溶ける影

少しばかり、日も落ちてきた穏やかな午後。




ひとかけらほどぽっかりと浮かぶ薄暗い雲は変わらずに、しかし行き交う人々、その賑わいの中に、そんな些事を気にかけているものはおよそ一人も居なかった。




ショッピングモールのすぐ近く、憩いの公園。


天から注ぐ暖かな陽射し、地に生い茂る瑞々しい緑。


ランニングロードに沿うように植えられた木、その枝を覆う木葉はそよ風に揺れ、その向こう側、子供用の遊具やアスレチックが置かれた区画からは幼子の楽しそうな声が響く__




自然特有の澄んだ空気を味わいつつ、喧噪を遠くに聞きながら、木製のベンチに腰掛ける。




「はぁ~!」


服や雑貨の入った紙袋を横に置いて、李乃も腰掛けた。「楽しかったね、テラリウムの体験!まさかここの公園の近くでやってるなんて知らなかったけど......でも、参加できて良かった!」




「そうだな。教えてくれたたこ焼き屋のおじさんには感謝しなければ......」




自分の作品、自分の世界観、自分の作業に没頭して、ガラス製の容器の中に小さな“世界”を造り上げる、あの感覚__作業工程は異なれど、自分の妄想を詰め込んだ小説を書くこと、少しばかり似ている気がして楽しかった。




何とはなしに、左腕に装着した、大奥様から貰った腕時計、その数字盤を眺めてみる。




__午後の4時20分あたり。


電車での移動時間。更にそこから家までの移動距離を考えると、そろそろお開きにする頃合いだろうか。


「(結構、楽しかったな。友達とショッピングモールで遊ぶのは.........)」




ブティック。手芸店。和菓子カフェ。


文房具専門店。雑貨屋。脱出ゲーム店。手打ちうどん専門レストラン。


コーヒーショップ。紅茶専門店。たこ焼き屋。アクセサリーショップ。桜をテーマにした絵画のミニ展覧会。和服専門店。ロリィタのブランド店。苔テラリウム作りの体験___実に充実した一日で、胸がやや重く、そして暖かくなる__そんな心地に覆われる。




___そんな折の次の瞬間、空気が変わった。




「(.........!?)」


引っ張られる。




冷たくて重い、深い深い空洞、ブラックホールにも似たそれに引きずり込まれるような感覚。


身体が震える。恐怖で震える。


体感温度が下がっているのがわかる。凍えそうなそれに対抗して、身体が熱を帯びていく。


思考はただ感覚を享受するだけの器官と成り果て、情報の羅列は意味を為さない。




穏やかな春の午後の陽気など、もうそこには存在しない__震動、悪寒、重圧、悪心__四肢が引きちぎれそうな、嘔吐してしまいそうな、その一瞬の感覚に頭が痛くなっていく。




「(......まずい。)」首筋を汗がつたう。「(何がなんだかわからないが、“これ”は不味い。それだけは......それだけは、わかる。)」




「友梨花!?すっごく顔色悪いよ!?大丈夫......?」そう言って、李乃はこちらを覗き込む__李乃は、この異変に気付いてはいないのか。




伝えなければ。


李乃には、伝えておかなくては。




「李乃」震える口から、声を絞り出す。「不味いんだ。何が、といわれると説明に困るが、とても不味い。多分、魔力だ。なにか不味い魔力だ。.........寒くて、重くて、溶けてしまいそうな......」




「ま、りょく......」


呟いて、しかしすぐに李乃は真剣な顔つきを、凛々しい目をしてみせた。「......今、調べてみる。」




李乃は若草色の鞄の中から手早くおはじきらしきものを__赤、青、黒、黄、そして無色透明__5つの色彩で構成された、平べったいガラス製のそれらを数個ほど無造作に、そして素早く、自らの掌に放る。




「____、____.........」


上手く聞き取れないが、しかし確実に何らかの言葉を、李乃は呟いて__




呟いた、その瞬間。李乃の掌を禍々しい色の光が覆う。




混沌とした色だ。まるで、絵の具の色全てをチューブから絞り出して混ぜ合わせた、その最中の色といった__奇妙で、奇抜で、鮮明で、それでいて気味が悪い__あらゆる原色が混ざり合ったそれらは不安を掻き立てる。


光と呼ぶにはあまりにもどろりとした、個体と液体の中間かのようなその質感。




「李乃、これは......」




「......うん。これ、魔力だ。友梨花が言った通り。」


禍々しくも淡い光を放つ掌を険しい顔で見つめながら、李乃は続けた。「......属性が読めない。それに、こんなに反応があるのに全然気づかないなんて......それに、この反応の仕方は、ちょっと魔力の構造が違うのかもしれない。人間由来のものとはちょっと違ってる......」




どうやら、私よりも実際の魔術に詳しい李乃からみても異常な事態らしい。




おはじきを利用した識別魔術らしきもの、不明な属性、その隠匿性、人間由来のものとは異なった魔力の構造.........


李乃から得た情報を脳内に羅列してみて、しかしこの果てのない悪寒、底の無い虚構に引きずり込まれる、恐ろしく冷たい感覚の中では論理的思考など無いに等しいと、そう感じる。




「(なんだこれは......なんだ、これは......?)」軋む脳内を稼働させて、考えようとする。「(何故、こんなにも恐ろしく感じる?何故......李乃は気付かず、私は気づいた......?偶然か?いや、一体何故......)」




不意に、悪寒が消えた。




冷たさも、重圧も、悪心でさえも一瞬のうちに霧散して、浮遊感とともに楽になって___




「きゃぁぁぁああああああああああああああああ______ッッ!!!!!」


甲高い、女性の悲鳴が耳をつんざいた。




「「!?」」




突然の聴覚情報に、身体は硬直し思考は真っ白になる。




断末魔のような声だった。悲鳴を聞いた経験に乏しいので、具体的にどういった状況のものか、そこまではわからない。


ただ__紛れもない異常事態、それも魔術が関与している事態であることはわかっている。




先程まで和やかだった憩いの公園、その人々の間にも動揺と、そして不安が広がっているのが肌でわかる__当然だ。どう聞いても先程の悲鳴は、スリルのある遊びだとか、楽しさや興奮故だとか__少なくとも、そういったものでは決して無かったのだから。




李乃の様子をそっと伺う。李乃の掌のおはじきは、既にその禍々しい光を収めていた。




「ここから奥の方、池の方面に歩いたところの、森の区画」


真剣な表情を崩さぬまま、李乃は続ける。「さっき見えたの。魔力の元は、その森の中にある。それにさっきの悲鳴も多分、森の方から聞こえてた。」




「森の......」


呟いてから奥の方に目を向ければ、そこには確かに木々の生い茂る区画が在る。




「(確かに、言葉にはできないが何か不穏な空気が、気味の悪い生暖かい風が.........あのあたりから漂って、こちらに吹き付けているような、そんな感覚がするような......)」




震える右手を、左手でそっと握りしめて__これからどうしようと、そう思った。




__森の方へ行って、黒幕を止める?




しかし、魔力があるとはいえ意図的に使えない私に何ができるかわからない。それに、これだけの悪寒。これだけの重圧を感じたのだ。最悪の場合、死んでしまうやもしれない___




「私、行ってくるよ」


李乃は毅然とした態度で、しかし優しく微笑んで__そう言った。




「......え」




「様子見てきて、まずいようだったら魔導保安隊か警察を呼ぶ。だから友梨花は___」




「__わ、わたしもいく!!!!」


気がつけば、そう言い放っていた。




言い終えて、その次の瞬間に__自分の発言を顧みて冷静になって、先程までの自分が自分ではないような、そんな感覚に襲われる。




それは自分に対する疑問だろうか。嫌悪だろうか。恐怖だろうか。自分でもわからない。


私も行く、などと___自分の意志で一通りの魔術を扱える李乃と、自分の意志では魔力の発現しかできない、身体的にも脆弱な私。




力になれないどころか足手纏いでしか無い、そんな自分が今何を言った___?




自分がわからない。こんな状況なのに、何よりもまず自分の思考が、言動がどうにも不可解で、思考は纏まらず、脳内は気分が悪くなるほど混在し、渦巻いている。




李乃は私の言葉に目を見開いて__しかし、すぐに表情を切り替えた。




「......わかった!」


私に対して責めもせず、理由を問い詰めることもしなかった。ただ、私の腕を掴んで引き寄せた。「行こう!」




「(あ......)」


腕を掴むその手の、微かな揺れに、震えに__体感から伝わるそれに、気付いた。




「(李乃も、怖いのか)」




毅然とした態度を見せていた彼女の、そんな当たり前の事実を認識して、なんだか腑に落ちる。




__草の生い茂る土を思いきり蹴って、踏んで、走っていく。


自分でも自らの意思がよくわかっていない、しかしわからないままに、がむしゃらに叩き付けるように走っていく。




風を切るその感覚、全身の筋肉を動かし、前に進むその感覚に疲労を感じないといえば嘘になる。


普段の自分であれば確実に息が切れているであろうそれに、しかし普段よりも身体の巡りは良く、まるで疲労が吸収されているような__ゼロではないが、しかし座り込むほどでもないそれに、どうも奇妙に感じた。




「(走っても、疲れない............この違和感はもしや......魔力?)」




危機的状況下において、無意識に疲労軽減とかそういう魔術を使えているのだろうか。もしくは、李乃あたりが付与したものなのだろうか。




「(......なんでもいい。この瞬間に走れるなら、どうでもいい。......不安でも、怖くても、そんな状況の中で一緒に行くと行ってしまった、自分自身がわからなくても。走れているのなら......)」




李乃についていくように、ひたすらに左右の足を踏み出した。




木々の生い茂る区画、一段と鬱蒼としたその場所に足を踏み入れて__すぐに、空いた手で鼻を覆った。




異臭だ。


それも、鉄のような奇妙な匂い。




「(鉄のような異臭......知識としては知っている。これはもしや)」




脅威を、手がかりを探るように、注意深く、しかし自分を急かすように辺りを見渡せば__知識として知っていた、およそ想定通りの代物が__しかし非日常的であり、間違いなく痛みや恐怖といった、そういったものの象徴であろうものがそこには在った。




血だ。血だまりだ。血痕だ。




「(あ............)」


唐突に、理解した。




魔術の世界に身を置くとは、こういうことなのだ。




情報として、予想はしていた。断片を聞いてはいたのだ。だが__今、真の意味で体感した。




定期的に職場が襲撃される世界。魔術のない平穏な世界と比較して、実に危険に近い裏世界。


一歩道を踏み外せば、表の世界と比べてひどくあっさりと自分も“こう”なってしまう世界。確かに夢を見ていた、しかし体感してみれば何とも理不尽で残酷な世界。




__理解した。身をもって理解した。こういうこと、なのだ。




聴覚だとか、嗅覚だとか、体感だとか思考だとか__そういったものを認識する暇などは一切存在せず。




背後から熱を伴った、おそらく魔力である何かがのしかかってきて__それは、まるで大蛇のように。まるで強酸の如き唾液と肉を貫く牙を持った恐ろしく大きい怪物のように。そう知覚したその瞬間には、正体もわからぬ“それ”に呑み込まれようとしていた。

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