契約

 時を少し遡り、プルトの小屋にイリアが訪れた頃、シエラの街の北通りをタレイアが歩いていた。

 時刻は10時過ぎで通りにはまだ人が多く出ていた

(1日は12時間とされ、午前0時に鐘が一つ鳴らされ、3時にまた3度度鳴らされる。

10時は地球の20時頃で鐘が10回鳴らされる。)

 武術大会の2日目であり、人々は未だ熱が冷めやらぬ様子だった。

 歓楽街は中洲にあるため、遊び慣れた者はシエラの城門が閉まる頃には戻ってきている。

 朝まで中洲で飲み明かすと、ろくなことにならないからだ。

 中洲の歓楽街には娼館が立ち並ぶ区画があり、道ゆく男たちを呼び込みにくる。

 釣られてしまうと閉門時間を過ぎるまで遊び呆けてしまうことが多々あった。

 そうなると、城門の外で夜を明かす羽目になり、有金を持っていかれたり、ひどい場合は身包み剥がされて裸で放置されることもあった。

 そうならぬよう街に戻った者たちが、熱を覚ましに酒場でやり直しているのだ。

 この時期だけは城内でも屋台が立つ。

 通りに店を構える飲食店が、店の外に屋台を立てて、店に入れなくとも、歩きながら食べたり飲んだりできるものを売っているのだ。

 通りには装飾や提灯も掛けられて、街は艶やかに彩られて、人々の心もつい開放的になった。

 日頃の憂さを忘れて、男も女も大いに楽しんでいた。

 中には喧嘩する者、飲みすぎて路地裏に這いつくばって胃をカラにしている者もいた。

 この時期にはよくある光景で、皆それも祭りの内と楽しんでいた。

 そんな喧騒の中を、タレイアは楽しげに眺めながら歩いていた。

 時折屋台の主人に呼びかけられたが笑顔で断った。

 中には代金いらないから持って行けと言うものもいた。

 彼女がいると男が寄ってきて金を落とすからだ。

 タレイアは東風の酒場で働いていて、彼女を目当てに通う男は数知れなかった。

 歳は二十歳前で、背は高く、締まった身体はほっそりとして華奢に見えたが、歩き方が実に軽やかで颯爽として見えた。

 髪が長く、それを後ろで結えて垂らしているだけなのだが、歩くたびにリズミカルに揺れて目を惹いた。

 すれ違う男たちは彼女に思わず見惚れて、振り返った。

 だが、彼女に挨拶して世間話はすれど、誰も彼女を口説こうとする者はいなかった。

 そんな中、大柄な男が彼女に声をかけた。

「よぉ別嬪さんよ、俺たちといっぱい飲まないか? なんなら可愛がってやっても良いぜ」

 下品に口をあけて笑う男を見て、タレイアの表情が変わった。

 異変に気付いた者は距離をとって静かに見守った。

「おい、今日もバカがいたぜ」

「ははは、投げ飛ばされても知らねぇぞ」

「春の時の奴は投げ飛ばされて白目剥いてひっくり返ったままションベン漏らしてたらしいぞ」

「ははは、テメェのションベン顔に浴びてたな」

「今回は何やってくれるか見ものだな」

と小さな声でヒソヒソと笑い合っていた

 そう、シエラの街では東風の女に手を出すな、がこの街の男たちの暗黙の了解であった。

 大抵店の外に放り出されるのだ。

 だがこの街を知らない者はそんな常識を知るはずもなく、不幸な結末を招く。

 大男はしつこく誘っていた。

 タレイアが一番嫌う部類の男だった。

 ニヤけながら男がタレイアの肩を掴もうと伸ばした時、タレイアの手が男の手首を掴んでいた。

 掴んだ時は既に手首は内側に折り畳まれていた。

 力を入れて外そうにも、上手く力が入らない。

「クッソ、何しやがるイタタタタ、離せ!」

 タレイアは手首を掴んだまま捻り、腕を伸ばし手首を肩まで押し込んだ。

 更に前に歩き始め、手首は肩から耳の横まで上げられた。

 そのまま背中の方に押してやると、男は背中からコロリと倒されてしまった。

 軸足を軽く払ったのだ。

 男は手首をさすりながら体を起こし、タレイアを睨みつけた。

 タレイアは引き込まれそうになる程瞳が大きく、ほっそりとした美しい顔立ちをしていたが、機嫌が悪い時は眉間に皺が寄り、目を細める癖があった。

 唇はへの字に曲がり、別人ではないかと疑うほど冷酷な顔になる。

「テメェ恥かかせやがってぶちのめしてやる」

 男は声を荒げて立ち上がった。

 右手を握りしめて、大きく振り上げ、いざ突き出さんとした瞬間、既に目の前に詰められていて、鳩尾に手のひらが当てられていた。

 そのまま殴りに行った矢先、意識が遠のいた。

 呼吸がうまくできず、その場にうずくまってしまった。

 横隔膜に衝撃を受けたのだ。

「おいおいおい生きてるかオッサン!」

 野次馬が男に駆け寄った。

 息はあるようだった。

「バカだなあんた、手を出しちゃいけない女もいるんだぜ、気をつけな」

「しっかし今回のはえげつないなぁ、一撃かよ」

「何やったらああなるんだ?」

 野次馬の一人が肩を叩いて介抱していた。

 タレイアは既に姿を消していた。

 彼女が向かう先は北通りの裏手にある『道草』という酒場だった。

 ここには傭兵家業の者たちがよく通っていた。

 この店の主人が元傭兵で、その仲間やその知人が集まって来ていた。

 その店のカウンターに、今夜もブレアスがいた。

 大抵いつも1人でウェスケベス(小麦の蒸留酒)を静かに飲んでいた。

 しかし今日は違った。

 女が彼を訪ねて来たからだ

「嘘だろあれ、東風のタレイアじゃないか?」

「え、あの男ぶん投げる有名人か?」

「そんな女がブレアスに会いに来たのか」

 カウンターに座るひと組の男女の会話に店中の客が聞き耳を立てていた。

「おいどうしちまったんだ、大人しくなりやがって。調子狂うだろうが気持ちわりぃ」

 ブレアスが吐き捨てると客の1人が冷やかした。

「よぅブレアス、お前にそんな甲斐性があったなんて俺ぁちょっと見直したぜ、いくら積んだんだ?」

と言うが早いか、男の目の前のテーブルに店のナイフが突き立っていた。

 それを見た男たちは二の句を告げられずにいた。

「仕方ねぇな、オヤジ、今日の分置いとくぜ」

 そう言うと、ブレアスはタレイアを連れ出した。

「済まないな、俺の部屋で勘弁してくれ」

 ブレアスの部屋は道草の2階にあった。

 店の外に階段があり、そこに10部屋ほどの貸し部屋がある。

 昔は娼婦が出入りするような場所だったが、闘技場ができた頃に城内の治安を改善する目的で中洲に移動させられたのだ。

 それ以来貸部屋として使われていた。

 薄暗い廊下を進むと階段の方から数人の足音が聞こえた。

 ろくでもねぇ連中がついて来やがったな。

 ブレアスは部屋にタレイアを招くと、窓を開けて、屋根上を指差した。

 タレイアは頷いて後に続いた。

 街の喧騒が聞こえてくるが、ひんやりとした風が心地よかった。

 悪くない場所だ。

「しかしこんな有名人を寄越すとはね」

 自分の傷の手当てをしてくれたのが、タレイアだったとは、知らなかったのだ。

「あんた男に何か怨みでもあるのか?」

「下品な男が嫌いなだけですよ。まず、報酬ですが」

「経費を含めて月5万で良いか? 人を雇う。学院の連中は外部の人間を寄せ付けないから抜きにくい」

「問題ありません」

「よし、では連絡法だが、あんたは目立ちすぎだ。俺とあんたには接点が無いから、余計な噂が立っちまう。そこで、毎週3の日の最初の鐘の時刻までに、東風の庭の松の木に文を投げておく。場所と時間は毎回変える。これでどうだ」

 ひと月は28日4週で火水風土の週があり、1週間は7日、1日の最初の鐘は3時に鐘が3回鳴らされる(地球時間で6時)ことになっている。

「承知しました」

 2人は屋根の瓦に腰掛けて話をしていた。

 ちょうど風下にいたので、女の香りが鼻をくすぐった。

 ふと、エレノアも同じような香りを纏っていたと気づいた。

「あんたはエレノアの身内か?」

「エレノア様は私の姉弟子です。同じ師匠から学びました」

 なるほど。

「香りが似ていてな」

「酔ってはいないみたいですね。香水のようなものです。もてなしの一部としてリネンや室内に香織袋を使います。うちのものはその匂いがするのでしょう」

 しかし、よく似ているものだ。

「ひとつ契約成立の祝いとして、今わかっていることを伝えておく」

 タレイアの大きな瞳がブレアスを見ていた。

 心臓の鼓動が一瞬早くなるのを感じたが、押し殺して続けた。

「学院が追っているのはアシェルではないようだ。無論アシェルを監視してはいるが、目的は別のところにあるらしい」

「ありがとうございます。私たちが警戒しているのは学院とギルドの動きです。動きがあればお知らせください」

 ブレアスは驚いた様子だった。

「ほぉ、学院はわかるが、ギルドを気にかけるとは意外だった。理由を聞いても良いか?」

 タレイアは少し躊躇したのか、間を空けて答えた。

「傭兵ギルドは他の様々なギルドと繋がっています。金融ギルドや海運ギルド、海賊とも裏で繋がっているでしょう。学院は王家だけと繋がり他国とは敵対関係にありますが、傭兵ギルドは国家を超えた繋がりを持った組織です。そして、それらギルドをつなぐ因子が不明瞭なのです。だから警戒しています」

 確かにそうだった。

 過去に他国の戦争に駆り出された記憶があったし、ギルドには裏の仕事があるとも聞いたことがあった。

「分かった、そちらの情報は比較的取りやすいだろうから、任せて欲しい」

「ありがとうございます」

 タレイアは立ち上がると、軽く頭を下げて、数軒の屋根上をつたって音もなく裏路地に消えた。

「東風の女に手を出すな、か。よく言ったもんだ」

 ブレアスはゆっくりと腰を上げると、屋根の上から道草の入り口の前に飛び降りた。

 階段をゆっくり上がり、廊下を見ると、自分の部屋の扉に耳を当てて、中の様子を伺う連中がいた。

「お前ら何やってんだ?」

 覗こうとしていた相手から突然声を掛けられて驚いたのか、男どもの体が跳ね上がる様が面白かった。

 必死に取り繕う言い訳を考えているようだが、口からは、あぁ、いやぁ、しか出てはこなかった。

「何で?」

 ようやく出て来た言葉がそれかよ、と呆れたが、彼らを追い払って部屋に入った。

 ベッドに腰掛けると、ため息をついた。

 ついつい安請け合いしちまったが、この仕事は案外骨が折れるかもな。

 ブレアスはベッドに横になると、すぐに寝息を立てていた。

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