警戒

 その夜、食事の折にエレノアはアシェルを労い、祝った。

「アシェル、公式戦初勝利ね。おめでとう」

 そう言って母は葡萄酒の注がれた杯を掲げた。

 アシェルも礼を言った。

「どうだった?」

「強い人だったよ。詰めがすごく早いし、あんな重そうな鉾なのに、隙が少ないんだ。裏拳はちょっと驚いた」

「戦でならしたのでしょうね」

「母さんはあの人を知ってるの?」

 母は驚いたような表情を見せた。

「どうして?」

「試合の最中に師匠は誰だって聞かれて、母さんの名を告げたら、嫌なものを思い出したって言ってたから」

「あら、覚えてたのね。忘れるはずもないだろうけど」

 母はブレアスに出会った時のことを話してくれた。

 今から10年も前のことだった。

 南方のセドナの街が、隣国に攻められた時、訳あって傭兵として参加したことがあった。その時エレノアは左軍後方の予備隊に配置された。

 開始から敵右翼との戦況は拮抗していたが、左方より別働隊の突撃を受けて、前線が混乱に陥った。

 その時別働隊を指揮していたのがブレアス、当時の名はアルバレスと言った。

 左軍指揮官は、エレノアがいた予備隊を敵別働隊の後方に突撃するよう命じた。

 その時にブレアスと戦い、彼に傷を負わせて撃退したのだった。

 その日の軍議で相手が女だったと知れて、ブレアスは女に負けて作戦を台無しにしたヘボ隊長と詰られ、居場所をなくし軍を去ったらしい。

 戦はセドナ軍が勝利し、エレノアはしばらくセドナに逗留した。

 その時偶然宿でブレアスと出くわした。

 互いに顔を覚えていたから、エレノアはわざわざ探し出して報復に来たのかと思い身構えたが、どうやらそうではないらしかった。

 色々あって軍を去り、今は放浪していると言っていた。

 純粋に彼女の強さに感じ入り、色々問うてくるので、仕方なく酒場で話し込んだ。

 その時名をブレアスと改めたと言っていた。

 仕事もないということだったから、エレノアが契約した傭兵ギルドを紹介して、傭兵稼業を始めることになったが、それ以来音沙汰がなかったという。

 仕事を世話したのは、彼女が初戦で敵将を撃ってしまったものだから、長期契約を迫られて面倒だったので、代わりに彼を推したのだ。

 彼女の推薦ならと渋々受け入れた。

 それが今回、息子の最初の相手となったのだから、不思議な縁だった。

「私の弟子にまで負けて、酒場で愚痴でもこぼしているかもね」

 笑いながら杯を傾けていたちょうどその時、使用人が来客を告げにきた。

 陽も落ちて暗い中、裏口に来たという。

 外套で顔を隠していたが、急ぎ伝えたいことがあると言い名乗りたがらなかった。

 大柄な男で血の匂いがしたと言う。

「中庭で待たせておいて。皆は武器を持って待機」

 早速妙な者が押しかけてきたかと警戒した。

 不安げにアシェルが見つめるので、大丈夫だからゆっくり食べているように諭した。

 中庭には小さな池があり、そこに大きな松の木が植わっていた。

 使用人が気を利かせたのか、庭の灯籠に火が入れられていた。

 灯篭の光に隠れるように、松の幹にもたれる人影があった。

「何か急ぎの用ですか? 宿をお求めではないようですが」

 エレノアがそう尋ねると、男は面布と頭巾を外した。

「いつかは世話になった。あの時の礼に参った」

 ブレアスであった。

 何か事情があるようだと思い、使用人を呼んで客間に案内するように言った。

「それと、薬箱を持ってきて」

と付け加えた。

「傷は大丈夫だ」

「そうは言ってもうちは客商売だからね、血痕が残るのは遠慮したいわね」

「すまん、迷惑をかける」

 エレノアは笑みを返して、客間に案内した。

 ブレアスを床に敷いた厚い布に座らせると、傷を見せるように言った。

 使用人が薬箱を持ってきて、準備を始めた。

 そこまでしてもらう訳にはいかないとブレアスは言うが、息子が付けた傷だからと言って半ば無理矢理服を脱がせてしまった。

「女二人に服を脱がされるなんて中々ないでしょう、大人しくなさいな」

 妙に楽しそうだが、ブレアスは何やら妙なことになったと困惑した顔をしていた。

 上腕も腹部も深く切れていた。

 幸い大きな血管を傷つけてはいなかったし、腹の方も内臓には達していないようで安心した。

「傷を縫うけど、我慢して」

 エレノアは酒の入った瓶と銀の杯を彼のそばに置いた。

 杯には小さな、小麦一粒より小さな黒い丸薬が入れてあった。

 鎮痛剤である。

 少量なら神経を麻痺させるが、過剰に摂取すると意識混濁や呼吸困難、死亡することもあったし、何より依存性があった。

 植物から採られた液体を干して固めたものだ。

 ブレアスは柄杓で掬って杯に注ぐと一気に飲み込んだ。

 使用人は蒸留酒で湿らせた布で傷を拭き、針糸で縫い始めた。

 糸は絹糸を使っていた。

 針を刺すときはもちろんのこと、糸を引くときはさらに痛い。

 皮膚を引っ張られるのと、糸の摩擦で痛みが続くのだ。

 やがて薬が効いて痛みは薄れていった。

 縫い終わった後は、止血用の薬を塗って紙を当てて、布を巻いた。

 随分傷の処置に慣れた使用人だった。

 ほっそりとした顔立ちで鼻筋が通った端正な顔立ちをしていた。

 目は切長でまつ毛が長く、結ばれた赤い唇が目を惹いた。

 黒く長い髪は癖がなく、そのまま垂らしていた。

 血に怯える様子は微塵もない。

 処置が終わると、薬箱を持って下がった。

 ブレアスは椅子に腰掛けて、酒と干し肉を摘みながら、話し始めた。

「あんたの息子だったとはね。どおりで似てるわけだ」

「私の技覚えてたのね」

「忘れるものかよ、あの時の負けで随分人生が変わったからな」

「恨んでた?」

「まさか。自分の未熟さゆえだ、恨みなどない。仕事も紹介して貰ってなんとか食い繋ぐことができた。感謝しているし、だからここに来た」

 エレノアはソファに腰掛けて脚を組み、頬杖をついてブレアスの話を聞いていた。

 剣など持たず、はやりの服に身を包んで街を歩けば、数多の男たちがこぞって口説きに来るほどの美貌だった。

 長い髪は綺麗に編み込まれ、肩から垂らしていた。仮面をつければ歌に聞くヘレナのようだと思った。

 不意にエレノアと目が合い、誤魔化すように話を続けようとして咳込んだ。

 杯に手を伸ばし、喉に流し込んだ。

「10年前と全く変わっていないな」

「あら、褒めてくれてるの?」

 ブレアスは懐かしそうな顔をした。

 以前は髭など生やしていなかったが、今は鼻の下から顎を覆っていた。

「そう言うあなたは少し老けたわね」

 フンッと言って酒を煽った。

 不思議な女だ。

 口調は10年の時の流れを感じさせたが、姿は何も変わっていなかった。

 髪は以前より長くしていたが、肌の艶も張りも衰えが全く見られなかった。

 あの時確か21だと言っていたか。

「そう言えばあの時酒場で酔いつぶされて、俺が代金支払ったんじゃなかったか?」

 エレノアも思い出したのか、慌ててあれこれと言い訳を付けて、払うわよ、ケチ臭いわねと言って金を取りに行こうとするので止めた。

 慌てる様子が妙に可愛らしく思えた。

 そして唐突に、今日ここに来た理由を話し始めた。

「ギルドと軍が動き始めた。あんたの息子が欲しいようだ」

 ブレアスを見るエレノアの表情が強張った。

「それを伝えに?」

「あぁ、あんたも軍からは距離を置きたいんだろう?」

「そうね、あまり関わりたくはない」

「気になるのは、学院が妙に騒ついてる。あいつは術の才でもあるのか?」

 どうやら鼻の効く者がいたらしい。嫌な予感がが現実になってしまった。

 しかし、学院の動きにまで気が回るとは、面白い男だとエレノアは思った。

「わからないが、面倒な話だ。それで、ブレアスさん、で宜しいか」

 ブレアスは今更かと言いたげな顔で頷いた。

「詳しい情報を探ってはもらえませんか? 報酬も渡します」

 エレノアが身を乗り出して頼んできた。卑怯にも、胸元の大きく開いた服を着ていたので、彼女の胸に視線を奪われた。

「ふむ…」

 ごまかすように視線を土瓶にやり、酒を足した。

「連絡は先ほどのものが参ります。必要なものがあれば彼女に申し付けて下さい」

「わかった、引き受けよう。俺の家は北通りの道草って酒場の2階だ。この時間は大抵そこにいる」

「分かりました、明日また往かせます」

 ブレアスを見送ると、エレノアは居間へ向かった。

 アシェルはまだそこにいた。何事か気になっていたのだろう。

「悪かったわね。せっかくの食事が冷めてしまった」

「どんなお客さんだったの?」

 ブレアスだと言うと驚いた様子だった。

「怒ってた?」

「違うのよ。あ、ところで試合中なんだけれど、何かおかしなことはなかった?」

「おかしなこと? あぁ、何か今まで感じたことのない気配を感じたよ。ずっと遠くから話しかけられたような感じかな。でも声じゃなくて変な感じで、うまく説明できないよ。それがどうかした?」

 エレノアは試しに念話を送った。

「あ、今もあった。さっきとは別の人。もっと近いところだ。これは何?」

「念話ね。今やったのは私」

「母さんそんなことできるの?で、念話って何?」

 話しておくべきか迷った。

 今教えたところで理解はできないだろう。

 下手に教えて行動が不自然になれば余計怪しまれる。

 社に報告して指示を待つ他ないか、エレノアはそう考えた

「そのうち話してあげる。でも今は試合に集中した方が良いんじゃない? 刀の手入れは終わったの?」

「それはそうだ。試合はまだ残ってるからね」

 アシェルは休むと言って自室に戻った。

 エレノアは一人ソファに腰掛けて、ブレアスが残した酒を飲んでいた。

「学院が騒ぎ出すと、奴らに知れるのも時間の問題かもしれんな」

 エレノアは誰かいないか声をかけ、タレイアを呼んでほしいと伝えた。

 彼女の腹心であり、妹弟子である。

「お呼びですか?」

「あぁ何度もすまないね、タレイア。明日朝一番にプルトに鳩を飛ばして急いで来て貰うように伝えてくれないか。それから明日の夜ブレアスを訪ねて、調査内容と報酬額の詰めを頼む。この先私はちょっと店を空けるかもしれないから、その時はここを頼む。監視がついてるかもしれないから、皆にも注意を怠らないように伝えて欲しい」

「承知しました。武器の携帯もした方が良いですね」

「アシェルが作った暗器があったね、あれを試そうか」

「承知しました。今日はお休みになりますか?」

「そうするよ。明日から慌ただしくなるからな」

 そう言ってエレノアはまた酒を注いだ。

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