ちょっと変わったお隣さん
麗らかな土曜日の、午後の1時頃。
午前中こそしとしとと降り注いでいた雨も、午後になるとすっかり為りを潜めていた。僅かに残った水滴は陽光を反射して煌めき、春の住宅街、その景色をよりいっそう彩ってみせた。
高峰家の二階、私の自室。昼食を食べ終えた後__今日の昼食は赤だし味噌の味噌汁に卵のサラダ、アスパラベーコンにミニトマト、鮭おにぎりだった__
微睡んでしまうような、穏やかな午後の空気の中、パソコンのマウスを操作して音楽リストを開く。
___軽快かつクラシカルなピアノを基調とした、耳に残るbgm。
「(うん......この曲、何回聞いてもいいな。アニメでもよく日常パートで流れていた。心に残るというか、作品の世界観をよく表現しているというか......)」
再生したbgmを堪能しながら、特に何をするでもなく、傍らのベッドに寝転んだ。
学校の勉強も、魔術の勉強も、なるほど全部大切なのだろう。
それはわかっているが、たまには羽を伸ばすことも大切だろう。『自分を労わってあげることは大切だ』と、そうカウンセラーの先生も言っていた__心の健康というものは代えがたいもので、成程、カウンセラーの先生が言っていることは正しいのだろう。
紺色の羽毛布団、そのふわっとした感触がなんとも心地よく、春の陽気も一役買っているのだろうか、なんとも穏やかかつ安らかな心地だった。自室特有のなんとも落ち着く匂いは、今目を閉じてしまえばそのまま眠りに落ちてしまうのではないかと、そんな感じがした。
「(いっそ、少し仮眠をとるか......?)」
そんな思考に至ったときだった。
___ピンポーン
軽やかに、そして高らかに鳴ったチャイムの音が、微睡んだ意識を現実に引き戻す。
家中に響いたその音は、来客を知らせる合図だ。通常であればその対応は理恵さんに任せるところだが__今、この瞬間に限っては少しばかり問題があった。
理恵さんが家にいないのだ。
昼食の後片付けを終えたあと、理恵さんは鞄にエコバッグを詰めながら言っていた。『少し携帯ショップに用事があるのと、ついでに買い物も済ませてくるから、ちょっとだけ家を空けるわね。』と___
つまり、つまりだ。
「(この家にいるのは私だけ.........つまり、私が対応をしなければいけない、ということで......)」
むくり、と起き上がって、自分の体と羽毛布団とを引き剥がす。
「(服は......出掛けるには家仕様すぎるが、宅配とかの応答程度なら問題ない、筈だ。髪良し、靴下良し、右目の眼帯良し......うん。)」
机の上のパソコンの、音声停止ボタンをクリックして___完全に音が止まったことを確認してから、部屋を出た。
階段を降りて、廊下を進む__玄関まで辿り着くのにそう時間はかからなかった。
玄関の扉、その窓越しから見てとれる来客の朧げな輪郭に、それとなく注視してみる。
__チャイムが鳴ったときは宅配の類かと思ったが、どうもそうではないらしい。
赤い髪をした長身の人物。おそらくは男性だろう。どこかよれている印象の服を着ていながら、しかしすらっとしたその綺麗な姿勢は、どことなくアンバランスにも感じる。両手でなにかを抱えていて、しかし荷物も風貌も、とてもではないが宅配便の人には見えない。
「(......何の用事だろう。)」
新聞だろうか、宗教勧誘だろうか。それともセールスだろうか。
私が相手の姿を視認できたということは、相手もそうであるということ。今更、居留守といった真似はできないが__せめてインターホンを確認するべきだったか、と少しばかり後悔する。
勧誘ならまだいい。だがもしも犯罪者の類だったらどうする?
悪い想像に、速くなる鼓動を抑えながら__そんなことは滅多にないと、自らの心を落ち着かせながら___足を踏み出す。
玄関の脇に置いてあったスリッパを履いて、少しばかりの警戒を持って、両手でそっと扉を開けて、そっと顔を覗かせた。
恐る恐る見上げれば__長身の男性、その紫苑色の瞳と目が合った。
端正な顔立ちの、しかしどこか遊び人めいた、軽薄な雰囲気の漂う男性。
横髪だけが伸びている紅葉の如く赤い髪。
常に微笑を浮かべているようなその表情は、少しばかり浮世離れした美しさを携えて__儚げで、壮観な紅葉の山がとてつもなく似合うような神秘性を兼ね備えていた。だが、なんとなく駄目そうな__どう形容すればいいかわからないが、重大なことをこの人に頼ってはいけないような__そんな雰囲気をも醸し出していた。
両手で抱えた紙袋には、御守りをぶら下げた可愛い犬の絵が描いてある。
元の品質は良かったのかもしれないが、所々がほつれているオーバーサイズのよれたブラウンのセーター。その内側の白いブラウス。これまたよれよれの黒ズボンは、とりあえず武器などを隠し持っているようには見えない。
少なくとも、扉を開けた瞬間に刺されるといったことを危惧する必要は無さそうだと、そう感じた。
どことなく掴みがたい、形容し難い、よくわからないが怪しい男は、こちらを見て、そして。
「わぁ、すっごく可愛いお隣さんだ!はじめまして、こんにちは!」
__まるで幼女のように表情を輝かせて、無邪気な声色でそう言った。
「え、ええと......」
なんと返すべきか、困惑していると、おそらくはそれを感じ取ったのだろうか。謎の男は嬉しそうな顔から一転して申し訳なさそうな顔をした。
「あー......うん。いきなりで驚くよね。ごめんなさい。俺はただ単に、引っ越しの挨拶をしたくて.........」
「引っ越し......」呟いて、ふと、そういえばと思い至る。
昨日の夕飯時手前、味噌汁の味噌をこしながら理恵さんが行っていた。
曰く、二か月ほど前に空き家になってしまった隣の家に、誰かが引っ越してきたのだと___
「うん、三重の方の実家からね。ここに越してきたんだよ。」
赤髪の男は朗らかな調子で続ける。「ご近所さんになるんだから自己紹介と、あと三重のお土産を配ろうと思ってね。昨日は平日だったけど、今日ならみんな家にいるかなって。でもなんか、みんな留守みたいなんだよね。会えたのは君が初めてなんだ。」
少ししょんぼりした顔で、どうやらお土産であったらしい箱を両手で抱えたその男性に対して__少しだけ、思ってしまった。
「(留守にしてたんじゃなくて、怪しまれて居留守を決めこまれたのでは......?)」
だがしかし口にはできずに、少しだけ、なんとなく気まずくて目を逸らす。
指摘とはそれなりに勇気と、ある程度の親しみが必須なのだろうと__なんとなく、そう思う。
「それは......残念ですね。」
それだけ口に出すことができてから、改めて赤髪の男性の方に視線を向けた。
「あはは。でもずっと留守ってことはないだろうし......あ、そうだ自己紹介!まだしてなかったよね。」
赤髪の男性、もといお隣さんは柔らかく笑みを浮かべる。「改めまして、俺は神鳳都しんほうと桐生きりゅう。ここのすぐ右の、赤い煉瓦でできた家に引っ越してきたんだ。__あ、よければこれどうぞ。」
そう言ってから神鳳都さんは紙袋に右手を突っ込んで、何かを取り出した。
__『おいせさん お清め塩スプレー』。
毛筆調でそう描かれた、着物を着た女性の絵と印が添えられた透明な袋。
私は、お土産の定番については詳しくないが__しかし、神鳳都さんは先程までと変わらず笑みを浮かべていて、しかもどこかやりきった表情をしているので、私が知らないだけでお清め塩スプレーは別段変な代物ではないのだなと納得する。
「あ、ありがとうございます。」塩スプレーを受け取ってから、言葉を続ける。「えっと......神鳳都さん。高峰友梨花です。理恵さん......その、母はいま外出中で......えっと、帰ってきたら神鳳都さんのこと、ちゃんと伝えておきます......」
「神鳳都さん、じゃなくて桐生でいいよ。堅苦しいの、ちょっと苦手だから。」
神鳳都さん、もとい桐生さんは少し眉尻を下げて笑う。「高峰友梨花ちゃん......うん、覚えたよ。これからお隣さんになるんだし、どうぞよろしくね。」
「よ、よろしくお願いします......」
はて、返す言葉はこれでよかったのだろうか。
桐生さんの様子をそっと伺ってみれば、嬉しそうな表情を浮かべていたので、おそらくこれでよかったのだろうと__少しばかり安堵する。
「それじゃあ俺は役所の手続きとかあるから、このあたりで。機会があったら話してくれると嬉しいな。___うん。それじゃあ、また。」
「あ、はい。では。」
やや戸惑いつつもそう返して、桐生さんが背を向けたのを見てから、家の扉をそっと閉めた。
__一瞬のような、それでいてやけに体感時間の長かった出来事だった。
両手で持った『おいせさん お清めスプレー』の重みが、成程、桐生さんという風変わりなお隣さんの存在は事実なんだなと受け入れる。
「(飄々としていて、だがそれでいて子供のような表情を見せる人だったな......)」
年齢はおそらく20代の後半から30代の前半くらいだろうか。
神鳳都、とはなんとも珍しい苗字だが、世の中には「それ本当に苗字か?」と聞き返したくなるような苗字も存在するので、まぁそういうのもあるのだろう。
「(......塩スプレー、リビングの机あたりに置いてから、部屋に戻ってbgmの続きを聞こう。)」
そんなことを考えながら、玄関を後にした。
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