第7話 稲葉裕太という奇妙な男
稲葉君は学校近くのカフェにいた。これもまた前の世界で得た情報だ。稲葉君が2年になってから学校近くのカフェによく立ち寄っているという噂が、おそらく7月頃にはたちはじめるだろう。今の時点では、ほとんどの人が知らない稲葉君の秘密基地であるはずだ。
店内に稲葉君がいたのはついていた。流石に毎日いるわけでもないだろうから、居なかったら1番安いものを注文して、適当に時間を潰して帰ろうと考えていたからだ。
店内に入った俺を、稲葉君は一瞬見た後、すぐに視線を外して、携帯に目を落とす。俺は、そんな稲葉君の所まで歩いていって声をかけた。
「同じクラスの稲葉君だよね?」
「同じクラスでしたか。すみません、まだ顔と名前を覚え切れていなくて。」
嫌に丁寧な言葉使いをすることが、この男の特徴でもあった。中肉中背。基本的にあまり特徴の無い顔だが、目だけは特徴的なほど鋭い。1年生が終了したこの時点では、誰もこの男のことを知らないだろう。この男が、様々な人物と関わりがあるのではないかと、まことしやかな噂が流れるのは、2年生の終わり頃の話だ。
目立った生徒ではないのに、気づいたら懐に入り込んでいると、そんな噂が流れていた。半信半疑ではあったが、意識して彼を追って見ると、本当に様々な人と楽しそうに会話をしていたから、俺はその噂を半ば確信的に捉えていた。
「全然、気にしなくて良いよ。俺の名前は、涼風颯太。よろしく。」
「はい、よろしくお願いします。」
そう言って、笑顔で手を差し出してきたため、それに応えるように手を握った。
「それで、何か僕に用事でもありましたか?」
「いや、特に用事っていうわけでもないんだけど、たまたまカフェに入ったら、稲葉君を見つけたから声をかけてみただけというか。」
「そうでしたか。これは失礼しました。そういうこともありますよね。」
納得したように何度か頷いた。とりあえず、俺は同じ席座り、メニューを手に取った。
「稲葉君って、よくこのカフェに来るの?何かおすすめのメニューとかある?」
「よくというほどは来たことありません。ただ、最近はよく来ますね。といっても、ここ1週間くらいの話ですが。メニューは、コーヒーしか頼んだことないので、おすすめは分りません。でも、このコーヒーはとてもおいしいですよ。」
そう言って、手元のコーヒーを掲げてにこりと微笑んだ。随分と迂遠な喋りをするタイプのようだ。それを受けて、俺も同じコーヒーを注文した。
「それで、稲葉君は新しいクラスどう?」
「どうと言われると、なんとも答えにくいですね。クラスメイトの中には、数人知り合いもいますし、先生も親切そうなので、そういう意味では居心地の良さそうなクラスといえるかもしれないですね。」
先ほどの九条との会話をそのまま稲葉君にぶつけると、稲葉君は、そっくりそのまま、俺が九条との会話の時に思ったことを口に出して言ってくれた。そんな風な会話をしていると、注文したコーヒーが届いた。それを砂糖も入れずにそのまま口に入れた。
「本当だ、結構おいしいね。」
「喜んでもらえて何よりです。勧めてみた甲斐がありました。ところで、涼風さんはブラックでコーヒーを飲むんですね。」
「ああ、うん。ブラックが好きでさ。」
「奇遇ですね、僕もブラックでコーヒーを飲むのが好きなんですよ。意外と珍しいみたいで、知り合いはみんな砂糖を入れて飲むので、仲間を見つけたみたいで嬉しいです。」
そう言って、稲葉君はまた、にこりと微笑んだ。意外とよく笑う男だ。それでいて笑顔は人懐っこさ感じさせるほど柔和なもの。この笑顔が、人の懐にうまく入るコツなのだろうか。そんなことを思い、もう一度ブラックのコーヒーを口に入れる。おいしいにはおいしいが、苦みを感じないわけではない。
実を言うと、俺は、特別ブラックコーヒーが好きというわけではないのだ。ただ、稲葉君がブラックコーヒーを飲んでいるが見えたため、少しでも距離を近づけようとブラックにしたに過ぎない。本当は、いくつか砂糖を入れたい。
「では、こちらからも質問してもよろしいでしょうか。」
「ああ、良いよ。何でも聞いてくれ。」
「お言葉に甘えて、涼風さんは、どうして僕に声をかけたのですか?」
「さっきも言ったと思うけど、たまたま稲葉君を見かけたから、仲良くなれたらなと思って。」
稲葉君に先ほど伝えたのと同じようなことを伝える。そんなに、店で1人でいるクラスメイトを見かけて声をかけるのはおかしかっただろうか。どうにも対人経験が浅いため、そのあたりの塩梅が分らない。
「そう言っていただけてとてもありがたいのですが、涼風さんは本当に僕と仲良くなりたくて声をかけたんですか?」
「そうだけど。」
どうにも疑われているようだ。遠回しに、お前とは仲良くなりたくないから帰ってくれと言われているのだろうか。
「1つ、僕には特技がありまして。」
そう言って、稲葉君は、右手の人差し指を立てた。
「その人が考えていることが、その人の目を見ると、なんとなく分るんですよ。もちろん、目だけではなく仕草や態度からも情報を得ていますが、目は口ほどに物を言うと言いますからね。」
「つまり、俺が稲葉君と仲良くなりたいというのは嘘だと?」
「涼風さんはご自身で理解しているのではないですか。涼風さんの目は、僕と仲良くなりたいというよりかは、義務感や使命感の色が強いように感じます。」
図星だった。俺は別に、稲葉君と仲良くなりたいとは思っていない。今後に必要になるから、良い関係を築きたいだけで、仲良くなりたいというより、共犯関係になりたいといった言葉のほうがしっくりくるだろう。それを本当に言い当ててしまうとは、特技を持っているというのははったりではないらしい。
しかし、こうなると嘘はつけない。かといって、全部話そうと思うと、タイムリープの件に触れざるを得ないので、それも難しい。迷った挙句、本質は伏して、本当のことを話すことにした。
「ごめん、確かに仲良くなりたいって言うのは嘘だったかもしれない。でも、稲葉君と良い関係を築きたいのは本当なんだ。」
「それは、どうしてですか?」
「端的に言うと、稲葉君の力を借りたいからかな。」
そう言うと、稲葉君は、分りやすく首をかしげて、右手の人差し指を立てた。
「1つ疑問があります。どうして僕に目をつけたんでしょうか。僕のこの特技は誰にも伝えていません。また、自分で言うのも何ですが、僕は目立つ生徒でもありません。わざわざ、こんなカフェまで追ってきて、僕に声をかけたのが不思議でしかたありません。」
どうやら、偶然カフェに入ったというのも嘘だとばれていたらしい。そう思うと、稲葉君の視点から見た俺は気味が悪いかもしれない。カフェまで追ってきて仲良くなりたいと嘘をつく。…ぎりぎりアウトだな。
「それは答えられない。俺にも特技に近い物があって、稲葉君のことを知っていたというのはどうかな?」
「構いませんよ。何でもかんでも相手に秘密を伝えなければならないというわけでもありませんからね。言いたくないことは言わない、結構なことだと思います。」
「それで、今後、力を貸して欲しいときに、力を借りれるのか聞いても良いか?」
半ばダメ元で聞いてみた。最初から嘘をついて近づいてきて、重要なことは何も言えないが力を貸して欲しいと言われれば、誰だって答えはノーだろう。気味が悪いから一生関わりたくないと思われても仕方が無い。もうすぐにでも帰れるように、残ったコーヒーを喉に流し込んだ。
「それは、構いませんよ。」
コーヒーを噴き出しそうになった。
「…マジかよ。」
「ええ、マジです。ただし、1つ条件があります。涼風さんが僕に力を借りた出来事について、話すことができる範囲で良いので、僕に教えて欲しいんです。」
「そんなことで良いなら、全然構わないけど。」
「では、協力関係の成立と言うことで、良いのでしょうか。呼び方は、この際何でも良いでしょう。もし、提案があるなら受け付けますが。」
そう言って、最初にしたのと同じように手を差し出してきた。その手に応じるように手を握ると、今度は向こうからも強く握り返してきた。
「呼び方は、それで良いよ。これから、よろしくな。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
にこりと微笑んだのを見て、俺も可能な限り笑顔を返した。その会話を最後に、俺は席を立って、家に帰ることにする。帰る際、向こうは何も言ってこなかったし、こちらも何も言わなかった。稲葉君は、一緒に帰る素振りすら見せず、最初に見たときと同じように携帯に目を落としていた。
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