第20話


「ちょっと待てよ! 何考えてるんだ!?」


 僕は慌ててキョウの肩を掴んで歩みを止める。考えてみれば、好奇心と知識の牙城であるキョウが、得体のしれないモノを前に危機管理などできるはずが無かったのだ。


「あれが何なのか確かめてやる!」


「ちょっとあんた達! 何やってるのよ!」


 烈火のごとく怒りを爆発させた四季さんが僕らの元へ駆け寄る。


「逃げるわよ、今すぐ!」


 僕が何かを言う前に、教室の中に居た何者かに変化が起こった。ぐにゃりと背筋に当たる部分が不自然に曲がり、その逆さになった顔面が僕らに向けられる。


 体だけでなく、その顔も歪なものだった。双眸には抉られたように眼球が無く、口が糸か何かで縫い付けられていた。本来鼻があるべき部分は何もなくツルツルの肌のように見える。


 眼球が無いのだから目は見えないだろう。そう思いたいが、その双眸の虚空が僕らを捉えたのか、口角が上がり縫い付けられた口元が引きつられる。


 ああ、これは何かヤバい。理屈だとか理論などではなく、生物としての本能として、この場に留まっているのはマズイと感じる。


 そして異変はすぐに起こった。何者かは胴体を身震いするように震わせると、足元でとぐろを巻いていた両腕が蛇のように動き出し、僕らの方へと異様に大きな両手を差し向ける。


「早く! こっちよ!」


 四季さんは僕とキョウの腕を掴んで、教室の入り口から廊下に引っ張る。流石のキョウも危険を感じたのか、抵抗することなく外へと引きずり出された。


 四季さんは僕らから手を離すと、向かいの廊下の窓に足に足をかけ外へと出る。僕らも倣って、ガラスの取り外された窓枠に手を掛けて、外へと脱出しようとする。


 キョウは上手く出られた。しかし、僕は慣れない事をしたからか、手を滑らせてバランスを崩す。上半身だけを窓の外に乗り出した状態で、干された布団のような無様な姿を晒してしまう。


「あっ!」


 僕が声を上げたのはバランスを崩したからではない。左足にブヨブヨとしたぬめりけのある何かがまとわりつく感触を覚えたからだ。


「う、うわぁ!」


「おいユウ!」


「何やってんのよ!!」


 先に外に出た二人は僕の身体を外に出そうと引っ張るが、左足にがっつりと取り付いた物がそれを許さない。


 僕は恐怖のあまり半ばパニックに陥り、自分でも何を言っているのか分からない状態で叫びながら、自由に動く右脚で左足にまとわりつく何かを蹴り上げて、必死に脱出しようと体を前へ前へと反り出す。


 しかし、中々左足は抜けなかった。それどころか、何かはゆっくりと僕の足を教室の方へと引きずり込もうとする。まるで僕を使って怪異と二人が綱引きをするような形のなか、僕は必死に上半身で窓の外にしがみつく。


 少しの時間、拮抗状態が続いたが、すぐにその力関係は怪異の方へと傾く。必死でわめきながら右脚で蹴っていたが、次第にその力が弱まっていく。体力の限界を迎えてしまったのだ。


 教室に引きずり込まれたらどうなるのか。その先に一体どんな未来が待っているのか分からない恐怖で意識を失いそうになる。


 ふと下半身の力が抜ける。ああ、終わったと思うや否や、四季さんとキョウの方に体が急激に引っ張られる。左足の力が抜けた事で僅かに隙間が生まれ、滑るように拘束から解放されたのだ。


 僕は勢いよく外に放り出される事になった。咄嗟に頭を丸めた事で、二回転ほどでんぐり返しをするように転がり、そのまま仰向けで倒れ込む。


 一瞬の事で何が起こったのか理解する間もなく、キョウが僕の元に駆け寄る。


「大丈夫か!?」


「あっ、あああ」


 混乱した僕は何か言おうとするも、うめき声のような言葉しか出ない。しかし、早く立ち上がらなければと脳がサイレンを鳴らす。まだ束縛から解放されただけで、脅威は窓を挟んだ向こう側に存在しているのだ。一刻も早くこの場から立ち去らなければ。


 必死に起き上がろうとするも、足に力が入らず転ぶ。何度かそんな無様な醜態を晒したところで、四季さんが声を掛けてくる。


「そんなに焦らなくても大丈夫よ。ほら、見てみなさい」


 彼女の慈愛と憐みの混じった声色に従い、上半身を起こした状態で恐る恐る振り返り、廊下の窓から廃墟の内部を見る。


 そこには何も居なかった。まるで初めから何もなかったかのように。


「あら、靴が脱げてしまったのね。ちょっと待ってて」


 僕は四季さんの言葉で自分の左足を見る。先ほどの脱出劇の際に、脱げ落ちてしまったらしい。彼女は当然といった様子で、再び窓から廃墟の内部へと入り込もうとしていた。


「あっ、待って!」


 四季さんは僕の声に耳を傾けることなく、廊下へと足を下ろす。それどころか、先ほどの怪物が居た教室の中へと入って行った。


 僕の心配とは裏腹に、四季さんはすぐに戻ってきた。特に外傷は無く、飄々とした様子で再び廊下の窓から外へと出る。


「はい、これ」


 彼女はまだ立ち上がれない僕の前にかがみこみ、一足のスニーカーを置く。それは間違いなく、僕の履いていた靴だった。

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