その男、キリギリス

宮脇無産人

 


 日が沈んでまもないというのに、家々のあかりは消えて町はひっそりした。にぎやかであるはずの年の瀬にしては、町屋はどこもかたく戸を閉ざし、酒店は看板をおろして、おもて通りにはひとだかりの影すらみえない。せまくるしくたて込んだ家と家のあいだの物陰に、寝どころをうしなった酔っぱらいの、しどけなく眠りこんでいる姿があってもよさそうなものだが、ざっと見渡してもそこに犬猫のすがたひとつみとめられなかった。ただ月あかりの下に屋根からドサリとすべり落ちる雪の音だけが、町を包みこむ薄やみのなかに淋しくひびく。木枯らしの吹きすさぶ冬のよるであった。その吹きすぎる風に背を押されて、かなたの街道筋からふらふらとつづく足どりの向かうさきを追えば、くらがりのなかに一軒だけあかりのともった家の窓辺に、あたまにはやぶれ帽子、ぼろぼろのコートを羽織って、背にはギターをかついだ男がひとり、ところ違えの門付芸人のように、茫としてたたずんでいる。ついさきごろ、いつものように夫を出迎えてから奥の部屋にこどもを寝かし付けて戻ったばかりのアリの女房は、ふと窓の外に異様なふうていの男のすがたをみとめると不安げな面もちで夫の顔をみた。

「また乞食かしらね」

「宿無しだな。泊めてくれというのだろう。こうさわぎが続けば、仕事も金もないやつはいくらも出るさ」

「ドアを叩いてるよ。きっとしつこいわね。どうするんだい」

「部屋は空いているし、晩飯をつけて泊めてやるくらいはかまわないだろう」

 そう言いながら玄関のドアを開けたとたん、夫婦は顔いろをさっと変えて、その場に立ちすくんだ。というのは、よろけながら転がりこんだ男のコートの裾がまくれ上がって、うすぎたない羽根が二枚、あらわに目に飛びこんできたからである。おまけに、破れ帽子のあいだからは長く伸ばしたヒゲがちらちらする。そいつが不意にうごいたのか、背中にしょったギターの弦をかすって、ぼろんと音を立てた。ふたりはびくっと身をふるわせて、厳しい目つきでこの珍客をにらみつけた。珍客、すなわち男はキリギリスの音楽家とながめられた。

「野宿つづきで疲れているんだ。ひと晩泊めてくれないか」

 コートのポケットを両手でまさぐると、二三枚の銅貨をとりだして、部屋のまんなかにあるテーブルの上に無造作に投げ出した。女の声がただちに撥ねかえってきた。

「たったこれっぽっちじゃあ、泊まりだけだね。食事の用意はできないよ」

「それなら泊めてくれとはいわない。腹が減っている。食い物を分けてくれ」

「ふん。やっぱりただの乞食じゃないか。それとも上がりこむだけ上がりこんで、じつは盗みに入ろうなんて料簡じゃないだろうね」

「盗みなんてとんでもない。ただ、……」

 それまで黙ったきり、鑑定士のように目をほそめて、上下隈なく男のようすを観察していた夫のアリが、重々しい声でさえぎった。

「たとえ金を持っていようとも、パン一個たりとも、分けてやるような食い物はないね」そしてテーブルの上に投げ出された銅貨をこっそりポケットにおさめると、あからさまな侮蔑の表情をうかべて、男のまわりをぐるりと周った。

「その、大道芸人のような恰好はなにかね。ヒゲを生やして、ギターなんぞを背負って、そのやぶれ帽子は投げ銭を受けとるための商売道具というわけだろう。インチキな芸をみせて、わしらが汗水たらして稼いだカネを巻き上げるのが盗みでないとどうして言える。泥棒だよ」

「そうさ。ドロボウだよ、あんたたちは」女房も便乗してさけんだ。

「おれは泥棒なんかじゃない」

「泥棒でないとすれば何だというのだ。自由を愛する吟遊詩人というわけかね。わしに言わせれば、そんなものは世の中にあまったれたゴクツブシのいい訳にすぎん。そもそも、人間の生活というものをナメてかかっているのじゃないかね。生活とは労働、すなわち自然とのたたかいの中に生きることだよ。春夏秋冬、自然はめぐりめぐって、豊饒と過酷をくらしにもたらす。暖かな春の日のつぎには暑い夏が、つづいて稔りの秋、次いでながく厳しい冬というものがやってくる。冬は死の季節だよ。あらゆる生きものは死に絶えるか永い眠りのときに入る。それにそなえて、あるものは秋に滋養のあるものをたらふく食って身うちに栄養をたくわえ、あるものは永い冬を越せるだけの食料を、一年をつうじてあつめることに時を費やす。それが生活というものだ。わしもこの冬を越すために、まったく働きづめの毎日だった。労働とは、与えかつ奪う自然と、折々たたかいながら生き抜くことだよ。生活ということの意味がすこしは分かったかね。夏のあいだに、楽器を弾いてあそび暮らしていたおまえたちのようなやつは、物乞いの真似をするまえにくらしぶりを反省する必要があるとおもわんかね」

 するとキリギリスの男は、空きっ腹をおさえながら皮肉な笑いをうかべた。

「それなら、おれたちが遊んでいるようにみえた夏のあいだに、あんたらがしこたま貯めこんでいた食い物があるということだろう。それはどこに隠してあるんだい。盗んだり、脅し盗ったりというような手荒なことはしないよ。いまのおれは飢えている。あんたは食い物をひとり占めしている。げんにある事実はそれだけじゃないか。おれの言いたいのはただ、ここに公正なる富の分配を要求するということだけだよ」

 そう言ってしまってから、はっと気がついた。どうもおかしい。この町にたどり着いてから、左右の家々の構えをざっと眺めわたしたかぎり、どういう事情によってか目に映る家々すべて、はやばやと灯かりを消して寝静まるなかに、この二階家だけは窓辺のあかり晧晧と、煉瓦作りの構えも立派に、さては裕福な商人夫婦の住まいにちがいないと目星をつけて飛び込んできたはずが、見わたせば部屋のなかは文字どおりのガランドウのすっからかん、真ん中のテーブルを除けばこれといって家具調度のあつらえもないのはいったいどういうわけか。空腹でかすんだ目をよくよくこすって見れば、夫婦のアリはともにあおじろく頬の肉がそげて、裕福な商人夫婦どころか、ほとんど幽鬼の姿に似た。すると、さきの主人の長広舌は、功なり名をとげた年配者が若者の道楽をたしなめる説教というよりは、たんにない袖を振って虚勢を張ってみせたにすぎない。奥から腹を空かせたこどもの泣き声が追いすがるようにきこえてくると、テーブルのほか何もないガランドウの部屋のなかに、いっそ空虚にもの悲しくひびいた。

「なんにもありゃしないんだよ、ここには。もう、こどもたちに食べさせるものだって……」アリの女房は嗚咽に身をふるわせながら、苦痛に身悶えするようすであったが、そのときキリギリスの男の敏感な耳……いや、長く延びた触覚がぴくりとうごいて、遠くからなにか軍隊が足並みをそろえてやってくるような、まるで地震のひびきに似た、異様な物音がここに近づいてくるのに気がついた。

「なにかやってくるみたいだ」

「あいつらさ」アリの夫が声をひそめた。「あいつらが、なにもかもを奪っていきやがったんだ」女房のほうはというと、部屋の隅に身を寄せるように、耳をふさいでしゃがみこんでいた。軍靴の足音はまぢかに迫った。あたりを探索するサーチライトのあかりは家々の壁や部屋の中にまで分け入って、〈あいつら〉の影を、大きくまた小さく、まるで回り灯ろうのように不気味にゆらめくすがたに映し出した。窓の外をみると、闇の中に見分けられたのは、黒と黄色の派手な軍服に身をつつんだ異様な集団が、わがもの顔に街中を進軍していくけしきであった。

「スズメバチの連中だよ」夫のアリが、やりきれないようすで肩を落とした。「好意から忠告させてもらうが、あいつらに見つからないさきに、はやくこの町を抜け出したほうがいいだろうね」

 風のうわさに伝え聞くところによれば、森から森、町から町にわたって、かの連中が襲いかかり翔けぬけていったあとには、虫の一匹、草木の一本さえも残らないという。ならばうわさを流した当人がなにものかという詮議はおくとして、キリギリスの男をさいしょに出迎えた、異様に荒れすさんだ町のおもむきもこれで合点がいく。主人のはなしでは、スズメバチがこのアリの町に乗りこんできたのは、ざっと三年ほど前であった。ある朝、出し抜けに飛行機の爆音のようなうなり声がきこえたかとおもうと、見上げる空いちめんをまっくろな影が覆いつくした。影はやがてイナゴのように地に舞い降り、雪崩れをうって町を呑み、火が燃えひろがる勢いで、ひとびとの暮らしのなかに、どっと流れこんできた。しかし、これは後にふりかえった印象である。やつらといえども、いきなり出し抜けに侵略なんぞという間抜けな手はとらない。はじめは連中にしても、道路や橋を直したり、ここに暮らす住民の機嫌をとるところから、生活のなかに巧みにすべりこむという方法をとった。なかには、この生活の変わりようを歓迎するむきも、ひとびとのあいだになくはなかった。しかし支配のながれは民生から行政、やがて司法にまでおよぶ。この町の役人が収賄の疑いで摘発され、スズメバチの連中にしばり首にされるまではよかったが、その後釜にすわったのは連中の行政官、アリの町の自治は失われて、やがてすっかり連中の手のうちに落ちた。いにしえより豚は太らせてから食えという。天から下った連中が、地上に張りついて生きるものたちに、まるで神かなにかのような傲慢なしせいで臨みはじめるのは道理であった。すすんだ文明を与えたわれわれにたいして、おまえたちは返礼をする義務がある。いや、両者の関係を人間と家畜になぞらえるならば、われわれは望むままにおまえたちから奪う権利を持つだろう。かかる論理によって、穀物を徴発する、婦人に乱暴をはたらく。コドモをさらう。狼藉のかぎりを尽せば、やがて町はひっそり、ひとびとは怖れて家に閉じこもり、おもてに道ゆくひとのすがたは絶えた。着の身着のまま、家具調度もそのままに、夜逃げどうぜんに逃げ出すものが増えつづけるにおよんでは、残ったわずかなひとびとが肩をよせあっても、ここはすでにゴーストタウンにひとしい。太らせた豚を食い散らかした連中の向かうさきは、あらたなる豚を求める旅路にほかならない。この町もそろそろ、虫の一匹、草木一本残らないほどの無人の荒野と化すのに、そう手間のかかることはなさそうであった。いつのまにか軍靴の足音も遠ざかって、あとはただしずかに、野犬の遠吠えだけがさびしく闇にひびいた。

「そういうわけで、ここにはもう何もないんだよ。きみと公正に分かち合える富なんぞというものはどこにもない。分かったらもう出て行きたまえ」

 アリの主人はたった一本だけ大事にとってあったらしいウィスキーの瓶を棚からとりだすと、ぐっと咽喉に流し込んで、おもわずこみ上げてくる奇妙な笑いをこらえながら、男をじっとみた。鎮まったよるの闇に、女房の押し殺すような嗚咽の声がひびいた。こどもの泣き声が、それに答えるようにきこえたが、なす術もなく床にふせっているほかないようであった。

「くやしくないのか」

「え」

「どうしておとなしく従っているんだ。たたかうということを知らないのか」

 キリギリスの男は、両足にちからをこめて立ちあがった。

「おまえのような青二才にそんなことを諭されるおぼえはない」

「そうさ。あんたみたいな遊び人に、どうしてこのひとが説教されなくちゃならないのさ。このひとはね、家族を守るためにがんばってきたんだよ。毎日せっせと米や麦をあつめて、町からずいぶん遠いところまでひとりで出かけていって、やっと一家が冬を越せるだけの財産を築きあげたところだったんだよ。あいつらの目を盗んで、おもてむきは逆らわないように繕いながら、やっとのことで守ってきた生活さ。昔ばなしでは、夏のあいだに汗水たらしてはたらいて貯蓄にはげんだあたしらが報われて、遊んでいたあんたたちの仲間は冬を越せずに暮らしに困り果てる。そうでなくっちゃならないはずだよ。それがなんだい。……でも、仕方がないんだよ。もうこうなっちまった以上は、運命に従ってゆくより、どうしようもないんだよ」

「運命。それのどこが運命だというんだ。まじめにはたらくアリが報われて、遊んでいるキリギリスのおれが落ちぶれるのがほんとうなら、やつらのせいでその常識がぶち壊されたというのなら、ますます運命のはずがないじゃないか。さっき、あんたの旦那は言ったな。与えかつ奪う自然とたたかうのが人間の生活だと。この町において、与えかつ奪っているのは、あいつらスズメバチの連中にちがいない。だったら、あいつらとたたかうことのほうにこそ生活の意味があるとどうして考えないんだ」

 アリの夫婦はただ、黙りこむばかりであった。暖炉の炎は消えかかっていたが、継ぎ足すべき薪はとうに尽きた。冷気が部屋を満たしてゆく中を、反対にキリギリスの男の声にはふしぎと熱気がこもった。

「おれたちの故郷の町なら、みんな武器をとってたたかう。こんなはなしがある」

 コートの内ポケットから、なにやらこまかい字をいっぱいに書きこんだメモのような紙片をとりだすと、代わる代わる夫婦のほうに視線を泳がせながら、こもった熱がほとばしるように語りはじめた。

「これは、おれの生まれ故郷に伝わるはなしだよ。むかし、腕自慢のふたりのバイオリン弾きがいた。ひとりは生まれが貧しく、ただおのれの立身出世だけを生き甲斐とする男だった。もうひとりは、どちらかというと恵まれた生まれつきだったが、まずしいひとびとの暮らし向きにこころをよせて、かれらがきびしい人生を生きてゆく励みになるような、そんな音楽をめざす男だった。あるとき、ふたりのバイオリン弾きは、城によばれて国王のまえで腕くらべをすることになった。いわば、御前試合というやつかな。この勝負に勝てば、一生遊んで暮らせるほどの恩賞が与えられることがきまっている。あとの男はべつにそんなことに興味はなかったけれども、勝負に負ければ残酷な刑罰がまちかまえているというウワサを怖れるあまり、いやいやながら参加したというわけさ」

「ねえ、勝ったのはどっちなのさ」

「こういう御伽ばなしでは、民百姓の味方をするほうが勝つにきまっている。勧善懲悪だよ。わしがものがたりに期待するのは、学ぶべき教訓だけだからな」

 寒さも忘れて、ふたりはしぜん男のはなしに釣りこまれていくけはいであった。

「ところが蓋をあけてみると、栄光にかがやいたのは、文字どおり立身出世をめざす男のほうだった。そのわけは、かんたんだね。こんな勝手な催しで人民をこまらせるような王様の理解できるゲイジュツは、立身出世の男が奏でる勇ましいコケオドシの音楽に決まっている。あとの男のつくった曲は、とても王様のこころに届くようなものではなかったからね。お約束どおり牢獄にぶちこまれたバイオリン弾きは、ある村の娘の手引きによって難をのがれることはできたものの、じぶんのゲイジュツというものに自信が持てなくなった。悩み苦しんだ末に、ゲイジュツというものを本当に民衆のものにするためには、それにさきだって、王様や貴族たちが支配する世の中そのものをぶちこわす必要があるという思想に、おのずからたどりつくことになったわけだよ。折りしも国では不穏な空気がひろがって、バイオリン弾きは農民一揆の旗印に担ぎ上げられる。ところが、国の音楽家たちのギルドのなかには、ゲイジュツにたずさわるものは政治には関与するべからずというきびしい掟があった。その掟にそむいたバイオリン弾きは、仲間のゲイジュツ家たちからさえも、追われる身となってしまう」

「それで、どうなったのさ」

「国王の軍隊が出動して、一揆はまたたく間に鎮圧された。かれは捕えられて火あぶりの刑になる。一揆のなかまを代表させられてね」

 しばらく沈黙したあとで、アリの主人が身を乗り出してたずねた。 

「主人公のバイオリン弾きが死んだ。すると、そのはなしはもうお終いかね」

「いや、そうじゃない」キリギリスの男は答えた。「物語の中で主人公が死ぬということは、反対におれたちのなかで、そいつが生きはじめるということなんだ。つまり終わりではなく、今がはじまりということだよ。バイオリン弾きは、民衆のためのゲイジュツ、すなわち真理ということに気がついた。おれたちのたたかいはそこから始まる。このはなしには勧善懲悪の判りやすい教訓はないけれども、死んだ主人公の犠牲において、おれたちはそのこころざしを継いで進むことができる」

 そのとき、窓の外から非常警戒のライトの光がまぶしく射し込んだかとおもうと、とたんにばたばたと足音がして、夜目にもあかるい派手な軍服に身を包んだスズメバチの兵士がいくたりか、戸を蹴やぶって踏みこんできた。アリの主人はおもわず腰を上げた。うすぐらい室内をぐるりと見渡すと、そのうちのひとりが主人の鼻先にいきなり銃剣を突きつけてぐいぐいとうしろに圧したてた。背後の壁にぶつかって逃げ場をうしなったとき、銃剣の先はわずかにアリの主人の面を逸れてぶすりと壁に突き立った。なんの表情もうかべない兵士の口がぜんまい仕掛けの玩具のように開いたり閉じたりするのがみえた。

「書生ふうの若い男を見なかったか」

「いや」

「そのうすぎたない貧相なやつは客か」

 キリギリスの男は椅子に腰掛けたまま、おもむろに帽子をとって丁寧にあいさつをしてみせた。芸人ふぜいが。兵士の顔はそう言いたげに、あざけるようにゆがんだ。この町がいま戒厳令下にあることはおまえたちも知っているだろう。武器弾薬を盗んでひそかに反逆をくわだてる一味がこの近くにひそんでいる。見つけたらすぐに知らせろ。ほうびはたっぷりくれてやる。長まわしの蓄音器のように、ほとんど棒読みにそれだけのことをいうと、戸を開けっぱなしにしたまま兵士たちはどやどやと外へ出た。部屋には打ちひしがれた面持ちの夫婦と、みすぼらしいゲイジュツ家きどりの男と、よどんだ重苦しい沈痛な空気がのこった。やがて、兵士たちの軍靴の足音がだんだんと遠ざかって、暗がりに消えてゆこうとするとき、その闇を切り裂くような悲鳴がおこった。あるいは女のものかもしれない、わかい男の声であった。見つけたぞ。引っ立てろ。そういう事務的な応答がかすかに聞こえたかとおもうと、ふたたび起こった悲痛な叫びといっしょに、しだいに小さく遠ざかりながら、家家の硝子戸をふるわせ、石畳につめたくひびき、声はやがて吹きすさぶ夜風にさらわれるように闇に消えた。

「なるほど、見て見ぬふりか」キリギリスの男は立ち上がって膝の上の埃を払いのけた。「そうやって、せいぜい蓄財にはげむんだな。金がほしけりゃ、なんならこのおれを売りとばしてもいいんだぜ。もっとも、その売上の半分はいただいてこっちもふところを暖めたい。そうでもなけりゃここに用もなし、もう失敬するよ。どこかでひとのいいおやじをカモにして、きょうのねぐらにありつく必要があるんでね。よそをさがすさ」

「待ってくれ」戸口に立ったキリギリスの男を追うように、主人が声をかけた。

「おれを売りとばす気になったかい」

「そうじゃない。むしろ反対だよ。あんたをやつらに売りとばしてなにがしかの銭を得たところで、単にひきょうものの上塗りになるだけだ。わしにとって名誉なことは何ひとつない。やつらの横暴をまえにして、おなじ町の連中がつぎつぎと犠牲になってゆくのを尻目に、こそこそと自分と家族のくらしだけを守る。自然とのたたかいだ、労働だ。そんな月並なことばをならべて誤魔化してみても、やっぱりこんなくらしは人間の生活という名にはぴったりこない。ひきょうもののくらしだよ」

 はたで聞いていた妻がとたんに不安げに顔を持ち上げた。アリの主人は、部屋の奥まであるいてゆくと、ついさっきスズメバチの兵士が銃剣の先で突き刺した壁の生なましい傷痕に手を当てた。その薄壁にひらいた裂け目から、連れて行かれた若者のさけびが、遠く距離をへだてて洩れ聞こえるようにおもった。わしはひきょうものだ。押し殺したようなつぶやきがもれた。

「売ったりなどしないよ。むしろ、あんたを買おうという気にさえなった。さっき語ってくれた故郷の物語とやらをな。何、それがウソの物語であってもかまうものか。ウソを連ねてもそこにマコトがあれば、そいつを買うほうにわしは賭けてみたい」

 主人はしずかにそういい終えると、ひき止めようとする女房の手をふり払って、つと壁に据え付けてある銃架から古びた猟銃をもぎとった。そして、かたわらの女房にキリギリスの男に戸棚の奥に隠してあるパンをあたえるよういい付けると、銃身につもった積年のホコリをふっとひと息に吹き飛ばしてみせた。まぎわに声がして、

「ところで、あんたの名前をまだ訊いていなかった」

「モハメッド・アリだよ。おやじの付けてくれた大事な名前だ。どういう由来なのか詳しくは知らないが、なんでも蝶のように舞い、ハチの野郎と刺し違えるというおやじのことばだけはよく耳に残っている。すこし文句がちがったかもしれないがね」

「どこへいくの。ねえ、どこへいくのさ」

おもわず駆け寄ろうとする女房を、舞うような動きでひらりとかわすと、主人は弾丸の飛び出すようないきおいで外に駆け出した。とたんに強烈な向かい風が吹きつけて、あとを追いかけようと戸口にさしかかった女房のまえに、いきおいよく扉を叩きつけた。窓の外は荒れ狂うように吹雪く。主人のすがたは横ざまになぐりつける雪のさなかにかき消え、ゆくえはとうに知れなかった。キリギリスの男は、しばらく窓のそばに佇んでいた。やがてどっかりと椅子に腰を下ろした。口元に皮肉な笑みを浮かべて、だれに対するでもなく、すなわち自嘲的なひびきをもって大声で笑い出した。

「なにがおかしいんだい」

「さっきのはなしは、じつは言い伝えでもなんでもない。おれがつい昨日おもいついた戯言だよ」

「なんてことだい」

「どうだい、おれのでっち上げたウソばなしの出来具合は。あんたの旦那に感動という安っぽい気持ちをおこさせるにじゅうぶんな実力をそなえたものか。いや、どうかわからないぞ。おれのウソばなしなんか聞かなくたって、あの旦那はいつかあわてて外へ駆け出していく手合いじゃないのかな。いずれにせよ、ウソばなしにも一片のマコトがあればそれに賭けてみたいなんぞと褒められると、作者としてはついうれしくなっちまう」

「このウソツキ。ひきょうものはあんたのほうだよ。食い物なんか、やるもんか。今すぐこの家を出ていきな」

 ウソツキ。たしかにそのとおりだろう。ウソを塗り固めたかたまりをもって、ほんとうらしい感動をつくり上げる。けれども、そんなものはたいてい安っぽい駄菓子みたいなもので、添加物のクスリの匙加減ひとつで、ゲイジュツの毒にあたってツクリゴトの世界を一生さまよいあるくやつもいれば、恋やら革命やらてんでんに見当ちがえのほうに向かって駆け出していくまぬけなやつも出るにちがいない。そうでなければ、みずから血を流すようなバカげた真似はしないで、古くさい掟の言いつけにしたがって、文壇やら論壇やら歌壇やら詩壇やら演壇やら教壇やら人生の桧舞台にのぼったとおのれの楽屋をつい錯覚しかけたまま、一生を書斎という名のトラワレの船の乗客となって波の上をふらふらさまようのが関の山だよ。……もうこんなことはうんざりだ。そろそろお終いにしなけりゃいけない。なのに、あいかわらず駆け出していくことができないおれこそ、もっともひきょうものの名にふさわしいやつさ。虚ろな目を宙におよがせながらゆらゆらと立ちあがったとき、吹雪はやみ、風のいきおいも弱まっていた。しんとする静けさのなかに、ふたたび軍靴の足音がさざなみのように押しよせてきた。

「そう、出て行くとも」

 キリギリスの男は、ギターを背負いなおし、やぶれ帽子を目深にかぶると、ふらふらと戸外へよろめき出た。そのとき、奥の部屋から腹をすかしたこどもの泣き声がきこえた。アリの女房は我にかえったように小さく叫んで、戸口に駆けつけた。待っておくれよ。なんてことをしてくれたんだい。あのひとがいなくなったら、あたしらはどうやって暮らしていったらいいのさ。あのひとを連れ戻しておくれよ、後生だから……。約束するよ。連れ戻してきてくれたら、今夜ただでうちに泊まっていってもいいよ。夕飯も付けてやってもいいからさ。その悲痛な叫び声は、かなたの石畳をおぼつかない足どりで駆けてゆく男の耳に届いたものとはおもわれない。というのは、叫び声とひとしく一発の銃声がひびきわたって、男の影が遠くにぱったりたおれたと見えたからである。背負ったギターが地にころげ落ちて、音にもならないひびきが微かにきこえた。しかし男がどうなったものか、闇の中に飛び出してゆく危険をおかさずには、たしかめようがない。ひとり取りのこされた中年女は、しばらく窓の外を眺めながら黙然と立ちすくんでいたが、やがてあきらめたようにかぶりを振って、奥の部屋にひき戻っていった。

 二発目の銃声が鳴った。三発目の銃声が鳴った。だれが撃ち、だれが撃たれたのかすらわからない。ただはっきりしているのは、ぼんやり眠りこけている住民たちすべてのベッドを、のろしのようにあがった銃声がはげしく揺さぶったにちがいないということであった。家々の窓には順順にあかりが点り、窓をあけはなして身を乗り出し、口々になにか叫びながら、わらわらと石畳の道にくりだしたひとのむれの押し合いへし合い、ざわめきは野火のように、アリの町のすみずみへと燃えひろがった。それにしても、これほどのあたま数がいったい町のどこにひそんでいたのか。道にあふれるひとの波は、十人が百人、百人がやがて千人と、とどまるところなく膨れ上がるいっぽうで、金持ちも貧乏人も、いや、やつらのおかげで金持ちというものはすでになく、老いも若きも老若男女一切合切、ぞくぞくと広場に群れあつまった顔ぶれは、おしなべて労働者というやつのつらつきであった。黒い顔はどこまでも黒く、よるの闇を吸い尽くすまでに黒くひかって、ひたと打ち寄せるひとの波はしぜん、隊列のかたちにととのいつつあった。先頭にかかげるべき旗はない。ただ、雪崩れをうって四方八方に突きすすむ。そのぶつかったさきに、例の黄色と黒の連中が銃を持って待ちかまえているとすれば、どういうことになるのか。じりじりと両者にらみ合いの、にじり寄ったすえに、「踏みたおせ」どこからともなく掛け声があがれば、たちどころにわっと襲いかかるひとのむれは、隊列乱れず、まっすぐに突きすすんだ。逃げを打って駆け出していくハチどもの、後ろざまに放った銃弾がいくにんかを掠めて、そこにどうと倒れこむ。そのうごかない仲間のむくろは、かなたに遠くひとびとの王座をみはるかす絨毯のように連なり、その上をしかと踏みすすんでゆくひとのむれをいずこへか連れ去ってゆくようであった。

 丘に、教会に、交番に、およそ連中の臭いのするところには、あちこちから火の手があがった。祝宴は夜どおしにつづいたようであった。一発の銃声がとどろいたのを最後に、ハチどものすがたも絶えてなく、ひとびとのすがたはてんでんに散って、巷のあちこちに消えのこった炎と星空が、ちらちらカゲロウのように夜天に瞬いていた。



 あれからどれほどの時間がたったのか。めざめると、からだや足のふしぶしがずきりと痛んだ。相当にがたぴしと来ているような具合である。長いユメを見ているようであった。石ころや銃を手に突きすすむ群集のむれに、それを追うハチの兵隊どものすがた。燃えさかる町をふらふらさまよいながら、追ってすがるようなアリの女房のさけび声の……いや、そんなものを聞いたような気もすれば、聞かないような気もした。最初の銃声を聞いたとき、撃たれたとカンちがいしたおれは、とたんに腰をぬかして気をうしなったのにちがいない。それにしてもふしぶしが痛むのは、起きかけてはだれかに踏み倒され、たおれてはまた起きあがるということを、夜のうちにいくたびも繰り返したせいかもしれなかった。キリギリスの男は上体を起こそうとした。起き上がろうにも、シーツが薄い膜のようにぴったり手足にまとわりついてはなれない。醒めないユメのなかでもがきつづけるようであった。その、なにかを探し求めるように、もだえるようにうごく手が最初につかんだものは、やぶれ帽子であった。たぐりよせると、妙にいぶりくさい臭いがぷんと鼻についた。こいつじゃない。薄目を開けると、目のさきに茶色い棒のようなものがまっすぐ立っている。ぐいと伸ばした手がむずとつかんださきから、硬い木の感触ではなく、なにかやわらかく充実したものの手触りが伝わった。とたんに目のまえに火花が散った。鞭でぴしりと打たれたような衝撃であった。跳ね起きると、見しらぬ部屋のベッドの上に服を脱がされてはだか身のまま、だらしなく寝転んでいるじぶんがそこにいる。ベッドの隣には小さなテーブルがあって、そこに甲斐甲斐しく朝食の皿をならべる手さばきの上をたどってゆけば、不機嫌そうな女のしかめっ面にぶつかった。つい覚えのないアリの娘である。窓は閉め切ってあるが、灯かりは暗くない。外からはときおり時を告げるラッパの音がかすかにきこえる。キリギリスの男は部屋をざっと見わたすと、そのときはじめて、身につけていたはずのギターがどこにも見当たらないことに気がついた。

「おれのギターはどうした」

 キリギリスの男はあえぎながら叫んだ。

「そんなに大切なものなら、どうしてなくしたりしたのかしら」女は手を休めず、ひややかに応えた。

「なくしただと。冗談じゃない、おれは……」

 言いかけて、とたんにキリギリスの男はことばに詰まった。ギターをなくした。仮にそいつを事実と認めるとしても、いつどこでなくしたというのか。先日の夜の出来事は、起きがけにはっきり覚えていたユメが昼には煙のように消え失せてしまうのとおなじく、いまにもぼんやりと記憶の蔭にかくれてゆくような気がした。そうかとおもうと、火の粉が舞い、血にはやったひとのむれが踊りくるう巷を駆け抜けた記憶が、まざまざとよみがえってくるような気もした。ギターを落としたときに、うっかりあたまを打ってしまったのかもしれない。たしかに覚えていることは……おれはギターを背負っていた。ということは、おれはゲイジュツ家、それも楽器を弾く音楽家というやつだったのにちがいない。それがどうして、乞食どうぜんの態でこの町にふらふらやってきたのか。キリギリスの男は、アリの町にたどりつく以前のことはすっかりおもい出すことができなくなっていることに、はたと気がついた。

「どうやら、なくしたのはギターだけではないようね」アリの娘は憐れむような目つきで男を見た。「でも、安心なさい。ここは見てのとおり病院のなかよ。あなたのような患者も、たくさん収容されているとおもうわ」

「患者だって。とんでもない」

 男はベッドから飛び起きると、ひらりと床に着地した。とたんに烈しい痛みがびりりとからだ中を駆けめぐった。

「おれはきっと音楽家だったんだ」

 うめくようにそう声を絞り出すと、キリギリスの男はそれでも這うようにベッドから遠ざかって部屋の扉に近づこうとした。「おれはギターを探しにゆかなくちゃいけない」

「音楽がどうしたというの。ギターがどうしたっていうのよ」

 そう叫ぶと、アリの娘は患者をベッドに押し戻しながら憐れっぽくつぶやいた。

「ほんとうに憐れだわ。なにもかも忘れてしまっても、そんなことだけはちゃんと覚えているというのね」

 キリギリスの男は疼く脚の痛みに耐えながら、シーツにふかく潜りこんだ。

「わたしは看護婦よ。その立場から言わせてもらえば、あなたは少しは場所柄をかんがえて行動する必要があるようね。ここでは病人やケガ人はベッドに寝ているものと相場がきまっているわ。その手当てをするのがわたしたちの仕事。医療に携わるという立派なしごとよ。人生とちゃんと向き合い、ひとびとの生活に役立つこと。それが立派な仕事の条件だとおもうわ」

 看護婦のことばは、遠回りにゲイジュツ家というものを非難しているようにも、キリギリスの男にはきこえた。

「どうしてキリギリスのおれなんかをたすけた」

「ケガ人の手当てをするのに、アリのキリギリスのといった差別が必要なのかしら。だけど、キリギリスのあなたにとって、これから相当に生きにくい世の中になるかもしれないわね」

「そいつはどういうことだい」

 アリの娘は、質問にこたえる代わりに、憐れむような、あるいは軽蔑するようなまなざしでキリギリスの男をじっと見つめた。それから手馴れたようすで仕事を終えると、言いかけたなにごとかをぐっと飲みこんだような顔つきで部屋を出ていった。


 あらためて見わたせば、天井は高く、部屋はひろびろとしていた。ベッドはふかふかの羽根布団、カーテンは閉め切って外のけしきは見えないが、日も落ちて夜ともなれば、この窓から目路はるかにかがやく夜景を眺めることもできるにちがいない。場ちがえではないか。かんがえてみればこの場においておれほど場ちがえなものはない。なにゆえに、行きだおれにひとしい男に王侯貴族なみの設備と好待遇とを与える必要があるのか。きっと、こいつはハラペコのすえに巷に窮死寸前の男の見た一場のユメまぼろしの類いにちがいない。そうおもって壁に吊ってあるおんぼろコートを手に取ると、端端がこげて燻りくさいにおいが鼻をかすめた。これはユメではない証拠といえた。

 昨夜ふらふらのていで夜道をさまよっていた胃袋には豪華すぎる品がずらりとならんでいる。あじわう暇もなくそいつをからっぽの胃に投げこむと、ふだんろくな食い物を口にしていないせいで、とたんに胃液が咽喉のそばまで逆流してゆくのを感じた。焼けつくような苦しみが胸をおそい、よろめきながらベッドに倒れこんだとき、松葉杖をたずさえて駆けもどってきた看護婦の娘は、ばかでかい注射器を振りかざすと、キリギリスの男の尻にゆくりなくぶすりと突き刺した。あっと声をあげるまでもなかった。遠のいていく意識のなかで、キリギリスの男はドアの隙間から洩れる燻りくさい臭いと、薬品や消毒液のつめたい臭いをかいだ気がした。ベッドに倒れこむときにつかんだテーブルクロスがずり落ちて、食べさしの幾皿が病室の床に落ちて砕けた。

 ……あなたは巷で寝転がって野良犬になめられていたのよ。ところへ、さる親切な紳士が治療費を立て替えてくれたうえに、この別あつらえの部屋に入院できるよう便宜をはかってくれたというわけなの。野垂れ死にしても文句のでないご身分だったのよ。あなたは、ほんとうに恵まれたひとのようね。

 気がつくと、看護婦のすがたはもう消えていた。部屋のテーブルには一冊のノートとペンが置かれてある。自由に感想を書け。下手な字でそう走り書きがあった。疲れた足でふらふら戸口へ近づきノブをひねると、外から鍵がかかっていた。 

 食事は必要なときに運ばれてくるし、入浴そのほかの設備もまんぞくにととのっている。出歩く自由についても、看護婦の同伴さえあれば、館内のどこへ立ち入るのも別にとがめだてはうけないようである。こうして、もう数ヶ月ものあいだ館内をさまよいあるいた実績がものを言って、キリギリスの男にはこのアリの町をとりまくごたごたの顛末がぼんやりと見えてきたようであった。

 さわぎのあと、スズメバチの覇権はあっけなくたおれるという仕儀にいたったらしい。が、アリが市全域の支配権をとりもどすには及ばず、町はハチの残存勢力とアリのレジスタンス勢力の両者がせめぎあう、文字どおり虫食い状の荒野と化しているというのが実情のようである。あちこちで散発的な小競り合いのいくさがつづく。革命さわぎはどちらの勝利にも結びつかずに、ただ町を荒廃させたにとどまるようであった。もはや、たたかいの火蓋を切ったのはだれか、開戦ののろしをあげたのはなにものかについては、日めぐり月が変わるにしたがってすっかり忘れ去られたにひとしい。荒れ果てた町に焼けのこった病院は、アリとハチとを問わずぶち込む難民収容所であった。その収容所に、ふらふら町にやってきて行き倒れどうぜんに巷に投げ出されたおれが、どういういきさつがあってか、ひとの好意に便乗して豪勢にくらしている。むろん、自由に外へ出られない以上、これは監禁ということに落ちるだろう。しかし、いったいなんのために。寝るまえにその日のできごとをノートに書きとめるという習慣は、看護婦の強制によって、日ごとにキリギリスの男の身についた。ノートを書くために看護婦と毎日、病院のなかをぶらぶらするのは、ほとんど隠居老人のくらしぶりに似る。そういっても、コンクリートづくりの殺風景なけしきを日がな一日ながめているのは骨が折れた。部屋についたとたん、放り出した松葉杖といっしょにばったり倒れこむと自由時間である。いや、自由なんぞない豪華尽くめの牢獄生活のことにして、その日の見聞の意味をじっくりじぶんのあたまで考えろということにちがいない。ペンは手ずからノートの白紙をはしった。夜は更けペンは指をこぼれ、ノートは枕もとに転がり落ちて、キリギリスの男のからだは空腹の馬のようにベッドのうえに倒れこんだ。布団にもぐり羽根を伸ばしかけたとき、塀の外から朝の到来をつげるラッパがけたたましく鳴った。


 看護婦は部屋にやってくると「散歩」の時間だといった。三階にある部屋からまず一階へおりて、長い廊下をわたっていったあとにまた五階までのぼってゆく。屋上と地階にはまだ足を踏み入れたことがないが、どの階も判で押したようにおなじようなけしきがつづいた。病室のベッドは足の折れたアリの老人や、羽根が焼け落ちたスズメバチの負傷兵でいっぱいで、足しげく行きつ戻りつする担架の往来にじゃまになるほどにひしめきあう。ところによっては廊下さえも待ちの患者がずらりと列にならんだ。たしかに、この数ヶ月のあいだにキリギリスの男が見聞きしたところでは、アリもキリギリスも、あのスズメバチの連中さえも患者として差別しないという看護婦のことばを少しは信じてもよいようにおもわれた。看護婦の娘は、松葉杖をこつこつ鳴らしながら、よろめきながらついてくるキリギリスの男をよそに、ずんずんさきを先導してあるいていった。

 そのとき、廊下でとおりすがりに見た車椅子の男に目がとまった。騒乱の巷のまんなかにふらふらさまよい出たところに、ふっとすれ違いざまに目が合ったアリの青年に間ちがえはないだろう。いつかの夜、かれの瞳はよるの闇にかがやく猛禽の目のようにするどく、足は翼が空を切るはやさで、吹きすぎる風のように颯爽とそばを駆けぬけていった。手には銃を握り締め、胸にはおそらくあしたのエネルギーともいうべき、怒りと熱気とをはらませて……ばったり倒れたときにはもうかれの姿を見うしなっていた。すれちがいざまに会ったのは二度目であった。そのかれが「ありがとう」とは。声はたしかに車椅子のほうから聞こえた。ふりむくと、車椅子はつい曲がり角のむこうに消えていた。たしかにあの青年にちがいない。が、目は古ぼけたレンズのように曇り、視線はふわふわとハエのように宙をおよがせながら、車椅子はなめくじのようにゆっくりとした速度で病院の廊下を這っていった。ありがとうとはどういう意味だろう。昨夜のどたばた騒ぎの原因が、おれがインチキな物語でアリの主人を焚き付けたことにあったとすれば、感謝とはどういうつもりか。いや、まさか。かれがそいつを知っているはずがない。それに、昨夜の騒ぎはアリの主人が手前勝手に合点して駆け出していったさきに起った騒ぎで、なにもおれが責任を感じる必要はないではないか。そうだ、アリの主人は勝手に銃をとって夜の町へ飛び出していった。おれはただ、それをはたで見ていただけだ。つまり、いっしょに駆け出してゆかなかったことを、ひきょうと咎められる理由はあっても、焚き付けたことを感謝されるおぼえなんぞはない。ゲイジュツに、まして即興のウソばなしにそんな神通力がそなわった日には……

「まだ、きのうのクスリが抜けていないようすね」そういうと、看護婦は廊下をすたすたさきにあるいて、階段をのぼり、また長い廊下を通り抜けると、やみくもに建物の上をめざしてすすんだ。キリギリスの男は、だいぶ遅れてそのうごきについていった。目的地についたころには相当に息切れがして、とたんに吹きつけたきもちのいい風が、からだにまとわりつく汗と、薬くさい匂いとひとの熱気のおりを一気にぬぐい去っていった。

「屋上に着いたわ」看護婦はまぶしそうに片手を日除けにかざしながら、フェンスの近くまであるいていった。「この町では市庁舎のつぎに見晴らしのいい建物だから、きっとアタマのなかのもやもやもしゃんと整理されて、何もかもくっきりと見渡すことが出来るんじゃない」

 そういえば、病院は建物の高さの半分ほどもある塀と、なかに植えこまれた樹木とにさえぎられて、どの病室の窓からも外をのぞくということはむずかしい。いつか夜景を見ようと窓を開けたとき、満天の星のかわりに、ただ真っ暗なコンクリートの壁が絶望的にせまってきたときのおどろきを、すっかりわすれていたようであった。松葉杖をがちゃがちゃいわせながらフェンスに駆けよると、おもわず身をのり出してさけんだ。風はよどんだ空気といっしょに、地上のけしき一切をえぐるように奪い去っていったかのようである。見晴らしがよいどころではない。建物は塀というものがあったおかげで偶然まもられたようであった。「おれを精神科へ連れていってくれ」狂っていないとすれば、あのどたばた騒ぎが、怒りに火のついた群集とハチの小競り合いが、家家を焼き払い、石畳をひっくり返し、町ぐるみごっそり破壊と混乱の恐怖のなかへ、ひとびとの運命をたたき込んだとかんがえるほかなかった。階下から聞こえてくる、わけのわからぬ叫びや狂ったような女の笑い声、苦痛にうめく声声は、この足下のけしきに焼け出されたあげく、当てもなくさまよったすえに、この病院に寿司詰めにたたき込まれたひとびとの発する悲鳴にちがいない。そうでないとすれば、声はじかにあたまの中から聞こえてくるというのだろうか。いつのまに背後にまわったのか、うしろから看護婦の声がした。

「狂っていないアタマに、たしかな目にしかと焼き付けるのよ」

「ぜんぶ、あのときの……」

「わたしの家族も住む家を失って、あちこち転転としてる。命がたすかっただけ幸運のようね。べつに、恨んでいるわけじゃないわ。あなたがやってくるまえから、スズメバチの連中が幅を利かせているこの町には、ひそかに地下に潜ったひとたちの不満は渦巻いていたの。いわば、町はちきれるほどに膨らんだ風船だったというわけ。そこに、あなたという針の先が、どこかからだしぬけに突っ込んできた。でも、そのことはそのことよ。この騒ぎについて、あなたに責任を問えるのかどうかはわからない。でも少なくともこの件に関わってしまったとはいえるわ。もう、なにもかも元には戻らないのよ。……あなたはこのゲンジツを目の当たりにしても、まだ涼しい顔をしてゲイジュツの幻想のなかに浸っていられるのかしら」

「おれは……」

 そのとき、キリギリスの男の脳裏に、さっき見てきた病院の中のけしきが生々しくよみがえった。キリギリスのおれにとって生きにくい世の中になる。いつか部屋を出しなにいった看護婦のことばが、ずしりと腹の底にひびくようにおもい出された。

「音楽や物語が、病人やケガ人を救ったり、飢えた子どものおなかを満たすことができるとおもって。だとすれば、あなたは本当におめでたいひとのようね」

 おれはうっかりこの町の歴史というやつに触っちまったらしい。キリギリスの男はそうおもった。だが、歴史とはどういうことか。この町へやってくるまでのことをおれは何もおぼえていない。この町の歴史もしらない。いま、病人やケガ人が巷にあふれ返り、ゲイジュツなんぞ見向きもされないこの町にあって、記憶を失ってまで音楽のゲイジュツのと未練を捨てきれないおれはたしかにおめでたいやつにちがいない。おれはこの町の連中にとって、ただの厄介ものにすぎない。その厄介でおめでたいよそ者が、町に暮らすひとびとを不幸に叩きこむような歴史にかかわったとなると、そいつはどういうことになるのか。看護婦の娘はぼんやり空を見上げて、もうなにも聞いていないように放心していた。キリギリスの男は考えあぐねたすえに、ようやくことばを見つけ出した。

「だが、どうも納得がゆかないこともある。病院がひっくりかえるほどの死人けが人を出すもとを作ったこのおれが、どうして豪華な個室や食事をあてがわれたり、親切にもあんたのような看護婦がついて教育めいた案内やら、なにやらおもわせぶりな世話を受ける義理があるというんだ。さる親切な紳士の格別の計らいというやつかい」

「その質問にはわしが答えてやろう」振り向くと、ついさっきまで看護婦の立っていた位置に、髭をたくわえた白衣の男がパイプをふかして佇んでいた。

「道端で気を失っている君を見つけたとき、正直をいえばかまっている余裕などなかったね。見渡すかぎりの瓦礫の山のなかでは、ほかにいくらでもひどい傷を負った者たちが通りを埋めつくしておったからな。そこに奇特な御仁があらわれたのだよ。ふところから札束を取り出したかとおもうと、この行き倒れの男の運命をカネで買おうとおもうから、あとはよろしく面倒をたのむと、こういうんだよ」

「なるほど。で、そいつはどこのなにものなんだい」

「さあ。茶色の山高帽にステッキを持った、ありふれた田舎紳士といった風采だったな。君を送り届けるのに病院まで付き添ったあと、気が付いたらふっとすがたを消していた。親類縁者というわけでもあるまい。それとも、なにか心当たりでもあるのかね」

 その心当たりのない田舎紳士からポケットに札束をねじ込まれて、見ず知らずの行きだおれの男の身柄を押し付けられた不運な人物が、おれの主治医ということになるらしい。親切な紳士が払った現金じゃらじゃらで、病院の中に快適な生活の場をもつ。こちらの立場はそう悪くない。しかし考えようによっては、紳士がおれを病院に監禁したということではないか。紳士はさっさと姿をくらましてゆくえが知れないという医師のことばは信用ならない。すなわち、この病院の中では自由なんぞないトラワレの身で、看護婦は身のまわりの世話一般を引きうけるとみせて、じつは行動を紳士とやらに逐一報告するといった役どころにちがいない。いったいなんのためか。そういっても、松葉杖のふらふらの身では病院を抜け出すこともできない相談であった。これまでのところ、医師も看護婦も敵とも味方ともしれないやつである。相談をぶつ相手にはふさわしくない。日が落ちかかって、夕暮が間近にせまった。振り返ると誰のすがたもない。ふたりがおれを監視する任務を帯びているとすれば、これは束の間の自由をめぐんでくれたということだろうか。だが夕暮時である。理屈とは反対にもの淋しいきもちが募った。

「待ってくれ」

 キリギリスの男は、あわてて階段を駆け降りようとした。松葉杖のおかげで、歩みは遅遅としてすすまない。階段を一段降り、二段降りるうちに、踊り場を照らす明かりがちかちかして、ぱっと消えた。すると、一歩踏み出そうとした松葉杖のさきが地をとらえそこねて空を切り、キリギリスの男のからだは闇のなかにどうと投げ出された。そのままばたばたと階下を転がり落ちていったさきに、なにか冷たく硬いものにはげしくぶつかったかとおもうと、そこに鉄扉がギイと不快な音をたてて開いた。飛び込んできた熱気とひとのざわめきは、ふらふら立ちあがったキリギリスの男を触手のように絡めとって、あたたかい動物の胎内へ連れ去ったかのようであった。


「だれだ」

 鉄扉はおのずから閉じる仕掛けらしい。そのときすでに、五、六人の患者がキリギリスの男を取り巻いていた。これがどうして病院に収容される患者にみえるというのか、男たちはどれもくろぐろと日焼けした太い手足に力をこめて、今にも掴みかかろうという気合がふしぶしにみなぎっていた。キリギリスの男は二、三歩あとずさりしたかとおもうと、つい今しがた転がりこんだ鉄扉のノブに手をかけた。開かない。そう気づくよりさきに、たくましい手が長くのびて肩のうえにがっちり固定されていた。

「おれは患者だよ」キリギリスの男はとっさに答えた。「つい、きのう入院したばかりでなにもわからない」

「なんの病名だ」

「知るもんか。気が付いたらここにぶちこまれていたんだ。そんな当たり前のことを聞くあんたたちこそ、あたまがおかしいんじゃないのか」

 男たちのあいだに突然、哄笑の渦がわきおこった。すると、それをとりかこんであつまってきた女や子どもたちのあいだにも、波紋のように笑いの輪がひろがっていった。キリギリスの男はじぶんを取り囲む連中の顔をぐるりと見まわした。灰色の壁に仕切られた、ここは地下にあるボイラー室のような間とながめられた。そこに、いくつもベッドやら生活用品が運びこまれて、たむろするひとびとの数は五十人に満たないほどか。笑いの波がようやく鎮まると、あちこちのテーブル席に陣取って世間ばなしに夢中になる声がとぎれとぎれに聞こえてきた。

—もともとこの町なんざ、ろくなもんじゃねえ。あたしらが日々生真面目にはたらいた金から差っぴいた税金をだよ、じぶんのふところにしてたのが旦那がやってくるまえの市長だね。

—いよっ、解放軍。おもわず市庁舎の屋上にみんなで押しかけて、ぱっと花火はあがる、桜も咲く、飲めや歌えの大宴会よ。

—そんなことで人民が黙っているとおもうか。負けたやつには負けたやつの筋の通し方があるだろう。裁判だよ。

—おれは退院したら、まだほうぼうにキャンプを張ってたたかう仲間に身を投じる覚悟があるね。……

 ひとびとはもうキリギリスの男のことなど忘れてしまったかのように、あるものはテーブル席に戻って談話に興じ、あるものはポーカーや花札に夢中、なかには半裸になってテーブルの上でおどるツワモノもある。ここでは一瞬のできごとも次の一瞬にはもう忘れられている。忘却ということは美徳とかんがえられているようであった。

 さっきの男がまえにすすみ出て、

「そのとおり。おれたちはあたまがおかしい。ここは言わば、精神病棟という名の楽園かな。いや、あしたのたたかいのためのアジトといってもいいかもしれない」男はすこし真面目な調子にもどってつづけた。

「こんなはなしをしても大丈夫なのかと訝しくおもうだろう。おれたちは表向きあたまがおかしいふりをしているから外のやつらは発言をまともに受け取らないし、それに、ここでは患者による自治がみとめられている。そういっても、内実はろくでなしの不良患者を叩きこむゴミ捨て場のようなところだといったほうがわかりやすいだろうね。つまりは、病院側でメンドウをみたくないやつらをひとまとめにして、雨露しのぐ屋根だけは提供するから食い物やらなにやらは耕すなり盗むなり勝手にしろと放り出したようなあんばいだよ。医者や看護婦どもがやってくるのも月に一回ていどにすぎない。入り口は厳重に警戒しているはずだが、それでもごくたまに病院の間諜がしのびこんでくることがある。そのときは本当におかしくなるまでとっちめた上で、身ぐるみ剥して放り出すだけのはなしだがね」

 キリギリスの男は、さきの男に案内されながら、ここに生活するひとびとのくらしを見てまわった。おそらく病院内に臨時に仕立て上げられた、アジールのような共同体なのだろう。零落あるいは自業自得のはてに、世間にも病院にも身の置きどころをなくしたひとびとが身を寄せる、いうところの駆け込み寺か。いらないやつらを野に放り出すのではなく、ひとところに囲いこんで生活の自由を与える。あるかなきかの犠牲を厭わなければ、このほうが監視もたやすい。さきざきで耳にはさんだ会話から察するに、生活の自由とは必要なものを必要におうじて外の世界から身ぐるみはがして調達してくることを意味するようである。その奪い取った生活物資は乱雑に食い散らかされ浪費されるというのでなく、きちんと整理分別されて公平にひとびとの手にゆきわたっているようであった。楽園というものにちがいない。あちこちからひとびとのたのしげに笑いさざめく声がながれる。ときおりは気持ちよさげに歌う声なんぞも聞かれた。薬物を調達するに不自由しない病院内でのことである。クスリの薬効あらたかと知れた。

「うまれるのよ」

 そのとき、小さな女の子が男の前に飛び出してきて、興奮したようすでさけんだ。すると担架に乗せられた若い女が、いくたりかの患者につき添われながら、部屋の奥へとあわただしく運ばれてゆくのが見えた。腹がおおきくふくらんでいるようである。「マリアだ」「マリアだな」通りすぎてゆく道道で、うれしそうにさけぶ声がおこった。女の子はついてきて、という身振りを示すと、ふたりの男をあとに担架を追いかけていった。

 担架はやがて、奥に据えられた天幕のなかへと担がれていった。人込みにさえぎられて、松葉杖はふらふらと右へそれ、左へ傾きながら、キリギリスの男を天幕の入り口まで導いていった。さきに着いて待っていた女の子は、到着を見届けると、男の手をとって天幕のなかへひっぱりこんだ。

「どうも、人見知りをしない子どもだな。ひとに対する警戒ということをしらない」

「なに、ここには親が子どもをひとり占めするような野蛮な思想がないからだよ。こんど生まれる赤ん坊も、おれたちみんなの宝として大切に育てられるだろう」

 なかはごった返すひとでよく見えない。どっと歓声がわくと、詰めかけていたひとごみが波を打って動いた。ざわめきの合間に、赤ん坊の泣き声がとぎれとぎれに聞こえてくる。たしかに男のいうとおり、ここでは子どもは親の独占物ではないのだろう。親だ子だという類いのしめっぽい感情はつい縁のないもので、子どもの誕生はここの住民すべてが祝福すべきことがらにちがいなかった。

「産まれたようよ」

 とたんに、キリギリスの男はいつかの夜にあとにした家の赤ん坊のことが目に浮かんだ。アリの主人は銃を手にとって、女房子どもをそのままに家を飛び出した。スズメバチに一矢報いるというのは大義名分ではある。強者に立ち向かってゆくというのは、一方ではもっとちっぽけな弱いやつに犠牲を強いるものかもしれない。銃の背後に置き去りにされたものたち。たちまち、赤ん坊を抱いたまま戦火の巷を逃げまどうアリの女房のすがたが見えたようであった。いま目のまえではげしく産声をあげる赤ん坊が住民すべての子どもであるとするなら、天地がくつがえろうと、このちっぽけなやつを見捨てて逃げてゆくやつはいないはずである。だがここの住民すべてが巷に駆け出してゆく日がくるとしたらどうなのか。あしたのたたかいのためのアジト。男はたしかにそう言った。その賭けるべきあしたのために、犠牲に供せられるのが今日の生活だというのなら、ここにあたらしく生まれてくる赤ん坊の運命は……

 キリギリスの男は松葉杖を振りながら、ふらふらと磁石に吸い寄せられるように天幕のなかへと入っていった。担架の女はベッドに寝かされ、赤ん坊はふうわりした布切れにくるまれて産婆の手に抱きかかえられていた。ひとびとはみな、赤ん坊を代わる代わるに両手に持ちあげて祝福することにいそがしく、だれもキリギリスの男に気づくものはいない。そのとき、マリアと呼ばれた女はよろめきながら歩み寄るかれのすがたを見て、おやとおもった。このひとにはどこかで会ったおぼえがある。燃えあがる火のなかを、そのなかを行き交い逃げまどうひとびとのあいだをふたりがすれ違うけしきがふと目に浮かんだ。それは、出会ったことがあるという過去の思い出ではなく、将来において出会うかもしれないという錯覚にも似た刹那のひらめきであった。マリアはふと、赤ん坊の父親のことをかんがえた。ついそばから、キリギリスの男が声をかけてきた。

「身内の付き添いはいないのかい」

「主人はたたかいの中でゆくえが分からなくなりました」

 歓喜にみちた目のうちにふっと翳りが立って、マリアはしずかに目を伏せた。

 キリギリスの男は、ふと壁に立てかけてあるセロを見つけて手にとった。

「楽器を弾く方でしょうか」

「ええ」

「夫はアリでしたが、楽器を弾くのがとても好きでした。作曲もしたのよ。夫の曲は、アリにふさわしい、はたらくひとたちのための歌。畑仕事のあとにみんなで火を囲んで、ビールを片手に歌いながらおどる労働の賛歌よ。……もしよろしければ、この子に名前をつけてやってもらえませんか。楽器を弾くひとにつけてもらえば、きっとあのひとも喜ぶにちがいないとおもうの」

 マリアはどうしてそんなことばが急に飛び出したのか、わからなかった。キリギリスの男は、マリアの夫の持ち物であったセロを手にとると、その胴体をなでたり、弦をさわったりしながらじっと考えこんでいた。労働の賛歌。そういえば、どこかでそういうことばを耳にしたような気がする。なにかの関わりを持った気もしなくはない。それを探り当てることが、理由はわからないが、なくしたギターを取り戻す糸につながってゆくような気がしてならなかった。だが、奏でた音がつい過ぎ去った時間のなかに消えてしまうように、ことばもまた消える。マリアはじっと待つように黙っていた。そのとき、どういうわけか、夫の形見であるその楽器を手にもてあそぶ男をとがめる気にならないのがふしぎにおもえた。やがて、ことばはすらすらと出た。

「モハメッド。モハメッド・アリだ」

「つよそうな名前ね。どういう意味のことばかしら」

「おれもしらない。でも、それがどういう意味のことばになるかは、この子が成長してどんな生きかたをするかに係ってくるだろう。どういう人生を送るかまでは、きかれても名前のほうが困るだけだよ。気に入らなければ忘れてしまってもいいさ」 

 そのとき、傍らにいた案内役の男が「モハメッド・アリばんざい」と叫んだ。天幕のなかで、ぞくぞくと外に詰めかけた人込みのあいだに、声はたちまち連呼するかけごえとなって、燃えひろがる野火のように部屋の隅隅にまで駆けひろがった。どこからともしれず楽隊があらわれ、酒がはこばれて、ひとびとは熱病に冒されたように踊りはじめた。男たちが半裸になって全身はげしくのたうちながら手を打てば、女たちはひっぱりだしてきた盗品の衣装でとりどりに身を飾って舞い狂う。子どもたちはテーブル席のまわりに輪をつくり、メリーゴーランドのようにくるくると可愛らしくまわった。いつしかキリギリスの男も、ひとびとといっしょに浮かれ気分に、踊りうたい、飲み食い立ちさわぐうちに、時はまたたくまに去って東の空があかるくなっているのに気づいた。病院で決められた消灯時間はとうに過ぎ去っている。頃合いを見はからって戸口へ向かおうとするキリギリスの男の肩を、ぎゅっと強いちからでつかんだものがあった。

「おもえば、これまでにあの鉄扉の側から侵入者が入ってきたことはなかったな。鉄の処女ということばもある。その鉄扉が開いたということは、おまえは鉄扉に気に入られたということかもしれない」

 キリギリスの男はすこし照れた。

「おまえは立派にあたまがおかしい。おれたちとおなじ匂いがする」



 看護婦はノートをぱらぱらめくると、傍らの椅子にくつろぐ男に手渡した。白衣の老人は、葉巻に火をつけるとおもむろにページを繰りながら、おおげさに目を見開いたり顔をしかめたり、低いうなり声をときどき挟んだ。看護婦が促すような目で老人のほうをちらりと見たが、茫とした顔つきで壁を見つめているだけである。すでに夕方であった。そういっても、いったい何度目の晩にあたるのか。ここに連れて来られてから、おなじような毎日がつづいて、日の感覚もだんだんと麻痺しつつあるようにおもわれた。朝はやく起床してから、昼間は病院の中をすみずみまで案内されて、よるにはノートに日記と感想文の合いの子のような目的不明のレポートを書かされる。病院の外へ出ることは許可されなかったので、書くことは退屈をまぎらわす慰めといえばいえた。しかし、こいつを読まれるとなるとおのずからはなしは別になる。鯛が俎板の上に乗るように、モルモットが実験台の上で腹をかっさばかれるのを待つように、精神科の医師がノートを読み終えるのを、キリギリスの男は神妙な面持ちで待つほかなかった。

「わたしがさきに所見を述べさせてもらうわ。よろしいかしら、先生」

 どうぞ、と老医師がうながした。

「さっそくノートを読ませてもらったけれど、とても興味ぶかい内容よ」

「おれはただ、指示されたとおりに正直に書いただけだよ」

 キリギリスの男は不服そうな顔をした。

「正直に書いてこうなるということが、……なんといったらいいのかしら。あなたの書いた内容というのは、ここにやって来てからの自分の行動をつぶさに観察して、事実を記録し内面をふりかえるといった体裁のものではないわ。ここに書かれている事柄はわざとらしくねじまげられたものであって事実とはいえない。いわば、あなたの想像力がつくりだした都合のいい解釈をよせあつめてゴッタ煮にしたといった印象ね」

「ふむ。わしの見たところでは……」老医師も重い口をひらいて、

「きみには、不十分な事実を空想で勝手におぎなって、物語化してしまう傾向があるようだね。経験によって知り得た事実と、それを吟味した結果得られる解釈を混同しがちらしい。因果関係のあきらかでないものを事実と誤認する。たとえば、ある家できみが大演説をぶった事実と、さきの騒動とはまったく別の事象だよ。ところが、きみはじぶんのぶった大演説に影響されてある男が銃を手に飛び出していったことが町の大破壊につながったと書く。そのいっぽうで、騒動が起こったのはもともと町には住民の不満が鬱積していたせいで、じぶんが原因ではないとも書く。ここには誇大妄想と責任回避がじつに奇妙なかたちで同居しているとおもわないかね。きみはじぶんを世の中に大きな影響を与えうる重要人物とかんがえたがるいっぽうで、同時にとても小心で臆病な性質の持ち主でもあるということらしい。それゆえ、叙述は心理的な一貫性を欠いて心棒はつねにふらふらだね。ある出来事にふれて、深くこころに沁みて後悔の念をおこしたかとおもえば、ものの数行も書かないうちに、それについての皮肉やしゃれをならべてすずしい顔をしている。これでは真摯な反省といった態度などもとめるべくもない」

「そうよ。あなたの心には反省というきもちがあるのかしら」

「反省。さあ、わからない。おれのせいで町がめちゃめちゃになったんじゃないかという負い目はたしかにあるよ。でも、ハチの圧制にたいして立ちあがるキッカケをくれたと感謝してくれるような奇特な御仁にぶつかると、とたんにじぶんには無関係な事件のようにもおもえてくるんだ。それに……」

 キリギリスの男は、地階でのできごとに関してはノートに記さなかった。

「筋違いに感謝されるとかえってメイワクだよ。これは無責任ということかな。それとも謙虚という美徳かい」

 鼻で笑うような口ぶりであった。

「すくなくとも、わたしは美徳とはおもわないわね」軽く受けながして、

「そうやって、すぐにぶつくさの口上に逃げたがるのも、きっとどうやって現実に向き合ったらいいのか、あなた自身わからなくなっているせいだわ」

「なんだって」

「あなたはてっきりじぶんというものを見失っているのよ」

「やけに俗なことをいうじゃないか。見失うようなじぶんなんぞ、もうどこにも隠しちゃいない」

「そのひねた口ぶりや斜にかまえた人生観もほんとうにうまれつきのものかしら」

「人生観は記憶からやって来るものだよ。わしがおもうには……」

 ふたりのやり取りのあいだ、葉巻のけむりを濛濛と立ちのぼらせながら、あいかわらずノートを繰る手をやすめなかった老医師が、急にあたまをもちあげてはなしに割って入るけはいを見せた。

「人生観にはかならず記憶というものが一対一に対応するはずだ。極楽とんぼ的人生観には、極楽とんぼ的人生の記憶が、ペシミスティック人生観にはペシミスティックな人生の記憶というものが、かならず裏付として関係してくる。サクラの樹にカボチャの実がならないのとおなじで、この関係は絶対だよ。きみのいうとおり、かれのぶつくさのヒネクレ人生観はうまれつきのものではないはずだ。しかしどんなにきれいな布もドブの水で洗濯すればたちまち雑巾のようによごれてしまうものだよ。必要なのはそいつをすっかり洗い落とすことかもしれんな」

 看護婦のほうを向いてそう言うと、ついと立ちあがって窓を開けた。すでによるである。吹きっさらしの町から、五階の窓に夜風がつめたく吹きこんだ。風は窓ぎわに立つ老人の白髪を旗のようにばたばたと波立たせて、まるで窓外にうかぶ亡霊が手招きをするかのようであった。老人はキリギリスの男のほうを向きなおった。

「さっきわしは、人生観はすべて記憶というものに関係するといった。だが、この記憶とはそもそもなにか。過去の現実の断片。いや、ちがう。ばらばら種種雑多もろもろの経験上の印象を、適当にふるいにかけてでき上がった砂の山のようなものにすぎん。砂の山が成長するにしたがって、ふるいそのものの性質もどんどん変わってゆくだろう。ふるいはただちに人生観のできぐあいに関係する。拝見させてもらったきみのノートは、いわばその成長記録の一端をしるしたものだよ。しかしその内容をざっと見わたしたところ、矛盾は多く穴だらけ記述は不正確、なるほどここから起った精神はどういうものになるのか。いきおい、四分五裂のてんでんばらばら人生観が一山できあがるだけだろう。それを直せとはいわない。きみ自身がふりかえってみるべきは……いや、対決するべきは、請け負って記憶すなわち自分の過去だよ。どうだね。この病院を出て、生まれそだった故郷の町を訪ねてみるというのは」

「おれの過去」

「きみはこの町にやってくるまでどこでどう暮らしていたか、はっきりおもい出せるかね」

 キリギリスの男は病院の一室でめざめた朝のことをおもいだした。そこから記憶というものを遡ろうにも、あの夜にギターを背負ってふらふら町にたどりつくより以前のことは、闇のなかに茫とかすんで見ることができない。記憶喪失。ばかな。肌身はなさず背負ってきたギターをなくしたことを、おれはちゃんとこのあたまに覚えている。

「過去。ふん、それがどうした」キリギリスの男は顔を上げて、医師の顔をじろりと睨みつけた。

「おれが以前のことをさっぱり思い出せないとしても、ギターのことはちゃんと覚えている。いいかえれば、おれの記憶というあやふやな頼りないやつの代わりに、ギターの記憶がおれのすべてを証明してくれるということじゃないか。おれは音楽をやっていた。ゲイジュツ家に過去はいらない。かびくさい古い美を足で蹴飛ばして、そいつをあたらしい美ですげ替えるのがゲイジュツだよ。その古くさい美のほうは端からわすれているというんだから、おれはかえって過去をなくしたことに感謝しなけりゃいけない」

「過去を忘れるということは、そう簡単ではないはずだ」

 医者はうしろを向いて、なにやら書類棚から小さな紙片をとりだして向き直った。

「きみの生まれそだった町の地図がここにある」

「どうして、あんたたちがおれの故郷の町のことを。……」

 キリギリスの男は二、三歩後ずさりをするとふたりの顔をのぞき込んだ。医者も看護婦も、なんの表情も浮かべずにただ黙っている。なにもかもお見通しのような、あるいはなにごとも知らぬ存ぜぬ預かり知らぬというような、読みとおせない顔つきであった。

「そうか。これも、例の紳士とやらの……そういえば、おれのような文無し宿無しがここで贅沢にのんびり監禁生活を楽しんでいられるのは、その紳士が金でおれの身柄を買ったようなものだからじゃないか。そんなおれを勝手にそとの世界にほうり出してもかまわないのかい」

「いつかここを出ることは、すでに折り込み済みのことだよ」医者は笑みをうかべながら看護婦のほうを見た。

「看護婦としての意見をいえば、からだの傷もすっかり癒えたころね。いつまでもここにいる理由はないわ」

「残念だが、そうはゆかない」

 とつぜん扉が乱暴に開けられると、そこに黒づくめの男たちがどやどやと足音さわがしく乗りこんできた。そのうち鉄兜と金属製の棒でものものしく身を固めた屈強なふたりが、逃げ場をさがして室内に立ち往生するキリギリスの男を前後左右にはさんで、わっと詰め寄ったかとみるまに、たちまちその両腕をとらえてものすごい力で締め上げた。「なにをする」抵抗のことばを発するよりもさきに、おもわず振りあげた松葉杖は男にぐいとつかまれていた。頭目とおぼしき年かさの男はずいとまえへすすみ出ると、高らかにさけんだ。

「当病院はたった今から委員会の管轄下にはいった。したがって、今後患者の入退院には当局の承認した委員会による許可が必要となる」

 ばかな、と老医師がちからなく叫んだ。

「この男、自称ゲイジュツ家という看板をぶらさげてはいるものの、じつはルンペンいや政治犯の疑いがあると当局から連絡があったのだ。げんにこの男には、町が混乱におちいったあの前日にふらりとあらわれ善良な市民に危険思想を吹き込んで暴動を焚きつけた件および危険分子予備軍を隔離してあるあの地下の患者どもと日常的に接触をもっていた件ふたつの嫌疑がかかっている。よって、裁判の準備ととのうまで、当局の権限において身柄を拘束することとする」

 キリギリスの男が別棟の半地下にある独房にぶちこまれるために引きずられてゆくあいだ、医師と看護婦のふたりは呆気にとられた面持ちでぼんやりそれを見送っていた。うしろにばたんと扉の閉まる音を聞いたとおなじく、とたんに例の松葉杖ががつんと脳天にひびいて、あたりは闇であった。


 暗闇のなかをひたひたと近づく足音に、キリギリスの男はふと目をあけた。いつもの朝のように看護婦が朝食をはこんできたのか。茫とした意識のまま、ごろりと寝返りを打つと、そこはやわらかい羽根布団の上でもシーツの上でもなく、硬くつめたい床の感触がたちまちひやりときた。昨日までのことがウソのようであった。贅沢なのんびり監禁生活は、今となってはなにかの手ちがえか、物好きの金持ちにおもわせぶりに翻弄された結果としかおもえない。げんに、医者と看護婦はおれを独房にぶちこんだ連中にひとことも文句を浴びせなかったではないか。ばかづらをひっさげてあんぐり口を開けて見送るしかなかった彼らも、そのいうところの奇特な紳士とやらも、キリギリス一匹たすけられない案外たよりない存在なのだろう。いや、必ずしもそうばかりとはいえない。あの黒尽くめの連中はなにものか。この何ヶ月かのうちに、焼け野原の町にも「当局」なんぞと名乗り得るようなあやしい勢力が雨後のタケノコのようににょきにょき育って、この病院もじつはやつらの手に落ちたということかもしれない。とすれば、そいつがたちまち竹にまで成長して、気が付けば町ごとそっくり籠の鳥ということも、ありえないはなしではない。足音の主は鉄格子のまえにしゃがむと、具のほとんど見えない雑炊のようなものの皿をぐいと隙間から押しこんだ。「こんなものが食えるか」しかし、飯をまえにして空きっ腹が沈黙を守るということがあるだろうか。看守の足音が遠ざかるのを見とどけると、キリギリスの男は恥も外聞もなく皿にかぶりついた。いきおいまかせに飲みこんだとたん、歯に石を噛んだようなするどい衝撃がはしって、おもわずそいつをぺっと床に吐き出すと……あ、鍵。夜明けの薄闇のなかに、にぶく光る金属が音をたてた。なにもののしわざだろう。しかし当面はそんなことはどうでもよい。問題は、鍵をつかってめでたく独房を抜け出すことができても、建物は二重三重の警戒網のなかにあるということに落ちた。外に面した壁の上のほうに小窓が開いている。絶望的な小ささであった。万事休す。手のうちの鍵をじっと見ると、だれの好意かしらないがこんなもの、えいと腹立ちまぎれに小窓をめがけて放り投げた。

「いてっ」

 たちまち鍵は手もとに撥ねかえった。

「だれかいるのか」

「せっかくの手助けを投げかえすやつがあるか。おれだよ」

 暗がりにすがたは見えないが、声で地階の案内役の男と知れた。男はヒモのさきになにか小荷物をくくり付けたものを、小窓からするすると下ろした。紙を畳んだものらしい。ひろげると、病院の建物および構内の見取り図とよめた。

「この図面をよくみろ。やつらの巡回が交代する空き時間と、警備が手薄になる地点を記してある。こいつはおれたちが病院の外に出稼ぎすなわち泥棒に出かけるときに使うものとおなじだから、きっと役に立つだろうよ」

 キリギリスの男はふところに地図を畳んでしまうと、鍵を握りしめた。

「親切は痛み入るよ。でも、わからないことだらけだ。おれがここにぶち込まれたのは、黒服の連中がいうところを信じればあんたたちとなにか因縁があるというはなしだが、そっちではおれが迷いこんだことでなにか迷惑を蒙ったことはないのか」

「心配はいらない。黒服の連中がかんがえているのは、おれたちをしばらく泳がせておいて、なにか町をとりまく大きな事件がおこるまえに尻尾を押さえておこうということさ。おまえさんをミセシメみたいにひっとらえたのは、なにか背景にべつの事情がからんでいるんだろう。さあ、ぶつくさはいいからもう急げ。行ったさきで仲間が先導して脱出の道筋をつける手筈がととのっている」

 小窓の向うの男は、たちまち闇にまぎれて消えた。キリギリスの男は鉄格子を開けて廊下へ出た。看守のすがたのみえないのをたしかめると、暗い獄舎のなかをいっさんに駈けぬけていった。



 列車に乗りこむと、キリギリスの男は窓側の席に腰をおろした。相席の向かい側には、どこの田舎でもめずらしくないような髭の田舎紳士が新聞に読みふけりながら、パイプから濛濛とけむりをふかしている。煙はゆらゆら雲のように流れて空中にきえた。そのけむりの流れてゆくさきを目で追いながら、キリギリスの男はきのうの脱出劇が首尾よくすんだいきさつをおもい出した。建物の警戒網は存外たいしたことはなく、事はすらすらはこんだ。すべて図面の指示どおりであった。巡回の職員も夜勤つづきか立ったままふらふら眠りこけているようすで、たまに目の据わったつわものにぶつかってひやりとしたときも、すでに地下の連中にカネをつかまされ、逆に道案内を申し出るには少し拍子抜けした。律儀に刃向かってきたのは正門の守衛くらいで、こいつは待ち伏せていた地下の連中が、うしろから件の松葉杖をなで斬りに下ろせば、ばったり地に倒れた。ところで、そのときマリアからの言付で案内役の男にあずかったものがある。ピクニックへ持参するのにぴったりな小さなバスケットであった。走りっぱなしで腹が減っていたところなので、昼飯のサンドイッチかいと訊いた。

「いや伝書鳩だよ。身に危険がせまったときには、すぐにこのバスケットを開けろ。マリアがそう伝えてくれと言っていた」

 もうひとつは、医師から託されたという手紙であった。

『……しかし心の、いや人生観の歪みのほうはまだなんとも言えないようだ。故郷に帰り、じぶんの過去にぶつかったきみがどんな変身を遂げるのか。わしの医学的な興味はそこにある。わしには今のきみと、旅から帰ってきたきみとのあいだの距離を正確に計測する義務があると言い換えてもよい。きみは故郷に帰るとはいっても、かならずもう一度はここに戻ってくるという約束をしてほしい。つまりは、ヒモ付きの帰郷というわけだよ。そのヒモをきみのほうでひっぱれば、こちらでは路銀の用意そのほか、旅をするにあたって便宜をはかることを惜しまない。……どうもこのいきさつは、きっとなにかの手ちがいにちがいない。君が戻るころにはきっと、さる紳士にも身の潔白が証明されるように運動しておこう。』

 どうも、とぼけているのか、なにかを隠そうとしているのか判別しがたい文面であった。キリギリスの男は手紙に同封されている紙幣……おそらく餞別のつもりか、あるいは紳士からの路銀にちがいない。こいつをふところに納めると、手紙のほうはくしゃくしゃと丸めて窓の外へと放り投げた。紙クズはわずかのあいだ宙にとどまったかと見るまに、たちまち後方に吹き飛ばされてゆく。汽車はけむりをあげて猛然と走り出していた。

 向かいの男はふと顔をしかめてパイプから口をはなすと、新聞から顔をあげた。たまたま目が合ったとき、おもわず逃亡者ということばがあたまに浮かんでどきりとした。逃亡者とはむろん目の前の男のことではない。窓を閉めたあとの硝子戸には、やぶれ帽子の男のすがたが、飛ぶように流れるけしきのまえにうっすら写っている。さいわい客席はそう混んではいない。商い道具をかかえた商人ていの男や、子ども連れの女のすがたがちらほら。太平楽の光に隈なく照らし出されたけしきに、追っ手というもののひそむ陰があるとも見えなかった。

 けむりを一息吹き上げると、男はひとこと「けしからん」というなり、新聞の表を片手でぴしぴし叩いた。おもわずびくりとしてしまうのは逃亡者の心理というものか。しぜん、口のきき方が柄にもなく及び腰になった。

「何がですか」

 新聞だよ、と田舎紳士は憤然とした調子でさけんだ。

「ただ、そういわれても。殺人事件とか、議員の汚職とか」

 男はため息まじりに声をおとした。

「小説だよ。近ごろ流行の新聞小説というやつさ。けしからんことはたしかだが、こいつはなかなかおもしろい」

 相手がなにもいわないうちに、男は新聞の紙面を指さしながら、その小説の筋を解説しはじめた。あるわかくて貧乏な絵描きがいる。その才能のほどは小説にもあきらかでないが、絵で食えるとめでたく錯覚できるほどの実力はかろうじてあったのだろう。その絵描きは貧乏に耐え生活苦をしのぎ、ようやくにして一世一代の渾身の力作を完成させるにいたった。ところへ、仕事をうしなってやけを起こした日雇い人足の男がとつぜん強盗に押し入って、絵描きの命をうばったうえに、絵を盗んで逃走してしまう。強盗は絵を質屋で金に換え、淫売宿へ女を買いに走った。その女は寝物語にじぶんはわかいゲイジュツ家の男といっしょに暮らしているのだと明かす。じつは強盗は一夜のうちに、この女のことをすこぶる気に入っていた。男はおどろき、すっかり心を入れ替えたつもりになって警察へ出頭する。……キリギリスの男ははなしを聞いて、ゲイジュツ家が出てくるところだけすこし気に入った。

「しかし、どこかで聞いたことのあるようなはなしですね」

「それはそうさ。貧乏な絵描きやらゲイジュツ家が巷に窮死するような事件はざらにころがっているだろう。そいつが事故だろうとコロシだろうと大した問題ではない。路頭に迷ってつい犯罪に手をそめるやつも、かぞえあげればおそらく右を優にうわまわる。ゲイジュツ家の野垂れ死にと貧窮きわまった末のヒトゴロシ。こいつを適当にかけあわせれば、三文小説のタネなんぞ叩き出すのに苦労はない」

「なるほど」

「このはなしはこう結んである。強盗をはたらいた男がいざ警察へいってみると、女が同棲しているという男と、じぶんの殺した男がまったくの別人であったことが判明する。ここで男は反省したことを悔いて、畜生だまされたと叫ぶんだ」田舎紳士はそこでにやりと笑って新聞を閉じた。急に視界がひらけて、ふたりの座席からまんなかの通路をはさんだ席に子ども連れが座っているのが見えた。母親とみえるわかい女が、窓にあたまをもたれながらうつらうつら船を漕いでいる。そのそばに、五つほどの男の子が座席の上に伸びあがって、棚のうえに載せたトランクに手をかけようともがいている。なかにある菓子でもとる気なのか。まわりを見まわして大人の顔をちらちら見ても、だれも気にとめるものもいない。

「そこできみに質問だが、この強盗をだましたのはいったいだれだとおもうかね」

「さあ。男はきっと淫売宿の女にだまされたとおもい込んでいるでしょう。でも、女からすればそいつはとんだ言いがかりにすぎない。はなしを聞いてただちに短絡にはしった男のカンちがいですよ。男をだましたやつはだれか。強いていえば、強盗はじぶんのそそっかしさに足をすくわれたことになるでしょうな」

「そいつはうまい返答ではあるが、事実を素通りするさかしらな意見だ」

 田舎紳士は窓をすこしあけると、パイプを逆さまにして二へんほど縁に叩き付けて塵をおとした。

「事の上っ面をなぞれば、たしかにそう見えないこともない。ヒトゴロシの男が悔いあらためた。殺した相手は別人だった。反省を撤回する。女を逆恨みする。この反省とやらをまじめに受けとれば、男のそそっかしさも言いぐさとして立派に通用もするだろうが、ことはそう簡単にはゆかない。考えてもみたまえ。作者はこのヒトゴロシの泥棒すなわち強盗が、女に情がうつったあとに心を入れかえて悔いあらためたように書いている。なるほど、小説のお約束を忠実にまもって、作者がそう書けばそうなのだと仮にみとめてもよい。しかし、それならあとでひとちがいとわかったときに、そいつがすぐにくつがえったのはどういうわけかね」

「女に情がうつったから、ということでしょうか」

 キリギリスの男がそう口にしたのには答えずに、紳士は淡々とつづけた。

「いいかね。たとえば、そもそも女の情にほだされた結果の反省なんぞ底の浅いものだったといういい方もできそうにおもえるが、こいつもまだ真実をあらわすのに十分でない。つまりこういうことになる。男はじぶんの入れこんだ女と関係する男を殺したことを悔いたのであって、じぶんの行為を罪悪としてみとめたのではおそらくない。すなわち、じぶんの所業がもし白日の下にあきらかになった場合、女の好意がそこなわれるということをおそれたにすぎんというわけだよ。反省など初めからうそっぱち、この強盗は徹頭徹尾、おのれの欲求をつらぬくことしかあたまにない、見下げ果てた男と相場がきまっている」

「なるほど」

「そうであるならば、だよ。淫売宿の女から男のはなしを聞いたときに、うっかり反省なんぞしなければよかったとはおもわないかね。おまえの情夫はてっきりおれが殺したやつだよ。だからどうした。恋敵がいなくなってさっぱりした。さあ、きょうからおれが相手だ。そういう料簡でいけば、反省する必要もなし、真実がわかったあともだまされたと女を逆恨みすることもない。……」

「そいつは無頼漢の思想ですよ」

 キリギリスの男はおもわずさけんだ。田舎紳士は大口をあけはなし、はじけるようないきおいで笑い出す。轟音が鳴って、汽車はトンネルのなかへ入った。トンネルの壁面に据え付けられたガス燈のあかりが、窓からとぎれとぎれに射した。その蒼白い光に照らされて、田舎紳士の顔が闇のなかにちらちら明滅した。

「そのあたまの弱そうな男がどう生きようと、じつはあまり関心はありません。むしろ、そのはなしのなかで不満におもうところがあるとすれば……その絵描きはいったい何のために絵を書いていたのかという点ですよ」

「金だろう」

「強盗をはたらいた人足の男は、何をもとめていたんです」

「金だよ」

「淫売宿の女は」

「金だ」

「絵描きも人足も淫売も世の中のどん底で……」

「金だよ」

「殺された絵描きの男はいったいなんのために死んだというんだ」

「金のせいさ」

「だれがだれをだまそうとしているのか今わかりましたよ。その物語の作者が、読者をだまそうとしているんだ」

 車内はとたんにあかるくなった。汽車はトンネルを抜けたようである。キリギリスの男はやぶれ帽子を目深にかぶると、憤然としてたちあがった。そのとき、さっきの親子連れの席上に異変がおこったようであった。荷物に手をのばした男の子の手が頭上の棚にとどくかとみる間に、列車ががたんと揺れて、とりそこねたトランクが宙に飛んで、あやうく子どもの頭上に落下しつつあった。キリギリスの男はまんなかの通路をひらりと飛びこえると、トランクをすかさず両手で受けとめた。考えるよりもさきに手、いや脚がうごいたようであった。

 子どもはきょとんとした顔で放心している。目を覚ました母親があわてふためいて礼を言おうとする。そのそばを決まり悪そうにすり抜けて、キリギリスの男は席にもどった。田舎紳士はそのけしきをちらりと横目に見ると、おもむろにパイプを詰め替えながら、始終にやにや笑いを止めずにいた。そして、じぶんは次の駅で降りるつもりだから席をかわるにはおよばない、そう一言のべるとまた煙草をふかしはじめた。

 列車は、荒れ果てた野のなかにぽつんと立つ小さな駅に停車した。田舎紳士はふところからとり出した茶色の山高帽をかぶると、ステッキを打ち鳴らせながら、乗り降りするひとかげもない荒涼としたけしきのホームへと消えていった。


 その晩、キリギリスの男は妙な夢にうなされて、なんども目を覚ました。黒づくめの男に連れ出されるときに、松葉杖で脳天を打った痛みがいまごろになっててきめんに効いてきたものにちがいない。意識は、闇から浮かび上がるようにふっと明るんだかとおもうと、とたんに闇に沈んだ。その深い暗やみの、真夜中のツンドラ地帯のような荒涼たるけしきのなかに、山高帽の男が消えてゆく。見つからないようにあとをつけていくと、男は振りかえってステッキを振り下ろす。とたんにけしきが切り替わる。町のなかにイナゴの群れが津波のように押しよせてくる。市場や露天の野菜に飛びかかり、またたくまに食らい尽す。虫はひとにも容赦なく襲いかかる。ひとびとが叫び逃げまどうなかを、キリギリスの男もいっさんに駆け出してゆく。ひきょうもの、と後から女のさけび声がする。振り向くと、じぶんは鉄格子の部屋に閉じ込められている。そこへ女がやってきて鍵を手渡し、脱獄の手引きをする。その肩には、大きなイナゴがかじりついたまま息絶えている。面をあげたときにヴェールの隙間からちらりと顔がのぞく。そのとき、列車の汽笛がするどい咆哮をあげて鳴りひびいた。気がつくと、キリギリスの男は叫びながら上体を起こしてベッドの上でふるえていた。汗が河のように背中を伝って流れる。外は雨が降っていた。窓を斜めに横切る雨粒が結び合うように、夢のひとつひとつは虚ろな影となってながれた。背後につらなり、すぎた時間のかなたへ男を繋ぎとめようと、鎖のようにどこまでも延びてゆく。あれはたしかに、病院の地下で出会った女の顔だった。キリギリスの男は、窓を見ながらぼんやりそうおもい出した。



 マリアは初めてキリギリスの男と顔をあわせたとき、おやとおもった。このひととはいつか会ったおぼえがある。未来における邂逅が予定されているような、ふしぎな感覚。これを運命的な出会いというか。いや、それはあまりに陳腐に落ちるというものだろう。そうでないとすれば、既視感と片付けてしまうには……えい、ばかばかしい。運命なんか犬に食われておしまい。かの女は、未来は人間の意志が勝ち取るという思想のほうをしんじることにした。そして、げんにこの腕のなかに、未来というものが生きもののかたちをとって、すやすや眠りながら息づいている。赤ん坊の誕生祝いに、仲間からあまたの花束がとどいた。天幕いっぱいに、部屋いちめんに飾りつけられたうちから一本をすっと抜きとってながめるうちに、マリアは寒い冬空のもとに凍えながら街角に立った遠いむかしのことをおもい出した。

 大晦日の晩であった。せわしげに行き交うひとびとの足しげく混み合うなかに、みすぼらしい身なりの娘がひとり、両手いっぱいに花束をかかえながら、路地の陰からふらふらさまよい出てきて街角に立った。花束はむろんお祝いなんぞではない。売って生活の糧にするべき商品であった。その商品の売れ行きがおもわしくないのは、あながち娘の器量がよろしくないせいともいえないだろう。というのは、花売りの娘たちがささやかな商売を張っているこの界隈に、近ごろやくざ者の息のかかった大店がぞくぞくと店を出して、露骨に商いのじゃまをするという手に打って出たからである。娘たちはつぎつぎと商売を畳んで、ひとり抜ければふたりが去り、三人抜ければ四人が去って……ここに、たったひとり残ったマリアの顔いろも、手もとの花束といっしょに生気がぬけてしおれかかり、ついふらふらと千鳥足によろめいてぶつかった相手の顔を見上げれば、町のチンピラとおぼしきやつが凄みをきかせて、

「てめえ、どこを向いてあるいていやがる」

「花はいりませんか。花は……」

「しおれた花なんぞいるものか。それよか、ちょっとおれたちに顔を貸してくれりゃあ、もっといい商売をおしえてやるぜ。さっそく商品の出来具合を検品してやるからついてきな」

 突然わらわらと物陰から飛び出してきたのはふうてい怪しきいぶせき男どもの五、六人、あっという間に娘を乱暴に神輿にかついで、たて込んだせまい路地の奥へと消えてゆこうとしたとたん、うしろからピストルの銃声と騎馬のいななきが聞こえたかとおもうと、そこに颯爽とあらわれたのは凛凛しい憲兵のすがた、瓦斯燈に照らされ夜目にもあきらかに、神神しいまでの威容ですっくと立った。「サツだ。ずらかれ」雑魚どもはたちまち夜の闇に消え去り、娘は事情を訊かれるために憲兵の詰所までついていった。正義の使者が町のゴロツキどもを成敗する。勧善懲悪を地でゆくような事のなりゆきに、花も買わないで見物にいそがしかった野次馬連は、拍手喝采の嵐をのこして、てんでんに家族の待つ家路についたようであった。

 マリアはその夜のことをおぼえていない。あくる朝、雪の積もった路地をあるきながらおもい出すことのできたのは、ピストルや騎馬のいななきも、神神しく凛凛しい憲兵のすがたも、なにもかもまぼろしのように茫と霞んで消えてしまったということであった。詰所で事情をきかれるということは、何もかも忘れるということにひとしいのだろうか。記憶にとどめるに値しないような出来事は、あたまのほうでおぼえることを受け付けないというけはいである。いや、そうではなかった。強盗がなにもかも持ち去ったあとに、憎しみという品物をひとつ忘れていったというのに似た。こんなことなら、チンピラ連中についていって、いい商売のなかまになったほうがよかった。マリアは道端に倒れかかると、身も世もあらず声をあげて泣いた。

「サツのやり方はいつもえげつないもんよ。やつら、任侠道というものを解しねえ」

 顔をあげたところに、恰幅のいい初老の男が佇んで葉巻をふかしていた。そばにある豪華づくりの黒塗り馬車から降りてきたところのようであった。マリアはたちまち身をひるがえすと、男の腕にすがりついてさけんだ。

「あたしを検品して」

「おい、どうした」

「あたしをいい商売のなかまにして」

「言っていることがなんだかわからねえ。だが、あんた、なかなかいい声をしているな。どうだい、ちょっと歌をやってみないか。裏表と手びろく商売をやっているが、ちょうど芸能のほうへ乗りこんでゆく算段をかんがえていたところだ。身寄りがなけりゃあ、生活の面倒もこっちでみようじゃねえか。……」

 歌うという考はマリアのきもちにぴんとひびいたようであった。もとより、歌うことは嫌いではない。街角に立って花を売るとき、また気まぐれを起こして花の一束三束をごっそり買いあげてゆく客があったとき、マリアの口元はほころんでおのずから歌を発した。夜風の吹き抜けるなかを、ひとり歌を口ずさみながら家路につくとき、かの女はしあわせであった。ただ、その歌が芸能のほう……この男の手広い商売の一角にどう位置をしめるのかという点については、まるで見当もつかない。ちなみに、男の商売は裏に表にそこそこ繁盛しているけしきとみえて、土木建築、不動産仲介、闇金融、飲食店経営じつは売春斡旋、ねずみ講商材販売と多忙に多忙をきわめて、飛びあるくさきざきに妾宅の十軒や二十軒を訪ねることは珍しからず、マリアのことにして言えば、すなわち生活の面倒をみるとは、男の情婦になることを意味するようであった。芸能事業はすらすらとはこんだ。翌年の春にはすでにあちこちの巡業先で、マリアの到着を待った熱心なファンが長蛇の列をつくる。興業はいつも大成功、男は夜ごとに閨房のなかで、ぶくぶくの腹のうえにかの女を招きよせて、感謝の意をあらわすことを忘れなかった。

「ところでおまえ、ちかごろおれに隠し事をしちゃいないか」

 時ならぬ問いに、マリアはおもわずびくりとなった。

「いや、ウソだよ。ちょっと怖がらせてみただけさ。けさ差出人不明の手紙が事務所に突っ込んであってな。おまえがファンのわかいやつと深い仲にあるとぬかしやがるのよ。もちろん、おれは信じちゃいねえ。大方、おれたちの成功をねたむ野郎のいたずらさ。ただ、たしかなのはおれたちを恨んで陥れようというやつはそこらにゴロゴロしてるって事実だ。おまえも気をつけろよ」

 じつは、そのころアリの町に進出し始めたスズメバチの連中との関係をめぐって、商売敵とのあいだになにやら揉めごとが生まれつつあるのはたしかであった。ハチの連中がまたたくまに政界を牛耳りはじめたのを知ると、男は恥も外聞もなく連中と手を組んだ。そいつを足がかりに、暴力恫喝あらゆる手段をとって競争相手を完膚なきまでに叩きのめす手際には、躊躇とか手加減というもののすべりこむ余地はないようであった。商売のじゃまをするやつを見つければ、手下を呼んで待つこと数日。すると二、三日もすれば、脳天をぶち抜かれたまぬけづらが河のほとりにぷかぷか浮いているという寸法であった。男は社交界にはたらきかけて名誉スズメバチの称号を得ようとひそかに運動をはじめた。たかが田舎侠客が名士気取りた笑わせやがるぜこの売国野郎。そんな恨み節がやがて巷にささやかれ、下町の塀を落書きで覆いはじめると、男はますます孤独に沈み、出あるくことを嫌って、マリアとの閨房のたのしみに耽るようになった。 

 ところで、芸能事業はうまく軌道に乗り、政界工作も首尾よく順調にすべり出したといっても、差出人不明の怪文書のほうは朝刊のように朝ごとに届くのをやめない。男は焦燥にかられて、あるとき予告なしにひっそりと、マリアを住まわせてある邸宅へ馬車をはしらせた。数町手前で車を降りて、正面玄関から堂々と家へ入ることをせずに、そこからはあるいて裏口から忍びこむという用心深さ。いや、倒錯のよろこびというものもいくぶん混じっていたのだろう。忍び足で寝室のまえまで来ると、……とたんに踏み込む勇気がそがれて、そこに棒立ちになった。というのは、なかから楽器をかなでる音がしずかにもれてきたからである。曲がなかなかの腕前であることは、無頼の俗物である男にも知れた。マリアは歌うたいであって演奏家ではない。すると、この音はなにものの手になる調べか。出所不明の怪文書のことをおもい、男のこころにたちまち疑いがきざした。壁にぴったり耳をつけると、虫の音ほどのささやきがきこえてきた。

「どうしても、あのやくざものの爺のところにいるというのか」

「ええ、恩人だもの」

「利用されているだけさ。いっしょに逃げよう」

「むりよ。あなた、きっと殺され……」

 曲は止み、女のことばは言い終らないうちにとぎれた。ということは、男のくちびるが女のくちびるに覆いかぶさり、これをふさいだのだろうと想像された。そして、わかくたくましい身体がマリアの肉体を抱きすくめ、ふたりはダンスを踊るようにくるくるまわりながらベッドに崩れ、ともし火は落ち、衣装は花火のように乱れ飛んで……。

「だれかいるわ」

 マリアがことばを切ったのは、外にひとのけはいを感じたからであった。セロ弾きのわかい男がドアを開けると、そこになにもののうごくけはいもみとめられない。窓の外を眺めるに、あわてて駆け出した馬車がしだいに遠ざかってゆくのには気がつかないようであった。

 それからしばらくして、マリアは数週間も部屋に閉じこもったきり出てこなかった。歌の興業もしばらく休み、男の閨房のさそいにも乗ってこない。むりに部屋に押し入ろうとすると、ものを投げつけてかたくなに拒むようになった。というのは、あの夜から数日後に、河のほとりに一個の変死体が打ちあげられたからである。あたまを横ざまにぶち抜いた銃弾の痕跡。自殺あるいは決闘の末の死か。鑑定は変死と断定したが、これはほとんどなにも断定しないというのにひとしい。闇の世界に生きる男に囲われた女にとっては、わかい男の自殺や変死はかくべつめずらしいできごとではない。マリアは恋人の死にひそかに疑問をもった。そして、最後の夜にかれが部屋に置いていったセロを手にとり、夜ごとに練習することをなぐさめとした。弦に手をふれると、まるで男のからだが弓のようにしなうのをおもい出すようであった。

 初老の男は、マリアのへたくそなセロの演奏が日ごとに上達してゆくさまを、複雑なおもいできいていた。


「ここにちがいねえ。いまやつの情婦が入っていくのを見とどけたぜ」

「隠れ家を見つけたか」

「あの野郎はきっといる。ハチの連中に身を売った罪を、今日こそやつの青い血であがなうときだ」

 木立のかげに、黒装束の男たちの影がうごいた。陰から陰へ、男たちはひそかに連絡をとりながら、マトに少しずつ遠巻きに近づいてゆくけしきと見えた。マリアは扉を閉めると、初老の男の待つ奥の寝室へと向かった。このごろではマリアはふたたび男にからだをまかせるようになった。いや、男はすでに男としての面目をすっかりうしなって、女の添い寝は欲望をふるい立たせるよりむしろ、老人を介護するにひとしかった。というのは、男の年齢もさることながら、闇討ちにせんとつけねらう勢力から逃れるために、かくれ事務所をいくつもこしらえてあちこち転転と身をかくす暮らしぶりであってみれば、おのずと老骨にも負担がかかって、女の介添えなしには陽根はおろか背筋すらまっすぐ伸ばせないおとろえぶりであった。カーテンをあけると、マリアは窓の外に雪がちらちらするのをみとめて、暖炉のそばの安楽椅子に寄りかかる男に声をかけた。

「たしか、こんな夜だったわ」

 マリアはだれに語りかけるとなく、茫とした顔つきで窓の外を見ていた。

「雪が降っていたわ。その夜、憲兵のやつらに……あなたに拾われなかったら、きっとあたし、マッチ売りの少女みたいに凍え死んでいたかもしれない」

「ほんとうにそうおもうか。おまえ、おれを恨んでいるだろう」

「べつに」

「おれに拾われてしあわせだったか。歌うのはたのしかったか」

「歌はいまでもすきよ」

「おれをゆるしてくれるか」

 マリアは部屋の壁に立てかけてあるセロを抱いてひきよせた。弦を弾いたとき、その音色にまじって遠くでなにか物音がするのを聞いたようにおもった。

「まて、こいつは銃声だ。まちがいねえ」男は安楽椅子からおもむろに腰をあげた。ちょっとようすを見てくる。そういって部屋を出て戸口へ向かったとたん、たちまち庭先でどやどやと足音がして、黒装束の男たちが七、八人、廊下を駆け足に突きすすんで、寝室の扉を蹴やぶって部屋に押し入るように雪崩れこんできた。そいつらのうちふたりが、初老の男の両腕をつかんで引きずってきたかとおもうと、いきなり胸ぐらをつかんで床に引きたおした。

「こんなところに妾とふたりで隠れ住みか。いいご身分じゃねえか、売国野郎の親分さんよ。きょうこそはてめえに消された仲間の恨み、いまここでこってり償ってもらうから、すぐには楽にしてやらねえと覚悟しな。ところでご婦人。あんたにはべつに危害をくわえるつもりもねえ。心得次第ではこのご老体のあつかいにちょっと手心を加えてやってもいいとおもうが、どうだい」

 窓の外がぱっとあかるくなったかとおもうと、あちこちで火の手があがったようであった。火事か。そのとき、またどたばたと足音がたつと、黒装束がスズメバチの男をうしろから身動きのとれないように縛りあげ、部屋のまんなかに引き出して蹴ころがした。初老の男はその顔に見おぼえがあった。商売上、取引の関係がないでもないハチの政治家が、手足を縛られ羽根をもがれ、あわれっぽく命乞いをするさまがそこにあった。

「たすけてくれ」

「おれはこんなやつはしらねえ」

 黒装束の頭目とみえるのがずいとすすみ出ると、ぐるりとめんめんを見回し高らかにわらって、

「見たか。かつての盟友がなさけねえ、醜いざまじゃねえか。結局、親分さんも末はハチの殿様連中を見はなすときまった。その時勢のながれを正確に見きわめる千里眼には畏れ入るよ、そうそうバカにはできねえしろものだ。というのは、みんな窓の外をよくよく御覧じろ。しんしんと雪の降る夜、この芝居の書割みてえなうってつけの仇討日和に、おれたちのあとにつづけと立ちあがった奇特な御仁がたくさんいるようだぜ」

 外にはぞくぞくとひとのむれが列をつくり、松明をともして右に左に夜の町を練りあるいていた。列はやがて波となって、路地に満ち、街路にあふれて、逃げかくれた獲物を追い立て、火をつけいぶり出しながら、その暴れまわるいきおいをもって、ときに容赦なく壁をぶちやぶった。すなわち、目のまえの硝子窓も壁もいま叩き割られて、そこに殺気だったひとびとのむれが、どっと雪崩れのように飛びこんできた。「ハチの野郎はいないか」「いたらひきわたせ」「ころせ」

 そう口口にさけぶ声に、床に四つんばいに転がされた初老の男は、

「野郎はここだ。おれはなかまだよ」

 よわよわしくさけんで、ばったり地に伏せた。とたんに、ひとびとの叫び嘲りにたちまじって、けたたましい笑い声がひびいた。

「こいつらみんなクズどもだよ」

 マリアは立ちあがり、まわりを睥睨してそうさけぶと、一瞬ひるんだ群集がどっと堰を切ったように、雄たけびをあげて部屋に雪崩れこんだ。そのすきに、かたわらのセロをひしと抱きしめると、気ちがいじみたわらい声をあげ、踊り子がくるくる舞うようにひとびとのあいだをすり抜けて、炎もえたつ巷のほうへ飛び出していった。町はどこも燃えていた。スズメバチの屍骸がそこかしこにぶすぶすとくすぶりながらもえているのが目に入った。一夜にして町が根こそぎひっくり返ろうとも、その煽りをくらったどこのなにものがいかなる境遇に身を落とそうとも、マリアにはどうでもよいことであった。見なれた町はすでにない。もうもとの暮らしに戻るということもない。もえる巷をふらふらさまよいながら、ここはどこか。ふと気がつくと、マリアは鬱蒼とした夜の森のなかにひとり佇んでいた。町はいつのまにか、だいぶまえに通り抜けてしまったようである。夢ではないのか。いや、そうでない証拠に、ふりかえると遠い町のそこかしこが炎をあげ、燃えくすぶり、煙がたちのぼるけしきが見えた。マリアは樹木のしめった精気を吸いこむと、とたんにからだじゅうのちからがぬけて、その場にどっと倒れこんで気をうしなった。

 あくる朝、目覚めるとそこは深い森のなかにひらけた泉のほとりであった。マリアは木立のかげに、その恋人のようなセロを抱きかかえたまま、戯れるようなかっこうで寝ころんでいた。しかし、身につけているものは血に染み、煤によごれている。それを清めるために、泉というものがあった。泉は水晶のようにふかく澄んで、どこまでもつづくようにみえながら、底というものは見当たらない。マリアはつい水に飛びこむと、ふかく潜った。からだそのものが水のようであった。ふたたび水面に浮かびあがって、濡れた顔にふりしきる朝陽を浴びたとき、ふと口もとから歌ごえがもれた。夢中になって歌ううちに、鳥のさえずりや木木のそよぎがあとにつづいて歌い出すようであった。歌は泉をふるわせ、広場にひびき、木立のあいだを呼び交わしながら森のすみずみにまでひろがって、歌いつかれて木陰で休もうとしたときには、泉をとりかこんで、小鳥、ウサギ、狸、狐、鹿、熊、そのほかもろもろの森のけものたちがマリアの歌に呼びよせられ、むれあつまって、歌がふたたび始まるのをいまかと待ちかまえるように咽喉をならしていた。そこに、どこからともしれず一羽の白い鳩が舞い降りて、マリアの肩にとまった。町へもどれ。鳩のことばがわかるようにおもった。おもえば不思議なことであった。不思議といえばもうひとつは、かの女がそのとき子どもを宿していたということがあった。マリアはセロを一晩だいて寝たことをおもいだした。その楽器を大事そうに抱きかかえると、町のほうへと飛び立った鳩のあとを追って、ひとり森のなかをあるきはじめた。



 雨止みのあとであった。ボロをまとった小柄な男が荷車をひきひきやってくると、飾り窓のそばに立ち止まって茫としたまま、なかなかその硝子のまえをうごかない。婚礼衣装の店のようである。純白のドレスやタキシードはどう見ても、ずぶ濡れの小男と縁のあるものとは見えない。キリギリスの男が地図を見ながらあたまをひねっていると、小男はいつのまにかどこかへ消えてしまった。どうもおかしい。汽車を降りてから停車場のまわりをぐるぐるめぐってあるくうちに、小雨が降ってきた。しらない店の軒下で雨宿りをしながらかんがえても、この町がぴったり目的の町だという確信がもてない。よみがえったばかりの曖昧な記憶は、役に立たないことでは、医者から渡された古い地図とかわらないようであった。しかし、いっとき記憶を失っていたにもせよ、住んでいた町をわすれるということがあるだろうか。じぶんの中身がすっかり入れ違ったのか。いや、変わったのは町のほうだろう。それをたしかめるには、なにかかわらない標識のようなものを見つける必要があった。

 道をはさんで婚礼衣装の店のおもてを見ていると、女がひとり飾り窓をのぞき込んでいる。硝子にうつったその顔がちらりと見えて……あ、夢の女。そうではない。牢獄にぶちこまれたおれを助けた女。逃亡するおれにひきょうものと叫んだ女。飛びかかるイナゴに肩を噛みつかれた女。しかし、衣服にかくれて肩に噛み傷があるかどうかまでは見さだめられない。ともあれ、夢はゲンジツの記憶をあいまいなままよみがえらせたようであった。そういっても、キリギリスの男ははじめの直感のほうをしんじることにした。すなわち、この女はたしかに故郷の町と縁のあるものにちがいない。

 見ているそばに、女のまえに馬車がとまった。馬車は女を乗せるとぬかるみの道を颯爽とはしり去った。キリギリスの男は、あわてて流しの馬車を呼びとめると、あの車を追えと御者に命じた。女の車は停車場のまえの大通りをまっすぐすすんでゆく。ぴしりと鞭がしなって、男の車はそのあとを追いかけた。

 この一帯は町の中心街で、劇場や音楽堂がきらびやかに立ちならぶ一角であった。小さなゲイジュツの都。訪れるひとは町をそう呼び、市もまた文化ゲイジュツを保護する政策をとって、遠く山や平野を隔てた地からも、町にあこがれた画家や詩人がぞくぞくとやってきてうつり住む繁盛ぶりであった。町のまんなかに位置する広場にはいつも、ギターを抱えたわかものや路上の絵描きでひしめきあい、賑わうさまが目に浮かんだ。キリギリスの男はおもわず馬車の窓から外へ身を乗り出した。しかし、眼前にとびこんだけしきはというと、ぴかぴかに整備された道路のわきに銀行や立派な煉瓦づくりの商店がいかめしくたちならぶ、つめたくそっけない町の表情をみるばかりであった。

 女の車は突き当たりを左へ折れると、こんどは下町のほうへと向かった。この界隈は、若いゲイジュツ家がふるい建物を借りて共同でくらすアトリエを兼ねた住居がひしめき、その住人たちや流れ者のボヘミアンがたむろする、カフェや酒場でにぎわう土地柄である。そのそばに流れる水路といえば、小川のようにみずみずしく澄んで、ごみごみした町中にも恋人たちが憩う場所としてつとに知られる町の名所であった。まえを走る馬車は、その名所を素どおりして、さらに角を折れていった。そのあとを追って水路脇に沿った道をゆくと、くわえ煙草に寝巻きすがたの女がちらりとこちらを見てほほえみかけた。けばけばしく着飾った女や、だらしなく着くずれた年増が、腕組みをしながら昼間から気だるそうにたたずむのが目にうつった。

 夢に見た女はようやく馬車を降りると、ごちゃごちゃと廃品をぶちまけたようにたて込む路地の裏へ向かってあるいていった。キリギリスの男もそこで馬車を降りてあとを追ったが、女の足どりはそこで茫と霞んで消えてしまった。兄さん、ちょっとあそんでいかねえか。看板を胸にぶら下げたわかい男や、ちょび髭の中年男がわらわら近寄ってくるのをかわしながら、迷いこんだ旅人のように男はふらふらと路地をさまよいあるいた。ここはほんとうにおれの生まれそだった町なのか。建物の隙間にある屑カゴがひっくりかえり、そこから飛び出した野良猫がねずみのむれを追いかけていった。路地には女やら男やらなかには性別もわからないようなのが、吐しゃ物にまみれ仰向けに寝そべっていた。たちこめるすえた臭いにむっとしながら、キリギリスの男はさらに路地の奥へとすすんでいった。すると見覚えのあるような一角にゆき当たった。わずかにのこった旧市街か。さらにそのさきをゆくと、路地の突き当たりに小さな居酒屋の看板がひかっている。ここには客引きの男は立っていない。もとより高い建物のかげにさえぎられて足下は暗かったが、日も落ちかかっていた。キリギリスの男は、瓦斯燈にむらがる羽虫のように、ふらふらとそのまばゆい光のほうへ吸い寄せられていった。


 店のなかは二、三にんの客のすがたがあるだけで、がらんとした。時間が早いせいだろう。扉を閉めたはずみでうす暗いランプのあかりに照らされた室内のけしきがともし火のように揺れたが、客はいっこうに気にとめず振り向きもしない。カウンターの端にかたまって、ぼそぼそと内輪のはなしに興じている連中はというと、おなじ型から打ち出したようにやぶれ帽子にぼろぼろのコートというキリギリスの男そっくりのこしらえで、一見の客がここにあらわれたといっても、そいつらの仲間がたまたまふらりと加わったというふぜいであった。壁いちめんに色のすすけたポスター、片隅には廃品のように積みあげられた古ぼけた蓄音機やガラクタの山。サマ変わりした町のけしきにあって、ここは往時のゲイジュツ的雰囲気をいくらかのこしている。店主は戸棚から酒瓶をとりだすと、なにも言わずに男のまえのグラスに注いだ。きょろきょろ室内を見まわすそぶりを不審におもうような目つきであった。

「いい店だね。この町に、まだこんな穴場が残っていたなんて」

 お座なりのあいさつが口に出た。

「そうだろう。もうこの店だけだよ。たったのこの何年かで、町はすっかりかわっちまったからね」いくらか気持ちがゆるんだようすで、主人は顔をほころばせた。

「かわらないのは、わしとこの店の客だけさ。ときに、おたくはこの町に住んでいたことでもあるのかい」黙ったまま、キリギリスの男があいまいに頷くと、

「そうかい。でも、そんなに大きな鞄をかかえていなさるもんで、てっきり遠いところから来た旅のひとかともおもったんだがね」

「もうずいぶんむかしのことだよ」

「そう何十年も経ったわけでもないのに、むかしと言えばずいぶんむかしのような気がするよ。あの時代、町は小さなゲイジュツの都といわれていたっけ。この店のちかくにも劇場や音楽堂が立ち並んで、店はいつも役者や詩人のタマゴでいっぱいだったものさ」

 奥に陣取っている常連客のほかに、客のやってくるけはいはない。主人はとうとうと懐古的な昔ばなしにふけった。劇場。音楽堂。小さなゲイジュツの都。おなじことばがぐるぐるとおなじ場所を飛び交い、過ぎた時間のなかを駆けめぐるようであった。どうことばを尽そうとも、すでに失われた過去はあくまでふるぼけた茶碗のような時間の底にしずんでいる。しかし、主人のことばはついにその底を打って、地上から消え去ったまぼろしの都をキリギリスの男に向かって打ち返してくる。ふと見ると、主人の目は涙ぐんでひかって見えた。あしたも来ることを約してキリギリスの男が勘定を払おうとすると、主人はかぶりをふって引きとめた。

「もう店はきょうでおしまいなんだよ。立ち退きをせまられてるんだ。地代はハネ上がる、客は来ないでもう首がまわらない。はじめて来たあんたに頼むのは筋違いかもしれないが、きょうは最後の宴だとおもって……」

「そもそも、こんなことになっちまったのは……この町が……」ふいに、後ろのほうの席から、酔った男の声があがった。痩せた背の高い男が酒瓶を片手に、ふらふらよろめきながら近づいてきた。

「掟をやぶった連中のせいだよ。このゲイジュツの都の掟をな」

「またそのはなしか、もう止さないか。むかしばなしはもう聞き飽きたよ」もうひとりが遠くからあきれたようにこたえた。

「掟をやぶったやつらはおれもゆるさないが、町が拝金主義のよそ者にのっとられるようなことになったのは、なにもあの連中のせいばかりとはいえないさ」別の男が口をはさむのをさえぎって、さっきの背の高い男がとつぜん椅子の上に立ちあがり、聴衆によびかけるように大声でさけんだ。

「なにを言ってる。あいつらのせいにきまってるだろう。西部劇の英雄気取りで、えらそうなことばかり吹聴してまわったあげくに、どうなった。町をイナゴの群れが襲った。連中は日ごろのことばどおりにたたかったのか。答えは否だよ。カンジンなところで町を放り出したおかげで……」

「拝金主義の連中が町をのっとったっていいたいんだろう。でも、そいつはイナゴのばたばたの前後に革命さわぎをおこした連中のせいばかりじゃないぜ。あんたはカン違いをしているよ」ひとり落ち着いたようすで杯をかたむけていた男が低い声でいった。

「拝金主義といえば、イナゴやらなにやらの事件のまえに、その影はとっくにこの町にしのび寄っていたのさ。ほら、あの御前試合……市長を揶揄してそう呼んでいるけれども、バイオリンの競演会が開かれたことはおぼえているだろう。ゲイジュツの都のよりいっそうの発展を賭けて、市が鳴り物入りでひらいた大イベントだよ。町じゅうの音楽家をあつめて二組に分け、勝ち抜き方式で勝敗を決する。勝てば莫大な賞金が約束されるかわりに、負ければ全財産没収のうえ、二度と楽器を手に演奏することをゆるさない。きびしい競技の規則をさだめたのは、聴衆を盛り上げ熱狂させるためだったろうな。あのとき、最後までのこったふたりは、たしか……」

 キリギリスの男は触角をぴくりとうごかし、じっと聞き耳を立てた。

「おぼえているぞ。優勝したほうは、いま文化庁の小役人に収まっているあいつだろう。あのあとでうまく市長に取り入りやがったんだな、畜生め」

「そう。町がすっかり堕落しちまった原因をつくったのは、モトをたどればどうやらそいつということになるね。やつの音楽は、ゲイジュツ性よりも万人向けの分かりやすさを、権力者向けには上っつらの勇ましさを前面に押し出して、市民にも市長にもおおいに受けたというわけだろう。あいつが文化庁の役人の椅子に座ってからというもの、芝居でも音楽でも金を生みそうな作品ばかり優先的に劇場にかけるようになって、売れないゲイジュツ家の作品はどんどん発表の機会をうばわれてスミに追いやられた。気がつけば路上や広場でのゲイジュツ的行為はぜんぶ御法度、似顔絵描きや大道芸人のたぐいはみんな、町の外へたたき出される始末さ。かつてのゲイジュツの都は今や拝金主義一色に染まって、町の外からはさすらいの詩人のかわりに一攫千金にねらいをつけた山師がぞくぞく、水ぶくれにふくれあがった大発展のあかつきには、再開発の大波にさらわれて町並みもごっそり入れ替わったというわけだよ」

「けっ、畜生。どいつもこいつも畜生ばかりだな」背の高いやつもうなづいて、長広舌の男のそばに腰かけて飲みはじめた。

「その小役人の椅子にふんぞりかえっている野郎のはなしはもういい。おれがゆるせねえのは、御前試合に負けたほうのやつだよ。あいつは……」

「わしは、あの男のことは嫌いじゃなかったよ」

 聞いていないそぶりの主人が仕事の手を休めて、ふと口をはさんだ。

「コトの成り行きとしては、たしかにああいうことにはなっちまったが。……あいつの競演会での演奏のことをおぼえているかい。いい曲だったな。いや、そんなことばではすまされない。演奏がすばらしかったのか。そう言われれば、そんな気もしてくるだろう。でも、大事なのはいい曲だったとか演奏がすばらしかったとか、そういうところにあるんじゃないね。あいつの音楽は、ただちにわしの心の核心をずばりと打ってきたんだ。ひとがこれまでの生活のなかで、それこそ人間の住む世界のあらゆる場所で、喜怒哀楽を歌いこんできたところの歴史のすべてが、奔流のようにわしのからだのなかに流れこんでくるのを感じたんだよ。ひとびとがおそらく抱いてきたひとつひとつの感情のかけらが、たがいに打ち合いひびきあって、そこにいあわせたおおぜいのひとの気持ちをひとつにむすんだ。おそらく、これからさきの未来も……つい醒めかけたユメのなかにいるようだった。みんな、そういう気持ちだったんじゃないかね」

「そうよ。あいつはおれたちにさんざん期待させてくれやがったんだよ。この救いがたいひでえ世の中をゲイジュツの力で……。その分だけ、よぶんに罪深いってもんじゃねえのか」背の高い男が床にぺっと唾を吐き捨てた。

「ゲイジュツの力で世の中を変える……そんなことは、あの男だって信じちゃあいなかったとおもうね」となりの落ち着いた男は、もう何杯も杯を重ねたが、いっこうに酔ったけしきもなく、

「そんなノウテンキな寝言を信じていないからこそ、御前試合で負けを喫したあとに、例のさわぎをおこした反政府暴動のかしらに担ぎ上げられたのさ。市政が拝金主義にかたむいて町が水ぶくれに発展すれば、とりのこされた連中は町のそとに追い出されて、そこにスラムはできる、無法地帯には町のそとから中からひとが自由に流れこんで、たちまち不満を持つやつらの巣窟になるのに時間はかからなかった。それでやつら、市のまんなかの広場にぞくぞくとあつまって市庁舎の引渡しを求めたのが、革命さわぎのはじまりだったわけだ。そのなかにあいつの顔があったのは、個人的なうらみつらみもあったにちがいないことをおもうとさして意外でもなかったね。ところが……そのとき、あいつの掲げたスローガンすなわち錦の御旗はなんだったか。わらうなよ。ゲイジュツを民衆のものにするために世の中そのものを民衆の手に取り戻す。民衆のためのゲイジュツすなわち真理というわけだ。金持ちどもが世の中を支配するかぎり、金儲けのためのゲイジュツがはびこるしか道がない。だからそういう世の中そのものをぶちこわすという、一種のゲイジュツ革命哲学だよ。こいつは寝言としては、さっきのよりは一枚も二枚も上手だ。いや、これをイビキとみれば暴力の薫りさえするだろう」

「おう、暴力ならおれの専売特許じゃねえか」酔った大男がいきなりテーブルの上に飛びあがって、瓶をたかだかと振り上げた。

「あいつが政治なんぞに期待をかけて、掟をないがしろにしたのがそもそものまちがえなんだ。むかしから、おれたちの祖父さんのそのまた祖父さんの代からずっと言い伝えられていた掟だろう。ゲイジュツ家が政治のことに係るとろくなことにならねえ。絵描きのできそこないが国の元首になれば、世界地図にろくでもない絵を描いて火をつける、小説家が軍服を着て高いところに登れば、ぱっと桜が咲いてハラを切る。シラを切る代議士がかわいく見えるほどに、ゲイジュツ家というやつは政治といっしょになると質がわるいものなんだ。だから、生活感覚のくるった夢想家はさっさと奥にひっこんで、ゲイジュツ的センス皆無の人物を市長にえらんで政治は任せっきりにする。そうと決まったのよ」

「とすれば、あの男が掟をやぶったことよりもさきに……そのゲイジュツ的センス皆無の市長がよりによって御前試合ならぬ競演会をひらいたことに、町がこうなった原因があるのかもしれんね」

「そいつは、どういう意味だい。あの野郎のせいじゃねえってのか」

「……政治家がゲイジュツに関与するほうも禁止すべきだったんだよ。右も左もわからない市長が放任主義でゲイジュツを野放しにしてくれたころが、おもえば華だったな」男は落ち着いたけしきで、杯をぐっと飲み干した。

「そして、まあ結局のところ、せっかく掟をやぶることまでした男のゲイジュツ革命哲学は敗北を喫したわけだよ。いや、とつぜん町を襲ったイナゴのむれにおそれをなして、たたかわずして逃亡ということになるかな。革命哲学は人間のあやつる権力というテキとはたたかえても、自然の猛威、すなわちことばの通じない畜生の暴力にたいしては無力だったわけだ。巷を荒らし尽くしたイナゴがあっという間に去ったとき、このドサクサの混乱に乗じてよその町からつめかけたゲイジュツに縁のない拝金野郎が、市長や例の小役人をそそのかしてカイライにしちまった。劇場も音楽堂も取り壊し、その跡はやれ銀行をつくれ温泉を掘れ。小さなゲイジュツの都の歴史、ここに終わるというやつだ」

「けっ、どいつもこいつも畜生ばっかりだ。ほんとうに、この畜生め」背の高い男は吐き捨てるようにいうと、熱弁といっしょに振り回していた酒瓶を床におもいきりたたき付けた。とたんに、がらんとしているはずの室内に、きゃーっと女の悲鳴がおこった。すぐに鎮まると、どやどやとひとの立ちさわぐ声が場にわきおこって……常連の男たちが議論の熱に浮かされているうちに、いつのまにかあたらしい客があちこちの席に陣取って、ここはにぎやかなパーティーの宴席のようであった。床にこなごなに砕け散った酒瓶のことなんぞいっこう気にかけないようすで、ひとびとみなてんでんにテーブルを囲み、皿をつつき、笑いさざめき、シャンパンの栓が乱れ飛んだ。

「おや。店じまいにあたって、おもいがけなく繁盛してきたね」

 室内を見まわして、主人がすこしうれしそうに言った。もの静かな男は、やはりもの静かに杯を重ねつづけている。背の高い騒々しい男はというと、すっかり議論の中身に関心を失ったらしく、よそのテーブルにあつまる夜会服の女たちのあらわな背中を、みだらな関心を以って嘗めるようにながめていた。披露宴の帰りのひとびとか何かだろう。だれもかれも若若しく、とりどりに着飾って、うすぎたない男たちのすがたなんぞは目にもうつらないけしきで小鳥のようにはしゃいでいた。

「そういや、女といえば……」男の目がふいにいやらしく光った。

「あのゲイジュツ革命哲学野郎が町のそとに逃げ落ちる手引きをした女がいたはずだ。ほとんど百姓の娘のようなやつだったが……」

「町のゴシップだろう。まことしやかに語る問題じゃない」

「それがね。おれは見たんだよ。ゴシップ誌で読んだ記事のとおりのかっこうで白昼堂々とあるいてやがるんだ。まちがいはねえ。肩の羽根の付け根には、あの野郎を逃がすときにイナゴに噛みつかれた傷痕があったからな。どうしてそんなところが見えるようなかっこうをしてるのかって。そいつはな……」 

 がたりと椅子の倒れる音がひびいた。背後にひとの近づくけはいがして、丈のでかいだけの酔っ払いのふり向いた正面に、みなれない男のすがたが立った。夕方ふらりとあらわれたばかりのキリギリスの男がついそこにいた。

「どこにいるんだ」

「女なら町中の水路のほとりにいけば、いくらでも立ってやがら」

「そうじゃない。その肩に傷のある女の行方だよ」

「だから、わからねえやつだな。水路だよ」

「水路」

「そうだよ。水路のほとりの橋の上かどこかで、くわえ煙草でウデ組みでもしながら、物欲しげなつらをして突っ立ってるだろうよ。どの女もくそもあるか、畜生」

「畜生はおまえだ」

 キリギリスの男はその丈のでかい酔っ払いの肩をちから任せに突きとばすと、……いや、突きとばされたのはむしろ当人のほうで、たちまち床に転がり、蹴とばされて、もんどり打って倒れたところを毛むくじゃらな腕がぐいと組みふせてきた。

「この野郎。シンセツに教えてやれば、仇でかえしやがるのか。それとも、おれたちの高尚なゲイジュツ論に因縁でもつけようって料簡か」

「ふん、ゲイジュツ論だと」男は鼻でわらって、

「笑止だね。酒に酔って女のけつを追いまわして暴れるだけがおまえのゲイジュツ論か。デカダンが聞いて恥ずかしくなるような戯れ言だな」

「なにを」

 赤く染まったひげ面がまぢかにせまって、今にも殴りつけようと拳を身構えたのが目にうつったとたん、ぼろぼろのコートの下にひめた伝書鳩のバスケットがぱっとひらいて宙におどり出た。のんびり鳩レースではとてもこの場の窮地に間に合いそうもない。だが、そう観念したキリギリスの男が目をつぶるよりさきに、バスケットからは二羽三羽、五羽六羽とつづけざまに白い鳩がばたばた飛びあがって、や、これはいかなる手妻のなせるしわざか、宴の場にあらたな余興の幕があがったかと衆目は一手に、ぞくぞくと飛び出した白い鳩は五十羽、百羽とたちまち羽ばたくむれをつくった。むれは打ちつける波涛のように室内をぐるぐる翔けめぐって天井に飛び、客席にしぶき、グラスは射的のマト、酒瓶はドミノ倒し、テーブルの料理はさんざんにむさぼり食らって、阿鼻叫喚悲鳴ひびきわたるなか右往左往するタキシードやドレスのあたまに、ぷいっと糞をたれてまわった。スタンドではもの静かな男があいかわらずもの静かに杯をかさね、丈のでかい酔っ払いはさんざ鳩にまとわりつかれて、ふりまわす手足ばたばたの奮闘劇は、日ごろの行状よほど平和の使者の気に入って、めでたく祝福を受けるけしきと眺められた。「にぎやかな夜になったな」まんぞく気な主人のまえに何枚かの札を投げ出すと、どよめくひとのむれの合間をすり抜けて、キリギリスの男はおもわず外へ駆け出していた。

 

 にぎやかな夜がはたしていつのことであったか、さっぱり覚えがなかった。二日酔いのあげくぶちまけたやつといっしょに、せっかく戻った記憶がごっそり抜け落ちてしまったというのではない。あのとき、ふらふらの態で水路のほとりに駆け出していったさきに、はたして女の影を見たものか見ないものか。酔眼に二重うつしにぼやけた女の姿は、どう見てもカクジツな記憶として信じるには足りなかった。しかし、そいつが件の女であったとして、どうしたというのか。ふりかえっても、たしかめようとしてたしかめ得なかった事実は、人生のうちのあるかなきかのまぼろしにすぎない。まぼろしのかわりに、はっきりおもい出されたのは……そう、それが医者の言っていた記憶ということなのか。戻ったばかりのあいまいな記憶も、ここに至ってかえってはっきりとおもい出されてきたようである。強い酒のせいで強烈に目が覚めることがあるように、酒場でのいきさつがむしろキリギリスの男をはげしく揺さぶり、この町でのことをおもい出させたにちがいなかった。いつかアリの主人に語ったウソばなし。あれはウソでもなければ、故郷の伝説でもない。ほんとうのはなしでなければ、てっきり錯覚ということになるだろう。一方、よみがえった記憶と引き替えに失ったものはといえば、サイフの中身であった。医師からの手紙に同封されていた、例の紳士から受けとった路銀である。それがつい公園のベンチでめざめたときにふっと消えていたとしても、もうこの町にとどまるべき理由というものがあるだろうか。……帰ろう、アリの町に。キリギリスの男はそうつぶやくと、ふらふらと線路づたいにあるきはじめた。嚢中からっけつの、モトの乞食行脚に逆もどりであった。ゴーッと通りすぎる汽車をよそにてくてく歩いてゆけば、そこにとける雪、散る花々、みる間にけしきはうつりかわって、若葉青青と繁る木立をつき抜けたさきに、復興めざましくそびえるアリの町をふりあおいだのは、あの夜からじつに数ヶ月をかぞえた午後のことであった。



「あやしいやつ」

 出し抜けに冷や水をぶっかけられて、おもわず目が覚めたようであった。半身を起こして見回すと、まわりはわらわらとあつまった野次馬に取り囲まれて、軍服すがたの番卒がちらほらした。ここはどこか。遠くに白くかがやく建物のむれが霞のなかにぼんやり写ったとき、脳みそから急に血が退いていくような感覚におそわれ、そこで意識はぷっつり途絶えた。空腹のあげくに気を失ったということだろう。キリギリスの男がよろよろと立ちあがると、取り巻くひとの輪が脅えたようにさっとひろがった。たしかに、あやしいやつにちがいない。およそ故郷の町を発っていらい風呂というものに入ったためしがない。服はぼろぼろ、コートはよれよれ、帽子はまえにも増してシワの数をふやして、においたつ悪臭につつまれた異形は、ほとんど諸国行脚のはてに行き倒れた乞食坊主に似た。近くには目じりのつり上がった番卒がうろうろ、そのひとりが乞食坊主の腕をぐいとつかんで、

「身分証はもっているのか」

「身分証」

「そうだ。身分証をもたずに共和国に入ろうとするやつがあるか」

「共和国だって。すると、……」

 どうやら、アリの町のすぐそばで行き倒れになったところを、見とがめた番卒によって町のなかに収容されたということらしい。しかし、ほんとうにここはアリの町だろうか。以前の町のけしきとはまるで似ない。すなわち、古風な煉瓦づくりの家家がならぶ西洋ふうの町並でもなければ、革命さわぎのあとの吹きっさらしの焼け野原でもない。とんとんと再建の槌音しげく、あちこちに見なれない新機軸の建物が立ちならび、まるっきり品物がちがうおもむきである。よそものがふらふらさまよい込めた以前とは警戒ぶりもうってかわって、町の周囲にぐるりと鉄条網の備えいかめしく、巡回する番卒のすがたがちらほらする。しかし空をふりあおいで見ると、町のまんなかに市庁舎の建物がたかだかとそびえて、そこはやっぱりアリの町であった。

 番卒のひとりがキリギリスの男を突きとばすと、ほかの連中がそれを見てあざわらった。

「ここは共和国だ。おれたちのすがたをよく見ないか」

 ぞろぞろと集まってきた仲間を見ると、そのなかにはアリもいればハチの姿もあった。制服の肩には、いずれも赤地に黒と黄色の星をあしらったマークが縫い付けてある。市庁舎を見上げると、おなじ意匠の旗が高く掲げられて、初夏の風にすずしくはためいていた。おそらく国旗というものだろう。黒と黄色の星は、それぞれアリとハチをあらわすものにちがいない。キリギリスの男は、この町を離れたときのことをおもいだした。あのときでさえ、当局なんぞということばを楯におれをぶちこもうとする連中があらわれ出したことをかんがえると、この出迎えはそうおどろくこともない。ただし、黒服とこの番卒どもはどことなく肌合いがちがう。アリとハチがなかよく共存共栄ということになると、ひょっとすると地下の連中がめでたく勝利をおさめたすえにでき上がった体制ということもかんがえられないこともない。

「待ってくれ。おれはあんたたちの敵じゃない。病院の医者から用事を言い付かって……」コートの中から一冊のシミだらけのノートを取り出すと、

「これはそのあいだの記録だよ。こいつを医者に見せれば、おれがあやしいやつじゃないことをきっと証明してくれるだろう。医者と看護婦に会わせてくれ」

 銃剣をぶらさげた身体のでかい番卒がずいと進み出て、そのノートを乱暴にひったくった。隊長らしいのがそいつを受け取って、ぱらぱらめくりながら言った。

「いいか、よく聞け。この共和国の人民はすべて、アリとハチの区別を問わず身分証の携行が義務付けられている。その理由がおまえにわかるか」

 キリギリスの男はけげんな顔をした。

「労働者か兵士、いずれかの身分であることを証明するためだ。共和国では、労働者でも兵士でもないやつは、ルンペンすなわちゲイジュツ家の疑いがあるとして、政治犯ともども収容所にぶちこむ決まりになっている。規則だからな」

 そのとき、下卑たつらつきの、背の低い番卒が脇からひょこひょこおどり出て、

「こいつはあんたのものじゃねえのかい、キリギリスの旦那」

 そういいながら鼻先に突き出したのは、ひょうたん形のおもてはつやつやとニスで光り、弦はしなやかにぴんと張った……いったい今日のいままでどこをどう流れわたっていたのか、あの晩になくしたままのキリギリスの男のギターにまぎれもなかった。

「あ」

 キリギリスの男が手を伸ばすと、番卒はそのひょうたん形の楽器を意地悪く引っ込めて、高々とかかげたかっこうで小躍りしてみせた。かえせ。そうさけんだ男がまえに飛び出してゆこうとするそばから、ふたりの番卒の腕がするすると伸びて、両脇からあらっぽくつかみかかった。「連れてゆけ」号令が下った。いつのまにか、まわりにはどやどやと野次馬のひとだかりがあつまって遠巻きにようすをながめていた。左右の番卒はそれぞれアリとハチの兵士であった。数ヶ月前にはたがいにいがみ合い、ののしりあい、殺し合った連中にちがいない。それが、両脇からキリギリスの男の腕をきりきりと締めあげて、まるで子どもをまんなかに挟んで手をつなぐわかい二親のように、ほがらかに談笑しながら道を引きずってゆく。ゲイジュツ家は政治犯といっしょにぶちこむだと。役に立たないやつは罪人とおなじだというのか。キリギリスの男はうめいた。引きずられながらうしろをふり向くと、小躍りする男のかかげる楽器の影が、夕暮のなかにしだいに小さく、遠く消えてゆくのがおぼろに目にうつった。

「ここは労働者と兵士の国になったんだ」

「てめえみたいな無駄飯食らいのルンペンの来るところじゃねえや」

 野次馬は家家のかげからぞくぞくと数を増して、石ころのように飛びちがえるヤジや悪罵のかずかずは、引きずられてゆくぼろきれのような男のすがたが見えなくなるまでやまなかった。そのむれあつまった野次馬のかげに、いつの間にどこからあらわれたのやら、背の小さいひとかげが立って、合間からそのようすを見つめていた。子どもであった。そのちっぽけなやつはちょろちょろ雑踏をすりぬけると、夕闇のなかを病院のある方角へ向かって駆け出していった。


 月のまばゆく照る夜、いまはだれも住まない五階建ての屋上に、立つひとかげがふたつあった。ひとりは女、ひとりは男、しかしふたりの佇まいには人目を避けた密会や逢瀬のどうのといった艶っぽいふぜいはみじんもない。夜の空をあまねく周遊した二羽の猛禽が、旋回に倦んで巨木のいただきへすっと降り立ったというけしきであった。巨木はどこまでも高く険しく、峻厳にそびえ立って、夜の闇にちらちらうごめくものたちを見下ろすようであった。しかしその枝やうろに住みつくものたちのすがたはもう見ない。建物はすでに病院としてつかわれることをやめていた。すなわち、患者も医者もてんでんに散って、今はしばらくさきに予定される爆破解体を待つだけのもぬけの殻である。しかし、爆破解体するべきものは、このもぬけの殻のがらくたなんぞであるはずがない。廃墟のいただきに立って、男のかげは、足もとの幾千のあかりと、また遠く目のおよぶところにひときわ高くそびえる市庁舎のあかりとをゆびさしながら口を切った。

「いよいよ明日だ。後悔することはないのかい」

「ないわ」女のかげが答えた。

「じつをいうと、おれはあんたを仲間に入れたことをちょっと後悔している。いや、もっと正確なことばで表現しようとすれば、後悔半分、感謝が半分だ。あんたがいなければ、おれたちはここまですばやく組織をつくりあげることはできなかっただろう」

「とんだ買いかぶりだこと」

「そうかね、マリア。身重のあんたがふらふら病院の門をくぐったとき、おれはあたまのおかしいふりをして地下の住民の仲間入りをするというチエをつけた。それがおもえば始まりだったな。おれは歌や芸能のことには疎かったから、あんたが有名な歌うたいだなんて、ちっともしらなかったんだ」

「わたしをうまく利用したのね」マリアは無表情にこたえた。

「そういうことにもなるのかな。でも、どうだろう。あのとき、地下の連中は巷のどたばたさわぎにすっかりしょげこんで、生きる意欲をすっかり手ばなしちまったようなありさまだった。ところが、そこへやってきたあんたの歌はたちまちみんなをとりこにしたばかりじゃない、なにやら希望みたいなものを連中に吹きこんじまったみたいだったよ。おれはある種の政治屋として、そういうみんなをひとつにまとめる可能性のあるものにはまったく目がないタチでね」

「希望なんてやすっぽいことばを口にするなんて、あなたも存外おひとよしのようね。そんなことばはきっと、病院のクスリがきれるかわたしの歌が終わればたちまち消えてしまうような頼りないまぼろしにすぎないわ」

「ついてきてくれた仲間を愚弄するようなことを言うのはよせ」

「悪かった。自信がないのよ。わたしの歌が世の中を変えるなんて、なんだかおそろしいようで信じられないの。病院の地下という小さな世界ではたしかにうまくいったように見えるかもしれない。でも、こんどは相手がちがう」

「おれがさっき、半分は後悔もあるといったのはそのことだよ。こんどのことはこれまでとは規模もちがえば勝手もちがう。あの夜のどさくさにまぎれて偉そうにいばりだした連中をからかっているうちはよかったが、そいつらが新体制をぶちあげるに事いたってからは、その事態に対応して、いつのまにかおれたちもかんがえることがついでっかくなりすぎたみたいだ。こんなキケンな仕事にあんたを連れ出してしまった責任は、やっぱりおれにあるだろうな。でも、なにも心配するにはおよばない。おれたちは、かならず成し遂げてみせる。どう転んでも、少なくともその成行を見とどけてやるのが、おれに課せられた最後の義務だとおもう」

 マリアは相手のはなしをほとんど聞いていないようであった。

「わたし、おもうのよ。所詮はわたしの歌は、やくざがシノギを張るための興業の世界でうたってきた金儲けのための歌よ。それがいくら人気があってうたわれたって、ぜったいにひとびと自身の歌にはならないとおもうの。そんな歌を旗印にしてたたかっても、やっぱり虚しいだけだとおもうの。あなたは、ひとをあつめるのに利用できそうなものはなんでも利用しようとする。これは政治屋の立場よ。結局はあなたもいまの町を牛耳っている連中とおなじで、人民の権力をうちたてるためという口実のかげに隠れるわけね。わたしは今回のことを離れていえば、歌はやっぱり歌それ自身のためにあってほしい。金儲けや政治の道具ではなく、ただ歌うのがたのしいから歌いたい。ただ、そのための自由がうばわれ、おびやかされているから、あなたに協力するという非常手段に出ただけ。わたしとあなたはきっと同床異夢のユメのなかにいるのね」

「同床異夢か。それは、同志ということばの意味においては、ちょっとさみしいな」男はつづけた。「商売のための歌を人民の歌にするというのは、じつはおれも賛成じゃない。おれは歌のことはよくわからない。だけど、ほんとうにひとびと自身の歌、人民の歌というものがあるとすれば、……そいつは、たたかいの現場においてテキとぶつかったときに、流された血で書かれた歌だという気がしてならない。どこかで聞いたか本で読んだセリフかもしれないがね」

「男はみんなバカだというのはほんとうのようね。希望とか人民の歌とか、内容からっぽのことばに惑わされて、血を流すことでしか迎えられない明日なんて、そんなのまっぴら」

「じゃあ、どうやって明日という日をひらくんだ。血を流すかわりに金を払った連中は、あとでとんだニセモノをつかまされたと知ってがっくりくる。そしておれたちには、ニセモノを買うだけの現金の持ち合わせすらない。見ろよ」男は家家のあかりがまたたく眼下をゆびさして言った。「あそこにあるのはニセモノの幸せだ。あの窓ひとつひとつに営まれる幾千の生活が、おれたちが立ちあがるのを待っている」

 マリアはからからと笑って、

「そんなくさいせりふを平気で吐けるようでは、とても人民の歌の作詞作曲は無理のようね。わたしはわたしのやり方でいく。あなたが明日という日に流血ということを賭けるなら、わたしは無血のほうを賭けてみるわ。吉凶どちらに転ぶにしても、確率は二分の一よ」

「よし、請け負った」

 そのとき、闇のなかを小さなかげが息せき切って駆け込んだ。いつか赤ん坊が生まれた日に、キリギリスの男をマリアにひき会わせた少女である。キリギリスの男が番卒に連行された旨についてしかじかの報告をうけると、マリアはいきおい込んで立ちあがった。

「わたし、いってくる」

「よせ。いまは明日のことが大事だ」

「なにをごちゃごちゃぬかすんだい、この唐変木。あのひとはあたしの赤ん坊の名付け親だよ。その恩人を助けられないで革命も打ちこわしもあるもんか」

「そう感情的になるな。まえとはもう状況がちがう。黒服のときのようにはゆかない。かれを助け出すのは、明日の決起が成功してからでもおそくない」

「あした血を流す覚悟の人間が、きょう臆病風にふかれるなんざ、冗談にも聞いちゃいられないお笑い草だね。いまにじぶんを賭けられないやつがあした決起するといったって、ついてくるやつはいやしないってことがわからないのかい。あたしはいくよ」

「明日の決起を台無しにするつもりか」

 男がいい終えるよりさきに、マリアのすがたはふっと消えていた。もう夜明けが近いようであった。

 


 見上げるほどの位置にある小窓から、月明かりがひややかに射しこんだ。その青白い光に照らされるまでもなく、壁はつめたい。そのひやりとする壁に三方を囲まれた目のさきに、鉄格子というものがある。もうこんなところにぶちこまれるのは何度目のことか。ここは動物園ではない。観客の代わりにたまに見物にやって来るものといえば、ひまを持て余した看守だけである。見世物小屋の中身が人間とすれば、ここはルンペンすなわち政治犯の収容所にまぎれもなかった。

「労働者と兵士の国か」

 キリギリスの男はうつろな目をしばたきながらつぶやいた。アリとハチの共和国、労働者と兵士の国。おれにうしろから石をぶっつけたやつがそういっていたっけ。だが、労働者でも兵士でもないおれには、身分証というやつがない。いや、身分証がないということは、労働者でも兵士でもないことを意味するものか。いうまでもなく、共和国は働いて国をゆたかに富ませるやつと、その人民の命と財産をテキから守る兵士によって成り立つだろう。その共和国において、ゲイジュツ家の占めるべき位置ということになると、いったいどういうことになるのか。すなわち、この収容所が模範回答ということになる。たしかに。なるほど、おれは役立たずのゲイジュツ家というやつにちがいない。楽器を弾く音楽家にして、物語をする吟遊詩人。生きるために必要な食い物や道具をこしらえるわけでもなければ、医者や看護婦のように病人を救うこともしない。おれの音楽や辻語りは、通りすがりのひとの耳をいっとき楽しませることはあっても、飢えた子どもの空きっ腹を満たしてやることは到底かなわない。

 キリギリスの男は、ふと遠くを見るような目つきになって、つい蘇ったばかりの記憶の淵へふかく沈みこんでいった。記憶。そう、医者は人生観にはこの記憶というやつが裏付けとして関係してくるといっていたな。とたんに、鉄格子のまえに女の顔が浮かんだ。そういっても、薄いベールにつつまれて顔はよくみえない。そのベールを透かした向うに見えるのは、故郷の町のうすぼんやりとしたけしきであった。ゲイジュツの都。競演会。革命さわぎ。イナゴの襲撃。この負けいくさつづきの記憶がよみがえったところで、いったいどんな人生観の裏付けになるというのか。

「おれはいったい何ものなんだ」

 もどった記憶のおかげで、じぶんの輪郭がはっきりしてくるどころではない。ますますおのれの正体があやふやにかすんで、月明かりに照らされた影法師は意志とかかわりなくふらふらと闇のなかへさまよい消えてゆきそうな気がした。

 流浪の果てにたどりついたこの労働者の……はじめてこの町へやってきたとき、アリの夫婦にドロボウと呼ばれたことを、キリギリスの男はおもい出した。ドロボウか。たしかにそうかもしれない。おれはこの町の歴史を盗んでしまったのかもしれない。この共和国というやつ、てっきりおれがやって来なければ生まれなかった。いや、これこそが医者のいう誇大妄想というものだろう。町の歴史を盗めるほどの大物だったら、おれはおそらくこんなところにぶちこまれているはずがない。ドロボウなんぞするものか。むしろ、盗まれたのはおれのギターであり、おれの自由ではないか。自由をうばわれる。このさきに待っているのは、裁判そのさきの処刑か。いや、ルンペンあるいはゲイジュツ家の類には市民権の配当がないとすれば、裁判を受ける権利なんぞもあるはずがない。とすれば裁判抜きの……。とたんに冷や汗が背筋を流れて、もたれかかった壁がひやりと冷たかった。小窓から見える空はすこし明るんでいたが、ここに夜明けというものが永久におとずれる見込みはないようにおもわれた。力がぬけて床にあおむけに倒れこんだとき、天井に近い小窓にふっと靄のように立つひとかげに気づいた。ささやくように呼びかける声の主は、女のようであった。キリギリスの男は立ちあがって、鉄格子の外に看守のすがたがないのをたしかめると、小窓のほうへ向かった。

「だれだかしらないけれど、今回ばっかりは無理みたいだ」

「あきらめるんじゃないよ」

「そう精神論で来られたって、かなわないものはかなわない。それに、運よく忘れてさっぱりしていた出来事をしこたまおもい出したせいで……」

「いいかい、よく聞きな」声の主は息せき切って、キリギリスの男のことばをさえぎった。

「いきおい込んで飛び出しては来たけれど、やっぱり今すぐ助けるのはむりのようだね。たしかに運よく出してあげられたとしても、町をぐるりと囲む鉄条網の外には出られっこない。町をぶらぶらあるけばたちまち検問につかまって、牢屋とシャバのあいだを永久にうろうろするのが関の山……でも、あきらめるのは早いよ。あした、町では住民総出のでっかいお祭りさわぎが予定されてるんだよ。ただのお祭りじゃない、よくすれば市庁舎の連中は町の外にたたき出して、鉄条網はとっぱらい兵隊は解散、税金はタダに、酒と料理は持ち寄りの……はやいはなしが、あんたも知ってるあの病院の地下の世界を町全体にひろげようってイベントだよ」

「あんたは、あのときの」

「やっと気がついたのかい。カンの鈍いひとだね」

「だけど、なんだか身におぼえのあるようなはなしだ。そんなさわぎが簡単に成功すると信じられるほど、おれはもうわかくない気がする」

「だったらここでカラカラになるまで我慢して佃煮にでもされちまえばいいのさ。もちろん、あたしらだって今回のことが簡単にうまくいくとはおもっちゃいない。ひょっとすると、あたしみずから犠牲というものに祭り上げられるキケンもないとはいえない。そのとき、あんたにひとつたのみたいことがあるけど、ひきうけてくれるかい」

「なんだい」

「モハメッド・アリのことよ。わたしの赤ん坊。いま、仲間のところにあずけてあるの。もしもわたしの身になにかあったら、あの子をどこか安全なところへ連れていってほしいの」

 そのとき、ひたひたと闇のなかにせまる軍靴の足音がきこえてくると、マリアはさっと小窓の外で身をひるがえしたように消えた。足音は廊下にしだいに大きくひびいて、鉄格子のまえでとまると、暗闇から声を発した。

「釈放だ」

 鉄のようにつめたい声であった。しかし、それがウソでない証拠に、表には馬車が待ちかまえていた。もう夜は明けていた。案内役の男は人目につかないようにいっしょに来るようにうながすと、ふたりは馬車に乗りこんだ。男はぶあいそうに口をむすんだまま、揺れる車のなかで釈明をはじめた。いや、釈明というよりもほとんど命令にひとしかった。今後、身分証の携帯にかかわらず立入り禁止区域以外での自由な行動をみとめること。ゲイジュツすなわち非合法表現活動に係る容疑は、共和国臨時政府革命評議会首班の特命で特赦となったこと。おそらく例のノートが医師の手にわたったか、あるいはそうでなくとも、うかがいしれない世の中の仕掛があやしく回転して、てきめんに効果をあらわしたということか。ぴしりと鞭がしなって馬車が駆け出すと、ひとごみはおのずと割れてそこに道をつくった。車はそのなかをすらすらとすすむ。大通りを抜け、つぎの角を曲がり、官庁街へとむかう坂を登った。キリギリスの男は車の窓から身を乗り出すと、おもわず、あっと小さくさけんだ。車は目のまえの金ぴかの銅像のまえを、まるで敬意をあらわすようにゆっくりと滑った。その巨大な像は、腕をふりあげて天をゆびさし、片手には銃をむずとつかんで……。革命の英雄の像だよ、と傍らの男が説明をくわえた。

「首班はおまえと面会を求めている」

 それにしても、このばかでかい銅像のあることにどうして今まで気がつかなかったのか。像は、キリギリスの男が昨日たどりついた町の門から見ると、ちょうど市庁舎の建物の陰にかくれるように配置されていたのだろう。そう気がついたときには、車は広場を通過して門をくぐり、共和国臨時政府すなわち、旧市庁舎のひときわ高くそびえる斜塔のまえに静かにとまっていた。



 ひとびとはいつのころからか、旧市庁舎の建物を「斜塔」と呼び慣わしてきた。というのは、塔は建てられたそもそものはじめから、すこしずつ傾きかけていたからである。むろん、市庁舎はいにしえから市庁舎であったはずがない。斜塔すなわちシャトーとは、城いいかえれば領主の館を意味することばである。領主の館とはおとぎばなしの舞台や書割ではなく、力の象徴ということであった。この町の歴史にも、ひとの世の常として、王様があれば乞食があり、領主があれば奴隷というものがなかったためしはない。げんに、この塔のあるじが世襲にしろ暗殺にしろ選挙にしろ、めまぐるしく入居あるいは退去をくりかえす歴史のなかにおいて、ふんぞりかえるやつとひざまずくやつが同じ食卓につくという奇跡にめぐりあう幸運をもったものはひとりもいない。あるいは、だれもふんぞりかえらずひざまずかない世の中を空想したものは、病院おくりか牢獄にぶちこまれるのがならわしであった。この塔のなかをめぐる螺旋階段を、権力をもとめて猛烈ないきおいで駆けのぼるやつは、いざ頂上をきわめたとたんに、うしろを追ってきたやつに突き落とされるという宿命を持った。のぼるやつはうしろを警戒しろということだろう。のぼったり蹴落とされたり、果てしなくくりかえされるかにみえる遊戯も永遠につづくとはいえない。というのは、塔はこうするうちにも微妙に、すこしづつ傾きを増しているからにほかならなかった。キリギリスの男はこの階段をのぼっていった。なにかに急き立てられるかのようであった。のぼりながらかんがえるのは、途中に見た銅像のことをおいてほかにはない。うしろから銅像が追いたて、さきではおなじ銅像が手招きするようであった。そのとき、ふいに目のまえがあかるくなった。とたんに扉がぱっとひらいて、キリギリスの男は転がるようにそこに倒れこんだ。

 ひらけたけしきは、落ちたさきの地上ではなく、地下の牢獄の中でもない。いちめんガラス張りの、地上を見はるかす展望台のような大部屋であった。まんなかに執務机が置いてある。かかげられた共和国の旗。むっくり起きあがったさきは、塔の最上階……すなわち、ここから共和国全体を統括する司令塔という演出にちがいない。その司令塔の窓硝子の向うには、さっき車のなかから見上げた金ぴかの銅像がまぶしく日に照りかがやいている。ふと男の声がして、付き添いの男がさっと袖にかくれるように姿を消した。キリギリスの男は、そのとき金ぴかの銅像の口がうごいて、男に「下がれ」と命令を発したようにおもった。錯覚か。いや、声の主はげんにキリギリスの男の数歩前の、ばかでかい執務机のむこうに、背中を向けて憐れっぽくたたずんでいた。それにしても、ミニチュア版の英雄というものがあるだろうか。手には銃を持つこともなく、ふり上げるべき腕はだらしなく垂れ、背後をねらう銃を気にするかのようにびくびくおびえながら、背をまるめた小柄な老人……等身大の英雄という矛盾したやつがついそこにいた。銅像はたちならぶ建築物や周囲のけしきを圧倒して、窓外にきらきらしくかがやいている。巨人の像であった。その巨人がにわかにうごき出して当人をむずとつかみ、足下に踏みつけたとしても、おそらく共和国の人民はおどろかないにちがいない。老人にはこの塔のあるじというよりも、なにか幽閉された先王とでもいうべき悲壮な雰囲気がはなれずまとわりつくようであった。

 老人はくたびれ果てたようすで、おもむろに椅子に腰かけた。

「ノートを見たとき、やっぱりきみだとおもった。そして、はじめて知ったよ。あのときに語ってくれた物語がわしを突きうごかしたのは、あれがデタラメなんかではなく真実のたたかいの記録だったからにちがいないということをね」

「しばらくぶりだとおもったら、とんだ挨拶だね。あれはべつにあんたに読ませるために書いたノートじゃない」

 キリギリスの男は、老人をにらみ付けると、自嘲ぎみに笑った。「だけど、そいつがおれ自身の身柄を自由にしてくれたとすれば、ノートのほうに感謝しなくちゃいけないな。ばかげたはなしだよ。共和国臨時政府の首班。そんな肩書きをもらったり銅像をおっ立てたとあっては、あんたも出世したのか反対に脈があがったのかさっぱりわからない。でも、どんな手妻をつかったにしても、あんたがげんにここにいるということになると、やっぱり信じるしかないみたいだ。おれを牢屋にぶち込んだのは、どうやらあんただということをね」

 老人は立ちあがると、窓辺のほうを向いて言った。

「わしはきみに感謝しているんだよ。あのとき、きみがどういうつもりであの物語をはなしてくれたのか、それはもうどうでもいいことだ。わしを愚弄するために口をついて出たはなしであっても、きみ自身がじぶんの過去の愚かさをあざけるつもりで口走ったはなしだとしても、そんなことはもう重要なことじゃない。抑えつけられていたこの町の住民たちに、はじめて火が点いた。そのきっかけになっただけでも、わしはありがたいことだと感謝しているんだよ」

「おれは、むしろこの町にやってきたことを後悔するよ」キリギリスの男のあたまには、病院の屋上から見たけしきがまざまざとよみがえった。

「どこかの平和な町を、ギター一本でふらふら渡りあるいているのが、きっとおれの性に合っていたね。おれの気まぐれなウソばなし、じつはむかし語りを真に受けて、巷に飛び出していったあんたたちを責める権利はおれにはないよ。そう、おれにそんな資格なんぞありはしない。ノートのとおりだよ。むかし、おなじようにノロシをあげてひとを焚き付けたあげくに、いくさ破れて町を捨てすたこら逃げ出した情けないやつさ。けれども、その情けないやつにひとこといわせてもらおうか。この共和国というやつ。いったいなんのことだ。門がまえがっちり、胸には勲章じゃらじゃら、学校にはおそらく御真影、町にはでっかい銅像をぶっ立てて、……国旗の意匠を見れば、てっきりアリとハチの共和国とよめる。焼け出されたあとの病院でじっさい見たとおり、それまでいがみ合っていたアリとハチが手をとりあってなかよくする。そのヒューマニズムの精神におれは反対しない。蝶のように舞いハチの野郎と刺しちがえると息巻いていたあんたが変節したといって責めるのともちがう。あんたは、さっき……」

 キリギリスの男は、いら立つきもちに押されて、老人のそばににじり寄った。

「さっき、おれに感謝しているといったな。おれの物語が、真実のたたかいの記録とやらが、この町の革命のノロシに火を点けたのだと。やけに買いかぶってくれたもんだよ。この町で起こったすべてがおれの責任だなんぞとは、さすがにおれもかんがえちゃいない。

医者もいっていたように、半分は妄想みたいなものさ。そのあやふやな物語にやすっぽく感動したやつらが妄想のつづきを絵に描いて、塔のあるじに収まろうが銅像をぶっ立てようが、そんなことはおれの知ったことじゃない。この町の革命はゲイジュツのおかげで火が点いた。そう信じるのは勝手だが、だったらおれを牢屋にぶちこんでくれたのは、いったいどういうわけなんだ」

「わしはむかしからリアリストのつもりだよ」老人の目がはじめてするどく光ったように見えた。

「きみはやはりゲイジュツ家というやつなんだな。政治が革命という形式をとるからには、どうしても理想という考で磨き上げないと気がすまないらしい。だが、じっさいの革命は泥にまみれ血にのたうち、そろばん勘定の収支決算報告がそのまま人民憲章に化けることもめずらしくないものだよ。それが政治というもの現実さ」

 そのとき、キリギリスの男の脳裏にぱっと閃いたのは今朝、収容所の鉄格子を出るまぎわに見た、壁に刻み付けられた文字のことであった。いや、そういっても文字は硬い石壁に刃物で彫り付けられたというのではない。そこに閉じ込められたなにがしが、みずからの身を切り、ながした血をもってそこに焼印のように命がけで記したものか。文字はつらなり、ことばはたしかな意味を刻んで、それはなにかの歌の文句のようであった。だれに歌われるあてもなく、いまもそこにじっと虫のようにうずくまっているに違いない。おそらく、そんな文字の刻まれた小部屋が収容所のなかに無数にひしめいていたのだろう。

「……おれだけじゃない。いったい、これまでに何人ぶち込んだ。そいつらはどうなったんだ」

 キリギリスの男は、老人をにらみ付けた。目をそらして、ちっぽけな英雄はじっと押し黙ったまま床を見つめた。

「そうか、わかったぞ。あんたの血にまみれた人民憲章の秘密というやつ。ついさっきまで双方いくさでいそがしかった連中が、どうしていきなり仲良く議会の席に座っていられるものか。さぞかし大変だったろうよ。お互いテキ同士の、アリとハチに分かれた共和国の人民。こいつをひとつにまとめるためには、いや、言いかえればてんでんばらばらな連中がひとつにまとまるときといえば、共通のテキというやつが現われる事態をおいてほかにない。そいつがいつかひょっこり目のまえに飛び出してくるまでのんびり昼寝をしながら待っているほど、おそらくあんたは間抜けじゃないだろう。あらわれなければどうするか。ないものは作れ。すなわち、テキというものを作る。共和国にひしめく人民のうち、アリは労働者、ハチは兵士ということにすれば、ここはめでたく労働者と兵士の国ときまった。そこからこぼれ落ちたやつは、十羽ひとからげにルンペンすなわちゲイジュツ家、ついでに政治犯というありがたい称号までむりやりに進呈したというのが、お粗末な革命神話のダイジェストというわけかい。……さて、いったいどうした風の吹き回しかしらないが、自由の身に復したとあれば、おれにも行き先がある。ここで油を売っているひまはないんだ。失敬するよ」

「待ってくれ」

 キリギリスの男を引きとめようとしたとき、螺旋階段を駆けのぼるけたたましい靴音が階下にひびいた。とたんに、ほとんど扉を蹴やぶるいきおいで、側近らしい男がひとり息せき切って部屋に飛びこんできた。

「アリ同志、申し上げます。いま人民警察から入った知らせによりますと、市街の裏通りにある貧民居住区からぞくぞくとひとの列がうごきだしたとの知らせが……」

「またデモかね。別件逮捕で何人かひっとらえて背後関係を吐かせろ。せっかく内戦のいくさは終わっても、貧困とのたたかいは当面のあいだ覚悟しなければならんな」

「のん気にかまえている場合ではありません。デモといっても、これまでとは規模がちがいすぎます。市内のあちこちからうごきだした列は、どうやらすすむ方向からいうと、この斜塔のまえの広場に向かっている様子であります」

「人民警察はなにをしている。市庁舎に向かう道をすべて封鎖しろ」

「なにしろ数が多すぎて、交通管制をおこなうにも人手がたりません。いそぎ、斜塔まえにあつまって広場のほうの警戒にあたっています。ところで、群衆のなかにあのマリアのすがたを見たものがいるそうで……」

「わしが恐れていたことだ」老人はあたまをかかえてうめくと、キリギリスの男のほうに向き直った。

「御覧のとおりだよ。わしの共和国のナイジツはもうがたぴし言って崩れ落ちるてまえだ。このおろかな男を気のすむまで笑ってくれ。市内あちこちからやってきた群衆が、この斜塔のまえの広場にあつまったとき……共和国はいったいどうなる。わしを助けてくれ。見捨てないでくれ」

 なるほど、とキリギリスの男は合点がいった。マリアとは、病院の地下で出会ったあの女のことにちがいない。昨日のはなしにあったイベントとは、おそらくこの広場に向かっている行列のことを指すのだろう。すると、計画していた蜂起はうまくいったということになる。キリギリスの男は、マリアから託された赤ん坊のことをかんがえた。マリアということばに反応したのを見てとって、その意をどう取りちがえたのか、老人はとめどなくつづけた。

「マリアというのは、もとはちょっと名の知れた流行歌の歌い手だったというだけの女さ。巷ではたいそうな人気ぶりだったというはなしも聞く。それが、あの町が燃えた日を境にばったりすがたを消して消息がわからなくなった。ひとびとは焼け野原になった町の復興と生活の立て直しにいそがしく、歌うたいのことなんぞすっかり忘れていただろう。それが、しばらく経って妙なうわさを聞くようになった。市中のいろいろな場所でひらかれるヤミの興業で、マリアらしい女を見たといううわさがちらほら。たちまちマリアの人気は盛り返して、町の評判では一躍復興のシンボルのようなあつかいにまではねあがった。それが、べつのうわさによるとヤミの興業の筋を引っ張れば、なにやら反政府的な気分を煽ろうとするきな臭い連中にまで連なっていくとかいかないとか。あくまでうわさはうわさとタカをくくっていたが、どうやら、もとは流行歌の歌い手だったマリアは、いつの間にやら、やつらのシンボルあるいは広告塔というものに化けてしまったということらしい。そのマリアがいま、この斜塔に向かう列のなかにいるとすれば……。じつは共和国政府もナイジツはごたごたの、とても一枚岩なんてものじゃない。かねて人民警察は、もはや反政府勢力の広告塔に化けてしまったマリアをじゃまものと見て、早早に消してしまえとわしに圧力をかけている。だが、この情況でマリアに手なんぞ出したら、いったいどういうことになる」

 窓の外を見ると、塔からまっすぐ放射線状につづく街路のかなたに、ちらほらあつまり出した点のような人影が、ゆっくりと寄り添い、凝って河のようにうねりながら、やがてひとかたまりの黒雲のように、むらむらと押し寄せてくるのが見えた。それは近づくにつれて、むしろ派手な衣装をとりどりに着かざり、楽隊の演奏にぎやかに、歌いながらすすんでゆくさまは常のデモとは異なって、祭りの提灯行列のけしきをあらわしてくるようであった。老人はがっくりソファーに腰を落とすと、ほとんど絶望したようにうめいて言った。

「もう人民警察とぶつかるのは避けられん。あいつらは、マリアを殺せというわしの命令を待っている。だが、命令を下すのをためらえば、人民警察はわしを背後から撃つだろう。……そうだ」老人は突然、腰をあげて叫んだ。

「ここから逃げればよいではないか。ばかな、なにもここにとどまる必要はない。こんな権力の椅子なんぞ、とっとと蹴飛ばして高飛びすればよい。おい、そこをどいてくれ」

 老人がキリギリスの男を突きとばして階段のほうへ向かうと、そこへどやどやと靴音がひびいて、人民警察の制服が五、六人どっと雪崩れこんだ。銃をかかげた男たちが前に立ちはだかって、老人は気づかないうちに一歩しりぞいていた。

「アリ同志。あなたは、ご自身が革命の英雄であることをお忘れになってはいけません」制服がつめたく口をひらいた。「同志がお逃げになることは、革命の理念をみずから否定し踏みにじることにひとしいのです。アリとハチの共和国、労働者と兵士の国。その理想国家をおびやかし、治安を撹乱せんとする不届きな輩にたいして、同志はそれを迎え討つどころか、よもや背を向けようとは。共和国の人民は、同志のそんなお姿を目にすることをのぞむでしょうか。どうするのです。まもなくデモ隊は広場に到着するでしょう。迎え撃つ要員はすでに配置済みです。アリ同志、ご命令を」

 窓の外では、巨大な銅像が老人をじっとにらみ付けるように立っていた。革命の英雄の銅像。共和国の人民が必要としているのは、ひょっとするとこの金ぴかの銅像のほうなのではないのか。老人は、刻一刻とじぶんの生命が、その銅像に吸い取られ、利用され尽くして、当人はいつかセミの抜け殻のようになって巷にポイと投げ捨てられる。そんな恐怖にかられることが、これまでになかったといえばウソになる。いや、げんにこれは本当のことのようであった。生身の老人はいつのまにか正味を銅像に食われてしまったのかもしれない。すなわち、老人の中身はすでにして空っぽ、銅像のほうは今にもあるき出さんばかりに血肉が充実……いや、どうかわからない。今や人民のほうでも、むしろ銅像を引き倒すためにこそあつまりつつあるではないか。その自分の銅像を引き倒しにくる人民に銃を向ける。その考に、老人はおもわずぞっと身震いした。助けを求めるようにキリギリスの男のほうを見ると、かれは膝の埃を払って立ちあがるところであった。

「いったい、やつらの要求はなんだというんだ。市庁舎をあけわたせというのか。収容所にぶちこんである連中を解放しろというのか」

 すがるような老人の目が、キリギリスの男にぴったり張りついていた。

「共和国の人民とやらが何をもとめているのか。そいつは革命の英雄であるところの、あんたがいちばんよくしっているんじゃないのか」ことばに皮肉な調子がこもった。

「おれは世の中のことなんぞ、さっぱり知っちゃいない。政治やら経済やら、おれにはちんぷんかんぷんだよ。意見をもとめられても、どうもお役に立てそうにない。あんたのいうとおり、おれは世間知らずのゲイジュツ家というやつなんだろう」

 そのとき、キリギリスの男ははっきりと悟ったようにおもった。かつての故郷の町の、金の力を笠に着た連中にしろ、共和国とやらの首領にしろ、およそ力を持つやつらがゲイジュツを眼のカタキにして取り締まるのはなんのためか。飢えた子どもを救えないおれを牢屋にぶち込み、病人けが人をなおすこともできないマリアたちに銃口を向けるのはいったいどういうわけか。その答は、げっそりした老人の目のうちが、おのずと語りかけてくるようにおもわれた。

「あのとき、わしはきみのはなしを聞いて銃を手に立ちあがった。あの物語がわしをうごかし、町の歴史をぬりかえた。おなじように、マリアたちの歌声がいま、わしやこの塔をとりまいてぐんぐんこっちへ迫っている。……」

「おれをぶち込んだ昨日のきょうに、よくいうよ。それに、あんたのいうゲイジュツは、おれのかんがえるゲイジュツとはてんで品物がちがうみたいだ」

「それはどういうことかね」

 老人は窓から顔をはなして、キリギリスの男のほうを向いた。

「あんたのような政治屋がおれの物語をきいてどうしようと、ゲイジュツの値打ちはもともと、政治とはべつのところにあるものさ。おれの生まれ育った故郷……そう、あの小さなゲイジュツの都と呼ばれた町には、むかしから言い伝えられたきびしい掟があった。ゲイジュツ家は、政治というやつに関わりをもってはいけないという戒律だよ。市長のひらいた御前試合に負けたおれは、しょせんゲイジュツも世の中で力を握って綱引きごっこに興じる連中の手のひらで踊らされるだけの木偶にすぎないとむなしく悟った。いや、いまにしておもえばつい早合点しちまったらしい。その掟をやぶってまで起こしたいくさに負けてからというもの、おれはゲイジュツの値打ちそのものを信じられなくなって、虫けらどうぜんに生きてきただけだよ。でも、この共和国とやらであんたのやっていることを知ったとき、おれはじぶんたちがドロボウでもゴクツブシでもないことをはっきり分かった気がする。どこかへ忘れてきた誇りみたいなやつを、たまたま道でひろったとでもいうのかな。幸運だったね」

「抵抗のゲイジュツ、そういいたいのかね。わしの共和国という政治が、ゲイジュツを弾圧し踏みつけにしようとするのならあくまで抵抗する。そこにゲイジュツのほんとうの値打ちがある。はっは、とんでもない。窓の外のけしきはどうだ。マリアと、仲間のデモ隊がこっちへ向かってくる。歌うたいを神輿にかついで、どうどうとこの革命の殿堂に踏みこんでくるあいつらはいったいなにものなんだ。ゲイジュツの政治利用。いや、まるで政治そのものではないか」

「いや、そいつはちがう」

 キリギリスの男ははっきりとした口調でいいきった。そのとき、帽子に開いた穴から触角がぴんといきおいよく立って、はためくように靡いた。

「人民というやつは、権力に踏みつけにされればいつかは立ちあがる。ゲイジュツもおなじだよ。でたらめな政治にさんざんもてあそばれたあげく、権利やら自由やらなにもかもなくしちまったひとびとに、最後にのこされた抵抗のための武器として、表現というものがある。ことばがあり、歌があり、つまるところゲイジュツだよ。おもえば、その意味でゲイジュツと民衆のおかれた立場はおなじかもしれないな。ルンペンあるいはゲイジュツ家か。いい得て妙なことばだよ。その名言を吐いたあんたは、おれの物語をキッカケに銃を手にとって、この共和国をつくった。でも、あんたにとっては、ゲイジュツはあくまで政治にとって都合がいいように檻のなかで飼いならしておくサーカスの猛獣みたいなものだったんだ。そして、そいつが檻から逃げ出して町で暴れまわるようなことは……歌だの物語だのにつられてさわぎを起こすような連中があらわれることはゆるさなかった。なぜなら、それをいちばんおそれていたのは……」

「おそれていた事態にぶつかって、わしは敗北する。ゲイジュツ。いや、これが人民の勝利という意味か」

老人はひとりごとのようにつぶやいた。うなだれたまま、長いあいだ沈黙のなかに沈んでいた。やがて、そのままどっかりと床に腰をすえると、まるで自死を覚悟した古武士のような威厳がそこに漂うようであった。

「おれは、そのマリアという女をしっているよ」

 老人はもう、ぴくりともしなかった。

 その、坐像のようにじっとうごかない老人を見下ろしながら、キリギリスの男は病院でのいきさつを簡単にはなした。

「おれはマリアの赤ん坊にモハメッド・アリという名前を付けた。その由来を尋ねられてこう答えたよ。名前そのものにはべつに意味はない。当人の生きかたしだいで、その名前は誇らしくもなれば卑劣にもなるとね」

「わしがマリアを撃つよう命令を下せば、わしの名は卑劣な名前になるということか」

 市庁舎をとりかこむ広場には、すでにぞくぞくと四方から雪崩れこんだひとのむれが入り乱れて、やがて塔から一定の距離を置いて同心円状にまとまりつつあった。というのは、塔をぐるりと取り巻いて配置された人民警察がいっせいに銃をかまえたのが、デモの隊列の中からも遠巻きながら観測されたからであった。それまで、ふたりのやりとりを不敵な笑みをうかべて見守っていた制服たちの、隊長格とおぼしきやつがずいと進み出て、

「さあ、発砲の許可を」

「撃てば、わしの名前が卑劣になるだけではすまない。その赤ん坊にとっては呪われた名前にさえなってしまうだろう。……」

 老人のうめくようなつぶやきが終わらないうちに、一発の銃声がとどろいた。広場ではなく、ここは塔の最上階の一室であった。ばったり倒れて床に伏せた老人は、まるで丸太かなにかのようにごろりと転がっていた。制服の男はずかずか部屋をのしあるいて、そいつを犬の糞のようにまたぎ越すと、発した号令は部屋いちめんにひびきわたった。

「アリ同志は流れ弾にあたって倒れられたようだ。臨時にわたしが発砲の許可を下す。全員、階下に降りて、広場の暴徒どもの鎮圧にあたれ」

 キリギリスの男は、茫として一連のできごとの流れ去ってゆくなかに佇んでいた。ふっとわれにかえると、制服たちのすがたは部屋のどこにもなく、床にころがった老人とキリギリスの男だけがそこに取り残されていた。ひきょうもの。あたまのなかへ直接にこえがひびいたようであった。ひきょうものとはだれのことか。まだ脈はあるようである。いそぎ老人の手当てをすると、キリギリスの男はころげるように階段をおりていった。

「やつら、撃ってきやがるかな」

「きまっているわ」

「賭けはおれの勝ちだね」

「撃っても当たらなけりゃわたしの勝ちよ」

 セロを山車に押したててすすむ一隊のまんなかに、マリアのすがたがあった。ひとびとのむれはそのまわりを取り囲み、波が打ち寄せるようにじわじわと塔にせまった。銃声が二、三ぱらぱらと鳴って、先頭列のまえに土ぼこりが立つ。やっぱり撃ってきやがった。打てばひびき、撃たれれば引くのが道理であった。ひとのむれは潮の満ちひきのように、岸に打ち寄せ、また引いては、海岸をすこしずつ削りとる大波のようにうごいた。しかし、引くうちにしだいに銃声ははげしく、とどく距離ものびて、隊列のなかにちらほら倒れるもののすがたもあらわれはじめた。

「すすめ」なにものかが叫んだようであった。列はうごかない。そのとき、ざわざわと群集のあたまがうごいたところが、海が割れるようにぱっくりと裂けて、そこに塔に向かってまっしぐらに駆けはしる男女の影があった。銃声にわかにはげしく、矢のように降りしくなか、タマは運よくふたりのうごくところを避けてむなしく落ちる。しかし、あわや塔の入り口に到達しようとするてまえで、ふたりはそこに、ばったり重なりあって倒れたようであった。とたんに、群集のなかにざわめきがおこった。ざわめきは、にわかに野火のように燃えひろがり、憤怒のけむりを濛濛と吹き上げ、たちまちむらがる黒雲となって、荒海のように波立ち、怒涛のようにうなり、たかだかとせりあがったとみるまに、引き絞った弓のちからが解き放たれるように、巨大な津波の一打ちとなって、塔をゆさぶり、とどろく咆哮をあげて、地の底からはいのぼるけものの一むれとなって塔におそいかかった。

 老人がふらふらと立ちあがったとき、まわりにはだれのすがたもなかった。どうやら急所は外していたようである。あたまがくらくらした。外ではなにやらざわめく声がきこえる。そうだ。窓の外をふり向いたとき、そこに巨大な銅像の顔がにらみ付けていた。顔はゆっくりとうつむきかげんに、老人の目の当たりにせまってくる。ばかな。そうおもったとき、にわかに銅像の巨大な手のひらがガラス窓を突きやぶって、ぬっと部屋のなかに押し入ってくるのを、老人はたしかに見た。わしの像が、わしにつかみかかってくる。わしを食らいつくし、わしに成り代わった像が。それもいいだろう。いまや、おまえはわしだよ。その人民の意志としてわしに成り代わったおまえに握りつぶされるまえに、わしはとうのむかしに負けている。未来永劫、そこにそそり立て。銅像よ。……足下がにわかに揺れると、そこには床なんぞという生きた人間のための仕掛はすでに消えうせていた。机やら椅子やら、共和国の旗もなにもかも、みじんに散った瓦礫ともろともに、ほこりまみれに宙をふわふわと漂うように乱れ飛んだ。屋根は落ち、壁は砕け、がらがらと崩れたレンガが音符のように宙を跳ねまわるのに乗って、そこにほんの一瞬、なにかの歌声がながれるのを、ひとびとは耳にしたようにおもった。声のひびきは男女いずれのものともしれない。ひとりのささやきにも、また力づよく唱和する声のようでもある。歌はたちまち町を隈なく翔けめぐって、野を越え谷を渡り、森の木立のあいだをふかく分け入りながら、かの泉のほとりにもおよんだ。

 歌がやんだとき、広場はまるで、霧につつまれた湖面のように、ひたと鎮まりかえっていた。むれつどっていたひとびとのすがたも、ふっと気が変わってどこへかくれたものか、そこにうごくものの影ひとつ見ない。ただ、濛濛とただよう土ぼこりのなかに、ごろりと横たわった銅像の首がまぬけなすがたをさらすばかり……いや、そのほこりまみれの首の陰から、よろめきながら這い出てきたやつがある。キリギリスの男であった。

「撃たなかったあんたは英雄だよ。おれは……」

 男はそうつぶやくと、羽根は破れ、からだはひしゃげ、足はびっこを引きずりながら、よろよろと数歩あるいてはばったり倒れた。落ちている棒をひろうと、そいつは共和国の旗であった。また数歩あるいては、ばったり地に伏せる。すると、そこにぴかぴか光るひょうたん型のものが、ほとんど奇跡のように目のまえに輝いていた。そいつは不思議なことに、埃ひとつかぶらず、砂漠のなかに一点かがやく宝石のようにきらきら光って見えた。

 キリギリスの男は飛びつくようにギターを手にとった。ついそばに小さい生きものがうずくまっている。血に染んだ白い鳩であった。男に気づくと、鳩は小さく鳴いて飛びあがり、肩にとまった。そのとき、ふっとあたまに閃いたのはつい収容所の壁に見たばかりの歌の文句であった。蝶のようにひらひらと、うたかたにながれた曲の余韻をめぐりながら、詞はまぼろしのように夕闇のなかに消えた。

「そうか、おまえが」

 キリギリスの男はふるえながら立ちあがった。鳩はもうかなたの空に高く飛び立っていた。そして旗をびりっとやぶり捨てると、サオを杖がわりにしながら、ふらふらとあるき出した。あてもなく千鳥足がさまよう姿とみえても、足取りはたしかに鳩の飛び去った行方を追って、よろめきながら進むようであった。



「だれだい。まだ家に用のあるものがあるのかね」

 女が扉を開けると、そこにあたまにはやぶれ帽子、ぼろぼろのコートを羽織って、背にはギターをかついだ男がひとり、季節はずれの門付芸人のように佇んでいた。 

「なにをしているんだい。さっさと中に入りな」

 キリギリスの男は促がされて室内にはいった。部屋の隅には、揺りかごが置かれて、赤ん坊がすやすや寝息を立てていた。女は奥へ紅茶を立てにいったようであった。戻ってくると、テーブルにお茶を出してから、編物のつづきに手を付けはじめた。

「あんたからはじめに手紙をもらったときには、ずいぶん虫のいいはなしだとおもったね。さいしょは、そりゃあ、あんたさえ現われなかったら、あのひとが飛び出していくこともなかったと恨みにもおもったさ。あのあとで、暮らしぶりは目まぐるしく変わって、英雄の妻とやらで市の官邸に移ったこともあったけれど、結局もとの木阿弥、やっぱりこの家がいちばんだね。……ところで、見せてごらん」

 キリギリスの男は、マリアの仲間からあずかった赤ん坊をアリの女房にみせた。

「名前はモハメッド・アリと付けておいたよ」

「あのひととおなじ名前だね」

 女房はあたらしく買い揃えておいた揺りかごに赤ん坊を寝かし付けると、ふたつながら並んだ小さい寝顔を、まんぞくげに見比べた。

「具合はどうなんだい」

「心配ないよ。お医者のはなしでは、あんな高いところから落っこちたわりには傷も大したことはなくて、不幸中のさいわいだって。ただ、どうもあたまの打ちどころがよくなかったのかしらねえ。いうことがたまにおかしいみたいなんだよ。なんでも、昔と今がごっちゃになったり、じぶんがだれだかわからなくなって、名前を訊かれると大昔の英雄のなまえを口走ったり。しまいに巨人がどうしたとか、まるきり子どもみたいなのさ。お医者がいうには、落ちついたらよくなるらしいんだけれど。……そうそう、あのひとからこれを預かっていたのをわすれていたね」

 受け取ったのは、例のシミだらけのノートであった。瓦礫のなかでひしと手に握られていたものか、ところどころ血に染み、ホコリにまみれている。この女房の主人も、ひょっとすると今ごろ、病院のベッドに縛り付けられながら、例の医者に治療のためという名目のノートを書かされているのかもしれない。看護婦になにやかやとやんわり説教を食らいながら、そういっても不満そうでもなくペンを走らせる男のすがたが目に浮かぶようである。キリギリスの男は、懐かしげにぱらぱらとページをめくった。

 かれの書くノートは、おれの書いたものとは相当にちがっているだろう。あのノートは歴史……いや、妄想半分の記録は、歴史そのままからはほど遠いシロモノのはずである。歴史を書く権利は古来、勝利者のものであった。そういっても、ここに敗者の歴史というものがある。勝ち負けはどうあれ、妄想半分の記録というものがある。その記録を、おれのノートのつづきをアリの主人が書き継ぐ。いや、そんなばかなことがあるだろうか。そいつはサクラの木にカボチャを接木するようなもので、そんなツギハギだらけの歴史はいつか根っこが腐って、実をむすぶよりさきに立ち枯れになってしまうだろう。いや、そうとも限らない。むしろ立ち腐れの朽木がゆたかに土壌をつくり、そこに出来そこないの種がたくましく芽を吹くという奇跡も万にひとつくらい……キリギリスの男は、揺りかごのなかにすやすや寝息を立てる赤ん坊の顔をじっとのぞき込みながらかんがえた。

「この子はいったい、何になるんだろうねえ」

「さあ、わからない」

「あたしはこの子を、商売人にも政治屋にもするつもりはないよ」

「ひょっとすると、とんでもないまぐれ当たりにえらいやつになるかもしれないな」

「そんなの、まっぴらごめんだよ」女はすこし怒ったようにいった。そして、男を押しのけるように身を乗り出すと、うっとりしながら揺りかごに顔を寄せた。

「もちろん、ゲイジュツ家なんかもってのほかだね。……じぶんの子だとおもって大切に育てるよ」

 

 キリギリスの男はふらふらと通りへ出た。町はふたたび復興の熱にわきかえって、あちこちで槌音がせわしく鳴りひびき、あたらしい商店も出来、次の市長をえらぶ選挙のポスターもちらほら目に付いた。なにやら騒がしいことつづきでごたごたとした町のけしきも、再建のみちすじが立って、徐々によみがえりつつあるようであった。ただ、ひとつ町から永久にすがたをけしたものは、あの塔である。広場はいつのまにやらきれいに掃き清められ、町の浮かれ気分に誘われて、あちこちから露天商があつまり軒をつらね、風船やら射的やら、なにやらあやしげなものを見せる小屋やらと繁盛に限りなく、昼には子ども、夜には事情ありげな男女と迎える客をえらばない賑わいぶりであった。横丁に入るかどに、がやがやと子どものひとだかりがする。大道芸人の小屋であった。奇術師が山高帽をぱっと手にとると、そこから鳩がばたばた飛び出す。子どもがよろこんで拍手を送る。仕掛あり、からくりありの他愛のない芸である。その落魄した男の横顔をちらりと一瞥すると、なにやら覚えのあるような気がした。錯覚だろう。おそらく見知らぬ男にちがいない。往来のまんなかに立って巷のけしきを見まわしても、そこに馴染みの顔はひとつも見当たらない。だれひとり目を合わせず、見知った顔のひとつさえなく、浮かれさわぐひとびとの顔はみなひとしくのっぺらぼうに見える。河のながれが岩という物体をまえに向きを変えるように、ひとの波はキリギリスの男にぶつかると、おのずから避けて左右にわかれた。そして、まるで何事もなかったようにまたひとつのながれに合流して、かなたへ運ばれていった。

「おれはじぶんがよそ者だったことを、うっかり忘れていたみたいだ」

 そうつぶやくと、往来の端に積み上げてあったレンガに腰かけ、背負ったギターを下ろして両手にかまえた。そう、おれは音楽家だった。こうして町の辻に立って、ギターを弾いているだけでおれはまんぞくなんだ。いくら世間が認めてくれなくとも、憂さ晴らしに世のなかをひっくり返そうなんぞと身の丈すぎた空想にふける必要もなく。ここに歌がある。しらない間に、指先はすでに弦のうえに落ちて、斜塔がくずれ落ちるまぎわにふっと耳元にきこえた、あのふしぎな曲を奏でていた。歌詞は、いつか目にした収容所の壁に刻まれていたことばが、おのずから流れる旋律とひとつに、それが口をついてほとばしるようである。しかし、うろ覚えのままに手ずから演奏する曲は、もとの調べには似ても似つかない。ことばは曲のうわべを滑ってゆくだけで、どうもぴったりこなかった。浮かれさわぐ町の喧騒は、その調子はずれの歌を木の葉のように呑みこんで、曲はやがて雑踏のなかにまぎれて消えてしまう。キリギリスの男は、だれに見とがめられることもなく、また立ち止まって投げ銭をする客のひとりすらなく、木の葉に乗った小さな虫のように、ゆらゆらと波間にゆれる小船のようであった。その小船の男が、曲のうわべをすべりながら舟を漕ぎ、時間をさかしまにたどるうちに……キリギリスの男は、ふっとおもい当たって顔をあげた。さっきの奇術師。山高帽に、いつかはステッキを持っていたにちがいない件の紳士。あの男だ。訊きたいことがたくさんある。いったいどういうわけで、おれを助けるような奇特なふるまいをしたのか。しかし、みすぼらしい身なりの大道芸人には、あの太っ腹の紳士の面影はみじんもない。ほんとうに本人なのか。だいぶ身を持ち崩したとはいっても……いや、まちがいない。あいつだ。

 キリギリスの男は、いきおい演奏をやめると立ちあがって、もと来た方角へむかって駆け出していった。そのとき、薄汚れたコートに身をつつんだ大男が、すこしはなれた横丁の角にかくれて遠巻きにこちらをうかがっていたのに、気がつかないようであった。大男は目立たないように身を屈め、右に左に人込みにかくれながら、おもむろに近づいて間合いを詰めてくる。通りすがりの子どもが小さくあっと叫んだ。見れば帽子の下にちらりとのぞいた顔の、眼を隈取るおそろしげなホリモノにくわえ、まるで鳩に突つかれたような無数の切りキズ引っ掻きキズがいちめん顔を覆って、こいつ、どうも見てもまともな生業のつとまる手合ではなく、つい今しがた掃き溜めから生まれたばかりのような、無頼あるいはゴロツキの、荒くれものにまぎれもないふうていであった。

「どこかで見たツラだとおもって見れば……野郎、あの御前試合で負けやがったゲイジュツ革命哲学野郎じゃねえか。ここで会ったのも縁だ、おれにかかせた恥をいま償わせてやる、畜生め」

 荒くれものは懐からピストルを取り出すと、キリギリスの男をねらって引き金を引いた。しかし市中お祭り騒ぎのただなかにあって、ひとは銃を見てもおもちゃとしかおもわない。あちこちに鳴るクラッカーや花火の音に打ち消されて、銃声はだれの耳にもとまらない。二発目の銃弾がやぶれ帽子を吹き飛ばしたとき、キリギリスの男はようやく追っ手に気づいて振りかえった。荒くれものは、あたりかまわず銃をぶっ放す。雑踏をかき分けて逃げる男の、うまく逃げかくれたようにも、あるいはまともにくらってばったり人込みに倒れたようにもみえ、いずれとも見分けがたい男のすがたは、まるでつい今まで存在していたのがウソのように、ふっと霞のなかにとけてしまったようであった。そのとき、人込みのなかにわっとひとびとの歓声があがるのがきこえた。空を見上げれば、白い影がいくつもばたばた音を立てて飛び立ってゆく。鳩のむれか。さきの奇術師が、ただ茫とした顔つきで空を見上げている手元をみれば、これはどういう仕掛になるものか、帽子のなかから、白い鳩が十羽、二十羽、三十羽とつづけざまに飛び立って、その数はいや増しにふえて地に羽ばたき、空に翔けり、そこに、にわかにおこった大風が吹き付けつけると、男の手からもぎとった帽子を大空たかくに舞い上げた。すると、どこからあらわれたのか帽子は連れ合いを得て、ふたつながら、二羽の蝶がダンスをおどるように、くるくるもみ合い舞いあがって、羽ばたく鳩のむれともろともに、しだいに遠く、小さくかがやく一点となって、雲間から射す光のなかに吸いこまれ消えてゆくようであった。


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その男、キリギリス 宮脇無産人 @musanjin

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