第2話 夢と目覚め

 目をつむっていた。いづれ訪れるであろう痛みを予感しながら、目をつむり、歯を食いしばり、ひたすらじっとしていた。しかし、想像していたような痛みは延々と訪れることなく、自分の生が限界まで引き延ばされているかのような錯覚を覚えた。死への覚悟は決まったつもりでいたが、時間がその覚悟を鈍らせた。次第に呼吸が荒くなり、心臓も思い出したかのように早い鼓動を刻む。生きているのだと、本当は生きていたいのだと、そう主張するように刻まれる心臓の音は、ただひたすらに耳障りだった。


 …どのくらい時間が経ったのだろうか。自分の心臓の音と、呼吸の音しか聞こえなくなり、額ににじんだ汗が頬を伝うのを実感した瞬間、ついにこらえきれなくなり、一際大きな息を吐き出すと共に、目を見開いた。


「…は?」


 口をついて出たのはそんな疑問の声だった。先ほどまで目前で俺の命を散らそうと構えていた殺人鬼は、跡形もなく消え去っていた。それだけじゃない、見上げた天井は、学校の廊下のものではなく、見慣れた自分の部屋のものとなっていた。


 頭が混乱する。自分は、どうしてこの部屋にいるのか。どうして生きているのか。…頭が混乱する。両の手のひらを見つめ、開いては閉じてを繰り返す。そこには確かに自分の体を動かしているという実感があった。混乱して、頭が真っ白になった静寂の世界で、カチリカチリと時計だけが、規則的な音を刻んでいた。それを見やれば、時刻は19時あたりを指し示していた。カチリカチリと、規則的に動く秒針を眺めていると、不思議と心が落ち着いていくような気がして、ようやくまともに思考を巡らせることができるようになった。


「…夢だったのか?」


 確認するように、口に出してみる。あまりにも現実的に過ぎるようなものだったが、夢というのが、今この状況を説明する上で、最も納得のいくものだった。それとも、ここは死後の世界とか言うやつなのだろうか。想像していたような光景とは大きく異なるが、案外、生前の記憶が最も濃い場所を再現したりするのかもしれない。そんな突拍子もない思考が働くが、今の自分にそれを否定するだけの明確な根拠はなかった。もしそうなら、このまま待っていれば審判者のようなものがやってきて、生前の罪を裁いてくれるのだろうか。それとも、このままこの部屋で永遠の時を生きるのだろうか。


 …と、そこまで思考を巡らせたとき、空腹を訴えるように腹が鳴った。そういえば、今日一日、面倒くさくてろくに食事もとっていなかったことを思い出す。それと同時に空腹を感じるということは、ここが死後の世界ではないというこではないかと考える。こんな、何もかもが異常な世界でもお腹は空く。気づけば、服は汗でびしょ濡れだし、喉は渇ききっていた。いつまでも、こうしてベッドに寝そべっていても仕方が無いので、とりあえず、ベッドから跳ね起きた。


 状況は不明。それでも、自分自身が今この世界に存在していて、生きているのだから、今はそれだけ分かれば良いではないか。生きているのだから、状況は次第に理解できるようになるだろう。疑念に支配され、今まで自分の中に存在しなかった安堵感が遅まきながら胸中を満たしていくのを感じる。とりあえず、今日は何を食べようか。確か、レトルトのカレーが残っていたような気がする。そんな風に努めて、普段通りの思考を心がけ、普段通りの行動を始めた。


 空腹が満たされ、体も綺麗に洗い流すと、再びベッドに倒れ込んでいた。あれが夢だったにしても、体に蓄積された疲労感は、現実のものだった。目を閉じると、すぐに睡魔が襲ってくる。だんだんと意識が現実から離れていくような感覚。


 そういえば、春休みの宿題はどうなったのだろうか。学校に置き忘れているのか、それとも家にあるのか、そんな思考を最後に意識は、完全に現実から離れて行ってしまった。


 夢を見ている。よく見る夢だ。自分はこの世界とは全く異なる世界に居る。そこでは、握ったこともない剣を握り、巧みにそれを使いこなしている。その世界には魔法のようなものが存在していて、自分もそれを使うことができた。手から炎を出し、剣を振るって人類にあだなす獣を狩る。そんな誰もが想像するようなファンタジーの世界。そこでは、自分の倍は背丈があるような人も居れば、獣の耳と尾を持つ人も居た。空を飛べるような人も居れば、腕が何本もあるような人も居た。多種多様で雑多な人種にあふれかえる世界。いろいろな人と関わり、共に過ごし、笑い合う。そんな夢の中で、必ず出てくるのは、一人の少女だった。顔は靄がかかったかのように確認できない。その少女と、ほとんどの時間を過ごし、笑い合い、時に喧嘩もしていた。その少女はいつも夢の中で、俺に問いかける。


「——————————?」


 俺も、それにいつものように返す。


「——————。」


 そうすると少女は少しだけ不満そうな顔をする。それでも、すぐにその表情は全て分かっているかのような微笑みに変わる。そんな穏やかな時間を過ごす。そんな甘い甘い夢。大切な大切な夢。

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