磐戸隠れ
ブレアスの家は代々下級官僚を務めていた。
父も兄も官僚だったが、自分は軍に入った。
勉学は得意ではなかったが、体は大きく腕っ節に自信があったからだ。
父はあまり良く思っていなかったようだが、母は何をやっていても、元気なら良いと背中を押してくれた。
家には10年、帰っていない。
8時の鐘が鳴って暫く経ち、日も傾いてきたようだ。
ブレアスは部屋を出て、中央通りを南に下った。
夜の街はこれから忙しくなる。
飲食店は厨房の窓を開けて、通りに香りを流す。
特に肉の焼ける匂いは人を誘う。
食欲が沸いてくる。
ブレアスは堪らなくなり、鶏肉の串焼きを2本買った。
醤油と言う大豆を麹菌で発酵させたものをハケで塗り、炭火で焼くと実に香ばしく焼き上がる。
彼はこの匂いに目がない。
腿肉の脂が適度に落ちて、醤油の香りと鳥の肉の旨味が広がり、実に美味かった。
一杯やりたい気分になってくる。
待ち合わせの時間には早かったようだが、城壁にもたれながら鶏肉を味わった。
「鶏肉、お好きなんですか?」
この男は唐突に現れるのが好きなようだ。
「あぁ、そうなんだ。ところであんたは、何か武術をやるのかい?」
エリンは驚いた様子で何故かと訪ねた。
「気配を消して接近するのが実に上手い。少々鶏肉に夢中になりすぎたか?」
「私は体術と短剣を少々嗜みます」
「なるほど。俺は2回は死んでたかも知れないな」
ブレアスはニヤリと笑って見せた。
「参りましょうか」
エリンもブレアスに笑顔で返した。
なるほど、気を置けない相手というのは中々に面白い。
貴族にこのような男がいたとは正直驚きだった。
貴族といっても、この男の家系は破格だ。
どんな理由でそんな技を身につけたのか、実に気になるところだった。
エリンと並んで日暮れの街を歩いた。
途中店の前に置かれたゴミ箱に串を捨てて手巾で手を拭いた。
エリンの家は中央通りから少し離れた場所にあった。
庭はよく手入れされていて、灯籠の灯りが道標のように母家への道を照らしていた。
竹だろうか、風に揺られてサワサワと音を立てていた。
柵や生垣、庭の至る所に竹が使われていた。
家は木造の平家だった。
質素である。
母家の玄関に入る前に、手を洗うように勧められた。
木の桶に水が満たされていて、竹でできた柄杓が置かれていた。
玄関で履物を脱ぐようだ。
ブレアスは紐を解いて靴を脱いだ。
壁は漆喰で作られ、床は杉か檜の板張りだ。
扉は引戸で、驚いたことに木で作った格子に紙が貼ってあるだけだった。
このような家の作りは聞いたことがない。
「見たこともない作りだ」
「そうでしょう。エルオールは石積みの建物を作り、我々にその作り方を教えたそうです。しかし不思議ですが、炎帝はこう言った作りを好んだようですね」
壁にかかる一輪挿しも、竹を加工したものにいけられていた。
「命と同じ、巡るもの、だそうです。我らにはよくわかりませんが、人よりも長く生きられた炎帝ならではのお考えだったのかもしれませんね」
ブレアスは奥の座敷に通された。
座敷は広く、見たことのない床材が敷かれていた。
植物の繊維を隙間なく編み込んだもののようだが、固すぎず、かと言って板の間のような冷たさがない不思議な床だった。
畳、と言うらしい。
壁は廊下と同じく漆喰でできていて、正面の壁には棚が付けられており、陶器の花瓶に植物が生けられていた。
それも、芒である。
花ですらない。
廊下の壁には野菊が飾られていたし、玄関の手前には
不思議な趣だった。
部屋の中央に大きな背の低い長方形の卓が置かれていた。
黒く艶のある深みのある色だった。
そこに座布団が3つ置いてあった。
今日の食事には三人が出席すると言うことだろう。
ブレアスは奥の席に促され、座布団に腰をおろした。
不思議だった。
靴を脱いで腰を下ろすと、気持ちが和らいだ。
緊張が解けたと言った方が良いかもしれない。
「ようこそおいでくださいました。本日はごゆっくりお過ごしください」
女が障子の向こうで座して、手をついて頭を深く下げた。
「私の母です」
エレンがその脇に座り紹介した。
まさか母親とは思わず、頭を下げた。
「ブレアス・コールドンと申します。本日はお招きありがとうございます」
不思議なものだ。
強要されたわけでもなく、自然と頭を下げていた。
これは本当に住む世界が違う。
彼らの顔立ちや着ている服は、他の大勢と大差ないのだが、この家の持つ独特な空気と、そこに住まう人の放つ何かが、外とはまるで違っていた。
実に静かでありながら、庭の木々が擦れ合う音や、普段はやかましく感じる虫の音までもが、なんとも心地よく感じられた。
使用人らしき女が酒を置いて行った。
エリンが注いでくれた。
黒い小さな陶器の杯だった。
口をつけるととても爽やかで癖のない酒だった。
「麦の蒸留酒ですよ」
エリンはそう言っていたが、いつも飲むウィスケベスとはかなり趣が違った。
「この酒は樽ではなく瓶で仕込みますから、樽に使う木の香りなどが混ざらないんですよ」
何とも製法の違いでここまで味に差が出るとは驚きだった。
まるで水のようではないか。
「今日ここにきてから驚きの連続だ」
「そうでしょうね。ここにお招きした方は皆そうおっしゃいます」
「異世界にでもきたかのようだ」
「そうかもしれません。この家は、ゴウト朝以前の王室文化がそのまま生きています。ここにお招きする方は滅多におりませんが、皆さん同じような反応をなさいますよ」
ゴウト朝とは、アトワール王国最初の男子が起こした王朝で、彼の名はギルボワと言った。
歴史には雷帝と記されている。
雷帝以降、国のありようは大きく変わり、権力が王家に集まるようになった。
それまでは炎帝の子孫である女子が王家を継いでおり、王家とは都市を束ねる象徴としての役割が濃かった。
都市の執政官達も、文明をもたらした人々として王家を信頼し、敬っていた。
そもそも炎帝を成立させたのは、今目の前にいる男の先祖、メルクオールであった。
メルクオールが最初にマリテを王として奉ったのである。
他の都市は預言者の行いに倣い、大陸から不毛な争いが消えたのであった。
雷帝の御代は今から500年ほど前になり、そこから世界の秩序は大きく変化した。
国は5つに割れ、戦が続き、メルクオールは名誉ある地位から転落した。
少し外しますと言ってエリンは部屋を出ると、少し経って人を連れて戻ってきた。
白髪の老人だったが、まだ元気な様子で、足取りはしっかりしていた。
老人は正面の席に座った。
「セリム・メルクオールです。今日はよくお越しくださいました」
現メルクオールの当主だ。
「初めてお目に掛かります。ブレアス・コールドンと申します。お招き有難く存じます」
エレンが杯を酒で満たした。
「シエラに」
セリムは杯を掲げると、皆同じようにし、杯に口をつけた。
「始めましょうか」
セリムの声がかかると、襖が開き、料理が運ばれた。
野菜を棒状に切ったものと、小鉢に茶色のペースト状のものが出された。
そして生の魚の肉が盛り付けられた皿が並べられた。
「これは味噌と言って大豆を発酵させたものです。これに酒と味醂で味を整えたもので、野菜につけて召し上がってください」
ブレアスは赤い野菜、にんじんを手に取り、味噌をつけて齧った。
何とも濃厚な味だった。
動物の乳を発酵させて固めたチーズも風味が良く酒に良く合ったが、これはまたまろやかで塩が効いており、野菜を引き立てた。
「これは酒が進みますな」
ブレアスは杯を傾けながら言った。
「お口にあったようで良かった。ところでブレアスさん、貴方は珍しい武具をお使いでしたね」
セリムが尋ねた。
「矛のことですかな。あれはずいぶん古いものです。私の師から譲り受けました」
矛は現在の刀槍とは構造が異なり、先端の穂に柄を差し込んで使うように出来ている。
一方刀や槍は
加工技術の変化で、矛は造られることがなくなった武器である。
「そうでしたか。ブレアスさんは南のご出身で?」
ブレアスは驚いて、セリムを見た。
「そうです。サルマンの山間の都市でペデトという街です。何故分かったのですか?」
「貴方の師の家系を知っているからです。直接の面識はありませんが、遠い昔に当家と関わりがありました」
ブレアスの師は彼の母方の祖父で、ブレイ・コールドンと言った。
ブレアスの名は祖父の名を貰ったのだ。
「コールドン家はかつては炎帝の住まいを警護する
自分の家族の話だが、全く知らされていないことだった。
「舎人とは?」
舎人と言うのは身分の高い人々を警護する人のことを特別にそう呼んだものだ。
そうセリムは説明した。
「貴方が持つ矛は、今から1000年以上も前に作られたものなんです。恐らくずっと受け継がれて残ってきたのでしょう」
知らなかったとはいえ、そんな貴重なものを振り回していたとは思いもよらなかった。
「しかし、1000年もの間耐える武器など、信じられん。あの切れ味をいまだに保つなど、一体どんな鉄を使えばそうなるのか」
「エリンや、ブレアスさんにあの刀を見て貰いなさい」
エリンは承知しましたと言い、座敷を出た。
「剣や刀という武器は、戦ではあまり使われてきませんでした。間合いの広いものが好まれて、それこそ矛が使われた」
口を湿らせたかったのか、セリムは水を求めた。
現代でも戦場で歩兵が持つ武器は槍が多い。
間合いが広く、相手を寄せ付けないという使い方で、集団戦では利のある武器だ。
だから剣や刀はあまり使われなかったが、無くなることはなかった。
矢が尽きて、槍も折れたら、最後は剣を振るうしかない。
そのせいか、剣に拘る軍人は多くいる。
最後に命を預ける武器だからだ。
だから使われずに、名刀が後世に残ることはよくある。
しかし、矛が実戦に耐える状態で残っているのは珍しく、当家でも残っていないとセリムは言った。
エリンが二振の刀を持ってきた。
「まずはこれを」
セリムはまず一振りの剣をブレアスに渡した。
ブレアスは受け取ると、卓から離れて片膝を立てて革の鞘を払った。
街の武具店によくあるものだ。
衛兵や軍の制式武器とよく似ている。
「よくある一般的なものですな」
ブレアスがそう言うと、セリムは笑顔でこう言った。
「ではこちらは如何ですか?」
そう言ってもう一振りの刀を差し出した。
ブレアスは剣を鞘に収めると、柄をセリムの方に向けて剣を置いた。
そしてセリムから刀を受け取った。
「これは…、もしや」
その刀はアシェルが持っていたものと姿がよく似ていた。
「見たことがありましたか」
「大会で私の相手が手にしていたものとよく似ている。10年前に戦ったある者もこれと似た物を使っていた」
あれからずっと武具店を見て回っているが、このようなものはついに見つけられなかった。
ブレアスはゆっくりと木の鞘を払った。
緩い反りのある片刃の細い刀身が現れた。
鞘を床に置き、刀の柄を両手で握り、その刀身を見た。
表面には不思議な模様が浮き出ていた。
「あそこの火に切先を向けて、刀身を覗いてご覧なさい」
壁にかけられた火を指さしていた。
ブレアスは切先を炎に向けて、刀身を覗いた。
目の位置を変えてみると、刀身に無数の光が見てとれた。
そして刃の縁に沿って、一際強く荒々しく蛇行する炎のような光が切先まで続いていた。
「この刀も1000年ほど前の刀です。遠い先祖がコールドン家に師事した時に頂いたものだと聞いています」
ブレアスはずっと刀を見つめていた。
固まっていた。
ふと我に返ったのか、視線を離すと、刀を鞘に戻し、刃を手前に向けてサリムに手渡した。
この鉄表面の、練り込んだような模様と、焼刃に表れる輝きは、いつも目にしていた。
矛を手入れする時に。
鉄に表れる木の肌のような紋様もさることながら、鉄の表面がまるで水の膜でもあるのかというほど潤って見えることがあるのだ。
このような鉄はどの武器にも見られず、別の物を使う気にならなかったのはそのためだった。
「この刀を持つ者を、これ迄に二人会ったことがある。どちらにも勝てなかった」
「一人はアシェル・サラザード、先日の大会で相手になった少年ですね。もう一人は?」
エリンが口を開いた。
ブレアスは頷いた。
「少年の母親だ。10年前に戦でその女に敗れた。あの親子は何故こんな刀を持っていたのか」
「不思議な縁ですね。この刀を作る技術は失われて久しい。今はその一部の技が細々と受け継がれているだけで、見ることはなくなってしまいました」
ブレアスはサリムに何故かと問うた。
このような優れた技法が消えるなど、余程のことだと感じたのだ。
「500年前のある日を境に、この世界から忽然と姿を消した一集団がありました。その日からこのような鉄を作る技法も消えたのです」
悲しげな目でセリムはそう語った。
「我々は彼らが戻ってくるのをずっと待っているのですよ。それまで、この街と人々を守ること、それが我が一族の務めです」
そしてブレアスを見て、サリムは涙ぐんでいた。
「今日は突然のお招きであったのに、お越し下さって本当にありがとう。古い友に会えたようで実に嬉しい」
ブレアスは頭を下げたが、返す言葉が見つからず、杯を捧げて飲み干した。
料理は少しずつ運ばれてきた。
先ほどの味噌を汁仕立てにしたものと、栗の入った飯が出された。
箸という二本の木の棒で食べるようなのだが、これの扱いが実に難しい。
箸で飯と奮闘する武術家の姿は実に滑稽で、笑いを誘った。
「ひとつ伺っても宜しいか?」
「答えられることなら良いのですが、何でしょう?」
セリムは控えめに答えた。
「あなた方は古くからこの街と関わっておられるから、ご存知なら教えて頂きたい。学院というのは何のための組織で、何をやっているか、ご存知ですか?」
二人の口が重くなったのを感じた。
セリムは言葉を選んで話し始めた。
「あの組織は、先ほど申しました消えた集団を探すことを目的に作られた組織です。雷帝が即位した後に雷帝の詔によって作られました」
「ではその消えた集団は雷帝にとって重要だったということですか?」
セリムは頷き、水を飲み、続けた。
「エルオールや炎帝、雷帝の一族は、不思議な能力を持っていたことをご存知ですか?」
「不思議な能力?」
「はい、言葉を口から発するのではなく、頭の中のことを直接相手に伝えることができたようです。そればかりか、物質にも影響を与えたそうです」
「それはまた途方もない魔法のような話ですな。術者というのは聞いたことがあります」
「そうです。実際その証拠も実在しています。お見せできないのは残念ですが。炎帝に仕えてきた先祖から伝わる話では、炎帝の力を受け継ぐのは女だけだったそうです。ところが、雷帝は男子にその力が受け継がれた最初の方だった。皆大層喜んだそうですが、彼のお方は暴力的な君主になってしまった。雷帝が王位を継いだのですが、結果的には国が割れて、戦の絶えない世の中になってしまった。彼のお方はずっと、配偶者を求めてきたのです。炎帝の力を受け継ぐ女性をです」
「その目的のために作られたのが、学院ということですか」
「その通りです。しかし雷帝より500年ほど経ち、未だその集団は見つかることもなく、学院も形骸化して利権を貪るだけの組織に成り下がったようです」
「内情はご存知ですか?」
ブレアスは踏み込んで聞いてみたいと思った。
「私は裁判所勤で、様々な案件を日々処理します。しかし不思議なことに学院の事案が舞い込むことはないのです。良からぬ噂は絶えないのですが、事件として表に出てくることはありません」
何かあったとしても、事件にならない処理方法があるということだろう。
「学院に関心がおありですか?」
セリムが尋ねた。
「実は囚人護送を受け持つ知人が一人行方不明で、その者の兄に相談を受けているのです。以前その男に会った時、妙な事が起こっていると言っていました」
シエラから送り出された囚人は一度北のグリシャにある牢に送られ、他の都市からの囚人と共に翌朝鉱山に送られる。
翌朝になると囚人の顔つきが変わる事が度々あったそうだ。
初めは鉱山に送られることに怯えているのだと思ったが、中には目つきが変わり攻撃的になる者や、逆にある者はひどく落ち込んだ顔つきに変わるなど、人格の変化が目立つようになった。
中には行動に異常のある者もおり、執拗に脚を掻くのだという。
奇妙な声を発しながら皮膚が破れても掻き続けるので、鉱山で拘束したが治らなかった。
更に、時折夜半に囚人が牢から消えるのだ。
ある者が偶然牢から囚人を連れ出すのを目撃し、後をつけたところ、学院の裏口から中に入るのを見たそうだ。
「なるほど。囚人を使って何かをしていたということか」
セリムが唸った。
「学院の関係者が街の家庭から子を連れてきて、大きくなると貴族の側女にするのだとか。その時多額の金品を要求すると言う話は耳にします」
エリンは髪をかき揚げ、押さえながらそう言った。
貴族が使用人に手を出して、子を成すことはよくある。
そのような子は稀に力を持って生まれてくる。
そして親から引き離して育て、利用する。
気分の良い話ではなく、皆一様に冴えない顔をしていた。
「学院は閉鎖的な組織ですので、中の話はなかなか出てきません。王室直属なので滅多なことでは人を送ることもできません」
セリムも難しそうな顔をしていた。
「ブレアスさんはどうしたいのでしょう?」
セリムは尋ねた。
「知人を探し出せたらと思うのだが……、手がかりがあれば、兄に伝えてやりたいと思っている」
セリムは暫く押し黙り、口を開いた。
「中途半端に伝えてはその方もやりきれないでしょうし、思い詰めて軽率な行動に出るやも知れません。相手が面倒な組織ですから、確実な事が分かるまでは伝えない方が良いかと思います」
ブレアスは頷いた。
確かにその通りだ。
しかし思った以上に厄介な組織のようだ。
セリムほどの者でも内部の情報を得られないとなると、益々手に負えそうにないように思えてきた。
「ただ一人、この街の裏事情に通じる者がおります。あるいはその者なら情報を持っているかも知れません」
エリンが驚いた様子でセリムを見たのを、ブレアスは見逃さなかった。
彼にとっても意外な発言だったようだ。
「私も滅多にその者と会うことはないのですが、私の名を出せば、悪いようにはならないと思います」
そういうとセリムは席を立ち、座敷を出た。
「ブレアスさんは、ご友人のために学院を探るのですか? 下手をすると貴方が狙われることになるかも知れませんよ?」
エリンがまっすぐブレアスを見て尋ねた。
ブレアスはどう答えるか迷った。
「知人のためだけではない。昔世話になったある者の息子が学院から目を付けられたようなのだ。その動向を探りたいのだ」
ブレアスは正直に伝えた。
「それはもしかして、先日貴方と戦った少年ですか?」
ブレアスは頷いた。
「そうですか。そういうことでしたか」
襖が開けられる音がして、セリムが戻ってきた。
手には錦の布に包まれた物と、鞘のついた槍を持っていた。
「これを貴方に預けます。その者に会う際は、必ずこれをお持ちください」
そう言ってセリムは差し出した。
ブレアスは織物を開き、中のものをあらためた。
1尺2寸ほどの反りのない短刀だった。
柄も鞘も黒い漆で塗られており切貝の
花と蝶の図案が柄から鞘にわたって描かれていた。
これだけでも相当の価値がある物だと分かる。
「このような物をお預かりして宜しいのですか?」
サリムは頷いた。
「これを見せれば、協力を得られるでしょう。その者はティルナビスのヘルガ・バサナートと言います」
ブレアスは目を丸くした。
バサナートと言うのは、ティルナビスに拠点を持つ協商組合の総長である。
協商組合というのは、ティルナビスや中洲で商売を営む者たちの集まりであり、簡単に言えばヤクザである。
武術大会の賭博を仕切っているのは彼らだ。
「彼らと繋がりがあったのですか?」
ブレアスは驚きを隠せず、つい口から出てしまった。
「知る者はおりませんが、実はバサナート家は当家の分家なのです。遠い昔に別れ、我が家は表、彼らは裏でこの街を支えるようになりました。互いの立場もあるので直接会うことはありません。使いのものを通じて連絡を取ることはありますが、それも滅多にありません。口外は無用にお願いしたい」
セリムが頭を下げて頼んだ。
「決して口外しません」
ブレアスも頭を下げた。
「しかしなぜそこまでして下さるのですか?」
セリムは少し笑いながら答えた。
「貴方はぶっきらぼうに見えて、案外お人好しなところがありますね。お友達のために危険な所に入り込もうとなさる。怖いもの見たさや好奇心からなのかも知れませんが、人のために危険を承知で何かをしようとする人を放ってはおけないでしょう」
ブレアスは頭を下げた。
「それにもし何事かが起きているならば、知っておく必要がありますので」
使える駒だと言うことかなと思ったが、口には出さずに礼を述べた。
「それから、こちらを」
セリムは槍を手に取って、ブレアスに差し出した。
「貴方の矛は常用するには惜しいものです。こちらをお使い下さい」
ブレアスは槍を受け取ると、鞘を外した。
大きな槍だった。
穂の根元が左右にやや張り出し、そこから穂先に向かって窄まった後に緩やかに広がり、切先へと収束していた。
穂の長さは1尺5寸ほどで、鉄はよく練られており、
「これは実は新しいものなのですよ」
セリムが嬉しそうに言った。
「私が贔屓にしている鍛冶職人の工房に、数年前から亜麻色の髪の少年が来るようになりましてね。近頃実に良い物を作るようになったんです。どうですか、中々の出来でしょう?」
実際よくできていた。
やや幅広の槍で、茎が太いせいか柄も太く穂の根元から石突まで柄が緩やかに細くなっていた。
「まさかアシェルと言うのでは?」
セリムはにこりと笑った。
「あの少年、自分で鍛えていたのか」
ブレアスは鞘を被せると、改めて礼を述べ、深く頭を下げた。
「さて、今日はもう遅いので、うちにお泊まりください。エリンも何やら話し足りないようですので」
「ありがとうございます」
「それでは私は先に休ませてもらいます。ブレアスさん、今日は本当にありがとうございました」
ブレアスは深く頭を下げ、礼を述べた。
エリンがブレアスの杯に酒を注いだ。
「今日会ったばかりの俺をこのようにもてなしてくれて、どう報いれば良いか」
「お招きしたのはこちらですから、受けて頂けたら嬉しいですよ」
屈託のない笑みだった。
「遠慮なく頂く」
そう言うと、ブレアスは杯を空けた。
「しかし自ら鍛えた刀だったとは、驚いた」
「装具の細工などは我が家と縁のある彫金師や木工職人が手がけた物です。予想以上によく仕上がって、本人も喜んでいましたよ」
「しかしあのような少年が昔の技法をここまで再現できるものなのか?」
「何故あの少年がここまでの物を作れたのかはわかりません。500年前から当時の技法を見知っていた者は何人かいたようで、職人の間で細々と受け継がれてはきたようです。彼はボルサという男ですが、実は武器でなく包丁を作っているんですよ」
「包丁? 包丁職人が刀を作っているのか?」
「そうなんです。これが実によく切れるんで、結構評判が良いのですよ。我々も彼の作った包丁を見て驚きましてね、それ以来うちの包丁は彼に依頼しているんですよ」
「変わった男のようだな」
「それはもう偏屈な男ですが、作るものは実に良いのですよ。うちは魚の切身が好きで刺身をよく食べますが、彼の作った包丁で切ると舌触りが実に良いのです」
確かに最初に出された刺身は、実になめらかな舌触りだった。
「以前何故包丁を作るのか聞いた事がありました。剣や槍を作って売らないのかと。すると彼はこう言いました。包丁ならこの街の全員を相手に商売できる。しかし武器を作って食っていくなら軍と契約しなきゃならない。あんなつまらない武器を100も作るなんて鉄の無駄だよ、とね」
「なるほど、面白そうな男だ」
ブレアスはボルサという男に会ってみたくなった。
「あの少年も面白い子です。彼は自分で鍛えた刀を稽古で使ったらしいですよ。幾度も折られて泣きながら工房に現れたそうです」
実に嬉しそうに語るエリンを見て、彼らを気に入っているのだろうと思った。
「今度見に行ってみよう」
「お勧めしますよ。彼の工房は南門から出て少し降った所にあります。麦畑の傍にある小屋です。なかなか楽しめますよ」
ブレアスは楽しみが増えたと喜んだ。
ふと、セリムから預かった短刀が気になった。
包みを開いて手に取り、鞘を払った。
両刃の短刀で、細い直刃が焼かれていた。
「この短刀は、アトワールの王家より賜ったものです。いつ作られたものかは分かりません。これを誰かに預けることは今までなかったので、私も驚きましてね」
ブレアスは短刀を見つめ、何事か考えているようだった。
「俺の本当の名はアルバレス・メンデルと言う。軍を辞め、国を出る時に名を変えた。今の名は祖父のブレイ・コールドンから取った。あなた方を騙しているような気がして、明かした」
「騙されたとは思いませんよ。コールドンのお孫さんでしょう? それに、矛をお持ちだった。お嬢さんが嫁がれた家の子に渡したのも、何かあったのでしょう」
「そう言ってもらえると気持ちが軽くなる。コールドン家は男に恵まれなかった。祖父の孫に男はいたが、武術に興味を持ったのは俺だけだった。祖父は俺を鍛えてくれたが、俺が16の時に病に倒れた。病床にあった祖父に、初陣の挨拶に出向いた時にあれを受け取った。あれ以来、あの矛で戦って生き延びてきた」
ブレアスは錦に収められていた薄絹の布をてにし、短剣を拭うと、鞘に納めた。
「軍を辞めた理由を聞いても?」
ブレアスはバツの悪そうな顔で、当時の話をした。
「あの少年の母親ですか。噂に聞いた事がありますよ。大層綺麗な方だとか」
「確かに」
「しかし不思議なものですね。先程世話になった方というのは、その女性という事ですね?」
ブレアスは頷いた。
「つまり、アシェル君が学院に目をつけられた、ということですか」
そうだと答えた。
「何かできる事があれば、お手伝いしますので、いつでもお越しください」
「ありがとう。明日ひとまずティルナビスに行ってくるつもりだ。何か分かったら知らせに来る。今日いた城壁の辺りで鳥肉でも食っているよ」
エリンは笑顔で頷いた。
その日の酒は久しぶりに美味く、心が満たされた気分だった。
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