第10話 アルストロメリアな君へ⑩
「腹部の
私と父は桶屋君の担当医から彼の容体についての説明を聞いていた。大けがではあったし、
桶屋君のお腹を刺した男は、機転を利かせた桶屋君の頭突きで鼻血を出しながら気絶し、その隙に学校関係者が呼んだ警察官に取り押さえられた。
桶屋君との会話で男が中学時代、彼をイジメていたリーダーであったこと。そしてイジメが発覚した後、今度は彼がイジメられる側になって逆恨みで桶屋君を襲ったというところまでは二人の会話で理解できた。桶屋君のお腹を刺した後も彼に対する恨みを叫び通していた。捕らえられた後、警察車両に運ばれ車内で目が覚めた男は痛みと憎しみが混ざり合った叫びを上げながら警察に連れて行かれたそうだ。
桶屋君はお腹のナイフが刺さったまま意識を失い、何より刺された腹部からの出血が酷かった。保健室の先生の指示で刺さったナイフはそのままにして、綺麗なガーゼで止血する方法が取られた。無闇に抜くと出血多量で失血死する可能性があるとのことで、これも学校関係者が呼んだ救急車に運ばれるまで必死の止血処置がなされた。
私は桶屋君の一番近くにいたのに彼に突き飛ばされ座り込んだまま一連の流れを眺め、救急車に運ばれて病院に向かっていく彼を見送ることしかできなかった。
「それと、これで最後になりますが羽鳴蝶子さん。あなたもしっかりと休んで下さいね。あなたに今必要なのは十分な心の安静と睡眠ですから」
担当医の説明と助言を聞き終え、私と父は診察室から出た。その足で彼が安静にしている病室に向かうために。
「大丈夫か?」
父、源五は私に心配の声をかける。
「……うん、なんとか」
本当は極限まで高まった睡魔と、昨日からの精神的疲労でちっとも大丈夫ではないのだが、弱音を吐くことは命懸けで私を守ってくれた桶屋君に対して失礼だと思った。強がりは見抜かれている。それでも父は「大丈夫か?」以上の心配の声をかけなかった。
「お父さん、今さらだけどごめん。いろいろ無理言っちゃって」
私の謝罪に父は首を横にして否定する。
「一晩中、彼の看病をしていたそうじゃないか」
「看護師さんに聞いたの? でも私、何もしてないんだ。容体が悪くなったらすぐにナースコールするだけの見張りみたいなものだったから」
「それでも眠いだろう?」
「……それなりに」
「無理するな。今日こそはしっかり寝るんだぞ」
久しぶりに感じる親子の会話。病院に来るまでに何度か電話で話してはいたが、同じ空間でしっかりと話すのは本当に中学入学以来かもしれない。
「それにしても驚いたよ、学校から連絡が来て大きな事件があった後、蝶子がすぐどこかに行ったと聞いた時は」
「ごめんなさい……」
事件後、桶屋君を乗せた救急車を眺め、座り込んだままだった私は何かしなければという思いだけが強くなって、気が付いたら桶屋君を乗せた救急車を追いかけていた。誰かの制止も気にも留めず何度も転んで膝から血を流しながら、救急車が見えなくなっても構わず走り続けた。救急車が見えなくなった時は焦ったが、桶屋君が
「しかもその後、大けがをした彼の看病のために一日病院にいると聞いた時は特にな」
「本当にすみません……」
後に知ったのだが桶屋君のご両親は総合商社に勤めており、入学式の日も仕事の関係でヨーロッパにいた。学校側は事件後すぐに桶屋君のご両親と連絡を取り、安否確認のため彼のご両親は急いで日本に帰国することになった。しかし日本行きの便がなかなか取れず、最速でも今日の昼頃に到着するチケットしか手に入れることができないと私の耳にも入ったので、私は桶屋君のご両親の代わりに、彼のそばで付きっきりの看病をすることにした。
看病と言っても私にできることは彼を見守ることだけ。技術的なことは何もできないので、私の病院内滞在は病院側からずれば迷惑極まりないことだ。でも私は土下座する勢いで頼み込み「一日だけなら」という条件付きで担当医は私の院内の滞在を許可してくれた。彼の手術が終わり父を説得することで、彼にあてがわれた病室の中で夜が明けるまで彼を見守り続けた。
「お前の勝手を叱るなんて中学入学以来だ」
「電話越しでも滅茶苦茶怒ってたもんね」
「当たり前だ。騒動を起こした犯人は捕まったそうだが、疲労とショックはお前にもあったはずだ。すぐにでも休むべきなのに他の子の看病のために病院で一泊するなんて」
「私の命の恩人なの。何もできなくても見守るくらいはしたかった。電話でも言ったじゃない」
「だとしてもだ」
父は俯きながら心中を吐露する。
「でもお前を𠮟りつけた後、すぐ思い直した。本当は俺のもとから遠くに行ってしまいそうな蝶子を引き留めたかっただけだったんだって」
父は今でも、母を
「母さんを喪ったあの時から、俺がもっとしっかりしなきゃならなかったのに、今回も蝶子の強さに甘えてしまった。だから自分の願いは引っ込めて蝶子のしたいことを信じて優先しただけだ。本来ならこれが父親のあるべき姿なのに、結局俺はまたお前の言葉を信じられなかったんだ」
いつの間にか私たちは桶屋君のいる病室の前に辿り着いていた。父は病室の前で立ち止まり、私に向き直る。
「蝶子。今さらだが約束させてくれ。これからお前が何をどうするにしても、父さんはお前を信じる。三年間まともにしゃべられなかった俺が何言ってるんだと思うに違いない。だが言葉にして蝶子に伝えたい。これからの蝶子を母さんの分も含めて支えさせてくれ。頼む」
自身で課した過ちに対して父なりに向き合い続けた末、父は頭を下げて懇願する。だけど私が父に誠意を見せられる理由などどこにもなかった。全てはあの日『虫の知らせ』を受け取ってしまった私のせいなのだから。父は私が背負うべき苦しみも自分の中に取り込んで三年もの間、母の喪失と私への向き合い方を考え続けてくれた。店の仕事と私の通う学校のこと、それ以外にも考えることはたくさんあったはずなのに、言葉を交わすことを止めてしまった代わりに父は自分を責め続けたのだ。
「……約束してほしいことがある。父さんの頼みを聞くかどうかはそれ次第」
「なんでもする」
「まず母さんのことは父さんのせいじゃないから。これまでみたいに自分勝手になんでもかんでも背負わないで。背負うなら私も一緒に背負う」
「それは」
「約束、でしょ?」
「ぜ、善処しよう」
起こってしまった事実は変えられない。歪んでしまった私たちの人生は二度と元には戻らない。でももし少しでももとに戻る可能性があるのなら、そのきっかけが私に委ねられるのなら、私はもう二度と手放さない。
「二つ目。前みたいに、たくさん話してほしい」
意外な中身だったのか、父の表情は肩透かしを食らったような顔をしている。
「ウザいくらい絡んで、私が嫌って言っても話しかけて」
「そ、そんなのでいいのか?」
「それとお母さんの分まで長生きして」
本命は最後の約束。だが真剣に言ってしまうのは気恥ずかしかったので、早口で言い切る。ただ私の早口はしっかりと父の耳に入ったようで、涙を流しそうになる父は必死に我慢し、それでもにじみ出る涙は私に見せないように腕を使って一気に拭う。
「……用を、足してくる。少し、いやかなり時間がかかると思う」
「うん、ごゆっくり」
早足にトイレに向かう父を見送る。そこで父は母のお葬式でも涙を流さなかったことを思い出す。私のために自分の涙は限界まで堪えたのかもしれないが、今回のことでその我慢は完全に切れてしまった。
おそらくトイレで大泣きすることだろう。
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