光無きものの夢
視点主がちょっと変わります
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光を当たり前のように享受している奴らが羨ましかった。
“見えていること”に疑問を持たない奴らが恨めしかった。
俺は、亡霊だ。恨みを持った亡霊だ。
俺には光彩だとか、眼球の機能だとか、そういった視覚は無かった。___そんなものはとっくに失った。
あまりに酷い記憶だった。神経そのものが焼き付く耐え難い痛みの記憶とともに刻まれたそれを、俺は既にはっきりと認識することができなかった。
何らかの理由で眼球を奪われて、そして死んだ。明言できるのはそのくらいだった。
山の緑、空の青。鳳仙花の赤......そんなものは全て、朧げな記憶の片隅で、ほんの僅かその名残が在るだけだった。
形状、色彩、躍動。
外の事象を彩る全てが、段々と思い出せなくなって、眼の前の闇に塗り潰されていく。
_『貴方の最期は確かに悲惨だったのだろう。』
春のことだった。鶯のなんとも美しい囀りが彼方の山にこだまする中で、低い声は、身にまとう熱にも似たエネルギー__魔力を片手に、告げる。
_『だがそれは、今を生きる者たちの光を奪って良い理由では決して無い』
俺はなんとか逃げ出した。命からがら逃げだした。
否、命などというものは、とうの昔に無いのだが。眼とともに失ったものなのだが。
とにかく俺は残留した。消滅を免れた。自分の姿がどうなっているのかなど、今の俺にはわからなかった。だが地を這うこの感覚、身体が混ざり合って溶けるこの感覚から、およそ碌な姿をしていないだろうということは容易に想像できた。
這って、這って、這って、三刻は経ったであろうその時だった。どこからか、軽快な足音がやってきた。
_『あなた、なぁに?』
彼女の声が、聞こえた。
その時は名も姿も知らなかった彼女の声。幼い少女特有の高い声。
俺はほくそ笑んだ。なんて幸運なのだろうと思った。
眼は見えないが、しかしなんとなく知覚した。幼い非力な少女だ。“俺”が視えるだけの力はあるようだが、俺を消せるほどでは無かった。
__嗚呼、お前、見えるのだろう。なんの疑問も無く、その光を享受しているのだろう。
渇望した。だって好機だ。俺は手を伸ばす。もはや手とすら呼べない形状であろうそれを、彼女に伸ばす。
_『お前の眼を俺にくれよ』
俺は、酷くしゃがれた声を出した。
_『お前の光を俺にくれ。お前の視界を俺にくれ。俺はなんにも見えなくなったんだ。奪われたんだ。だから俺にそれをくれ。お前の眼を俺にくれよ。』
懇願する俺の、なんと惨めなことか。
あの霊媒師の男の一撃は、思っていたよりも俺の多くを削ぎ落していた。俺の今の力など、塵芥に等しかった。
先程までの高揚はどこへやら。幸運なんて代物は、今の俺には有り余るものだった。
だって俺にはもう奪う力すら残っていない。
俺はこんな非力な幼子相手に請い願うことしかできないのだ。それほどまでに落ちぶれたのだと、嗚呼、元から大したものなど持っていなかった癖に、一丁前にそんなことを悲観した。
泣き叫ぶか、嫌悪を剝き出しにするか。それとも、誰か大人を呼ぶか?
_『いいよ。』
だが、彼女は凪いだ声で、何の躊躇いも見せずにそう言った。
なんて愚かなのだろうと思った。幼い少女だと思っていたが、まさかこれ程とは!
おそらく彼女は、俺が思っていたよりずっと幼かったのだ。“視界を奪われる”ことの意味がわからないほど、頭が足りていなかったのだと......そう思った。
_『言ったな』
俺は再び、ほくそ笑んだ。
_『過去の自分を恨んでも、もう遅いぞ。お前の発言に取り返しはつかないぞ。お前は俺がいる限り、もう何も見えない。色も姿もわからない。夜の闇が生ぬるく思えるような、何もない真っ暗な中で残りの長い長い人生を過ごすんだ。』
今にも溶けつつある手を彼女に伸ばす。奪うべく伸ばす。
自ら俺に光を与えてくれたせめてもの慈悲だ。俺が体験したような、あの耐え難い痛みは与えない。優しく、優しく、お前の眼球の機能すべてを引き剥がしてやる。
永く焦がれたそれを、俺は掴んで......
_『ありがとう、優しい誰か。』
聴覚で捉えた彼女の言葉に、俺は自分を疑った。
_『これでもう見なくていい。ずっと目を閉じてていい......それって、すごく素敵な贈り物だと思うの。だって、もう誰かの顔色を見なくていい。もう喧嘩するお父さんとお母さんを見なくていい。だって見えないんだもの。見た目について何か言われても、見えないからわからないって言えばいいわ。事実なんだから、誰も私を責めないわ。』
……彼女は愚かでは無かったのだと、その物言いから悟った。
どこまでも穏やかな声色だった。だが、理解できていないわけではないのだと思った。
俺は彼女の事情など何一つ知らなかった。
彼女自身の精神疾患なのか、それとも彼女の置かれた環境が劣悪なのか。
焦がれていたものをようやく掴んで、俺が奪ったはずの彼女から言われた台詞が、絶望と怨嗟を含んだものでは無いことに、どこか物足りなさを感じながら__俺はほんの少しだけ、彼女を憂いた。
俺は光を取り戻した。
あらゆるものを再び視認することができるようになった。
あまりに多い情報量に、俺は眩暈がした__光彩とは、世界とは、かくも眩しいものだったのか。
ツツジの薄紅色がわかる。空の青がわかる。煉瓦の橙色がわかる。形状も、躍動もなにもかも。嗚呼、この世の支配者にでもなった気分だ!
俺は初めて彼女の姿を見た。
__美しい造形をした娘だと思った。
彼女の名前は早川のどか。
視覚機能をようやく得られたとはいえ、力の殆どを失っていた俺はその療養のために、彼女の陰に潜むことにした。そして垣間見た、彼女を取り巻く環境は......
……なるほど、目を塞ぎたくもなる筈だと、この俺が考える程度には酷いものであった。
顔の輪郭、パーツ、凹凸、比率に至るまで、八百万の神々の寵愛を受けたが如き造形美に恵まれながら、彼女は悉く周囲の人間に恵まれていなかった......いいや、むしろ彼女の造形美こそが、本来無用の争いを産んだのやもしれない。
彼女にとって空気は悪意、視界は毒。言葉は棘に等しいのだと、そう理解するのに時間はかからなかった。
光を得た俺は、暫く休んで力を少し取り戻してから旅に出た。
どれも、少なくとも七回ほど日が昇れば帰ってこられる程の旅路だった。別に頼まれたわけでもないが、俺は一つの旅を終えると必ず彼女に会いに行って、見たこと聞いたことなど話してやった。
彼女は人は苦手だろうから、それよりも綺麗な風景の話をしてやった。雄大な自然、数百年前の建造物、日々を生きる野生の動物.........
彼女が塞ぎこむのが煩わしいと思っただけで、特別な意図などなにも無かった、筈だ。
そうして、10年近くの時が過ぎた。
その月日は意外なことに、なんとも平穏なものだった。
__彼女の身体が急速に衰弱するまでは。
あまりにも突然の出来事だった。
何の予兆も見せずに、彼女は倒れた。
屑の如き両親はあろうことか、倒れた娘を罵った。俺はそれに苛立って、奴らが趣味に使うであろう金を財布から抜き取って、一般人を装って彼女を病院へと連れて行った。
彼女は極めて致死性の高い複数の疾患を患っていた。
その殆どが、何かわかりやすい兆候を伴うとされているものだった。だが医者の言っていたどの兆候も、彼女には当てはまらなかった。
原因を言い当てたのは彼女の主治医の長年の友人だという、一人の魔術師だった。
_『彼女は何かしらの怪異に視覚を奪われている。その副作用が身体に巡ったのだ。』
俺のせいだった。
俺自身も知覚していない、俺のせいだった。
_『原因となる怪異を倒せば、治療も一気に進むだろう。』
それを聞いて、俺は確かに安堵した。それならば簡単だと考えた。
“俺が倒されればあの娘の容体が治るのであれば、俺があの魔術師の眼前に出てやればいい。適当な言葉で挑発すれば、あいつは俺を殺すだろう”___
……待て。俺は今、一体何を考えた?
俺は自分の思考回路に唖然とした。彼女への感情は、単なる利害の一致、単なる気まぐれ......嗚呼、その筈だ。
だが俺は何を願った?あれを治したいと、あまつさえその為に自己を犠牲にすると、そう願ったのか?
光在る者の悉くを恨み、他者から奪うことに何の躊躇いもなかったこの俺が。
………なんだそりゃ。笑い話にもなりゃしない。
だが、すぐに気付いた。俺が倒されるということは、彼女が視覚を取り戻すということと同義だった。
彼女にとって視界とは毒だった。
彼女は闇の中に安息を見出した。再びその視界が開くことを極端に恐れていた。
連れ出してはいけない。この光の中に、彼女を連れだしてはいけない......!
彼女の息の根を止めたくはない。さりとて彼女を再び光で傷つけることにも耐えられない。
どうにもできずにただ日々を過ごしていくだけの俺の元に、あの方は現れた。不思議な色をした、種のようなものを携えて、それを俺に握らせて__
_『歪で、だがしかし美しい愛だ。ここで枯らすのは忍びない。これをあげよう。この力を使えば、君の悩みを全て解決できる。いいかい?よく聞いて。この種の使い方は.........』
そこまで思い出して___ふと、気付いた。
顔が思い出せない。
顔だけじゃない。声も、雰囲気も、なにもかもが漠然としていて......必死に思い出そうとしても、それはまるで霧を掴むが如く、何もかもが朧げであった。
確かに見た筈だ、確かに聞いた筈だ、確かに感じた筈だ!
俺がこんな大事なことを覚えようとしない筈がない。
俺が俺であるならば、あんないかにもな種を持ってきた奴、例え僅かな特徴でも記憶に留めていようと__決して忘れないと思う筈だ。思った筈だ。
___何だったけか。
あれは男か?女か?背丈はどれだけだったか?何を......何を、あいつは言っていたんだっけか?
もう何もかも、思い出せない。
………意識が、存在が消えていく。
嗚呼、俺は死ぬのだろう。
これであいつを覆っていた病は消え失せる。あいつの眼球の機能も戻る。
再び光を得ることに___おそらく、あいつは怯えるだろう。
だが......だが、
なぁ、娘。早川のどかという、娘よ。お前にとって、確かに視界は毒だった。
だが.........俺が再び視覚を得たとき、俺は幸せだった。
躍動する現実事象の須らくを捉え、感じられる何とも眩しい感覚を。色づいた紅葉、満開の桜、雄大な海原、地を駆ける鹿、一面の白銀......それらを視界いっぱいに収める、あの恍惚とした感覚を。
お前が、それを何の憂いも無く享受できるようになったなら。
それは、俺にとって_____どんなに、幸福なことだっただろう。
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