街に潜みし吸血鬼(Ⅰ)
背後から熱を伴った、おそらく魔力である何かがのしかかってきて__それは、まるで大蛇のように。まるで強酸の如き唾液と肉を貫く牙を持った恐ろしく大きい怪物のように。
そう知覚したその瞬間には、既に____
「(呑み込まれる......!)」
抗うだけの時間も無く、為すすべも無く。
感覚が遠ざかる。おそらく魔術であろうそれに、意識を引っ張られてしまいそうだと__気色の悪い生ぬるさ、その微睡みの中でそんなことを考えた、次の瞬間だった。
魔術の気配が遠ざかった。
消えたわけではない。帰ったわけではない。
ただ、後ろに吹き飛ばされて遠ざかったような__肌を撫でる生温かさ、その大元が遠ざかったような、そんな感覚に見舞われる。
「(......?助かった......のか?)」呆然とそんなことを思って、そして先導する李乃の足が止まったのを認識して、私もまた歩を止めた。
__数秒ほど遅れて、木々の隙間を縫うように、上空から眼前へと、誰かが飛び降りた。
「.........油断が過ぎるぞ。高峰友梨花。米瓦李乃。」
それは、淡々として無機質で、しかし声質自体は爽やかな__どこかで、聞いたことのある声色。
真夏の海の如き群青の髪。こちらを見据える金の瞳。
黒いシャツに赤いネクタイ、モノトーンのパーカーという異様な組み合わせ。両耳に飾られた銀色のピアス。影に溶けるが如き存在感。処刑人といった雰囲気。端正なその顔立ち。
真酔伊吹。
バイト初日に誤解から襲撃された、そして実はクラスメイト、それも隣の席だった男子高校生にして魔導保安隊なる組織に所属しているという彼、その人だ。
「い、ぶき」呂律のうまく回らない口で、そう呟いてみる。
「わ、あの時の......!」
李乃も一目で、伊吹の存在に思い至ったらしい。「ありがとう!私じゃ絶対防御間に合わなかったし、ほんっと~に助かった!」
「礼はいい。こっちも仕事だからな。」
“仕事モード”である伊吹は淡々と返した。「それより____」
そこで言葉を区切って、伊吹はその金の双眸を鬱蒼とした茂みの方に向けた。
張り詰めた緊張が、場を支配する。
まるで糸が張り巡らされて、軽率に身動きできないような__そんな感覚が身体を覆う。
___“何か”がいる。
何が、とは、その種類までは断定できないが。しかし確実に“何か”が居る。
李乃も、伊吹に倣って茂みの方へと視線を向ける。
非日常的な、鼓動の音が漏れ出てしまいそうな、尋常ではない緊張、その空気の中で__そんな二人を見て、もしやその茂みの中に“居る”のかと、そう思って__私も視線を合わせる。
「(いっ......!?)」
強い、頭痛がはしる。
脳そのものが揺れるような、およそ今まで体感したことなど無いであろうそれ__刹那のその感覚は、しかし感覚器官が「生命の危機」だと判断し、その信号を送るには十分な時間だった。
異常に早くなった脈、体感体内温度は急速に低下し、思考はうまく纏まらない。
胃が気持ち悪い。腸が気持ち悪い。頭が気持ち悪い。顔が熱い__まるで、血だとか栄養だとか、何か身体に大事なものがちゃんと巡っていないような、そんな感覚が全身を覆って__何もかもわからない状況の中でただ一つ、唯一。
__目を逸らすな。逸らしてはいけない。
そのことだけを理解する。
頭痛を伴って現れた悍ましい感覚は、しかし一秒も経てば霧散していた。
呼吸も、脈拍も正常。まるで異常など、存在していなかったような__しかし残留感、その名残、その感覚は確かに在った。
向けた視線を鋭く細めて、伊吹は口を開く。「___いるんだろう、“吸血鬼”。」
紡がれたその単語に、ハッとする。
__『吸血鬼。...てめぇの企みもその少女の乗っ取りも、ここで終わりだ!!!!』
__『春期休暇を返上して探しても尻尾一つ見せなかった犯人の手がかりをようやく見つけたと思ったら、つい冷静さを欠いてしまってな。』
バイト初日、私の独り言から勘違いさせてしまって襲撃された、あの時。伊吹はそう言っていた。
吸血鬼。血を吸う怪物。
伊吹が春期休暇を返上して探しても、痕跡一つ見つけられなかった存在。
「(今回の件はもしかして、その“吸血鬼”とやらが............?)」
「......事を、急ぎ過ぎたか?」
茂みから聞こえた、紡がれたその声色には確かに、聞き覚えがあった。
「(......この声は)」
可愛らしい声。鈴が鳴る如き声。
嗚呼、初めてこの声を聞いたときは、成程、その“絶世の美少女”ともいうべき容姿によく合っているなと、意識の片隅でそんなことを思ったものだ___。
一呼吸置いて視線の先に現れたのは、確かに体育館、そして教室で見かけたあの少女。
肩まである赤褐色の髪。柘榴の如き美しい瞳。
至高の芸術品が如く整った造形の顔立ち。水色を基調とした、まるで病院で支給される入院患者用の寝間着のような__そんな装束を身に纏った超絶美少女。確かに昼間に学校で見た彼女と同じ、しかし纏う雰囲気はどこまでも暗く、底が無く、悍ましく、直視していると頭が痛くなりそうな__威圧感にも似た雰囲気を醸し出す美少女。
彼女の名は、確か............
「早川のどか」
私の代わりに、伊吹がその名を紡ぐ。「まさか、クラスメイトだとは。......それにしても今回の犯行は随分と杜撰だったな。慎重なお前らしくもない。余程、急ぐ理由が在ったのか?」
「......真酔伊吹に、高峰友梨花。それに見知らぬ橙色の少女。」
「え、この人、二人の知り合い?っていうか、クラスメイトだったの?」若草色の鞄からけん玉を取り出して、構えつつ李乃は尋ねる。
「ああ。私も伊吹も、彼女と同じ1年2組で......」
__正直、驚愕は薄かった。
クラスメイトが吸血鬼と呼ばれていて、そしてこうして事件を起こしていたという事実に対して__むしろ今まで感じていた、歯車の噛み合わないあの違和感に納得がいったような、むしろ不可解なそれの解が見えてやや安堵するような、すっきりするような__そんな感覚さえもある。
「(だが......それでも、わからない。)」
両手を握りしめて、そんなことを考える。「(わからない。何かがわからない......クラスメートが吸血鬼で事件の首謀者でした、とか、即座に理解できる筈もないが。納得は、なんとなくある......ものの、しかし。)」
「......“急ぐ理由が在ったのか”と聞いたな。」静かな口調で、しかしなにかを含ませたように__早川さんは数歩ほど、こちらに歩み寄る。「......ふふふ、ははは、あはははは.........!」
笑って、そして。
伊吹を目掛けて、鋭く硬い何かが__動物の爪のようななにかが突如として現れて、振り下ろされる。
「つっ......!」
「在るに決まっているだろう......!?私は!なんと!しても!」
感情を爆発させたように、必死さを滲ませた形相で、右手を勢いよくこちらに向けて彼女は叫ぶ。「なんとしても!!あの子を!!.......永らえさせなきゃ、いけないんだから......!!!!」
カキィィィン!!!
鋭い音が木々の合間に響く。
振り下ろされたそれを、伊吹は寸前のところで受け止めて、そして押し返す。
__突然、視界が薄暗くなる。
「な......!?」気付けば、そう呟いていた。
その薄暗さはまるで天候、時間帯の変化。
一瞬にして空は薄暗い雲で覆われ、穏やかな陽射し、そんなものは幻覚だったのではと、そんな疑念すらも生まれる尋常ではない、おそらく“魔術的”なその薄暗さ___
突然の変化に視界は適応できず、眩暈にも似た視覚異常が目を襲う。
「(魔術って、そんなことまでできるのか。)」意識の端で、そんな感想を浮かべて、数回ほど瞬いてから目を開く。
__そこでは、もう既に戦いが始まっていた。
跳躍し、早川さんに向けて注射器らしきものを猛スピードで投擲する伊吹。魔弾のような紅の光を的確に放ち、それを撃ち落とす早川さん。
瞬間瞬間に繰り出されるその攻防は風圧を伴い、薄暗い視界の中で鮮明に映った。だがしかし、一瞬目を離せば、その戦況はまるで異なる姿を見せていた。
およそ、常人の目では完全に捉えきれないその戦闘に。
「伊吹、だったよね!......援護するよ!」
李乃も木製のそのけん玉を片手に、高らかに声を上げる。「木よ、火よ、土よ、金よ、水よ___お願い。応えて!」
そう唱えて振り上げられたけん玉、持ち手と大玉を結ぶその糸は、けん玉を塗装する色と同じ__赤、青、緑、黄、黒。それらの淡い光を伴って、伸びて__李乃はその勢いを、遠心力を利用するように器用に右手を操り、全身を使って糸で弧を描く。
それは薄暗い視界の中で淡く、しかし煌々と輝く五色の光。
円状に描かれた弧の軌跡、その中心に光の魔法陣のような、どこか東洋の陰陽道を連想させる紋章が描かれて___李乃が、声を張り上げた。「着地、これ使って!」
「.........助かる!」
上空20mほど飛び上がった伊吹は、勢いよくその魔法陣の中心部へ落下して__そして、魔法陣を力強く蹴り上げて早川さんとの間合いを詰める。「そこだっ.......!」
「............っ!」
術が直撃する。
衝撃波、そして、少し遅れて酒気を孕んだ煙が霧散する。
あまりに濃縮されたその香り、全身に吹き付けるそれに咽そうになって__しかし、口と鼻を覆うことでそれを防ぐ。
__目の前で繰り広げられている戦闘に、今の私ができることはない。
それは自覚していながら、しかし同時に「なにかしなければ」と、使命感にも似た何かが沸々と湧き上がる。
周囲を見渡す。視界に映るのは鬱蒼とした茂みに木々。魔術的な何かしらの効果だろうか、薄く、しかし確実に霧で覆われた、この森の区画。__それから、鉄の匂い。
「.............!」
早川さんが最初に姿を現した茂み、その近く。注視してみれば誰かが倒れている。
長い髪に、シンプルなブラウス、スカート、パンプスといった清楚な服装。
顔面は蒼白、生気があるとはお世辞にもいえない。下手をすれば死人とも見紛えてしまいそうな風貌。
気を失っているのだろう。その瞼は閉ざされて、身体のあらゆるパーツは脱力し、重力の為すがままになっている。
__女性の右腕、二の腕のあたりから脈打つように流れ出る、血。
「(おそらく彼女が悲鳴の主であり、早川さんの被害者なのだろう。)」
危機的状況の中で、尋常ではない加速のただ中にある思考で、そう結論付ける。「(看護とか、医療には詳しくないが......しかしこの出血量。早く処置せねば、不味いのではないか。)」
策など何も考えず、ただ感情の赴くままに。倒れた女性に向かって駆け寄ろうとする。
「友梨花!」
李乃の叫ぶ声。「右!」
「っ......!?」
言われた通り右をみれば、目に映ったのは刃。
肉食獣の牙にも似たそれは既に私の眼前にまで差し迫り、今にも頭を貫かんとす___
「(......これは、不味い!)」
衝撃を覚悟した。しかし__痛みは、いつまでたってもこなかった。
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