口は冤罪の元(上)

やってしまった。完全にやってしまった。




心象最悪どころの話ではない。先輩の好意を無下にしたあげく、衝動に任せて大した説明もせずに退席してしまったのだ。




__だからだろうか。熱が出たときのように頭は朦朧とする。視界は涙で滲んでいく。


呼吸は、先程に比べれば幾分か楽だった。倦怠感が身体中を包んで、しかし、この状況にどこか安堵している自分も存在しているのだ。目の前にお菓子が存在しない今のこの状況に、安堵している自分が____。




「(三坂先輩も薊先輩も、良い人たちだったな......)」




黄昏時の陽光が頬を撫でる庭園の中、まるで屋敷の窓からの視線に怯えるように木陰に立つ。優美な庭園は、しかしこの状態では単なる視覚情報としてしか認識することはできなかった。




だが、草木の匂いや風の質感は心を落ち着かせる。その心地のよさに、思わず目を閉じる。


「(良い人たちだった......だからこそ、こんなにも苦しい。)」


胸の痛みを抑え込むように、そっと両手で左胸を包む。重ねた掌の冷たさが感覚を現実へと引き戻す。




「(そういえば...誰かの書いた小説にも、こんな展開があったな。)」ふと、瞼を開けた。「(魔王の勅令で人間界を滅ぼすべく、屋敷の姫を生贄に魔物を召喚しようと画策する吸血鬼の令嬢。だけど屋敷に潜伏する中で、魔界では得られなかった”人の温かさ”を知って彼女は躊躇う。お茶会の最中、そんな感情を自覚した彼女は逃げるようにその場から逃げ出し、これ以上情が移っては危険だと判断して手勢を率いて屋敷を襲う___)」




ふと、自宅のPCに表示された小説サイトの文章が脳裏に蘇る。




__『「(リーゼロッテ嬢はもちろん、セバスやミシャ、リサやリチャードに至るまで、皆が優しい。こんなわたくしのことを本当の家族かのように扱ってくれるのが、本当に嬉しいわ。だけど、優しいからこそ、本当に苦しい。)」』


通信機の番号を打つ。魔王様直通の番号は、もう暗記してしまっている。


「”生贄”作戦は勘づかれました。」


魔王様からの返事は無い。


私は続ける。「ですが、私は優秀な吸血鬼でございます。たとえ生贄など存在しなくても、私ならあの屋敷の人間を皆殺しにすることができる。必ずや、貴方様に___【ケイオス】に勝利を捧げると、私は____」』




スタンダードなゴシック体で書き連ねられたそれは、作者の癖なのだろう。情景描写よりも台詞が多く、その掛け合いが面白いとコメント欄で評価されていたのを覚えていた。




「(吸血鬼アリシア。対人類用の兵器として育てられた彼女は、愛情に飢えていた。純粋ながら悪辣で、繊細で、ひび割れていた自分の心を守ることに必死だった悲しき少女アリシア。どうにも他人事だとは思えなくて......アリシアがリーゼロッテによって救済されたときは、なんだか胸が温かくなったのをよく覚えている。)」




__『「リーゼロッテ嬢...どうして!!私は、貴女を殺そうとしたのに......」


 「いいえ、違う。違うわアリシア。あなたは本当はこんなことしたくないのよ。」


 「......下等な人間風情が、私のような高尚な吸血鬼に対して知ったような口を......!!!」


 「本当にわたしを殺そうとしたなら、どうしてあなたは”鮮血の鎮魂歌”を使わなかったの?」


 「....!」アリシアの眼が揺らいだ。「そ、れは.........」


 「ねぇアリシア。もういいの。もういいのよ。また、一緒にお茶を飲んで、お菓子を食べて、他愛もない話をしましょう?アリシアがオススメしてくれた音楽も本も、いつだって好きだったわ。だから教えてちょうだい。もっともっと...」


 アリシアの紅い瞳から、涙が溢れて零れ落ちた。


 涙は止まらない。栓が外れたように、ぽろぽろと落ちていく___』




PCの画面で見た文字列を、鮮明に思い起こすことができる___このシーンは作品内でも、一番好きだったところだ。




「(過ちを全て知った上で、赦してくれる。手を差し伸べてくれる。もしも、そんな人間が......吸血鬼アリシアにとってのリーゼロッテが、存在するなら...)」




もしもそんな存在がいたならば。そんな、仮定の存在が心を温かく包んで溶かす。


暖かくて優しくて、欲しくて、だが結局は手に入れていないのだからどうしようもなく寂しい。優しくて残酷で、儚い望みが、そのぬくもりは蜃気楼のように消えていく。




頭上でそよぐ風、木の葉の揺れる音。黄昏時の温もりに意識を預けるように、そっと眼を閉じる。


そうして、そっと呟いた。「......いたら、いいな。」


感傷に身を任せたその時だった。




「(____!?)」


”なにか”が飛んでくる気配に瞼を開く。


その次の瞬間に視界の端を掠めたのは、縦10cm、横3cmほどの透明な物体。とてつもない速度でこちらを目掛けて落下してくる”それ”は、よく目を凝らせば幼いころ病院でよく見たシルエット__おそらくは、注射器のように見える。




「(なぜ......なぜ、注射器が飛んできているんだ...???)」




1つだけではなかった。2つ、3つ、4つ......全部で五つの注射器が、軌道を若干変えてこちらに飛んでくる。




注射器が周囲に突き刺さるまでの間、時間に換算すれば一瞬にも満たないその刹那の間、しかし自身の想像以上に加速した思考が警鐘を鳴らす。曰く、ここから離れろと。曰く、注射器が突き刺さった五つの箇所の中心にいてはいけない、と。




「____っ!!!!」


普段あまり動かさない身体だ。だがしかし、全神経を使って足を動かした。




異様な緊迫感に包まれた中で、草の生い茂る地面を蹴って右へ走る。疾走とともに全身を包む風を感じた、その瞬間___地面に突き刺さった五つの注射器同士を繋ぐように、紅色に輝く線が突如現れた。突然に、だが、元々そこにあったかのような必然性を醸し出していた。そして赤く輝いたその線は、なにか魔法陣のようなものを描いているようにも見えた___。




息を吸えば微かに漂う独特の香り。そう、まるで空のグラスの残り香のような雰囲気の香り。


本来はまだ少し涼しい筈の季節、時間帯。だがしかし、周囲には異常な熱気が漂う。


「この匂いは......多分、酒...だろうか?」


飲んだことが無いので自信はないが、おそらくそんな気がする。




「(しかし、何故こんなことに!?”襲撃者”の存在は聞いてはいたが、こんなに早く来るものなのか!?というか、これは”襲撃者”なのか?こんなものが本当に降ってくるとは、やはりここは本当に魔法の____!!)」




「ああ。......まさか、こんなところに潜んでいたなんてな。」


「(!?__誰だ??)」




頭上から響いた声と同時に、目の前に飛び降りてきたのは__同じくらいの歳に見える少年だった。


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