朝の珍事
窮奇城の迎賓館、その一室で目を覚ました雪那は宮子に手伝ってもらいながら身支度を済ませ、縁側から空を見上げていた。
「いい天気ですねー……昨日のことが嘘みたいです」
感慨にふけるかのように呟く宮子に、雪那も内心で同意する。
黒灰色の雲に覆われていた空は嘘みたいに快晴だ。これも國久たちが妖魔を打ち破ったからこそだと思うと誇らしくもあり、改めて労いの言葉一つでも送らなければと強く思わされる。
(國久様はもう起きているでしょうか……?)
年若く、激務に慣れている國久はかなりの体力自慢だが、日中は妖魔との激闘を繰り広げていたことを考えるとまだ眠っているのかもしれない。
本音を言えば、人々を救うために奮闘した國久には心ゆくまで眠らせてあげたいところだが、朝も朝で予定が詰まっている。起きられなくて困るのは他の誰でもない國久なのだ。
(少し、様子を見に行った方がいいですよね)
國久が使っている客室は、雪那が使っている客室のすぐ隣にある。昨晩、雪那が寝静まるまで戻ってくる気配が無かったので夜遅くまで活動していたと考えれば、國久は今でも夢の中にいる可能性は高い。
起きているのならそれでもいい。しかし起きれていないのなら起こしてあげよう……そう考えた雪那は、追従する宮子に一言断りを入れて、そのまま國久が使っている客室へと視線を向けた。
「國久様、雪那です。起きていらっしゃいますか……?」
控えめに声をかけるが、中から返事はない。雪那はそっと襖を開けて中を覗き込んでみると、掛布団の上に横たわっている國久の姿が見えた。
どうやら部屋に戻って布団の上に倒れ込み、そのまま眠ってしまったようだ。今の季節は暖かいとはいえ、夜や早朝はまだ少し肌寒い。國久の体調が心配になった雪那は、音を立てないように襖を開けて、ゆっくりと國久の元に近づき、その手を指先で撫でる。
(……体調に問題はなさそうですね)
露出されている部分は冷えてしまっているが、顔色は普通だし、寝息は穏やかだ。その事に安堵しながらも、雪那はある事に気が付いた。
(そういえば、國久様が眠っているところを見るのはこれが初めてかもしれません)
饕餮城での生活でもそうだが、想いが通じ合った婚約者同士といっても同じ部屋で寝るだけの度胸が雪那には無かったので、今でも別々の部屋にしてもらったのだが、考えてみれば雪那が起きている時に國久が寝ている……という状況に覚えが無かった。
國久は元々、睡眠時間が短い割には寝起きが良い人間だ。朝寝坊することもないし、雪那よりも後に寝たのに、朝になれば先に起きているという事も珍しくない。
(……それだけ、昨日の戦いは激しかったのでしょうね)
人の気配に対して敏感な國久が、雪那がここまで近づいて体に触れても起きる様子が無いことからも、昨日の戦いの激しさを物語っている。
(それでも、貴方はその戦いを制して無事に戻って来てくれた)
何も今回に限った話ではない。雪那はいつだって妖魔退治に赴く國久の身を案じていたし、今までこうして無事に妖魔を倒して戻って来てくれたことには感謝しかない。
そんな國久の事が頼もしく、そして何よりも愛おしく感じながら、雪那はもう少しだけ國久の事を眠らせてあげようと思った。
時間はまだ余裕があるのだ。起きなくてはいけない寸前までゆっくりとしてもらいたい……そんな事を考えていると、朝日が昇り、開いた襖の隙間から差し込んだ陽光が國久の髪を優しく照らした。
(……綺麗)
國久は頻繁に雪那の髪を褒めてくれるが、そういう國久の髪も光を反射するほど艶やかな栗毛色で、よく手入れされているのが見て取れる。
当人曰く、「雪那の隣に並んでも恥ずかしくないよう、自分磨きを怠れない」と言って、男だてらに美容にも力を入れているが、実に説得力のある言葉だと改めて実感した。
(……触ってみても、大丈夫でしょうか?)
國久を眺めていると、何となくそんな事を考え始めた雪那。
しかし眠っている男性に無遠慮に触れるなどはしたない事ではないだろうか? それに今は宮子が傍にいる。流石に人目があるところでそのような事をするのは憚られる……そんな雪那の心情を察したのか、宮子は生暖かい笑顔を浮かべて、そっと縁側へと出た。
「何やらお邪魔になりそうな気配がしますので、私は部屋の前で待機していますね。姫様はどうぞ、思うようになさってください」
「み、宮子っ!? 一体何を……!」
「何かございましたらいつでも声をかけてください。それでは、ごゆっくり~」
スッと静かな音を立てて閉まる襖の向こう側に消える宮子に、意味もなく手を伸ばした雪那はしばらくの間固まってしまうが、やがてゆっくりと國久の方に向き直ると、恐る恐るといった様子で、國久の髪に手を伸ばした。
(……少しだけなら、いいですよね……?)
まるで壊れ物を扱うかのように、雪那は白く細い指で國久の髪を優しく
「わ、わわ……っ」
思った以上にフワフワとした感触に、雪那は言葉にならない感嘆の声を漏らした。
自分で言うだけの事はあってか、かなり手入れの行き届いた髪である。正直に言って、触っていて癖になりそうなくらいに触り心地が良い。
最初は少しだけ撫でるつもりだったのに、気が付けば止められなくなったくらいだ。
(こ、これはそう……日々尽力なさっている國久様への労りを込めているのです……! なので別に疚しいことはしていない……良い事をした子供を撫でるのと似たようなもので……っ)
心の中で自分でも良く分からない言い訳をしながら、夢中になって國久の髪を撫で続ける雪那。普段ならばこんな事はしない……というか、恥ずかしくてできないのだが、こうも無防備な姿をさらけ出されると、どうにも我慢できない。
(私の知らない國久様の一面が、きっとまだあるのですね)
大貴族の次期当主である國久の立場、境遇を考えると、彼のこういう姿を見れるのは世界で自分だけなのだろう。そう思うと、えもいわれぬ優越感と多幸感が胸の奥からジワジワと溢れ出してくる。
別に何てことのない。ただこうして触れ合っているだけでこんなにも暖かな気持ちになる。一人の女として、一人の男を愛するというのはこういうことなのかと、雪那は実感した。
「あ……」
そうしていてどのくらいが経っただろう……頭の中では國久を起こさないといけないと思いながらも、それが中々出来ずにいた雪那の瞳が、國久の唇を捉えた。
普段は國久に見つめられるだけで、話しかけられるだけで、笑いかけられるだけで気恥ずかしさが込み上げて来て何も出来ずにいる雪那だが、当の國久が眠っていて、周りに誰もいない今なら、普段よりも大胆になれる気がした。
「國久……様……」
多幸感に浸り過ぎたせいか、ぼんやりと思考に
そしてそのまま二人の唇が触れ合おうとして――――
「……ぁぁぁぁああああああああああああああああああああああっ!!」
「――――っ!?」
「んお……?」
土煙を巻き上げるほどの力強い足音と共に、やたらと聞き覚えのある女性……薫のけったいな悲鳴が迎賓館の外側から聞こえて来て、正気に戻った雪那は勢いよく後ずさると共に國久が目を覚ます。
なにやら尋常ではない様子の薫が悲鳴を上げながら走り去っていったようだが一体何があったのか……そんな疑問を浮かべることが出来ないくらいに、衝動のままに起こした自分の行動に困惑し、羞恥し、耳と首まで真っ赤に染める雪那。
「……雪那? 一体どうしたんだ? 朝から俺の部屋にいるなんて珍しい」
「あ……あの、その……っ!」
自分はなんて破廉恥な事をしようとしていたのか。寝ている國久の唇を奪おうとするなんて……今までにないくらいに顔を赤くしながらも、なんとか弁明しようとする雪那だが、何一つとして言葉が浮かんでこない。
まさか眠っている最中に髪を好き放題撫でまわし、あまつさえ接吻しようとしましたなんて言えるわけがない。
(こんなの……まるで私が淫らな女性みたいではないですか……!)
これまでの行動を振り返ってみると、とんでもない事をしようとしていた。寸前で邪魔を入れた薫には感謝したいくらいだ。
しかし現状は何一つ変わっていない。少なくとも、國久に何か返事をしなければならないのだが、咄嗟の言い訳など羞恥心で顔も頭も茹った雪那に出来るはずもない。
「え、ええっと、國久様……! 私は、そのいやらしい事をするつもりはなくてですね……!」
「うん? いやらしい事?」
「ち、違っ!? そうじゃなくて、私はただ……!」
恥ずかしすぎて頭も目もグルグル回る雪那は、殆ど何も考えないまま口を開いた。
「國久様の寝顔が
雪那の大きな声が迎賓館中に響き渡り、辺りはシーンと音が鳴りそうな沈黙に包まれる。
一体何事かと呆然とする使用人たち。襖の向こう側で「何口走ってるんですか姫様。何やろうとしてたんですか姫様」と言わんばかりの表情で固まる宮子。起き抜け早々にカミングアウトされた内容が理解できずにいる國久。そしてややあって自分の口走った内容を理解し、茹蛸のように顔を赤くして涙を浮かべる雪那。
「わ……忘れて下さいぃぃぃぃぃぃぃ!」
彼ら彼女らから放たれる居たたまれない雰囲気に耐え切れなくなった雪那は、顔を両手で覆って客室を飛び出し、そのまま迎賓館の外へと走り去る。
その後ろを宮子が慌てて追いかけていくのを見送りながら、一人取り残された國久は「……ふむ」と一言呟く。
「……もしや俺は、とんでもなく勿体ないことをしたんじゃね?」
とりあえず雪那が何をしようとしていたのか……それは両腕で抱きしめ、恥ずかしがるであろう雪那を全力で堪能しながらじっくりと問い詰めるとしよう。そんな事を心に誓いながら、國久は寝間着から着替えるのであった。
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