第7話 アルストロメリアな君へ⑦

 男子トイレで起こった一件の後、この件に関わった生徒全員とその家族まで集めて、入念な話し合いが何度も設けられた。現行犯で目撃されるまで行われたイジメの内容はイジメていた当事者たちの口から語られ数週間にも渡る話し合いの末、二度と僕にイジメをしないことと次にイジメをした場合はイジメた学生の退学処分、そしてイジメた生徒の親にもその責任を負ってもらうことで決着がついた。


 僕の人生を変えてくれた女の子、羽鳴蝶子のことを知ったのはそんな一連の問題が全て解決した後だった。


 彼女が僕と同じクラスにいたことは知っていたが、窓際の一番前の席に座る物静かな女子だったことは知らなかった。きっかけは国語の授業中で羽鳴さんが先生に指名された時。彼女が教科書を読み上げた声が僕を助けてくれた女子の声と全く一緒だったのだ。男子トイレの出来事があるまで、周りに意識を向けられるほど余裕がなかったにしても、その時まで気づかなかった自分に落胆したのは言うまでもない。

授業後、僕はすぐに彼女のいる席に向かい、あの時のお礼を言った。本当にありがとうと、心からの感謝を告げたのだ。


「感謝しているなら、私とは二度と関わらないで」


 しかし、彼女の返事はトイレで僕のことを励ましてくれた時とは思えないくらい冷えたものだった。理由はわからなかったけど、彼女は僕と関わることを嫌い避けるばかりだった。そのことを両親に話すと「女の子に振り向いてほしいなら、お前が変わらないでどうする!」と一喝されてしまう。確かに中学の時の僕は明らかな体重過多で身長も160センチを超えていなかった。見た目からは一般的な女子に好まれるような体型をしていなかったのだ。


 羽鳴さんと話がしたい。理由は褒められたものではないかもしれないが、とにかく僕は自分を変える努力をし始めた。帰宅部だったけど僕の中学で一番厳しいと言われる柔道部に入ったり、勉強も人一倍頑張り在学中は何度かクラス成績一番を取った。小学生までテレビゲームばかりしていた自分から脱却するかのように、自分なりに努力をおこたらなかった。


 ただ中学生の間は羽鳴さんに話しかけることだけはしなかった。彼女に話しかけるのは自信を持って、僕は変わったと言える時にしたかったからだと。意気地なしで弱虫な心が残っているだけと言われればそれまでだが、それでも僕は卒業式まで彼女との会話を控えた。卒業式の日に少しだけ成長した僕を見せて感謝を伝えるために。


 羽鳴さんが風邪で卒業式を欠席していたことを知って絶望するなどとは露ほども知らずに。

 こんなことなら、もっと早くに彼女と話をしていれば良かったとその時は心から後悔したものだ。


「羽鳴、さん」


 だからこそ、入学先の高校で彼女の姿を見た時の驚きは一入だった。海外出張で入学式に出席できなかった両親に、式の終了を報告するため携帯で電話をしていた時だ。校門での写真撮影を目的に多くの人が行き交う中で僕は羽鳴さんを見つけた。もう二度と会えないとあきらめていた彼女がそこにいたのだ。まさか同じ学校を受験していたとは思わず、衝撃の後にやって来たのは飛び上がるほどの幸福。今日という日は神様が僕にくれた天恵とさえ思った。

 彼女が僕のことを一切覚えていなかったということを差し引けば。


「桶屋、桶屋風戸って言います」

「はぁ、桶屋、さん」


 何度も名乗ってはいるのだが、羽鳴さんの眉間みけんしわが寄るだけで思い出すには至らなかった。確かに中学の頃は目立ったことはしていなかったし、彼女の方が僕を拒絶していたので、記憶に残っていないことは十分予想できたが心のダメージは大きかった。


「同じ中学で、同じクラスだった」

「桶屋、桶屋」


 何度も羽鳴さんは僕の名前を言う内に「あ」という言葉が出た。思い出してくれたのかな、と喜んだ時だ。


「……オケヤ」


 もう一人、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。雑踏にかき消されるくらいの小さな声だったが、確かに聞こえた。声のする方へ振り向くと、真っ黒なパーカーを着た男がフードをま深く被って立っていた。真後ろではあったが数歩近付けば握手ができるくらいの距離で彼はたたずんでいた。身長は僕と同じ175センチくらい。そして彼の顔は異常に痩せこけていた。両手はポケットに突っ込んで両目で僕だけを捉えて離さない。


 異様な空気をまとっていることを周りの人たちも察したのか、その男を中心に人が避け始める。


「オケヤ、俺のこと、覚えてるか?」


 聞き覚えはあった。でもそれは記憶の底に沈めた思い出したくもない真っ黒な過去。


「……覚えてるよ、梶谷かじたに君」

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