第6話 アルストロメリアな君へ⑥

 中学に入って三カ月が過ぎたある日。休み時間の間にトイレで用を足していた時だ。この時間は僕をいびる同級生たちが群がってくるタイミングでもあるので、僕は休み時間の度にトイレに逃げ込む羽目になっていた。


「なんで、僕だけ……」


 一人何もできずに便座に座り込む。この頃の僕にとって一番心安らげる場所がトイレだった。誰からも意地悪されず誰からも攻撃されない。いびる同級生と同じ階のトイレは極力避けるため、いろんな階のトイレを巡っては休み時間の間だけの貴重な安らげる時間を得る。


「彼女の言ってたことって、これだったのか……」


 不意に思い出す。体育館裏で僕に忠告してくれたあの女子。同じクラスのはずだけど、あの後彼女を探す間もなくイジメに遭うようになったから、今となっては誰なのかも知らずじまいになってしまった。


「ちゃんと言うこと、聞いておけば良かった……」


 名も知らぬ女子のことを考えていると入り口から入って一番奥のトイレ、つまり僕が入っているトイレのドアをノックする人がいた。ドアの鍵はかかっており、外からは赤色で入室の有無を知ることができるのにその人物は僕のいる個室トイレのドアを叩いたのだ。


 僕はノックを返すことで「入ってますよ」と教えようとしたその時だった。


「あんた、このままで良いの?」


 返って来たのは男子トイレではありえない女子の声。しかもその声には聞き覚えがあった。


「この声。君は僕に忠告してくれた」

「そんなことはどうでもいいの。それよりどうなの?」

「どうって」

「今のままで、あんたは満足なのかってことよ? 言わせないで」


 彼女の投げかけた質問の意図をくみ取れず、何も返せずにしどろもどろになっていると彼女は溜め息を吐いて告げる。


「案の定、イジメられてるってわけね。だから言ったじゃない。鈍いままじゃこの先辛いって。本当に鈍いんだから」


 驚いて声を上げそうになった。何せイジメていた男子たちは、先生や同じクラスの同級生たちにばれないよう見張りながら僕をイジメていたから。誰も知らず、僕だけが苦しんでいたからイジメのことを話に上げられたのは本当にびっくりした。


「なんで、イジメのこと」

「『虫の知らせ』ってやつよ。どうせ何をするにしても結果は決まってるけど」

「決まってる? じゃあ君は僕がイジメられることを」

「イジメられ続けて心も体もすり減っていくことも全部知ってるわ。イジメてる奴らがどれだけ隠しても私は全部知ってる。なんならイジメてる男子の名前も言ってあげましょうか?」


 何がどうなってるのか僕の頭では処理できなかった。彼女はすでに僕が今みたいにイジメに遭って悩むことまで知っていたと言う。


「じゃあ、なんで今まで助けてくれなかったのさ?」


 口から出たのはあまりにも情けない発言。悪いのは僕を攻撃する男子たちなのに、それでも僕の醜い感情は止まらなかった。


「僕が、こんなになるってわかってて君はずっと無視してたの?」

「……そうよ」

「なんでだよ! 僕がこんなに苦しんでるのに! なんで君はそうやって僕のことを鈍いって言うだけで何もしてくれないんだよ!」

「それがあんたの本音?」

「そうだよ! 君が無理でも君から先生に言ってくれさえすれば、こんなことにはならなかった! なんで僕が、僕ばっかりがこんな目に遭わないといけないんだよ! 僕はただ普通の学校生活がしたいだけなのに!」


 自分の愚かさで吐きそうになる。事前に僕がイジメを受けていることを知っていたとしても、それは彼女には関係のないことだ。逆らおうと思えばそのチャンスもあった。それでも僕がイジメてくる連中に逆らえなかったのは怖かったからだ。報復が、仕返しが。少しでも抵抗してその倍以上の苦しみを受けることになるかもしれないという恐怖が僕の足を硬直させたのだ。


「ようやく吐き出したわね、本音」


 今の今まで抱えていた感情を吐き出した後、ドア越しの女子は楽しそうに告げる。

親にも言えなかった本音。自分がイジメられていることを親にも伏せて、心配をかけず僕は中学で楽しく過ごしていると安心させるという見栄っ張りな心を、彼女はいとも容易く破いてしまった。


「あの時と一緒ならどうしようかと思ったけど、それだけ言えるなら多分大丈夫ね。まあ知ってたからこうやって来たんだけど」


 彼女はさらに声を小さくしてドア越しの状態で僕に告げる。


「よく聞いて。これからこの男子トイレにあんたをイジメてる連中が入ってくる。目的はあんたが入った個室トイレに上からあんためがけて水をぶっかけるため」

「ウソっ! 嫌だよそんなの! というか、なんでそんなこと君が」

「さっきも言った『虫の知らせ』ってやつよ。それより時間がないから聞くことだけに集中して。今そいつらはバケツいっぱいの水を男子トイレ外の水場でめてる。男子トイレ内の手洗い場じゃバケツに水を溜められないからよ。溜め終わり次第、あんたのいる個室を見つけて水を上からぶっかける」


 聞くことに集中するが、あまりに鮮明な情報で僕はだんだん怖くなってきた。このままじゃ僕はバケツいっぱいの水を浴びせかけられてしまう。


「でも大丈夫。あんたはただ待っていればいい」

「なんで!? 今すぐ出ないと」

「今出たら、トイレに連れ戻されて改めて水ぶっかけられると思うけど」

「でもこのままいたって」

「重要なのはタイミングよ。あんたは今、一番奥のトイレにいる。しかも今このトイレにいるのはあんただけ。そいつらはあんたのいるトイレをすぐに見つけ出して、面白半分でノックするの。その後にトイレのドアをよじ登って上から水をぶっかけようとするわ」



 まるで見て来たかのように話す彼女に、僕は次の指示を集中して聞く。


「あんたはノックされる直前、時間だとそいつらがこのトイレに入って五十秒経ったら思いっきりドアを開けてみて。それで何もかも丸く収まるわ」

「思いっきり開ける? そんなことしたら僕見つかっちゃうよ!」

「問題ないわ、後は流れでなんとかなる。というか、今日まであんたがイジメてる連中の暴力に耐えてこのトイレに入った時点で色々と結果は決まっちゃったから。でも安心して。ここから先のあんたはそれほど悪くないわ。覚えておいて50秒ぴったりに思いっきり、よ」


 その言葉を残し、彼女はトイレを出て行ってしまった。彼女の言う通りになるなら、僕はこの後、水浸しになってしまう。そうなれば授業なんてとてもじゃないけど出席できない。僕は彼女に言われた言葉を何度も反芻はんすうする。


「あいつらが来たら五十秒後にドアを思いきり開ける。あいつらが来たら50秒後にドアを思いきり開ける」


 何度か口にしていたら、複数の足音と数人の男子の声が聞こえた。小声で話していたが、僕をイジメる同級生たちの声に違いない。口々に「どっちだよ」とか「足が見えてる方だろ」とか言い合い、彼らは僕のいる最奥の個室に移動してきた。


「おおい桶屋。いるんだろ。トイレに入ったことは知ってんだぞー」


 彼らが入って時間は数えている。彼女の指示した時間から10秒経過。


「なんだよシカトかよ。ふざけんじゃねえぞ。せっかくおデブのお前のために最高のプレゼント持ってきたのによ!」


 30秒経過。


「しょうがねえからちゃんとノックして挨拶してやるよ。俺たちは礼儀正しい生徒だからな!」


 そして50秒がやってきた。


 僕はロックを外し、思いっきりトイレのドアを開ける。直後ノックしようとドアの前に立っていた男子が外開きのドアに思いっきりぶち当たった。「ぎゃっ!」という短い悲鳴を聞いたが、のけぞるように背中から倒れたドア前の男子はすでに気を失っていた。そのままドア前の彼は後ろでバケツを持っていた別の男子に倒れ込み、バランスを崩したバケツ男子は手を滑らせて自分と周辺の仲間に水をぶちまけた。大騒ぎする男子トイレ内で、僕だけが事態を呑み込めていなかった。


「てめえ!」


 上から下までずぶ濡れになった男子の一人が僕の胸倉を掴む。利き腕であろう右手はしっかりと拳を作って僕に振るう気満々だ。


「桶屋ァ、やってくれたな!」


 僕は為すすべなく殴られることを覚悟した。目をつむり痛みを耐える準備までして。


「お前たちここで何をしている!!」


 男子トイレ内で大人の声がこだまする。僕を含めた男子全員の視線は一人の男性教師に注がれる。彼は生徒指導を担当する教師で、校内一怖い先生と噂されている人だった。


「せ、先生。これはその」


 胸倉むなぐらを掴んでいた手を放し、上から下まで水を被った男子は慌てふためく。必死に言い訳を考えているようだが現行犯で、しかも一番見られては不味い教師に目撃されては言い訳のしようもない。


「遊んでいた、なんてことは言わないよな梶谷かじたに? どう考えても今のお前たちを『遊んでいた』で納得することはできん」

「待って、待ってくれよ先生。俺たちこいつに、この桶屋に」

「桶屋。何があった?」


 射貫いぬくように先生は僕の目を見て質問する。普段は恐怖の対象として見ていた先生だが、その目からは優しさのような安心感があった。


「……先生。僕は、その」

「桶屋! 余計なこと言ったら」

「桶屋、ゆっくりでいい。言ってくれ。ここで何があったのか」


 イジメていた男子の叫び、先生の柔らかな声、男子トイレ内で響く温度の違う声が僕の鼓膜を震わせる。その中で一際ひときわ耳に残り、僕の心を動かし続ける声があった。


 それは彼女の「ここから先のあんたはそれほど悪くない」という励ましの言葉。


「先生、僕はドアを思いきり開けただけです」

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