① プロローグ

 二〇一六年 八月三日 創敬社そうけいしゃ 




 ここは向田関吾むこうだかんごの古巣だった。

 創業から八十年は維持している大手の出版社で、江戸島えどじまグループの中核企業だ。

 彼はこの日、社の元上司から依頼を請けるために赴いていた。

 見知った風景を足取り軽く進みながら、案内された応接間へ向かう。

 社内には彼のことを知っている人物が多く、気軽に挨拶を交わしてくる人物も多数いた。

 そしてついに応接間に辿り着く。


「やあ、向田君。久しぶりだね」


 上司は眼鏡を掛けた穏やかな男だ。

 優しい人物ではあるが、それ故周囲に侮られてしまうこともあるのが玉に瑕。

 少なくとも関吾にとっては良き上司であり、彼は大いにこの男を尊敬していた。


千葉ちばさん。僕ら会うの一週間ぶりですよ。全然久しぶりじゃないです」

「おや、そうだったか……はは。最近は物忘れが酷くてね」


 千葉は小さく頭を掻きながら関吾をソファへと誘導する。

 ソファは低いテーブルを挟んで二つあり、千葉と関吾は互いに向かい合うようにして腰を下ろした。

 机には何らかの資料と見られる物が置かれていた。


「……それで、今回は一体どういう……」


 座るや否やすぐに関吾は本題に入ろうとした。

 彼は仕事熱心で、何より生真面目な性格をしていたのだ。


「まあまあ。その前にちょっと世間話でもしようじゃないか」

「世間話? はあ……」


 前のめりになっていた体勢から少し背もたれに寄り掛かる。

 千葉の部下が二人の前に温かいお茶を運んでくると、千葉はすぐにそれを一口飲んでから話し始めた。


「向田君。君は……趣味を持っていたかな?」

「え? ああ、はい。そうですね……週に三回はジムに通ってますけど、語るべき趣味があるかと言えばそれくらいですかね」

「そうか。それはいい。三十を超えると急に疲労が溜まりやすくなるから、今のうちに気を付けるべきだろうね。僕なんかはもう健康診断が怖くて仕方ない。体を動かす趣味があるというのは良いことだ」

「はあ……ありがとうございます。そう言う千葉さんはどういった趣味を?」

「僕はスクラップブック作りかな。どうも仕事と趣味でやってることがあまり変わらないのが虚しい所だが……」

「そんなことはありませんよ。編集もスクラップ作りもどちらも素晴らしいものです。何もせずにいるよりは遥かに人生を彩ることが出来ていると思いますよ? 虚しさなどとは程遠い」


 関吾は気遣いではなく素直にこういった感情を抱くことが出来る人間だった。

 それを知っている千葉は、彼が相変わらずの思いやりのある男だと感じてただ静かに微笑む。


「……まあ確かに、何もせずに虚無感を抱くよりは良いかもしれない。少なくとも……僕らが生きていく上では」


 そう言ってまたお茶を一口飲む。

 一方で関吾はまだ手を付けていないが、元上司である千葉はあまり気にしていなかった。


「趣味というのは生きていく上で大切な要素だ。君の言う通り人生を彩ることが出来るからね。逆に言えば……彩りの無い人生は空虚なものになる。希望を失くし、絶望に打ちひしがれた人間は、場合によってはを踏む可能性がある」

「『最悪な決断』……?」


 千葉は目を細めた。


「……『自殺』さ。そういう意味では、どんなものであれ趣味を持つのは良いことでしかないし、その差は無い。自殺という最悪な決断をせずに済むのなら……何だっていいわけだ」

「……僕もそう思います。何か一つ楽しめることがあればそれで十分生きていける。自殺なんていうのは、それを見つけられなかった人が行ってしまうものです」


 千葉はウンウンと頷いた。

 満足のいく相槌だったのだろう。

 あるいは、良い繋ぎになったと思っただけか。


「今回君に依頼したいのは……『花水木事件』についてだ」


 関吾は小さく息を吐いた。


「やっぱりそうですか。まあ、そうだろうと思いましたよ」


 千葉はもったいぶることの多い性格で、世間話というのも前置きをしたかっただけのことだったのだ。

 元部下の関吾は途中で気付いていた。


「しかし……千葉さん。その事件は既に解決しているはずでしょう? 加えて、確か犯人の動機は半分愉快犯のようなものだった。今更取り扱う程ですか?」


 千葉はフッと笑って前のめりになった。


「それが……実は面白いことになっていてね」

「面白いこと?」


 千葉は机に置いていた資料を手に取る。

 そしてそれを眺めながら続けた。


「一週間前。そう、前回君がここに来た丁度その日だ。その日、中核線で人身事故があった。当然というべきかやはりというべきか、ホームから線路に飛び込んだ人間がいたんだよ。一体何故かはわからないが、自殺を図ったんだろうね。ただ、問題はその事故の後だった」

「……まさか」

「ああ、その『まさか』さ。ホームのベンチに、一輪のハナミズキの花が置いてあった。ただ、これはもちろん犯罪じゃない。要するに……『花水木事件』の犯人と同じようなことをした人物が現れたということだ」


 関吾は眉間に皺を寄せて顎に手を乗せた。


「それは単純に……悪戯……ですよね?」

「ああ、そうに違いない。問題はここからだ」

「ここから?」


 千葉は少し嬉しそうに口元を緩めていた。


「調べたところ、どうやら似たような事例が各所の駅で確認されている。自殺者の傍にハナミズキを添えるという事例がね」

「な……」

「模倣犯……でしかないのは間違いないが、確実に『花水木事件』の犯人から影響を受けている。これからもしかしたらそういった行為が流行し始めるのかもしれない。そうなる前に事件について詳しく調べておく必要があると思ったのさ」

「ま、待って下さい。そんな、『流行』なんて……。音楽やファッションじゃあるまいし……」

「もちろんただの悪戯でしかない。しかし、もし既に判明している数ヶ所での悪戯が一人ではなく複数人の、それも全く無関係の人間たちの仕業だとすれば、確実にもう流行の芽は出始めていると言ってもいい。場合によっては社会現象になる可能性だってあり得るわけだ」


 関吾は唖然とさせられた。

 千葉の言い分はいささか強引な憶測に見える。

 ただ、既に悪戯が複数確認されている時点でメディアが動かないはずはない。

 関吾も依頼されたとして、断る理由は無かった。


「……正直そこまではいかないと思いますが……。まあ、既に起きた出来事を取材するのが僕の仕事ですしね。千葉さんの案にどうこう言うつもりはありません。ただ……ハナミズキはそう簡単に入手できる花じゃありませんよ? 少なくとも、流行する程容易くはないはずです」

「ああ、それは確かにそうだ。ハナミズキの木が植えられている公園にでもいけば花くらい手に入るだろうが……それでは全国には広がらないだろう。しかし……既に発見されている事例はほぼ地方でのものだ」

「え……地方……?」


 元々の事件が起きた場所は関吾の住む都内だ。

 そもそもそれほどメディアも全国的に取り上げた事件ではなかった。


「そうなんだよ。都内で起きた事件だが、既に各地に知れ渡っているということさ。しかもこれらの事例は全て違う県だ。『流行はもう始まっている』……僕はそう思っているよ」


 関吾は息を飲んだ。

 するとここで、関吾は原点に戻るような疑問を頭に思い浮かべた。


「……しかし、そもそも犯人は何故『ハナミズキ』を選んだのでしょう? 花屋で買えるような花じゃなくて木から生えるハナミズキを、わざわざ探して枝を折って、悪くなる前に使うなんて……どうしてそんな面倒を……」


 この疑問は彼だけではなくこの事件を知った多くの人間が抱いたものだった。

 しかし、ついに犯人である一橋清宗朗ひとつばしせいしゅうろうはその理由を詳らかに語ることはなかった。

 彼はただ『何となく』としか答えなかったのだ。

 もしかするとそれが真実であり、詳細は無いのかもしれないが。

 いずれにしろ、関吾の眼前にいる千葉には答えることが出来ない。


「……さあね。それも君の仕事じゃないか? 一橋清宗朗から聞き出せるかもしれない」

「……まあ、彼に会うのは暫くしてからにしておきます」


 少しだけ渋い表情を見せるのは、既にニュースで清宗朗の人格を知っていたからだ。

 清宗朗は言葉遣いから態度まで何から何までもが胡散臭い存在であると話題にもなっていた。

 その彼から情報を聞き出すのは至難の業だろうと関吾は考えていた。


「では頼むよ。定期報告もよろしく」


 千葉は改まって姿勢を正した。

 関吾もそれに倣って姿勢を正す。


「はい。任せて下さい」

刹那せつなちゃんにもよろしくね」

「……は、はい」

「ん? 何かあったのかい?」

「いやぁその……少し諍いを起こしたと言いますか……その……」

「フフ。仲が良くて大変よろしいことだ」

「茶化さないでください。アイツはただの助手ですから」

「ああ、そうだね。それでは改めて……よろしく頼むよ。向田君」

「はい」


 そうして関吾の調査は始まる。

 彼は自ら『花水木事件』の全容へと近付いていくのだった。

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