ps. i love you

私が彼に出逢った時、彼はもうこの世の人ではありませんでした。私が彼を初めて見たのはスマホの画面越し。適当に流し見ていたSNSの動画で流れてきたんです。彼の顔、声、仕草、言葉。その全てが私の目をスマホの画面から離してくれなかった。だから一瞬で理解しました。私は彼が好きだ。彼の発する言葉が好きだ、と。すぐに私は彼について調べました。これまでにどんな作品を手掛けてきたのだろう。どんな風に自分の中のアートを表現してきたのだろう。彼の人生をこの小さな画面越しに感じ取りたかったのです。

 インターネットが普及して久しい現代。あまり時間もかからず私は彼の生い立ちから現在についての情報を手に入れました。正確には、彼の生い立ちから関わってきた作品の数々、どんな思想を抱いていたか、そしてどのようにこの世界から幕を引いたのか。

 彼は孤高の存在だった。描く世界観は独特で世の人々の好みは分かれるようでした。それでも彼の作品がニッチなファン達に愛されたのは、彼のビジュアルや表現力、カリスマ性に人々が引き寄せられたからだと私が見たサイトには書かれていました。かくいう私もその一人。この点について異論はありません。しかし彼はそういった表面的な部分での評価を受けることを快く思っていなかったらしいのです。もっと作品の根幹を見てほしいという想いとは裏腹に評価が上がっていく様を彼はどんな想いで眺めていたのでしょうか。

 彼の最期は彼の雰囲気に合った、彼らしいものだったようです。ある日の昼過ぎ。彼のマネージャーが彼を迎えに行き、インターホンを鳴らす。いつまで経っても出てこない彼。様子を見に合鍵で部屋に入るマネージャー。そこにはいつも通り朝淹れたのであろうコーヒーのカップ、山積みにされた彼の作品になれなかった残骸、椅子にもたれかかり目を瞑っている彼。寝過ごしたのか、とマネージャーが近づき肩に触れた時、彼はもう息をしていなかったそうです。椅子の足元には大量の睡眠薬。それが彼をこの世の人ではなくしてしまったのです。

 彼の所属していた事務所の見解では彼はいつも通り目を覚まし、コーヒーを飲み、そして睡眠薬を呷ったのだろうとのことでした。それが彼らしい最期だと言われている所以です。常にここではないどこか他の世界を見つめているようで、儚くてふとした瞬間に消えてしまいそうな雰囲気を纏っていた彼。そんな彼がいつも通り目を覚まし、いつも通りの午前を過ごし、そしてふと旅立ったのならこれ以上に彼らしい最期はないのでしょう。二度と外界に降りることはないと誓った天使のようだと比喩されていました。

 そんな天使の作品に遅ればせながら惹かれていった私。いや、遅ればせながら、というのも変でしょうか。世の中のあらゆる芸術に触れるタイミングは定められていないはずです。彼の存在がこの世界にはもうなくても、彼がここにいた証拠は残されている。それに触れることは私にも許されている。だからこそ私は今こうして彼の息遣いに触れているのですから。死してなお作品は生きるとはまさにこのことかと感じています。

 

 いわゆる推しに出逢った時、人類の多くはこう思うそうです。どうしてもっと早く出逢えなかったのだろう。もっと早く存在を知りたかった、そうすればあるいは彼の作品にもっと長く触れることができたかもしれないのに。彼を知る前の私はどうやってこの退屈な世界を生きてきたんだろう。もう知る前には戻れない。世界から彼がいなくなってしまえばもう生きてなんていられない。

 本当にその通りだと思いました。私はもう知ってしまったのです。彼が生きる世界の美しさを。そして彼の新たな作品が生み出されないことの悲しみも。もっと早く出逢いたかった。彼の生きている世界を、彼が作品を生み出す瞬間をリアルタイムで見てみたかった。そう思えば思うほど彼の世界観の深さに堕ちていき、彼がいない現実を突きつけられるのです。

 そんな現実を前にした私の中にはある欲求が生まれました。彼と話がしたい。彼に私の思いを伝えたい。私の生きる世界に彼はもう存在しない、と頭ではわかっていても、私は胸の内に宿る熱を彼にぶつけたかった。彼が生涯を通して表現を続けたのなら私も何か表現しなければと思ったのです。幸い、彼の事務所は彼へのファンレターを今でも受け付けていました。今まで大した自己表現もしたことのなかった私でも手紙でなら想いを形にできるかもしれない。そう思って筆を取りました。

 いざ、便箋と向き合ってみると想像以上に筆が進みませんでした。彼にもしも会えたら、と考えれば伝えたいことは心の器から溢れるほどあるのに、文章にしようとすると途端に陳腐な言葉しか浮かんでこないのです。これが表現の難しさか。手紙なんて彼の作品からしたら表現と呼んでいいのかすら疑問ですが、人しれなかった彼の苦悩を少し垣間見た気がしました。

 ああでもないこうでもないと悩む私を端から他人が見たら、本人に届くわけでもない手紙に何をそんなに深く考えているのだと思うのでしょうね。そんな意味のないことに時間を使うのならもっと他の有意義なことに使うべきだという人もいるかもしれない。他人が見たら...と考えている時点で私の中にもそういう思いがあるのかもしれない。それでも私は便箋に向かうことをやめませんでした。やめられなかったという方が正しいかもしれません。自分でもなぜなのかはわかりませんがこの時の私は何かに追われているような感覚に陥っていました。使命感とでも言うのでしょうか。私はこの手紙を完成させなければ、存在意義を失うかもしれないとすら思っていました。

 書いては消しを繰り返し駄目になった便箋を丸めまた新しい便箋に向かう。何万という文字が彼に届くことなく部屋の隅のゴミ箱に捨てられていきました。創造とはたくさんのゴミの中に一粒の砂を見つけるような作業なのでしょうか。だとすれば私の心のゴミ箱の中に、彼の存在に値するだけの砂粒はあるのでしょうか。

 もしかして、こんな風にだらだら長々文章を書いてしまうのがいけないのでしょうか?本当に伝えたい言葉が要らない言葉の山に埋もれてしまっているような気がしてきました。彼の作品の数々に知らず知らずの内に気圧されて、自分の中に質よりも量を求めてしまっていたのかもしれません。そう考えれば自ずと文章は簡潔になり、何百枚と捨ててきた便箋がまるで嘘のように、私が初めて書いたファンレターは一枚に収まりました。

 手紙は書き終わりました。でも何だか物足りない気がします。内容には満足しているのです。私が今、伝えたいことはこの一枚に全て込めました。それでも何か、どこか足りない気がする。これもまた、想いを表現することの難しさでしょうか。思いの丈を全て詰め込んでもなお満たされない思い。彼を含む表現者達はきっとこの満たされない思いを満たすために、その生命尽きるまで表現をしていくのだと気づきました。この分だと私もきっとまた届かない手紙を書くのでしょう。心の中で彼に話しかけることもあるかもしれません。そうやって日々を過ごしいつか満足した時、私もふと世界から消えていたい。なんて考えるのは早計でしょう。

 そうだ。この手紙に、最後に一つだけ、書き加えたいことが。こんなことを書けばせっかくここまで書き上げた手紙が台無しになってしまうかもしれませんが、それでも一つだけ。

 

 追伸:

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