第一話 空蝉
「たまには早く起きて外にでも出たら?少しは気分変わるんじゃないの?じゃあ、行ってくるからね?」
母親が仕事に向かう前に浩司に向けて放った言葉で目を覚ました。時計は午前7時半を指している。
バタン。と戸が閉まる音が家中に響いた後、静寂が襲う。
することもやることも、やる気も何もない浩司はもう一度布団に入る。
高校2年の夏、津田 浩司は不登校になっていた。田舎の中学校から少し離れた高校に進学した浩司は入学式初日から完全に浮いていた。というより、浮かざるを得ない状況だった。
中学の同級生はクラスには誰もおらず、同じ学年には同じ中学から進学した人は何人かいるが、ほぼかかわりのない人ばかりだった。上級生には名前だけ聞いたことある先輩は数人いるくらいで、知り合いはほぼ…いや、ゼロだ。
その上クラスの人は同じ中学の知り合いが多いのか、入学式の時からすでに数人のグループが出来始め、右も左も分からない浩司は浮いた。その状況は進級しても変わらず、学校へ行くのすら億劫になってしまった。
母親は初めの頃は否定し、無理にでも学校に行けと言ったが、諦めたのか、それとも同情しているのか、それとも別の意図があるのか、浩司にはわからなかったが、「学校へ行きなさい」とは言わなくなった。
しばらく閉じて、それから目を開け、枕元にあるスマホに手を伸ばす。気づけば10時半を過ぎていた。
一つ大きく息を吐き、スマホを置いた腕を思い切り上に上げながら伸びをしたあと、詰まっていた息をさらに思い切り吐く。
「あー…」
無気力この上ない声を出した後、重い腰をあげ、寝巻きから普段着に着替えた。持ち物はほとんど持たず、スマホも、財布も持たず、シワシワにヨレたボーダー柄の長袖シャツとデフォルトのダメージ加工かどうかもわからないほど傷んだジーンズに身を包み溝がほぼ残ってないスニーカーの潰れた踵を履き正すと玄関のドアを開けた。
夏絶好調の日差しは、数日間日光を浴びなかった浩司を容赦なく突き刺す。
「…あっつ」
気づけば7月も終わりに差し掛かる頃、至極当然の環境に愚痴をこぼし、玄関のドアを施錠し、ポストに鍵を入れた。
ただでさえ暑いのに、それに加えて街の喧噪と我こそはと鳴く蝉の鳴き声は、頭を締め付けるような感覚で軽く眩暈を引き起こす。
玄関の脇に縛って置いてあったゴミを収集所に捨て、歩き始めた。
10分と経たないうちに浩司は喉が渇き始め、あらかじめポケットに突っ込んでおいた500円玉を自販機に投入し、買った水をその場ですぐに飲み始めた。冷えた無色透明無味無臭の液体が喉を流れ少し涼しくなる、そんな気がした。
歩き慣れた通学路だった道を進み、最寄り駅に着いた。どこへ行くわけでもなかったので、初乗りの切符を購入し、改札を通る。帰りたくなったら一つ隣の駅で降りればいい。そんなふうに思っていた。
ホームに並ぶ人たちは皆、袖を捲ったり襟を少し開いていたりして暑さをしのいでいた。
浩司は、空いたベンチに腰をかけ、もう既にぬるくなっていた水を飲む。
『まもなく、1番線に、快速、東京行きが、参ります…』
予告チャイムに続けて機械的に組み合わせられた自動放送が接近する列車とその列車の説明をする。その放送が終わると同時に列車がホームへと滑り込む。
その瞬間に列車の先頭車両から最後部までの数百メートルに及ぶ長さに纏わりつくぬるい風がホームを駆け抜ける。定められた位置に停車した列車はドアが開き、乗客の降車が終わると堵列をなした客が列車に乗り込む。車両の中はかなり涼しいらしく、少し離れたベンチにも涼やかな風がそっと流れた。
しばらくすると、発車時刻を知らせるベルが鳴り、ドアが閉まった直後に床下からブレーキを緩解する音が鋭く響き、ゆっくりと動き出す。次第に加速した列車はあっという間に全ての車両がホームから出ていた。
一通りの風が通り過ぎた後、ホーム上に残された風と浩司は、項垂れるほどに容赦のない暑さに纏わりつかれ、温度を増していった。
止まらない喉の渇きをどうにかするために、持っていた500mlの水はいつのまにか空になっていた。
浩司は「よいしょっと…」と小さい声を出しながら重い腰を上げで少し歩き、空になったペットボトルを捨てた。
辺りを見回して「もう少し手前か」なんて独り言を吐きながらホームを歩いていた。
『まもなく、2番線を、列車が通過します…』
先ほどの1番線とは違って2番線の自動放送は女性の声だった。男性の声と同じように機械感は否めない。
列車は通過するだけなので、放送文が短いせいか、2度ほど同じ内容を繰り返し、放送し終えると、通過列車はもう見えるすぐ手前まで来ていた。
決して偶然ではない。今朝母に「たまには外に出たら?」と言われたからではない。
浩司にとっては苦痛でしかなかった五月蝿いスマホも、もう今後は一切関係のないお金も、帰ることのない家の鍵も、何もかも要らないからこれほどまでに手ぶらで、質素な格好で陽炎の舞う暑い街中を歩いてきた。
残す言葉はない。悔いもない。
―――あ、一つだけ…いや、何でもない。
多少の躊躇いと脆いながらも固めた決意を纏った足を一歩ずつ踏みだした。
“線”を越えた先の足元には何もない。夢も、希望も、愉しさも、感動も、苦しみも、辛さも、悲しみも、何も無い。
さようなら——―。
次の瞬間、鋭い警笛と鈍い衝撃音が凄まじい速度でホーム上を駆け抜けた直後に1人の体内から発せられた音とは思えないような悲鳴がホーム上に響き渡る。続けて誰かが押した非常ボタンのブザーが一斉に響き始め、なんだなんだと次から次へと人が集まってくる。急停車した列車は二度警笛を鳴らし、異常を聞きつけた駅員数名が駆け足で集まってくる。
「大変危険ですから、お下がりください!!お下がりください!!!!」
1人の駅員が大きな声で周りにいた野次馬を払い退ける。
「ヤマイシ!指令に報告!!ツチヤは"道具"持ってこい!あと一応AEDも!!キムラ!なるべく他のお客様を近づけないように!!それと他の人呼んで警察とか消防が通れるように通路を作れ!…目撃者!この事故を目撃された方はいませんか?!」
鳴り響くブザーの中、責任者の1人が的確に指示を出し、指示を受けた社員は言われた通り、慌ただしさの中に冷静さと焦りを交え動き回る。
「大丈夫ですか?!おい!大丈夫ですか?!もしもし?!」
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