第3話 アルストロメリアな君へ③

 特にやることもないので、私は教室を出て家に帰ることにした。廊下を歩いていると教室にいた女子たちが校門前で家族と記念撮影をすると言って走っていく姿が見える。


 父は今日の入学式に出席していない。ただ今回の高校の入学式では父の身が危なくなる『虫の知らせ』は受け取っていなかったので私からの忠告はない。口にはしていなかったが、今回こそはと私の入学式のためにひと月前から式当日の休みを告知し、式用の服まで新たに見繕みつくろっていた。それでも父が入学式に参加することはなかった。


 理由は入学式前日に店の空調設備が致命的な故障を起こしてしまったことにある。それも一日で終わる修理ではなく、修理業者に確認してもらった際に少なくとも二日はかかり、立ち合いが必要な修理だと言われてしまっている。その時の父の顔は悲壮感漂うものだった。父は土下座する勢いで私に謝罪していたが、父が入学式に来られないことも『虫の知らせ』で知っていた私は特に気にしてはいなかった。ただ父が私以上に入学式への思い入れが強かったため父の謝罪はより重く感じられ、謝罪の数だけ私の申し訳なさも強まった。


「せめて、校内の写真は撮っておくか」


 父に少しでも入学式を感じてもらうために、真っすぐ家に帰らず式が行われた講堂や校舎内の建物の写真を撮ることにした。学生服である紺色のブレザーの右ポケットからスマートフォンを取り出し、写真機能に切り替えて写真を撮る。手荷物はスマホだけで、今日だけはスマホの所持を許可されている。もちろん授業が正式に始まればスマホの持ち込みは禁止になるとのことなので、こんなに堂々と校内で写真を撮ることも今だけかもしれない。


 撮影も10数枚で終え、あとは校門だけと目的地まで向かうと校門の周りには多くの生徒とその家族が集まっていた。みんな校門前での写真撮影が目当てなのだろう。私は込み合う人の波をけつつ、人混みが散るまで気長に待つことにした。

そんな中、多くの新入生やその親たち、学校関係者の中から私は無意識に一人の男の子を視界に捉えた。


 端的に言うと好みの顔だった。すっきりしていて癖がなく、涼しげな目鼻立ちをした顔とやや高身長で中肉中背。髪の色は黒で黒縁の眼鏡をかけている。携帯で電話をしているところを見ると、家族とでも電話をしているのだろうか。彼とは初対面で受験の時も会ったことはない。でも私はそんな彼から目を離すことができなかった。何故かというと、私は受け取ってしまったのだ。


 彼の『虫の知らせ』を。


○○○○

彼が蝶子と目を合わせ、好意を寄せる

○○○○

彼はナイフで刺される


 一連の内容が頭の中に流れ込んで来た。途中経過が継ぎはぎで、何より最後に流れて来た結果が最悪だった。何より好意を寄せられた後にナイフで刺されるなんて目覚めが悪過ぎる。


 彼から流れ出る夥しい量の血液、両親以来の酷い『虫の知らせ』に私はえずきそうになる。咄嗟にブレザーの左ポケットからハンカチを取り出し、必死に吐き気を抑え込んだがその場にうずくまってしまう。


「君、どうしたの、大丈夫?」


 私の異変に気付き、周りの学校関係者が心配そうな声音で私に近付く。


「……すみません。少し気分が悪くなってしまって。近くにトイレはありますか?」


 今は一刻も早く彼から距離を取りたかった。理由は頭の中に流れ込んできた次の『虫の知らせ』にある。


気分が悪くなった蝶子はトイレに向かう

移動中に蝶子が○○○○を落とす

落とした○○○○に気付いた彼が拾い、蝶子を追いかける

彼が蝶子と目を合わせ、好意を寄せる

○○○○

彼はナイフで刺される


 空白だった『虫の知らせ』が埋まっていく。時間経過で変わっていくことも今回が初めてだ。空白部分が行動次第で確定に至らないのなら、すでに確定した結末さえも変わるかもしれない。


 彼から離れた時点でこの先の行動は確実に変わる。落とし物を届けるために私と接触してくるなら、落とし物を一切しなければいい。手荷物はスマホとハンカチ、そして胸の記章。胸の記章が一番落としそうだったので、丁寧に取り外してブレザーの左ポケットに入れ込んだ。スマホもブレザーの右ポケットに入れ直し、ハンカチも記章と同じく左ポケットに突っ込む。見ず知らずとはいえ、ナイフに刺される未来を知っていて無視するわけにもいかない。なんとしてでも彼の未来を変えるため私は必死に頭を働かせる。


 学校関係者に人が混んでいるトイレよりも、人が少ないトイレの場所を尋ねる。するとその人は食堂に近いトイレの位置を教えてくれた。私は彼からも10メートル以上距離を取って早足で食堂付近のトイレに向かった。校門に最も近い場所のトイレだと彼と鉢合わせる可能性があったので、少しだけ遠い場所のトイレが望ましかったのだ。とはいえ緊張と気分の悪さで私の吐き気は限界まで来ていた。


 私は食堂付近のトイレに飛び込み用事を済ませた。心身に落ち着きを取り戻した後、私は深く考え込む。


「とにかく、在学中はあの彼に会わないようにしなきゃ」


 現実的ではない考えだが、今の私にできることは「彼に好意を抱かせない」ことだけ。そうなれば在学中の接触をゼロにすることくらいしかないのだが、そう上手くいくものなのか。何せ廊下ですれ違えばこの作戦は破綻(はたん)するのだ。どう考えても無茶としか言えない。


「っていうか、一目で好きになるってそんなことある……」


 盛大なめ息とともに、洗面台で手を洗いハンカチを取り出そうとするとあることに気付いた。


「あれ、ハンカチ」


 れた手で左ポケットをまさぐるがハンカチは見つからない。左ポケットから出てきたのは記章だけで、制服にある全てのポケットを探してもハンカチは見当たらなかった。


 私はトイレを出て歩きながら記憶を辿たどる。最悪の『虫の知らせ』を受け取って、吐き気を起こし、ハンカチを取り出し口に押し当てて左ポケットに入れたことまでは覚えているのに、その先が曖昧あいまいだった。


「ええと、確か」


 食堂近くのトイレから校門周辺のエリアに戻って来た時。私は目的通りに事を為しえたせいで安心しきっていた。だから自分の身に起きていたもう一つの「小さな」変化に気付くのが遅れた。


「あの、ハンカチ落としましたよね」


 声をかけられ振り返ると、差し出されたハンカチは確かに私の物だった。藍色あいいろを基調とした可愛さの欠片もない無地のハンカチ。おそらく乱暴にポケットに入れたため、入りが甘かったのだろう。拾ってくれた上にわざわざ届けてくれたのだから感謝しなければならない。


 私のハンカチを拾ったのが、今最も会いたくない彼でなければ。


「さっきハンカチ口元に抑えてましたけど、大丈夫でした?」


 間違いない。さっきの彼だ。しかも見かけた時は電話をしていたのに私の状態まで見ていたなんて予想外だった。吐き気は収まっているが気分はまた悪くなりそうだった。目は合わせてしまい、このままいけば彼はナイフで刺されてしまう。


「あ、ありがとうございます。お手数をおかけしました」

「もしまだ良くないなら保健室まで一緒に」

「大丈夫! もう良くなったから」


 どうする、だけが私の頭の中を駆け巡る。百歩譲ってもう私に好意を抱いたとして、どんな経過を辿ればナイフなんて物騒な物が介入するのか。断片的な未来しか見ていない私には皆目見当もつかない。いつどこで彼が刺されるのかわからない以上、最悪彼の家までついていく必要が、いやそれ以上に24時間見守ってもらうように警察に、だが説明のために『虫の知らせ』の説明をするなんて無茶苦茶が過ぎる。


「ええと、どうかした、僕の顔に何か付いてる?」

「ああ、ごめん。ちょっと考え事しちゃって。本当にありがとう、大事なハンカチだったから」


 引き取ろうとハンカチを掴むと、思いの外相手のハンカチを握る力が強かったようで彼からハンカチを引きはがせない。


「あの、何か?」

「……僕のこと、覚えてます?」


 唐突に彼はそう口にする。この時の私の心境は「何を言っているんだコイツは」だった。人の気も知らないでナンパなんかするんじゃないと。だから私はその時に思ったことをそのまま伝えた。


「どこかで、お会いしました?」


 私はこの時にこの言葉を告げたことを、一生後悔することになる。

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