エルオールクロニクル〜1.待望の和子

東風ふかば

第1話 血と剣

金木犀

 河辺の草はひんやりとして、まだ湿り気を帯びていた。

 岸辺に数え切れないほどに立ち並ぶ金木犀が、甘い香りを風に運ばせている。

 ティルナ河の岸辺の草むらに寝転がって、空を仰いでいた。

 雲が空の高いところをうっすらと流れている。

 風に飛ばされた綿飴のようで、手の届く場所まで行く方法は無いものかなと他愛もないことを考えていた。

 太陽に向かって刀を翳し、地肌に輝く無数の星と流れる一筋の光の川を、目を細めて眺めた。

 夜空を映したような景色だ。

 良い出来だと思った。

 大会の前に自ら鍛えた一対の刀、幾度も試行錯誤を重ねて、ようやく出来上がった作品だった。

 どちらも2尺1寸(約63cm)で反りは浅く、地は縦に切った樹木の木目のようで、ひとつは直刃すぐは、もう一方は乱れ刃を焼いた。

 鍔には翡翠を用い、柄はエイの腹革を巻き、絹の平紐を捻って巻いた。

 古刀の名品にも見劣りしない自負があった。

 今日この大会でそれを証明する、それが目標だった。

「さぁ、行こうか」

 アシェルは二振の刀を腰帯に差し、外套を羽織ると、ティルナ川の中洲に向かった。

 中洲には石を積んで造られた闘技場がある。

 ティルナ川が海に繋がるところにティルナビスという港町があり、中洲はティルナビスとシエラの街を繋ぐ水運の中継地だ。

 元々は物資の一時保管庫が建ち並んでいたが、闘技場が建設されてからは、専ら商売盛んな土地に様変わりした。

 物資の出入りが容易な上に、人の往来が増えたので、倉庫として使うよりその場で商売した方が都合が良かったのだ。

 闘技場では大道芸や芝居など、人々に娯楽を提供した。

 特に年3度開かれる武術大会の時は国外からも大勢の観光客が訪れるため、大変な賑わいになる。

 稼ぎ期である。

 武術大会の開催時は飲食店や物販だけでなく、大きく賑わうのは賭博だった。誰が勝者になるかを賭けるのだ。

 勝ち抜き戦で、予選を勝ち抜いた28名が、優勝を目指して戦う。

 シエラの武術大会は規模も大きく、賞金も100万グレイン(約1000万円)と高かった。

 軍人から武術に覚えのあるものが、名を上げるべく国内外から集ってきた。参加費2万グレインを払い、そこから運営側の収益を引いた残りが賞金に充てられる。

 参加費としてはかなり高いが、その分賞金も高く、参加者は毎年100名を超えた。

 夏の大会では、北の都市グリシャの軍人が、シエラ軍の英雄を倒して王者となった。

 今回も両名は予選免除で参加している。

 注目の試合であった。

 大会主催者も彼らを最初にぶつけては盛り上がりに欠けるから、決勝でしか対戦しないように対戦表を組んでいる。

 前回準優勝者は3回戦から参戦し、そこで勝ち上がった4名が4回戦に進み、5回戦が準決勝、勝者が前回優勝者に挑戦する権利を得て決勝と言う流れだった。

 中洲に掛かる橋の袂に、エレノアの姿が見えた。アシェルの育ての親であり、兵法の師である。

「心構えはできた?」

「もちろん」

「行けるとこまで行ってきなさい」

 アシェルは長く伸びた亜麻色の髪をかきあげて、首の後ろで括ると、頷いた。

 迷いのない弟子の瞳を見て、彼女は笑みを浮かべた。

 逞しくなっていくものだ。

 数年前までは稽古で転がされては泣いていた子が、良い顔をするようになった。

 自分がどう戦いたいのかはっきりしてきて、剣に迷いが無くなった。

 時折やりこめてやると直ぐに改めて、別の攻め方をしてくる。

 真直育っているのが何よりの喜びだった。

 アシェルが大会に出たいと言い出した時、エレノアは反対した。

 腕が未熟というわけではない。

 むしろ腕は大会優勝者に全く引けを取らないだろうと見ていた。

 やれるだけの腕があり、出場する目的もしっかりあるのは知っていた。

 不安が拭いきれなかったのだ。何か理由があるわけではないが、妙な胸騒ぎがするのだ。

 しかしアシェルは譲らなかった。

 彼はある二つのことを示したかった。

 ひとつは自身の武、もうひとつは自身で鍛えた刀の出来だ。

 アシェルは幼い頃からエレノアの元で兵法を学んでいた。

 五歳の頃から遊びではあるが、木刀を振ることを教えられ、今では稽古には真剣を用いていた。

 もちろん寸止めではない。それほどまで腕を上げたのだった。

 アシェルが八歳になった頃、エレノアは二振りの刀をアシェルに見せたことがあった。

 刀の鞘を払い、蝋燭の火にかざすと、ここから見てごらんと、幼いアシェルを促した。

 そこには無数の輝く粒が散りばめられ、その中をゆったりと流れる河のような一筋の光が見えた。

 刀の角度を変えるとまた違った景色が現れた。

 星空を見ているようで、余りの美しさにアシェルは心を奪われた

 大きくなったらあんたのものだ、刀に見劣りしない使い手になりなさい。

 彼は真剣に稽古に励んだが、同時に刀の鍛錬にも興味を持ったようだった。

 それからというもの、八年にわたって街の鍛冶屋に通い詰めて鍛錬法を学んだ。

 学業は放り出してしまって、時折火傷を作って帰ってきたが、痛がる様子も無いほどのめり込んでいた。

 エレノアが毎日兵法の稽古だけは欠かさないので、アシェルの体は刀傷と火傷が絶えなかった。

 そして今ようやく、自身が納得できる刀を作れるようになり、価値を示したいと願っていた。

 エレノアも最後には折れて、出場を許した。

 アシェル・サラザードの配当率は、17倍とあった。

 対戦相手の男は矛使いの傭兵で、参戦回数3回、最高順位は4位。

 ブレアス・コールドン、歴戦の猛者だ。

 戦歴のないアシェルに賭けるのは、金を捨てたいか、大穴狙いのどちらかしかない。

 勝敗はどちらかが負けを認めるまでとなっており、禁じ手はなし、要するに実戦と変わらなかった。

 腕や足が切り落とされたこともあったし、死者を出したこともあった。

 大抵は劣勢にある方がサイン、指3本を揃えて立てる、を出して負けを認めて決着がついた。

 そして今、初日の最終試合である第4戦、ブレアス対アシェルの戦いが始まろうとしていた。

 会場に司会の声が響き、場内に二人の戦士が並び立った。

 一人は場違いなほどに若かった。

 場内からどよめきが起こった。

 相手はあまたの戦場を巡る傭兵だ。筋肉の塊が革の鎧から弾けて飛び出したような、勇ましい立ち姿だった。

 矛を担いで立つ姿に、少年の死を予見したかもしれない。

 少年は木綿の胴当に草摺くさずり、木綿の籠手と脛当てに細い刀が二振という出立ちだった。

 どれも藍色に染められていて、秋の澄んだ青空によく映えた。

 場内によぎる不安を無情に切り裂いて、審判は始めの号令をかけた。

 場内から歓声が湧き上がった。

 アシェルは刀を一振だけ抜いて青眼に構えた。左手は腿の付け根に置き、じっと相手を見定めた。

 間合いはまだ遠く、相手は左足前半身で矛の切先は後方にあり、上半身を晒していた。

 打ってくるなら来てみろ、という姿勢だ。

 恐らくは矛を振り上げて右足で踏み込んでくるだろうと予想できた。

 矛の柄は長く、間合いはアシェルよりおよそ1歩分広いだろう。

 矛に刀をぶつけても分が悪い。

 当てて流し、軌道を逸らすのが得策だ。

 アシェルは左手に刀を握り、こめかみの横に寄せ、右足前半身で青眼に構えた。

 ブレアスは少しずつ間合いを詰めた。

 彼は相手を見下したりはしなかった。

 予選を抜けてきた相手だ、弱いはずがないことは身をもって知っていた。

 華奢な刀を二振差していたが、実際は両手で長い剣を振るうよりも間合いは広く、防具を見るに、軽快な動きを好むらしい。

 矛の一撃は重いが、動作は大きく、隙が出やすい。そこを攻めてくるのは間違いなかった。

 だから無闇に飛び出さないのだが、睨み合っていても仕方がない。

 まずは量るか。

 ブレアスは細く息を吐きながら脚をため、矛を八相に構えた。

 天に伸びる矛の切先が輝き、美しさを感じるほど見事な構えだった。

 そして左爪先で地を蹴って右脚を大きく前に踏み出し、一足で間合いを詰めて鉾を袈裟斬りに振り下ろした。

 物凄い速さだったが、アシェルは半歩左に左脚を踏みながら体を開きつつ、左の刀で矛の刃の上から撃ち乗って軌道を右に流した。

 そしてそのまま右脚で踏み込んで、右の刀でブレアスの右脇腹を斬りに行った。

 その時ブレアスの右手の甲が疾んできた。

 籠手には幾つもの尖った鋲が打たれていた。

 直撃は避けたかった。

 アシェルは手を返し、刀を腕に添わすように垂らし、裏拳を刀で受けようとした。

 できる限り上腕に近いところで受けて衝撃を減らし、防具のない上腕を斬るつもりだった。

 躊躇すれば距離が足らない、そう判断したアシェルは思い切って中に入った。

 思惑通り上腕に届いた。

 ブレアスは勢いを殺さず、そのまま振り抜いてきたため、アシェルはその勢いに任せて跳ねながらブレアスの上腕を斬り上げて距離を取った。

 一瞬の攻防に、場内は息を呑んだ。

 ブレアスの腕が赤く染まるのを見て、客席からは歓声があがった。

 賭けの胴元は歓喜していたかもしれない。

 アシェルの札が売れないため、胴元がアシェルを買わなければ賭けが成り立たなかったほどだったのだ。

 ブレアスが勝つと大損である。

 イイぞ小僧!

 奮闘を見せたアシェルに声援が贈られた。

 アシェルは構えた。

 ブレアスは傷口を押さえ、傷の深さを診た。

 思った以上に深く、肉まで切れていた。

「予想の上を行ったな、小僧。良い腕だ。刀も良い」

 ブレアスは服の裾を破いて傷を縛った。

 かなりの出血が見てとれた。既に籠手まで血で濡れていた。

 しかし臆する様子は微塵もなく、笑みさえ浮かべていた。幾度も死地を超えてきたのだろう。

「その刀、貰うとしよう」

 ブレアスが右足前下段で構えた。

 アシェルは右刀を少し前に突き出し、間合いを広く取った。

 どうした小僧、ビビってんのか?

 はははは!

 野次が飛んだ。

 アシェルの耳には届いていなかった。

 ブレアスの足が闘技場の土を踏む音が聞こえた。

 不意に、何かの気配を感じた。

 ここではないずっと遠い場所のように感じた。

 その時ブレアスが動いた。

 一瞬の隙を気取られたのだ。

 細かい振りだ。

 後ろに一歩下がってかわしたがブレアスは止まらない。

 振り上げた鉾を今度は斬り下ろした。

 アシェルは左に回り込んでかわし、ブレアスの右手首を斬りつけた。

 ブレアスは咄嗟に矛から手を離し、そのまま殴りに行くと見せかけ、アシェルの腹に右足で蹴りを繰り出した。

 見事に命中し、弾き飛ばされた。

 重い蹴りだった。

 痛みは堪えたが、僅かに呼吸が乱れた。

 その隙をついてブレアスが渾身の一撃を振り下ろした。

 アシェルは飛び退いて転がりながらかろうじてかわした。

「ふふん、面白い小僧だ。その年でここまでやるとは。アシェルと言ったか?」

 アシェルは頷いた。

「構えも技も、その刀も、過去に一度見たことがある。誰に剣を教わった?」

「母から学んだ」

「名は?」

「エレノア」

 ブレアスは舌打ちして左下腹部を押さえた。膝まで赤く染まっていた。

 ブレアスが蹴ろうとしていた時、アシェルは咄嗟に彼の腹を突いていた。

「くそっ、嫌なモン思い出したぜ」

「母を知っているの?」

 ふんっと鼻で笑い、指3本を揃えて立てた。

 この瞬間、アシェルの勝利が決まった。

 お前なんか二度と賭けねぇ!

 くたばりやがれ!

 ブレアスを罵る声が響き渡り、賭け札が宙を舞った。

 今大会最大の配当金が出たのだ。

 審判が高らかにアシェルの勝利を宣言した。

 大穴狙いの者が歓喜しているのか、それとも彼の奮闘を讃えているのか、アシェルに大きな声援が贈られた。

 エレノアも喜んでいた。

 若干16歳の少年が、手練れの傭兵を倒すという大金星を上げ、アシェルの名は一躍有名になった。

 ブレアスは一人、傷を押さえながら闘技場を後にした。

 アシェルは声援に応えながら、金木犀が香る花道を歩いた。

 髪留めを外して、くしゃくしゃと手櫛を入れた。

 後ろに引っ張られる感じがどうにも好きになれなかったのだ。

 秋の大会では、勝者に金木犀の花を降らせる習慣があった。

 今の季節で最も香しい花のひとつであり、勝者を労って贈られた。

 その昔、仮面の女が闘技場を大いに沸かせたことがあった。

 その剣技は優美でありながら、名だたる屈強な男たちを次々と跪かせ、客席の男たちだけでなく、女たちまでも虜にしてしまった。

 ある男が金木犀の花束を差し出したところ、彼女はそれを受け取り、片手を振って応えた。

 次の試合から、彼女の行く道には大量の金木犀の花が投げられた。

 彼女はその一つを掴み取り、手を挙げて応えた。

 腰まで届く長い髪を丁寧に編み込んでいたのが皆の記憶に残っていた。

 何しろ無愛想な仮面をかぶっていたから、長い髪に注目が集まったのだった。

 その編み込みは今でも人々に愛されていた。

 彼女の名はヘレナといった。

 その女剣士は優勝を勝ち取ると忽然と姿を消したが、勝者に花を贈ることは闘技場の風物となった。

 春と夏は様々な花が投げられたが、秋だけは金木犀で道を黄色に染め上げた。

 甘い香りが漂う中、西に傾いた太陽が金木犀の花びらを黄金色に染め上げて、その日一番の声援と共に、アシェルを祝福した。

 観客席の片隅から、エレノアは彼を見送った。

 そして貴賓席の片隅が慌ただしく動いているのを見て眉を顰めた。

 気づかれたやも知れぬ。

 試合の最中に一度だけ、はるか遠くからアシェルに向けて念が放たれていたことにエレノアは気づいた。

 アシェルも何かを感じたかも知れない。

 最も面倒なのは、中枢の者たちに勘付かれることだった。

 余程の者でなければ気付かない程度のものだが、探らねばならない。早めに手を打たなければ。

 エレノアはアシェルを追った。

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