第6話
「ちょっと先にシャワー浴びてきていい?気持ち悪くて…」
「ああ…」
修平君が僕のアパートまで送ってくれ、僕は一人になるのが怖くて、アパートに上がってもらえないかお願いしたのだ。ショックが大きくて、今日は眠れそうにない。明日が休みで本当に良かった。
シャワーを浴び、着替えて部屋に戻る。破かれたYシャツは、見ると思い出しそうで怖くて、ごみ箱の奥底に捨てて処分した。
修平君は、ソファーにもたれかかって、静かにテレビを見ていた。
「あ!ごめん。飲み物も何も用意してなくて」
「いいよ、別に」
「借りたシャツ、洗濯して返すね」
「いいって。持って帰る。それより、あの男だけど」
記憶がよみがえって、僕の体が、硬直した。
「うん…。あの時の痴漢の男だよね…」
「付けられてたの、気付いてなかったのか?」
修平君の突然の言葉に、声を失った。修平君が続ける。
「俺は、お前と帰りの電車が一緒になった時から、気付いてた」
「そんな…。じゃあ、ずっと前から狙われてたってこと?」
「たぶんな。何ヵ月間か掛けて、お前のこといろいろ調べてたんだろーけど、急に俺が一緒に帰る日が続いたから、焦ったのかもな。実際、地区大会で三位以内に入賞できなかった三年生は、全国大会に出場できないし、部活は引退だから。これからずっと一緒に帰るかもって、勝手に思い込んだとか」
「あ…。昨日と今日、電車に乗ってなかったから…」
「今、テスト期間中で、学校が午前中で終わるんだよ。俺がいないから、チャンスだと思ったんだろ。って言うか…」
言うか言わないかのうちに、腕を持たれる。
「こんなに赤くなるまで体を擦って洗ったのか?」
そして、突然T シャツを捲り上げられた。
「ちょっ…」
「そこらじゅう皮がめくれてる。バカか、お前」
「だって、気持ち悪い感触が取れなくて」
「背中見せろ」
無理矢理、体を反転させられる。
「こっちも擦り傷がたくさん出来てるじゃねーか。アザにもなってるし」
「あ…。背中を押し付けられた時に一生懸命抵抗しようとしたんだけど、相手の力が強くて…。どうりでヒリヒリすると思った」
僕が言うと、Tシャツを丁寧に直してくれる。
「口の周りにも、手形ついてるし。マジで容赦なかったんだな。本気だったってことか」
「何か、本当に恐怖を感じた時って、人間って全く何も出来なくなるもんなんだね…。そういえば、何で修平君がいたの?警察に通報してくれたの、修平君なんだよね?」
修平君は、再びソファーにもたれかかると、テレビに目をやり、そこから目を逸らさずに、
「心配で見に行ってた」
と、小さな声で言った。
「え?」
「帰りの電車の時間に合わせて、駅まで行ってた」
「え…?うそ。わざわざ?」
「で、路地裏に連れ込まれたのを見て、すぐに警察に通報した。現行犯逮捕の方がいいと思ったから」
「じゃあ、僕が襲われてるところを見てたってこと?」
「仕方ないだろ。あそこで逃げられたら、また今度いつ襲われるか分かんねーんだぞ?確実に逮捕された方がいいに決まってる」
「そんな…。だって、僕、あの時本当に怖くて…」
「そんなこと、分かってるよ。お前にそれだけの傷を追わせてたなら、マジで警察来る前に二・三発、食らわせときゃ良かった」
「え…?」
それって…。いや、違う。期待なんてしたらダメだ。修平君は、きっと誰に対してもこんな感じなんだろうから。それでも僕は、僕を心配して駅まで来てくれていたことや、今の言葉に、淡い期待を抱いてしまう自分を止められなくなり、黙って俯いた。
そのうちに胸が苦しくなってきて、それが苦く喉の奥に上がってきたかと思うと、とうとう自分の手の甲に、いくつもの涙の滴がポタポタと落ちた。
「は?何?」
修平君が、僕の涙を見て、驚いたように体を起こす。
「辛い」
僕が言うと、
「何が?」
すかさず修平君が尋ねてくる。
「修平君にとってはただの親切なんだろうけど、僕にとっては、心配されたり助けられたりする度に、修平君の優しさに変な期待をしてしまって、ものすごく辛くて苦しくなる。だから、もう僕のこと、気にかけたりしないで…」
僕が言うと、修平君は深くため息を吐いた。
「お前、いくつだよ?ちゃんと分かるように話せ」
僕の方を見たまま、上から目線で説明を求められる。僕は、いよいよ観念した。
「もう、修平君のことが好き過ぎて辛い。会いたくて仕方ないのに、会うと、うまく息が出来なくて、高校生相手に本気になってバカだなって、いつも自分を責めて、しんどい」
涙が次から次へと溢れて止まらなくなる。
「辛い、って言われて告白されたの、初めてなんだけど?」
修平君が呆れたように呟いた。
僕は修平君の顔を見るのが怖くて、顔を上げられなかった。しばらくして、
「あいつに、何された?」
修平君からの突然の質問に、僕は思わず顔を上げてしまった。
「見てたんでしょ…?」
両手を持たれて、ソファーへと押し倒される。修平君の顔が僕へと近付き、
「その感触、俺が全部消してやるよ」
と、至近距離で言った。
「ちょっと待って!」
そのまま唇が重なりそうになった寸前で、僕は少し大きな声を出して、躊躇してしまった。
「何だよ」
修平君の顔が近い。
「その、き、緊張しちゃって。心臓が爆発しそう…」
自分の心臓がこんなにも激しく鼓動を打つなんて、初めて知った。修平君にも伝わるくらいの音が鳴り響く。
「は?知るか、バカ」
再び、唇を奪われそうになる距離まで顔が近付く。
「ま、待って!」
「何だよ!」
「で、電気、消してもいい?」
「無理」
「え!僕も無理!」
「何なんだよ!」
そう言いながら、修平君がリモコンで電気の明かりを薄暗くしてくれる。
「あ、ありがとう」
修平君が僕の上へと覆い被さるように、体を倒してきた。顔を一気に僕へと寄せてくる。
「あの…!」
「もう喋るな」
両手で勢い良く頬を包まれ、とうとう唇を奪われた。修平君の暖かく柔らかい唇の感触が、僕の唇に伝わる。まるで夢心地のようだった。激しく口付けを交わしているうちに、僕の呼吸が少し荒くなって、緊張の鼓動が、興奮の鼓動へと変化して行くのが分かった。
「修平君…大好き」
唇が離れた瞬間、今までにないくらいの力で修平君にギュッと抱きついた。
「背中、大丈夫か?」
修平君からの、僕を気遣う優しい言葉が心の中を掻き乱す。
「うん…。大丈夫」
「じゃあ、俺も容赦しないからな」
頬や唇、そして胸に修平君のキスが降りてくる。恥ずかしくて、顔を覆う。
「顔を隠すな」
「だって…」
首筋を舌で舐め上げられ、そして、耳たぶを吸い上げられる。
「ん…」
自分でも驚くぐらいの、甘く鼻にかかった声が漏れ、次は両手で口を塞いだ。こんな声、恥ずかしすぎて、聞かれたくない。
「塞ぐな」
「だって…」
「葵。いいから、口から手を離せ」
初めて名前を呼ばれ、僕の鼓動はより早くなった。
恐る恐る口から手を離すと、修平君は容赦なく僕の体を攻め始めた。喘ぎが洩れる息遣いの中、僕はしなやかな筋肉の付いた修平君の細身の体に、そっと掌で触れた。
「…何だか、夢みたい」
感じるままに身を任せ、うつろになりながら言う唇を優しく吸われ、そしてキスがどんどん深くなり、激しさを増した。修平君の長く細い指が僕の指に絡まり、強く握り合う。
かなり怖い思いをしたけれど、修平君との甘い時間に、僕はその日、とろけてしまいそうなくらいの幸せを手に入れたのだった。
二人の呼吸が落ち着いたところで、修平君は体を起こすと、床に落ちていた衣服を身に纏い始め、僕の服も拾って手渡してくれる。
「あ…ありがとう」
恥ずかしくて、目を合わせられない。僕もすぐに自分の服を着て、髪や身なりを手で整える。
修平君は、何も言わなかった。もしかして、僕を抱いたことを後悔してるとか…?急に不安に駆られた。
「あの…」
僕は一番気になっていたことを修平君に尋ねた。
「その…、僕も、不特定多数の、一人なの…?」
修平君はソファーに腰かけると、
「ふざけんなよ。体だけの関係なら、最初にちゃんとそう言ってからヤるし」
と、ハッキリ答えてくれた。
「…じゃあ、恋人に昇格…?」
「俺のことが好き過ぎて辛いなら、そうしてやるしかないだろ?」
僕は、ゆっくりと修平君の横に腰掛けた。
「相変わらず、上から目線だね…」
そう言いながらも、僕の頬は思わず緩んだ。
「修平君は、いつから僕のこと、気になってたの?」
「は?何だよ、急に」
「聞きたい。教えてよ」
「それが、本当に分かんねーんだよ。あの日、寝坊して一本遅い電車に乗ったら、好きなように男にケツ触られてんのに、身動き一つせずに我慢してるお前を見て、すげぇイラついて。俺は今まで言いたいこと言って、やりたいようにやってきたから。だから、お前みたいな奴見ると理解できなくて。悪いのは痴漢してる奴なのに、何で我慢する必要があるんだ、みたいな」
「うん…」
それは何となく分かる。だから、初めて会った時に、あんな言葉が出たのだろうと、今なら納得できる。
「なのに、小嶋の言葉に腹立てて、小嶋のことぶつとか?何だ、コイツと思って。自分のことは我慢できんのに、人のことになるとムキになって本気で怒るんだな、と思った」
「あれは、つい…」
「俺、お前が更衣室に行ったあと、一人で腹抱えて笑ってた。めっちゃおかしくて」
「うそ!最悪…」
修平君が、その時のことを思い出したように笑う。僕は、修平君の笑顔を初めて見た。あまりにも新鮮すぎて、胸が弾けた。
「でも、それで試合に出ようと思った。あんな話、スルーすりゃいいのに、あの時、本気で落ち込んでるお前を見て、何かしてやれるなら、って」
僕は嬉しくなって、修平君の背中に手を回して、胸に顔を埋めた。
「大好き、修平君」
「お前、最初の頃、俺のこと嫌ってただろ?」
「え?バレてたの?」
「当たり前だろ」
「だって、初対面であんなこと言われたら、誰だって苦手になるよ」
「だから、なおさらかもな」
「え…?」
僕は顔を上げて、修平君を見た。
「俺と話したこともない奴らが、付き合って、とか簡単に言ってきて。俺の何を知ってんだ?って思ってた。一回きりの体だけの関係ならいいって条件出したらドン引くかなと思って、冗談のつもりで言ったら、ほとんどが乗り気になって。すげぇムカついた。あの時、試合に出るのもやめて、ヤケになって荒れてたのもあるけど」
「きっと、関係を持ったら彼女になれるかも、って期待してた子もいると思うよ」
そんな事情があったなんて、知らなかった。言い寄って来る子がたくさんいる中で、修平君なりに、悩んだり嫌な思いをしてきたのかもしれない。
「お前は逆だったけどな」
「え?」
修平君が言いたいのは、僕がきっと、修平君という人を知った上で、好きになったから、ということなんだろうと、鈍感な僕でも少しばかり理解できた。
「小嶋がさ、試合前に、恋人になったら、お前の薄いピンクの唇にキスして、白い肌に吸い付いて、めちゃくちゃにしてやる、って俺に言ってきて」
「試合前にそんなこと言ってきたの?」
「からかってるだけだ、って分かってたけど、らしくもなく、少し頭に血が上った。冷静なフリしてたけど、いつもなら、あんなギリギリの試合なんてしない」
カアッと全身が熱くなる。まるでどこかでせき止められていた全身の血液が一気に流れ出したかのように、鼓動が早くなる。
「…嬉しい」
耳まで赤くなった僕が言うと、
「お前、俺が近付くと、すぐに顔が赤くなるから、みんなにも俺のこと好きなのバレてるぞ?」
と、修平君が教えてくれる。
「うそ…。どうしよう」
僕は、慌てて修平君から離れて、目を合わせた。
「いや、今さらだろ」
修平君が笑う。ああ、ダメだ。もう、修平君が好きすぎる上に、滅多に見られない笑顔を見せられたら、もう何を言われても頭に入ってこないよ。僕は幸せを噛みしめるように、もう一度修平君の胸にゆっくりと顔を埋め、時間の許す限り、修平君のぬくもりを感じていたのだった。
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