第11話 アルストロメリアな君へ⑪
一人になった私は桶屋君のいる病室のドアをノックし入室しようとする。万が一起きていたらの配慮だったのだが「どうぞ」と室内から声が返って来た。聞こえた声は女性。看護師さんかなと思い「失礼します」と断りを入れてドアを開けると、室内にいたのはともに紺のスーツを着た男女。
男性は白髪が混じっているが身長180を超えており、服の上からでもわかるくらい鍛えられた体つきをしている。女性は160くらいで見える肌に一切のくすみがない。動き一つ一つに無駄がなく品のある雰囲気は
「すみません! 部屋に誰かいるとは知らず。失礼します」
二人は私と向かい合い、深々と頭を下げた。すると男性の方が私の退出を引き留める。
「失礼、間違いでなければあなたが羽鳴蝶子さん、でしょうか?」
男性が尋ねるので、私は「はい」と答える。二人は安堵し居住まいを正す。
「この度は私たちの息子、風戸の身を案じていただき本当にありがとうございました。本来なら私たち親が風戸のそばにいてやらなければならないところを、本当に申し訳ございませんでした」
「息子の風戸、ということは」
質問すると男性はそばにいる女性と一緒に自身の名を名乗る。
「私は風戸の父親、
「母親の
桶屋君のご両親の到着を知り、私もすぐさま頭を下げ直し自己紹介とあの時起こったことをありのまま伝えた。桶屋君が刃物を持った男からは私を守ってくれたこと。でも私は彼の近くにいながら何もできず襲われる彼を見ていることしかできなかったことも。
一番の後悔は桶屋君が意識を失う直前に見せた微笑みを見て、彼のことを思い出したこと。
弱々しくて自身のない口調で私の名前を呼んだあの小太りの桶屋君を。
「私がもっと早くに気付いていれば。本当に、本当に申し訳ございませんでした」
何度も頭を下げたが、海斗さんはその度に「どうか頭を上げてほしい」と涙ながらに語る。
「羽鳴さんは風戸のためにあなたにできることをしてくれた。そんなあなたを責めるようなことするはずがない」
海斗さんは私の両膝に視線を向ける。
「お医者様から聞きました。高校からこの病院まで何度も転びながら走って来たそうじゃないですか。それに昨日の夜からこの病院で風戸の看病をしてくれていたとも聞いています。正直驚きました」
海斗さんが驚くのも無理はない。自分たち親よりも先に息子の安否を心配し、病院にい続けた無関係の他人がいたのだから。
「あなたのせいで風戸は刺されたわけじゃない。なのにどうしてそこまで」
「目覚めた時に誰もいないのは寂しいかなと思っただけです。ご家族の方がすぐに来られないことは病院の先生から伺っていたので」
私が『虫の知らせ』を見てしまったから彼が刺された、などとは口が裂けても言えない。当たり障りのない返事をすると、樹梨さんから笑みがこぼれた。
「ほらあなた、やっぱり蝶子ちゃんは風戸の言った通りの子だったわ。こんな立派な考えを持っているのならこの子も憧れるに決まっているわ」
樹梨さんの突然の「ちゃん」付けに、私は目を見開いてしまう。
「あ、ごめんなさい『ちゃん』付けはお嫌かしら?」
「いえ、そんなことはありません。その、桶屋君、私のことで何か?」
「あなたのことは我が家で有名でね。特に風戸はとても優しくて、強い子だと聞いていたの」
あまりに見当違いな評価に、穴があったら入りたくなった。なんてことを広めてくれやがったのか
「この子、中学の頃イジメに遭っていてね。蝶子ちゃんは覚えているかしら? 風戸はあなたが助けてくれたといつも言っていたのよ。しかも助けたからと見返りを求めるわけでもなくその後も普通に過ごしていたって。本当のヒーローみたいだってね。ただあなたにお礼をしたらこっ
樹梨さんの言う通り、中学の頃の私は『虫の知らせ』で母を亡くしたこともあって他人とのつながりを完全に絶っていた。桶屋君を手助けしたのは、偶然『虫の知らせ』が好転に向かっていたからで、以降の彼とのつながりは徹底的に拒絶した。また彼に不幸が巡って来る可能性も考えられたからだ。
絶対に良い印象を持たせないよう振舞ったため三年越しに私は桶屋君のご両親に「すみませんでした」と謝罪する。だが二人は慌てて私の謝罪を止めさせた。
「気にしないで。あの子からその話を聞いて私もこう言ったの。そりゃそうでしょ、ってね」
樹梨さんは私の肩を優しく掴む。
「中学の頃の風戸はかなり太っていて、勉強もできなくて、背も小さかったからそれじゃあ女の子は振り向いてくれないわって言ったの。それからこの子は部活に入ったり、勉強を頑張ったり、とにかく色々始めたわ。あなたに認めてもらうためにね」
私なんかのために桶屋君は努力したのだと樹梨さんは告げる。嬉しいを通り越してより申し訳ない気持ちでいっぱいになる。私はただ他人の人生に関わって自分が加害者になるのが嫌だっただけなのに。
「私たちは風戸が本当に苦しい時に何もできずにいた不甲斐ない親です。そんな親よりも風戸の力になってくれた子に、感謝こそすれ謝ってもらうことなんて何一つないわ。むしろあなたを守って男を見せたことを誇りに思う」
海斗さんは深く頷き、小さな声で「ありがとう」と言ってお辞儀までしてくれた。
「夫の言った通り、私たちがあなたに言うことは一つだけ。風戸を助けてくれて本当にありがとう」
海斗さんの感謝と樹梨さんが抱き締めてくれた時に感じた温もりのせいで、私は自然と涙が流れた。ずっと私の運命を引き裂いてきた『虫の知らせ』が誰かの運命を助けていたこと。知らない誰かの命を助けていたことが心からの安堵を生んだ結果だった。
海斗さんと樹梨さんは私の涙の理由を聞かなかった。きっと他にも聞きたいことがあったに違いなかったはずなのに、二人はただ黙って私の涙が収まるまで見守ってくれた。
私の気が持ち直したところで、二人は担当医と今後のことを話し合うため桶屋君の病室を後にした。代わりに二人が戻るまでの間、私は桶屋君の病室で彼の目覚めを待つことにした。桶屋君に何かあればすぐに連絡できるように、私は彼の眠るベッドの傍らで静かに座っている。
「なんであの時のこと、ずっと覚えてるのよ……」
桶屋君の顔をじっくり眺めると男子の割には小顔で整っていることに気づく。記憶にある中学時代のおまんじゅうのような彼からは想像もできないほどの変化だ。その変化をもたらしたのが私だと今日知り、何とも言えない気持ちになる。
「本当に、なんなのかしらね、あなたって」
返事を求めたわけではないけれど、もしかしたら何かを返してくれるかもしれない。そう思い、投げかけてみるが反応はもちろんない。眠っている桶屋君の顔には印象的だった黒縁眼鏡はかけられていない。今は彼の枕元にあるナイトチェストの上に黒縁眼鏡が置かれており、あんな事件があったのに彼の臓器と同じく眼鏡も奇跡的に無傷だ。
「ゆっくりでも良いから、目を覚ましなさいよ。私だってあなたに言わなきゃならないこと、たくさんあるんだから」
負け惜しみっぽい口調で呼びかけると、桶屋君の寝苦しそうな声がかすかに聞こえた。私はすぐに口を閉じ、彼を観察すると今度は顔が少しだけ動いた。
「桶屋君、桶屋君聞こえる!?」
呼びかけが功を奏したのか、彼は瞼を動かし、ゆっくりと目を覚ます。
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