ハグロトンボ

 翌日の朝、いつものようにエレノアと城壁の外で稽古をし、朝食の後に刀を手入れした。

 僅かに刃溢れがあったが、健全だった。

 アシェルは身支度を整えると、出掛けて行った。

 試合が見たいようだ。

 アシェルと入れ替わりに裏門にプルトがやってきた。

 エレノアが表に出てみると、プルトを入れて6人が立っていた。

「随分多いな」

「すまん、予想外に増えてしまった」

 一番後ろに立っていた男に目が行った。

「お父さん? どうしたの、髭なんて生やして!?」

「久しいな、エルマ」

 エルマと聞いた瞬間プルトが肘で突いた。

「すまん、ついな。それで孫弟子はいるのか?」

「アシェルならさっき出て行ったよ。他の試合も見たいんだってさ。まずは入って話を聞かせてもらえるかな?」

 プルトは馬屋に促した。

 6人と6頭が馬屋に向かって歩いていた。

 その中にひとり女の子がいた。

 物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回して、随分楽しそうな様子だった。

 見ている方も思わず笑みが漏れるほどだ。

 池の睡蓮の葉にハグロトンボが留まっているのを見つけると、手綱を放り出して見に行ってしまった。

「おあぁ、こんなの見たことない、なんていう虫?」

 蜻蛉を指差して大きな声で尋ねた。

「蜻蛉という昆虫だよ。それはハグロトンボって言うの」

 胴は細く短めで、黒く丸みを帯びた羽根を立てて揃えて留まっていた。

 他の蜻蛉に比べて華奢でありながら、ゆっくりフワフワ飛ぶ姿が少し神秘的で美しい昆虫だ。

 エレノアは燥ぐ彼女を見て思わず笑ってしまった。

 その時はっとして彼女をもう一度見つめた。

 亜麻色の髪を時折耳にかけながら、じっと観察していた。

 目鼻立ちの整った綺麗な子だ。

 社の者たちは顔や背格好の特徴がよく似ている。

 限られた者たちが住まう集落だったため、血が濃くなりやすいのだ。

 しかし、エレノアは気づいた。

 アシェルにそっくりだったのだ。

 髪の色はアシェルの方が僅かに濃い色をしていたが、違いと言ったらその程度しかない。

 蜻蛉を見る彼女の横顔は、刀を見るアシェルそのものだった。

 オリガ様だ。

「へー、変わった生き物だね」

「蜻蛉は初めて見たの?」

「そうなの。こっちはいろんな生き物がいて面白いね。すっごくあったかいし」

 馬屋でプルトが手招きしていた。

「お嬢さんその辺にして一緒に来ないかい? 後でもっと面白いもの見せてあげるよ」

「お、何だろう。楽しみだね」

 いいバネをしている。

 後ろ足で蹴り出す力がしっかりしていて、軽やかに走る。

 脹脛が発達しているせいだろう。

 山育ちのせいかもしれないが、アシェルもそうだった。

 彼も蹴る力が強く、踏み込む速さが格段に速い。

 この子も剣を使うのかしら。

 エレノアは少女の後について行き、プルトの袖を引いて呼び止めた。

「何で連れ出したの?」

 見抜かれたことに驚き、目を丸くしてエレノアを見た。

「それも話すから、まずは中へ」

 2人も地下へと向かった。

 地下の応接間にはエレノア、プルト、ギムリス、イリス、ハイネ、ピリス、そしてオリガがいた。

 タレイアは天幕の外で控えていた。

 異変を感知するためである。

「さて、まずは各人の紹介をしておく。尚、言葉では説明が不十分かもしれないが、この場所と現在我々が置かれている状況を鑑みてご容赦願いたい」

 ギムリスが始めた。

 彼等は丸いテーブルを囲んで座っていた。

 テーブルには暖かいお茶と焼き菓子が置かれていた。

 オリガには果物のたっぷり乗ったタルトが振る舞われた。

 夢中で食べるオリガを、隣でイリスが羨ましそうに見ているので、彼女にも振る舞われた。

 イリスは奥の院の舎人を務めていた。

 社にはいくつもの部署があり、それぞれに管理官が置かれている。

 その中の一つに衛府があり、社の正面に詰所があった

 そのさらに奥の中央に首領カルネの執務室と、さらに奥に居室があった。

 衛府は社と周囲の居住区全体の警備を担う警備部と、外界の情報収集と分析を担う諜報部で構成されている。

 執務室から奥は男子禁制となるため、警備も女が務めた。

 これを特別に舎人と呼んだ。

 武芸に秀でており、人柄の良いものを集めた部隊である。

 不思議なことに、舎人に抜擢されたものは目尻がやや下がった者が多かった。

 不思議と顔を合わせると和むのだ。

 警衛に立つものまで張り詰めていては息が詰まるので、意図的に柔和な者が選ばれたのだろう。

 社に住む者たちは、特に切長の目を持った者が多く、きつい印象を与えるため、穏やかな者が必要とされたのかもしれない。

 イリスは目尻が下がり気味でふっくらとした顔立ちをしていたので、少々幼く見えることを彼女は気にしていたようだが、周りのものはその愛らしさに惹かれていたようだ。

 ハイネ、ピュリスは情報院に所属していた。

 社では最も人員の多い部署の一つである。

 社にいるのは連絡員と情報分析を行う者が中心で、ほとんどの者が社の外で仕事をしていた。

 エレノア、タレイア、そしてギムリスもここの所属である。

 武術の才があり、言語習得が良いものは、術の制御ができるようになると、比較的幼い段階で諜報員に預けられ、外部で育てられる。

 これは外の世界で長く暮らした方が環境に馴れやすいからだ。

 他に人員が多いのは調達を担う大蔵で、5000人ほどが住まう社の食料や衣服を賄っていた。

 戦闘が不得手なものは、大蔵や教育に関わる文学院に就いた。

 特に文学院は研究部門もあったから、他の部門へ出向していることも多かった。

 ハイネとピリスは文学院出身で情報院に出向しており情報分析を担当している。

 外部の政情を実際に見るために、数年間ギムリスと各地を見て回っていた。

 紹介を受けると3人は軽く頭を下げた。

「では、今回報告を受けた件について協議した内容を話す」

「ここからは私が説明します」

 イリスは始めた。

 アシェルに向けて発せられた念の発信者は、オリガだった。

 エレノアは眉を顰めながら、話の続きに傾注した。

 ここ最近オリガは無意識に知らない光景を見るのだという。

 この現象は断続的に現れ、コントロールができない状態だった。

 これは意識共有だと考えられるが、念話特有の波が一切発せられていないため、念話以外の因子だと予想された。

 オリガが見ている光景が恐らくアシェルが見ているものと予測されるため、2人の間に何か特別な回路があると考えられた。

 両名の場合力の封印以外に考えられる要素がなく、これが原因だろうと考えられた。

 そもそも、出生時に起きたアデルの力の氾濫と、それを抑えたオリガの封印がどういった機序で発現したのか現在も不明であり、両名の間の回路についても解明が困難だった。

 あくまでも予想に過ぎないが、この回路を通じて念が届いたものと予想された。

 問題は力が実質ないと思われたオリガからの念で、オリガの力は年々増しているものと考えられた。

 この仮説が正しければ、恐らくアシェルの力も増していると予想されるが、オリガの成長速度が上回っていて、封印に使われる力の余剰分が現れたものと推測できる。

「それで、彼女をここに連れてきたのはなぜ?」

「それは、意識共有がコントロールできない以上、同じことがまた起こると考えられたからです。それならば現地で直接見ていた方がリスクが軽減されるかもしれません。念の発信についても、無意識に反射的に行なっている可能性があるため、現地にいた方が良いと判断されました。念の制御についてはこれまで力が開花していなかったので、訓練もできませんでした。今から訓練しようにも事態の悪化を招く恐れもあったので、送り出すこととなりました」

「苦肉の策というわけだな」

 イリスは困ったような表情をして、話を続けた。

「もうひとつの理由は、社での会話は一般的に念話を用いますが、オリガ様だけが共有できないのです。本人もこのことに疎外感を感じることがあるため、この状態を改善する目的もあります」

 なるほどとエレノアは言い、発言の許可を求め、付け加えた。

「恐らくアシェルの封印は健全です。それどころか今回の件で、封印が念に対する防壁として機能していることが判明しました」

 学者肌のハイネとピリスが興味深そうにエレノアの話を聞いていた。

「今回アシェルはオリガ様からの念を感知していましたが、内容は分からないと言っています。防壁で反射したことまでは認識ができるということではないかと考えています」

 エレノアは続けた。

「次にアシェルが闘技場で見える相手は、推定ですが術者であると見ています」

 皆の耳目が集まっているのをエレノアは感じていた。

「仮説が正しければ、対戦者の念はアシェルには一切影響を与えないでしょう。そこで一つ気がかりな問題が発生します。アシェルが念に対する防壁を持っていることが露見する可能性があります」

 皆が一様に頷いた。

「恐らく対戦者は学院に所属しているものと考えられ、その場合は必ず教官が付いています。防壁について学院がどの程度関心を持つかは不明ですが、注意深く彼らの動きを監視する必要があります」

 確かにそうだが、彼らを監視する伝手を我々は持ち合わせていない。

 ギムリスはそう指摘した。

「現在外部の人間と契約して調査を依頼しました。今後学院とギルドの動きを探っていく予定です」

「信用できる相手なのか?」

 確証はないが、信頼して良いと判断しているとエレノアは答えた。

「ありがとう、エレノア。現在のところでは話せるのはこの程度だ。後日また話をしたいと思う。補足として今後オリガ様の護衛には私がつくことになるので協力をお願いしたい。他に何かあるか」

「あと幾つかよろしい?」

エレノアが挙手し、ギムリスが応じた

「今後3名の名はどうする?」

「それがあったな、オリガ様は何か希望はありますか?」

 タルトを食べ終わって茶を飲んでいたが、話は聞いていたようだ

「まず、様付けるのはもうやめてほしいのと、名前はそうだなぁ、オリビアでどう? 偽名って変な感じね」

 ギムリスが諌めた

 習わしであった。

 ここは別の世界であり、我々は異邦人であることを自覚するためだ。

 力を持つ者もそうでない者も、身分を隠し、この世界に同化して生きる必要があった。

 我々全体が望む結果を得るために、必要なことだ。

 ギムリスはオリビアをそのように諭した。

 オリビアも理解を示した。

 イリアはイレーヌと名乗り、姓はプルトのを借りてバストークとした。

 ハイネとピリスは以前の名を用いて、それぞれアイリス・ビアッジ、ピレーネ・ビアッジと名乗った。

 ビアッジはギムリスの旧姓である。

「ふたつ目は、アシェルにどう話を切り出して、姉のことをどう話すか、知恵はありますか?」

 皆重要な点を見落としていた。

 彼は産まれて数年で社の外に出され、こちら側の人として生きて来たのだ。

 今から彼の生い立ちをどうやって伝えるのが相応しいか、難しい問題だった。

 外部の者に聞かれて良い話でもなかった。

 皆一様に黙った。

 そんな時、プルトが沈黙を破った。

「海に出ようか。大丈夫。あの子なら大丈夫だ」

 皆は準備に取り掛かった。

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