第2話 スライム

 刀を握り締めた手から震えが消えた頃になって腰が抜けたように、よろよろと木の幹に背中を預ける。

 そのままずるずると腰を下ろし、大きくため息をついた。

 なんとか助かった。助かったけど、この獣が一匹だけとは思えない。

 きっと同じ種類の獣がこの森にはうようよいる。ひょっとしたらこいつよりもっと凶悪な獣もいるかも知れない。

 もし二体以上の獣に襲われたら。きっとこの刀だけでは生き残れない。

 死体になった自分を考えただけでもぞっとした。


「死体……」


 今の気分と同調した視線を持ち上げて、今し方殺したばかりの死体に目が向く。

 それは自らの死と獣の死が頭の中で結びついたからだったけれど、そこで奇妙な現象を目の当たりにする。

 死体が消えた。煙のようになって風に攫われていくのを目で追い掛ける。


「なんだよ、いまの……」


 死体が消える? なぜ? あの獣は生き物じゃないのか?


「なにか、残った?」


 足腰に力を入れてよろけながらも立ち上がり、死体があった場所を覗く。

 消え去った後に残されていたのは紫色の透明な石だった。

 宝石のようにも、水晶のようにも見えるそれを拾い上げて日に翳してみると、石の内部が星の瞬きのように輝いて見えた。


「綺麗な石だけど……」


 どさりと、背後で音がする。

 心臓が口から飛び出そうなほど驚いてすぐに振り返ると、地面には刀の鞘と鞄が落ちていた。腰に巻き付けるタイプの雑嚢鞄だ。


「これも、空から?」


 鞘を拾って刀を納めるとぴったり嵌まる。

 それから膝を突いて鞄の中を確認すると、まず目に付いたのは食糧と水だった。


「食い物!」


 握り飯が三つに500㎖のペットボトルが二つ入っている。大事な食糧だ。今はなによりもこれが嬉しい。


「早速――いや、待った」


 いま食べていいものか? 握り飯はまだ温かいし、ある程度日持ちはするはず。

 人は飲まず食わずでも三日から七日は生きていられるってテレビでやってたっけ。なら最長で二十一日生き延びられる。

 いや、バカか。

 この森には獣がうようよいるんだぞ。逃げ回ればそれだけ体力を消耗するし、握り飯がそんなに日持ちするわけない。


「とにかく、いまはまだ我慢」


 魔石を雑嚢鞄において、代わりにと掴み取った握り飯を戻した。


『いいぞ、冷静な判断が出来てる』

『ここで食糧全消費して詰んだ奴めっちゃいるから』

『自分の命が懸かってんのに短絡的なことして寿命縮めるアホばっかりだけど、こいつは違うっぽいな』


 まだ中になにか入っている。


「これは……小さな箱?」


 握り締めれば隠れてしまうくらいの長方形。それを拾い上げると電流が走ったような感覚を得る。

 静電気などではなく、脳に直接情報が流し込まれたかのような感覚が伴った。


「これ、簡易トイレ……なのか?」


 先ほどの不可解な現象が言うにはそうらしい。試しに投げてみると小さな箱が巨大化し、簡易トイレになった。


「洋式……」


 中は思ったより綺麗で、外側はかなり頑丈な作りになっていそうだった。

 これならトイレの途中で獣に襲われてもなんとかなりそう。

 いざって時に逃げ込める安全地帯としても使えそうだ。


『野郎の汚物なんて見たくないからな』

『男女に関わらず見たくねーよ』

『この性癖はちょっと持ち合わせてない』

『でも、お前らだって天下の往来で言えない性癖持ってるだろ?』

『天下の往来で言える性癖ってなんだよ』


 扉を閉めると再び小さくなって、押し潰された下草の上に落ちる。

 それを拾い上げて雑嚢鞄に戻した。


「あとは……本?」


 雑嚢鞄の中に入っている最後の物。


『あ』

『おい、気付け!』

『来てんぞ、おい!』


 古ぼけた一冊の本。娯楽? ないよりはいいかも知れないけど。

 と、思いつつ表紙に目を落とす。

 そこには魔導書と書かれていた。


「魔導――」


 ふと身の毛のよだつ感覚がした。

 こんなことをしている場合ではない。何故かそう思えてならず、焦燥感に駆られて魔導書から視線を持ち上げた。

 結果、それは正解だった。


「な、なんだっ!?」


 伸びて縮む。伸びて縮む。

 タライ一杯分はあろうかというくらいのゼリー状の液体がこちらに近づいてくる。

 すぐに刀と雑嚢鞄を拾い上げて距離を取り、急いで腰に巻き付けた。


『あっぶねぇ! マジ! よく気付いた!』

『おら、さっさと逃げろ』

『スライムの足が遅いのが幸いだな』

『いや、待った。あいつ落としてないか? 魔導書』

『あ』


 刀を鞘から引き抜いて握り締め、改めてゼリー状の液体を視界の中央に納める。

 そして、気がついた。


「しまった」


 魔導書を落とした。そしてゼリー状の液体に取り込まれている。


『バッカ! お前! ホント、バカ!』

『あーあ、こりゃ詰んだな』

『魔導書必須アイテムなのに。終わったわ』

『魔導書って消化されるっけ?』

『いや、スライム如きじゃどうにもできないけど。あいつ実質物理無効みたいなもんだし、取り返すのは無理だろうな』

『やっぱり詰みじゃん。はー、しょうもな』

『いいや、ここから何かの間違いでミラクル大逆転かますかも知れない』

『それはない。もし逆転したら俺がギフト贈ってやっても構わないよ』


 どうするべきか。あの得体の知れないゼリー状の液体から取り返すべきか?

 それは魔導書の価値による。

 雑嚢鞄の中に食糧と水、簡易トイレと並んで入っていたものだ。重要なものである可能性は十分にある。

 魔導書。ゲームなんかでは魔法を習得できたりするアイテムだけど、だけど魔法って。習得できるとでも言うのか? 魔法を。

 そんなことはあり得ない。どうせ娯楽用の本だ。なくたって問題ない。

 けど、もし重要なものだったら? 考えて見ればあり得ないことばかりが起こっている。俺がこの場にいることも、目の前のゼリー状の液体も、空から落ちてきた刀もそう。

 すべてあり得ないことだ。


「……やるしかないか」


 戦ってみてダメそうなら諦めよう。

 いくら諦め癖の悪い俺でも、それくらいの努力はするべきだ。


『お、やる気だぞ』

『まぁ、取るべき行動としては正解か』

『なお、取り返せるとは』

『魔導書なしならどうせ詰みだし、この判断はアリ』


 幸いゼリー状の液体――なんか似てるしスライムとでも呼ぶか。

 スライムの足は遅い。

 こっちから仕掛けて一発攻撃を当てるくらいのことは十分に可能だ。

 地面を蹴って踏み込み、スライムに向けてがむしゃらに刀を振り下ろす。

 真っ直ぐに落ちた刃はほとんどなんの抵抗もなくスライムを真っ二つにして地面に埋まった。

 けど、斬られたスライムはゼリーが混ざり合うように再生する。


「やっぱりダメか。なら!」


 すぐに刀を手前に引き抜き、今度は横振りに薙ぐ。

 スライムを斃せなくても中から魔導書を取り出せればいい。

 ゴルファーがゴルフボールを打つように、スライムの中に閉じ込められた魔導書を刀の面の部分で捉えて打つ。

 このまま外に飛び出てくれれば、それを拾ってさっさと逃げられる。

 だが。


「これも――ダメか」


 刀を振り抜き、魔導書を打ち飛ばした。

 しかし、今度はスライムの表面がゴムのように伸びて魔導書を捉えたまま離さなかった。伸びた表面は収縮して魔導書を引き戻し、内側で何度もバウンドする。

 どうやっても魔導書を自分の内側から出したくないみたいだ。


『いい手だったんだけどな。マジで』

『今できる最善手を打ってるよな。ダメだったけど』

『いや、ホントここでスライムに魔導書取られたの勿体ないわ』

『土壇場でこの判断が出来るなら良いところまで行けそうだったのに』


 もう打つ手がない。距離を取って逃げようとした直後、スライムから飛沫が飛んだ。

 咄嗟に顔面を庇って後ろに飛ぶと、飛沫を被った腕に痛みが走る。


「いっ!? 酸!」


 よろけつつも距離を取り、自分の両腕を確認する。

 点々と赤く蕁麻疹のように爛れている。皮膚が爛れただけで溶けてはいない。

 魔導書にも変化がないし、そんなに強い酸じゃない?

 ともかく、もう無理だ。有効な攻撃手段がない。

 斬っても打ってもダメなら他にはなにも――


「いや、ある!」


 腰に巻き付けた雑嚢鞄に手を突っ込み、握り締めたものを投げる。

 それは小さな長方形の箱、簡易トイレ。

 空中で大きくなったそれが鉄槌のように落ち、スライムを踏み潰す。

 斬っても打ってもダメなら潰すまで。

 流石のスライムもこれで原形を留めては居られない。まるで水風船を踏み潰したように、中身が弾けて周囲に飛び散った。

 下草が焼け、地面が焦げる。再生する様子はない。


「よし!」


 スライムを押し潰した。


『しゃオラ! 見たか! 勝ちやがったぞあいつ!』

『おいおいおい! マジか!? これマジか!』

『簡易トイレでスライム斃した奴なんて初めてみたぞ!』

『なんだこいつ!?』


 大きく息を吐いて、胸を撫で下ろす。飛び散ったスライムが煙となって消滅した。

 簡易トイレを開け閉めして小さくすると、下敷きになっていた魔導書が姿を見せる。

 潰し方がよかったのか、損傷が一切無い。というかインクが滲んでもないし、そもそも濡れてすらいないように見える。

 これはいったい? と首を傾げていると、獣がそうだったように紫色の透明な石が魔導書の上に落ちる。

 瞬間、魔導書が淡く輝いて石を吸い込んでしまった。

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