 頭には目隠しが掛けられていた。

 隼だろう。

 ヘルガは隼の脚についた小さな筒に巻いた紙を差し込んでいた。

 操舵手は隼の目隠しを外すと、夕暮れの空に向かって隼を投げた。

 隼は羽ばたきながら上昇し、気流に乗って滑空しながらシエラの方へ飛んでいった。


 母家の玄関の手前に、まだ若い楓の木があった。

 葉は赤く染まり、今が見頃である。

 その太い枝に、一羽の隼が留まっていた。

 世話に慣れた使用人はエガケを付けると、カチカチと餌の合図を送った。

 すると隼はエガケにスッと飛び乗り、ひと鳴きした。

 使用人はウズラの胸肉を切ったものを与えると、隼は夢中になって食べた。

 使用人は餌に夢中になった隙に手早く手紙を取り出すと懐に入れ、もう一度肉を与えた

 そして軒下の留まり木に移してやると、目隠しをかけてやった。

 使用人は母家に入ると、セリムの部屋の前で声を掛けた。

「旦那様、鳥が来ておりました」

 中から入るようにと声がした。

 襖を開けて中に入り、懐から紙を取り出すと、セリムに渡した。

 セリムがありがとうと言うと、使用人は部屋を出た。

 紙は薄く封蝋が付けられていて、そこには3つの半円から成る三角形の紋が付けられていた。

 サラザードのものだ。

 ブレアスが会いにいったのだろうか。

 セリムは巻かれた紙を広げて目を通した。

 するともう一度使用人を呼び、エリンを呼ぶように伝えた。

 程なくしてエリンがやってきて、何事か問うた。

「東風(はるかぜ)はわかるな?」

 宿屋の東風だろうと思い、頷いて応えた。

「明日そこへ行って、ギムリスさんに会って、当家に来てもらえないか話してくれないか? 時間は10時頃、日程はこちらが合わせると伝えてほしい。要件は見て欲しいものがあると伝えなさい」

 分かりましたと言うとエリンは退出した。

 セリムは部屋を出ると座敷に行き、壁の棚板の隅にある四角く長細い漆の箱を手に取った。

 この箱の表面には縦横の切れ込みが入っていて、特定の手順で表面の板を動かさなければ開かない仕組みになっていた。

 全面に漆が塗られており、金象嵌で6枚の花弁の図象が規則正しく並んで描かれていた。

 セリムはそれを自室に持って行き、手順通りに板をずらしてゆき、蓋を開けた。

 中から光が漏れてきた。

 それを確認すると、蓋を閉じて逆の手順で元に戻した。

 箱を宅に置くと、セリムは茶を飲み、ゆっくりと長く息を吐いた。

 約束を果たす時が来たのかも知れない。

 セリムはそう思い、箱を見つめた。


 翌日の朝早く、まだ人気のない時間に、エリンは家を出た。

 まだ夜が明けておらず、霧が出ていた。

 月の明かりだけが頼りなく街を照らしていた。

 エリンはいつものように音を立てぬように歩いた。

 監視を気にしながら、幾度も角を曲がり、東風の裏門に着いた。

 どうやって呼び出そうかと思案した。

 馬に気配を気づかれたようだ。

 こちらを気にしているらしく、息を荒くして馬房を歩いている。

 もう一頭も気づいたらしい。

 暫くすると、奥で小さな音がした。

 ゆっくりと歩いてくる。

 突然音が早くなった。

 走っている。

 パシッと何かを叩く音と共に、六尺はありそうな壁を越えて、通りに人が落ちてきた。

 月の明かりが薄らと裾の長い服の輪郭を映した。

 女だ。

 黒く長い髪が見えた。

 既に相手は武器を持ち、構えていた。

 槍のようだ。

「何者か?」

 小さな声が聞こえた。

「敵ではない」

 エリンは腕を広げ、武器を持たないことを示し、声の主に近づいた。

「私はエリンと言います」

「後ろを向いて壁に手を付け」

 エリンは言われるままにした。

 女の細い指がエリンの体を這うようにあらためた。

 女は耳元で囁いた。

「メルクオールか?」

 エリンは頷いて応えた。

 すると女はエリンの肩を踏み台にして壁を超えた。

 すると扉の鍵が外れる音がして、ゆっくりと扉が開いた。

 手が入れと告げている。

 エリンは女の後に続いた。

 女は扉の鍵をかけると、馬屋の方に歩いて行った。

 馬房の端に藁が積み上げられていて、そこを回り込むと下に続く階段があった。

 暗くて足元が見えないため、ゆっくりと降りた。

 女は躊躇なく進んでいく。

 降りきると広間に出た。

 女の足音を追った。

 バサッと布を捲る音がした。

 エリンは布の端を探しながら手探りで進もうとした時、辺りに薄らと光が差した。

 布をかき分けると、奥に丸いテーブルがあった。

「ここにかけて少しお待ちください」

 エリンは言われた通り椅子に腰掛けた。

 女は黒く長い髪を下ろしていた。

 腰まであろうかという長さだ。

 踝まである長袖の白いチュニックに臙脂色のキトンを重ねていた。

 大きな目が印象的な美しい人だった。

 槍を持つ姿が様になっていて、見た目の美しさとの落差があまりに大きかった。

「ギムリスさんにお会いできませんか?」

 女は頷いて応えた。

 槍の石突でカーテンを避けて、出ていった。

 後ろ姿でわかった。

 この女は華奢なのではなく、無駄な肉が少ないのだ。

 発達した大臀筋から、彼女の脚力は十分理解できた。

 暫くすると女がギムリスを連れてきた。

「タレイアありがとう。もう良いからあなたは休んでください」

 タレイアは軽く頭を下げると、カーテンの奥に消えた。

 彼女がタレイアか。

 エリンも噂には聞いていた。

 男勝りなとびきり美人の話を幾度も耳にしていた。

「ギムリス・サラザードです」

 男がエリンの傍に掛けて言った。

「エリン・メルクオールです」

「このような時間にお越しになるとは、どのようなご用件でしょう? できれば、メルクオール家を示すものなどあれば、お見せいただけるとありがたいのですが」

 エリンは首に掛けた小さな銀の板を外して、テーブルの上に置いた。

 6枚の花弁の印だった。

 ギムリスは頷いて応えた。

 エリンは一呼吸置いて話し始めた。

「あなたに見ていただきたいものがあります。いつでも構いません、10時ごろに当家にご足労願いたいのです」

「見せたいもの、ですか」

 人目につかないように、わざわざこんな時間を選んでくるのだから、決して人に漏らしたくないのだろう。

「わかりました。本日10時に参りますとお伝え下さい。詳しい話はその時に伺います。あなたも日が昇る前にお戻りになった方が良いでしょう」

 ギムリスはエリンを案内し、地上へ上がると、彼を見送った。


「まだ起きてたのか?」

 空には星が瞬いているだろうが、霧が出てきて、視界が悪い。

 甲板にはわずかな灯りだけが灯されていた。

「揺れるので寝付けないのだ」

 ブレアスは片手に革袋を持っていた。

 船酔いも酒酔いもないようなので、止めないでおいた。

「明日、ある荷物を運ぶ」

 ブレアスはヘルガをじっと見ていた。

 多少は酔ってはいるようだ。

 目が据わっている。

「一切の発言を禁じる。ただ見ていろ」

 何を考えているのか定かではないが、ブレアスは沈黙した。

 納得できないのだろう。

 ならば納得させる他なかった。

「ギムリスの話はしたな」

 ブレアスは頷いて応えた。

「あの男が持ってきたのは短剣だけじゃない。大量の書類を持ってきた」

 ブレアスはじっと聞いていた。

「先代のサラザードの船を襲った連中を片付けて、そいつらのアジトから持ち出したものらしい。指示書の類だよ。宛先は当然海賊だが、差出人が分からなかった」

 ヘルガはひと呼吸置いてブレアスを見た。

「書かれていないからだ。だが膨大な量の手紙を見てみると、封蝋の刻印が幾つかに分類できた。今はそれを調べている」

「何故ギムリスはあんたらにそれらを渡したのだ?」

 ヘルガは自嘲気味に笑った。

「分からん。分からんが、奴らが海賊から奪った金を陸に上げる手伝いをしたのは私だ。その後に、奴らがヘマして追跡されていないかもきっちり調べさせた。こっちに火の粉がかかるからな」

 どうだったのかという顔をしていた。

「なかった。その後も、その海賊が一家全滅になった理由も、誰も知らないのだ。噂になったのは、ネイル・サラザードが負債を完済したということだけだ。その後彼の敷地に見慣れぬ者たちが出入りし始めて、養子におさまったということだけだ」

「何故あんたに頼んだのだ?」

「無論、この街でお上に知られずに荷揚げできるのは我々しかいないからだろう」

「彼はあんたが蛸の頭を探していると知っていたのか?」

「メルクオールの縁者というのは知ってただろうさ。この服はそれを示すためのものだからな」

「どういうことだ」

「旧王家はこういう衣服を着ていたんだよ。メルクオールも昔はこういう服を着ていた。今はもう誰も着ない。カレアンの一部の人間だけだ」

「それはどんな奴だ?」

「造船会社のオーナー一族だ」

 ブレアスは話が見えていないようだった。

「この海洋交易が盛んになったのはたった百年前からだ。それもカレアンの漁民が突然大型の船を作り出してからだ。それまでは近海を陸に沿って航海する程度だったんだよ」

「どうしてそんな船が作れるようになったんだ?」

「どうせ眠れないだろうから話してやる」

 今からおよそ200年ほど前に、アトワール王国は五人の兄弟に分割された。

 王位継承で揉めたからだ。

 長男は最も農地の豊かなシエラからティルナビスを所有した。

 三男は北のグリシャ周辺を領有し、金鉱山を抱える財力のある国だった。

 シエラを継いだ長男ゴウト家は、国号をシエルレインとした。

 穀物収穫量が多く、他国に売ることで財政を賄っていた。

 シエラの収穫量は、豊富な水資源のために他国と比較して群を抜いていた。

 当然莫大な収益を上げた。

 そしてより多くの物資を運搬するために、

造船技術に投資し、船の大型化に成功していた。

 しかし、投資が嵩んだのか、国庫は困窮し、遂にはグレイン貨、つまり金貨の金含有量を大幅に減らした。

 その結果通貨の価値が下落して、国力を落とす原因となった。

 それを好機と見たグリシャの王ヘイオスはシエラを包囲し、ついには陥落させた。

今から150年ほど前のことだ。

 史書にはそのように記されている。

 実際シエラの国庫は殆ど空で、ヘイオスは領地以外何も得られなかったという。

 ティルナビスの造船所も、木材の切り出しと調達を目的に、カレアンに本拠地を移していたらしく、技術者もいなかった。

 それ以降、カレアンは造船で莫大な利益を上げながら発展していくことになる。

「当時ティルナビスで造船に投資していたのは、財務担当で六男のイクナスだ。この男は包囲された城内で死んだとされている。だが考えてみろ。拠点を移したならそちらに行かないか? 国庫が空になるまで浪費するなどあり得んだろう」

 ブレアスは確かにそうだと頷いた。

「恐らく、国庫の金を移転して、減った分銀で薄めていたんだよ」

「国を滅ぼしてまでやることか?」

「史書には書かれていない話もうちには伝わっていてな。国を割るようにけしかけたのはイクナスなんだよ」

 ブレアスは目を細めて何故だと聞いた。

「例えばお前が指揮官だったとして、戦で5倍の兵を相手にするとなったら、どうする?」

「退却する」

「してどうする? 逃げても潰しにくるぞ」

「地形を選び、少数でも有利な場所を取る」

「そうだな。例えば分裂させて各個撃破するならどうだ?」

「できるなら良い策だ」

「それをやっているとしたら?」

「現在もか?」

 ヘルガは頷いた。

「分かった。口は出さん」

ヘルガはブレアスの目を見て頷いた。

「風の向きが悪い。到着は遅れるだろう。しっかり休んでおけ」

 ブレアスは自室へと向かった。


 ギムリスは座布団に座り、茶を飲んでいた。

 茶葉を軽く焙じて淹れたもので、良い香りがする。

 廊下に足音があり、襖が開いた。

 セリムであった。

 彼は頭を下げ部屋に入り、ギムリスの向かいに座った。

「急なお願いにも関わらず、お越しくださりありがとうございます」

「とんでもない。お招き頂き光栄です。しかし何故私がいると知れましたか?」

「バサナートより鳥が来ました」

「耳が早いですね。どういう経路で伝わったか興味があります。教えてはいただけませんか?」

「一昨日ある客人を招きました。その方は昨日当家を離れ、ボルサという鍛冶職人にあった後にティルナビスに向い、バサナートと会っています。恐らく彼がもたらしたのでしょう」

「両家を行き来する者がいるとは驚きました。信頼の厚い方のようだ」

「当家には恩のある家系の方で、お困りのようでしたので、力をお貸ししたまでです」

 なるほど。彼が興味を持つ家の名と言うと、最近耳にしたのはコールドンしか思い当たらなかった。

 アシェルの相手をした男だ。

「さて、私に見せたいものとは何でしょうか?」

 ギムリスはセリムが傍に置いた箱に目をやった。

 セリムは箱に手を伸ばし、手に抱えた。

「こちらです」

そう言って、手順通りに細工を動かし、蓋を外した。

 光が溢れた。

 ギムリスは大きく目を見開いた。

 蓋の空いた箱を畳に置くと、セリムは中腰になって、箱の中身をゆっくりと取り出した。

 部屋に6花弁の模様が幾つも広がって、ギムリスやセリムをも照らした。

 セリムは取り出した鉄の容器を畳に置くと、容器の根元を押さえながら、上端を軽く掴んで捻り、容器を取り外した。

 光り輝く球が浮いていた。

「炎帝の焔です」

 ギムリスは驚いた様子で、言葉が出せずにいた。

「よく、……守ってこられましたな……」

「幾度も場所を変え、人を替えて守ってきたものです」

「失われたものと思っていました」

 社の者たちも探し続けてきたが、全く手がかりすら得られなかった。

 現王家かそれに関係する者の手に落ちたのではないかと思っていたのだ。

「これを守るのも我らの役目です。協力者を通じて守り抜きました」

「ご協力下さった方々も、思いは変わらないと?」

「我らの思いは変わりません。メルクオールを名乗る限り、炎帝との誓いを守ります」

「一方的にここを離れた我らを恨んでいるだろうと思っておりました」

「恨みなど。八葉家の皆様のお考えは、よく理解しているつもりです」

 ギムリスは手を着いて、深く頭を下げた。

 それに驚いたセリムはにじり寄って制止しようとした。

「おやめ下さい。どうか頭をおあげ下さい」

 ギムリスはゆっくりと体を起こした。

「それで、セリム殿は焔をどうなさるおつもりですか?」

 ギムリスは真っ直ぐ見据えて訊ねた。

「先祖よりこの焔は混沌に秩序をもたらすと聞き及んでいます。我々の手元にあるより、あなた方がお持ちになった方が良いのではないかと思います」

「お預かりして宜しいのですか?」

「できることなら、当主として自らお渡ししたいと思い、ご相談したいのです」

「セリム殿自ら、お持ちになりたいと言うことですね」

 セリムは頷いた。

「ここからお連れするのは時間を頂ければ可能です。しかし、こちらに戻れるかどうか、断言できません」

「それでも構いません。お聞き届け頂きたい」

「畏まりました。我々は準備に取り掛かります。セリム殿もエリン殿とよくよくお話ください」

 セリムは手を着いて頭を下げた。

 ギムリスもまた同じようにした。

 セリムはギムリスを門まで送ると、エリンを自室に呼ぶように伝えた。

 エリンの顔には覚悟が見て取れた。


 船の揺れが酷く、目が覚めた。

 どうやら波が高いらしい。

 ブレアスは部屋を出ると、壁に手を突きながら甲板へ向かった。

 船の揺れに合わせて右へ行ったり左へ行ったり、坂道を登ったり下ったりする。

 甲板では水夫が忙しなく働いていた。

 風が強いため帆は上げており、海流に乗っているようだが、波が高い。

 暴れ馬に乗っているようで、時に放り出されそうになる。

「部屋に戻っていろ」

 水夫がブレアスに怒鳴った。

 邪魔だったのかと思い、引き返した。

 実に難儀な乗り物だ。

 転覆したり座礁したりすると。体一つで海に放り出されることになる。

 鮫でもいたら、と思うと恐ろしくなった。

 船酔いしなかったことだけは救いだ。

 思い返してみると、ここ数日の変化は異常であった。

 これまで接点のなかった者たちと出会い、目まぐるしく変化してゆく。

 船室で嵐に揺られて、おさまるのを待っているなど、これまでの人生では考えられなかった。

 戦で死にかけたことは幾度もあったが、自分の生死に自分の力で関与できないというのは初めての経験であり、苦々しさを感じた。

 全てあの少年との出会いから始まった。

 彼には何かがあるのだろうと思った。

 その渦に巻き込まれたのだと思うが、嫌な気はしていない。

 戦場にはない胸の高鳴りがあったからだ。

 楽しんでいることに気づき、妙に可笑しくて、笑いが込み上げた。

 少しずつ揺れがおさまってきたようだ。

 揺れの周期が緩やかになってきた。

 ブレアスはもう一度甲板へ上がった。

 船尾の空がふたつに割れていた。

 雲を抜けたらしい。

 船首の方は晴れていて、遠くに山が見えた。

 額に手をかざし、進行方向を見た。

 少しずつ大きく見えてゆく。

 緑に包まれた山の麓から、海岸に向かって真っ直ぐに下るように街並みが続いていた。

 街は湾に沿って広がっており、多くの船が係留していた。

 海辺には建造中の船が何隻か見えていた。

 船の全貌を見ることなどないため、興味深い光景だ。

 多くの職人が働いているのが小さく見える。

 湾内にも停泊中の船が多数あった。

 係留の順番待ちかも知れない。

 これがカレアン島か。

「間もなく着く」

 ヘルガはそう言って肩を叩いた。

「岸辺に沿って港と造船所がある。麓の方の大きな建物がある辺りが金融街だ。あそこの地下に大量の金が預けられている。その間に宿やら商店街がある。もう出られるか? 間も無く接舷するぞ」

「いつでも出られる」

 ヘルガは頷いた。

「ここは敵地だと思え」

 そう言ってヘルガはブレアスの背を叩いた。

 船首からまた隼が飛び立った。

 島にいる仲間に知らせに行ったのだろう。

 先ほどまで小さく見えていた山が、今は大きく見えた。

 シエラにも劣らない規模の街並みが続いている。

 ブレアスは、自分の世界が広がってゆくのを感じた。

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