錦条院家の大奥様

「あら、楽しそうな相談事......真由子、是非私も混ぜてくださらない?」




艶やかなその女性の声には、確かに聞き覚えがあった。


それは緊張の最中に聞いた声。身が凍えて固まるようなあの体験__すなわち、バイト面接のときに聞いた声。


確かに、あの女性の声だった。




「その声は......!?」美墨さんが目を見開いた。


美墨さんは訝しむわけでもなく、ただ純粋に、“何故、今ここでその声が聞こえたのか”に対して驚いているようだった......少なくとも、私はそう感じていた。




美墨さんの表情も声色も、声の主を警戒しているようには全く感じない。




「(声の主が美墨さんを「真由子」と呼んでいたことからも、美墨さんのこの反応も......この二人は面識があるのだろうか。)」




そんなことを考えた次の瞬間に___視覚情報は何も変わらない。しかし、確かに空間が歪んだような___そんな感覚に陥った。




歪んだ、というより、繋がった、といった方が正確かもしれない。




クリスタルのような結界が貼られている時点で、おそらくはここは魔術的な空間だが、更に魔術的な要素を繋ぎ合わせたような__明確な変化で、だがしかし、決して不快ではなかった。




理屈も不明、感覚すらも靄を掴んだように不明瞭。唯一わかることは『何らかの魔術的な改変が、この結界内に起こっていること』のみだった。




声が、聞こえた。


「__むかしむかし、リスがいた」それは、艶のある女性の声。「偉大なる樹を渡り、邪竜と鷲を繋げしリス。その対立を起こさんが為に奔走したと伝わるリス___されど、我は不和を求める者にあらず。未知なる知をただ求むる者なり。」




声はクリスタルで囲まれた空間に反響する。


女性の声で紡がれるその内容、その原典であろうものに、私は即座に思い至った。


「(“北欧神話”だろうか......?)」




耳に入ってきた単語を、思い起こしつつも整理する。




「(リスとはすなわちラタトスク。世界樹ユグドラシルに住んでいるという動物で、梢に住む鷲フレースヴェルグと根元に住む竜ニーズヘッグの会話を中継し、喧嘩を煽っているというリスだ。『知をただ求むる者』という部分は、同じく北欧神話に由来する主神・オーディンからきたのだろうか?


___そうなると、あの女性は北欧由来の魔術師なのだろうか......)」




空気が変わる。深い森の奥のような、澄んだ空気。緑と水に囲まれた涼しげなる風が吹く。




おそらくはこの空気、この風も魔術によるものだろう。であればこれを行っているのはおそらく、詠唱の主であるあの女性なのだろう___




気がついたときには既に、目の前に妖艶な女性と二人の男性が佇んでいた。




スーツを着たガタイの良い男性二人を従えた妖艶な美女は、確かにあの面接会場で顔を合わせた面接官そのものだった。濃い青の瞳に艶やかな黒髪、猫のような印象を与えるその顔つき。踝まである黒のドレスを身に纏ってその人は悠然と微笑んでいた。


射貫くようなその視線が、風貌が、まるで天敵のようで恐ろしく感じた。あの面接のときと同じだ。凍えるような、重力に囚われたような、しかし決してそんなことはない錯覚。




「盗み聞きしてごめんなさいね?真由子。それから貴女......高峰友梨花さんも。ああ、久しぶり。面接以来かしら?いきなりで驚かせちゃったわよねぇ。」


くすくす、と笑う女性。




「大奥様......いえ、お声でなんとなく察してはいたのですが。」


美墨さんが戸惑ったような声色で言った。




「大奥様?」




「ええ。」私の呟きに、大奥様と呼ばれた女性は頷く。「錦条院の家の、当主の妻。いわば“錦条院夫人”というところかしら?だから確かに、大奥様という呼称は的を得ておりますわ。」




錦条院家の大奥様。


それはつまり、バイト先である此処__応接館とかいう敷地を管理する、魔術に関連した大金持ちの家の夫人だということ。




なるほど、と情報を理解していくにつれて___何故?という思いが強くなる。




そんな大層な身分の人が、まさか面接官をやっていたという驚愕だろうか。はるか雲の上にいるのだろうなと思った人が、こうして目の前で佇んでいる故の緊張、および予定不調和だろうか。


美墨さんの結界に悪趣味な人形測定器......ここに至るまで色々あり過ぎて、最早情緒に関する感覚が麻痺しているような感じもするが、おそらく私は驚いているのだろう。


少しばかり収まった鼓動はまた徐々に速くなっているし、思考はどこか加速していた。




「.........は、はあ......な、ななる、ほど......」


その驚きを覆い隠すようにそれだけ返事をして、美墨さんの方にそっと一歩だけ下がった。




「どうしてこんなところに?......というか、どこから事情を把握されていたのですか。」




「少し様子を見にきたのよ。やっと用事が終わったのですもの、息抜きも兼ねて......ね?そうしたら、なんだか見慣れた結界があるものだから、気になっちゃって。」




大奥様は、向こうに転がっている人形の首を一瞥して、それから美墨さんの方へと歩を進める。


美墨さんがもっている人形を__首から上と手足の指が取れた、濃い赤色のドレスを着た人形、もとい測定器をじっと見つめたまま、悠然とした足取りで近づいている。




やがて歩を止めて__次は、こちらの方を見た。「ええ、なんでも......高峰友梨花さん。貴女、自分の意志で魔術を使えないんですって?」




「.........っ、」


なんだか自分の罪を咎められているような、悪いことをしたような......そんな心地になって、体が縮むような感覚に襲われる。




「ああ、勘違いなさらないで。怒っているわけではないの。」


そう言ってから、大奥様は首の取れた人形に向かって、すっと右手を翳した。




次の瞬間には、首の取れた人形のその上に、空中に光の文字のようなものが浮かんでいた。




文字はアルファベットで構成された、しかし知らない記号に綴り__おそらくフランス語、もしくはそれに類似する言語であるのだろうと予想を付ける。


ガーネットを砕いた結晶の如きその文字は、幻想的な光を携えてただそこに在った。




「(これも魔術、だろうか。フランス語は専門外だが.........あの人形が計測器であることを踏まえると、なにかそれに関連した情報が記載されているのだろうか。)」




大奥様は空中の文字列を眺めて、興味深そうに頷いた。「......へぇ。これが貴女の__友梨花さんの測定結果?面接のときも思ったけれど、すごいのね。」




「あ......えと、」


どうやら浮かび上がった文字には私の測定結果が記載されていたらしい。




すごい、と言われたからにはお礼をいった方がいいのだろうかと迷っているうちに時は過ぎて、もう何かを口に出せる雰囲気ではなくなってくる。


これもコミュ障あるあるなのではないだろうか。




「流石、かの巨匠が設計した計測器。趣味以外はつくづく完璧ね。ええ、ええ......吸収効率に変換効率。系統は“image”に分類......ふむふむ、貯蔵許容量に暫定属性.........あら、星と縁があるのねぇ。ご先祖はそういった家系だったりするのかしら?......ええ、なるほどなるほど......」


空中に浮かぶラテン系らしき文字を、大奥様はしげしげと眺めて呟いた。




「......あそこに浮かぶ文字なのですが」


美墨さんがそっと私に耳打ちする。「フランス語の中でもとりわけ独特な方言で、解読がとても困難なんです。なので、あの人形は仕事終わりに鑑定士に預けて、測定結果を紙面に記してもらうよう頼もうとしていたのですが......」




「な、なるほど.......それは、す、すごい......ですね...(?)」




とりあえず大奥様が、おそらくはフランス語に相当強い人だということはわかった。




一通り読み終えたのだろうか。大奥様は再び私の方に顔を向けて、艶やかに微笑む。


「興味深い計測結果でしたわ。ええ、そうね。これは本当に不思議ねぇ。なんでこれで、自発的な発動ができないのか......バイアス?それとも、忘却されたトラウマ、もしくは巧妙な魔術封印の類?それとも......」




自分の顎に当てた指先を、大奥様はそっと私の頬に添えた。




「(____え?)」


その瞬間、大奥様の顔つきが変わった。




それは、驚愕だった。面接のときに顔を合わせて、それから今に至るまで一度も見たことのない、心底驚いて固まったような、そんな顔。


濃い青の瞳は「信じられない」と如実に語っていた。


それは焦燥だろうか。恐怖だろうか。大奥様は暫しその表情を固まらせて__それから、取り繕うようにまた微笑んだ。




「......高峰友梨花さん。」




「は、はい!」


返事をすれば、大奥様は懐からなにやら腕時計のようなものを取り出して、それをこちらに差し出した。




「(う、腕時計!?いきなり何故......?)」




差し出された腕時計は、円盤部分の数字がローマ数字になっていた。


白いベルトに、上質な銅色の金具。シンプルな造りでありながらアンティークチックな風味を残し、しかし現代によくマッチしている。




「これをお付けなさいな。できれば、常に。まあ、お風呂のときなどは仕方がないけれど......。」


大奥様はそう言って腕時計を、私の両手に握らせる。「友梨花さんの身を守ってくれるわ。嗚呼、どうか遠慮はしないで。これは私の純粋な好意ですわ。」




「え?は、はぁ.....えと、ありがとうございます.....」




身を守ってくれるということは、この腕時計も魔術具か何かだろうか。


自発的に魔術を発動できない私のことを気遣ってくれたのだろうか。だが、それだけにしては、大奥様のあの驚愕したような表情が腑に落ちない。




反射的に礼を言って受け取ってしまったものの、後になってじわじわと不安が滲み出てくる。


__返すべきだろうか?




「ああ、それと。少し酷い言い方になってしまうけれどね。」


少しだけ表情を硬くしながら、大奥様は続けた。「このアルバイト、少なくとも一年間は......絶対に辞めないでほしいのよね。願望......というよりかは、強制になってしまうけれど。」




「な......待ってください、大奥様!」


私が何か言うより先に、美墨さんが声を上げた。「それは流石に酷でしょう!彼女にも、連盟が魔術師に保障している自由意志が...!」




「そんなに怖い顔をしないで頂戴な、真由子。仕方がないことなのよ。......優しい貴女が、危機状態において万が一、友梨花さんが魔術を使えなかったらというリスクを......そしてそのリスクを考慮して判断を下すのは私や貴女ではなく、友梨花さんであると考えているのも、わかるわ。本来、そういった“辞める権利”は労働者が等しく所持しているべきですもの。もしもここが表社会、魔術の関係ない社会であるならば......私、訴えられたら負けちゃうでしょうね。だけど.........」




淡々と、大奥様は言葉を区切る。「これは命令。日本魔術連盟、五大家の一角、錦条院家の女主人がその名において下す命令よ。」




状況に若干ついていけないが、要するに私はバイトを辞める権利を少なくとも一年間ほど失ったらしい。


何故、大奥様がそんな命令を下したのかはさっぱりわからない。




だがその命令が「辞めろ」というものでなくて良かった、と___どこかでそう感じて、そしておそらく安堵した。

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