第5話

「で?何でお前がいるんだ?」

修平君の低い声。

「今日からこちらの支部でお世話になることになったんで、よろしく」

小嶋君が明るく答える。

「いやぁ。ライバルがいると、練習にも覇気が出ていい!」

豪快に笑う、修平君の父。基、県で一番偉い、道場の師範。

「アホ親父め」

修平君が呆れたように呟き、そして、

「何が目的だ?」

と、小嶋君に尋ねた。

「何って…。そりゃ、もちろん、葵ちゃんの恋人の座に決まってるだろ。ね?葵ちゃん」

「修平が優勝したんだから、普通は諦めるんじゃないの?」

練習前のストレッチをしながら、美園ちゃんが呆れたように言った。

「そう思ったんだけどさ。人のことなんて無関心で、全く相手のことを考えない、冷た~い人間の修平を試合に出す気にさせた葵ちゃんて、どんな子なんだろう、って、どうしても気になっちゃって」

小嶋君が修平君をチラリと見た。

「確かに!」

聡史君が会話に割って入る。

「お前と美園が、あまりにもうるさく言うからだ」

修平君が言うと、

「いや。どんなに俺と美園がうるさく言っても、今までの修平なら、絶対に試合なんて出ない。本当のところ、どうなんだよ?」

聡史君に突っ込まれると、修平君は少しだけ間をおいて、冷めた様子で、

「アホなコイツが、あまりにもかわいそ過ぎたんだよ。いくら頭に来たからって、人の頬に平手打ちぶちかますとか?マジでアホすぎるだろ」

と、答えた。

ブッ、と吹き出して、聡史君は拳を手にやり、僕に背中を向けた。美園ちゃんは、口を一文字にして、必死に笑いを堪えているようだった。

僕はその時のことを思い出して、真っ赤になる。

「だから、それはちゃんと反省してるよ…。それより、みんな修平君のこと悪いふうに言うけど、僕は、口が悪いだけで、本当は優しいと思ってるんだけど、学校では違うの?」

と、僕が言うと、

「えっ?コイツが優しいなんて、絶対にない!冷徹、冷酷、鉄仮面!特に女に関しては、ヤれるだけのゴミとしか思ってないし」

と、小嶋君が力説した。

「そうなの?」

僕より早く反応したのは美園ちゃんだった。

「修平って最低!純平さんと同じ遺伝子だなんて信じらんない!」

「ゴミとは思ってない」

「でも、単なる性欲のはけ口だとは思ってるだろ?修平は、黙ってたって女なんてイヤって言うほど寄って来るんだから」

聡史君の突っ込みに、反論もせずに黙る修平君。

「まあ、体だけの関係でいいなら、って公言してるのに、そこに寄って来る女も女だけどな…」

と、聡史君が、すかさず、よく分からないフォローにもなっていないフォローを入れる。美園ちゃんは、その間ずっと「最低」と「最悪」を連呼していた。

修平君はモテるんだな、と確信した瞬間だった。前に聡史君が言っていた、女の数…の意味は、やっぱりそういうことなんだ。分かってはいたけれど、実際にそういう話を耳にすると、落ち込んでしまう自分がいた。修平君は、一体、どんな女の子たちと、どんな風に…。そんな話題に動揺して、そんなことを考えてしまう自分がたまらなく情けなく思えて、辛くなる。そして、その日はずっとため息交じりの練習だった。練習が終わり、優れない気持ちで、更衣室へ行こうとした時だった。

「葵ちゃん、ここで着替えないの?」

小嶋君に声を掛けられた。

「あ、うん。僕、みんなみたいに、人前で脱げるような体じゃないし…」

「じゃあ、俺も更衣室に一緒に行くよ。葵ちゃんの白い肌、拝みたいし」

小嶋君が荷物を持って立ち上がる。

「変態」

美園ちゃんはそう呟くと、着替えを持って、女子更衣室へと向かった。

「おい。俺の部屋使っていいから、そこで着替えてこい」

練習後に座り込んでいた修平君が、立ち上がる。

「何だよ。邪魔すんなよ。何?まさか、葵ちゃんの裸、見てほしくないとか?」

「は?バカの相手は、マジで疲れる」

「お前、本当は葵ちゃんのこと気になってんじゃねぇの?何か、いつもと様子が違うだろ」

修平君が、小嶋君を睨むように見た。

「だったら?」

えっ…?今、何て…?

「俺がコイツのこと気になってるって言ったら、お前は引き下がるのか?ちょっかい出すの、やめるのか?」

しばらくの沈黙。僕は耳を疑った。

小嶋君が鼻で笑う。

「いいや、やめない。お前にそんなこと言われたら、なおさら手を出したくなる」

「だろうな。お前、俺とコイツのことからかって、楽しんでるだけだろ?」

修平君が言うと、小嶋君が、

「だって、修平がめずらしく感情を表に出してる感じだからさ~」

と、いたずらっぽく笑った。

その言葉がまるで聞こえなかったかのように無視する修平君の肩に、小嶋君が手を回して、ニヤニヤしながら、下から修平君を覗き込んだ。その顔を思いっきり両手で挟み「やめろ」と、表情一つ変えずに、強い力で引き離す。

何だ。そういうことだったんだ。ただ、からかわれていただけだったのか…。しかもこの二人、結局のところ、ものすごく仲が良いんだな…と、ようやく気付くことができた。

「俺の部屋、二階の一番奥だから。早く着替えて来い。お前も早く着替えて帰れよ。邪魔くせぇ」

修平君が、僕と小嶋君に向かって言う。

「あ、うん」

僕は着替えを胸に抱えてその場を離れた。心臓の鼓動が、耳の奥深くまで響いていた。修平君の言葉が嘘でも嬉しかった。その上、修平君の部屋という、少しプライベートの部分を見ることが出来きた僕は、着替えの間中、自然と頬が緩んでいた。本当に、小嶋君に感謝しなきゃ、とまで思ってしまったのだった。


そして、次の練習日から、もう小嶋君は来なかった。聡史君によると、こちらの支部に練習に来ていたことを自分の所属する支部の師範に言っていなかったらしく、親にめちゃくちゃ怒られて、自分の支部に連れ戻されたらしい。

「アホな奴」

聡史君が言うと、

「だからいつまでも修平に勝てないんだよ。ツメが甘いっていうかさ」

と、美園ちゃんも追い打ちをかけた。

「良かったな、修平」

聡史君が、あぐらをかいて座っている修平君に声を掛けた。

「何がだよ」

「ライバルがいなくなって」

「ライバルとも思ってないし、あんな奴」

「いや、空手のことじゃなくてさ」

「は?」

修平君が怪訝そうに顔をしかめた。

「いや、何でもない。さ、練習、練習」

聡史君が、意味深に僕の肩に手を置いた。修平君が僕を見た瞬間、ドクン、と心臓が跳ねた。カッと全身が熱くなる。やばい、僕。修平君のことが、好きで仕方なくなってる。四つも年上の社会人が、高校生相手に本気で恋なんて、絶対に叶うわけがない。僕はものすごく自己嫌悪に陥ってしまったのだった。


ある日の仕事帰り、電車から降りてアパートへと向かって歩いていると「おい!」と、声が聞こえた。何度か「おい!」と聞こえ、それが自分に向けてだと気付くのに、数十秒かかった。振り向くと、制服姿の修平君が立っていた。

ああ…。相変わらず、いい男だなぁ…。

しばらく見惚れてから、

「同じ電車だったの?」

下を向く僕の顔と耳は、きっと赤い。

「テスト前で、今は部活オフだからな」

「そっか。じゃあ、しばらくは帰りの電車、一緒になるかもね」

「ああ」

「聡史君と美園ちゃんは?」

「あいつらは、親が仕事終わって迎えに来るまで、学校で残って勉強してる」

「修平君は、残らないの?」

「学校にいると、いろいろ面倒くせぇし。家の方がラクだろ」

「あ、女子が寄って来るから?確か、地区大会の時も、修平君の応援に来てる子たち、いっぱいいたもんね」

違う。こんなことを言いたいわけじゃない。これじゃ、ただ、否定して欲しくて、修平君の気持ちを試そうとしてるだけだ。自分の器の小ささに、嫌気がさす。

「担任とか、いちいち口出して来るから。家だと、寝てても何も言われねぇだろ」

「…そっか。そうだよね。家だと何してても自由だもんね」

修平君の返答に、安堵する。

この日から、駅から修平君の家までの、二人きりで歩く帰り道が、一日の中での一番の至福の時間となった。


どうしたんだろう。昨日も今日も、修平君は帰りの電車に乗っていなかった。

「学校に残ってるのかな…」

土曜の空手の練習日は明日。明日には会えるのに、寂しさのあまり、心にポッカリ穴が開いたみたいで、すごく息苦しくなった。どうしよう、僕。こんなにも修平君のことが、好きで好きでどうしようもなくて。切なさが込み上げてきて、自然と目に涙が滲んできてしまう。

「相手になんて、されるわけないのに…」

呟いて、立ち止まる。

その時、

「あの、すみません」

と、背後から声を掛けられたかと思うと、突然勢い良く腕を引かれ、狭い路地へと引きずり込まれた。コンクリートの壁に、体ごと激しく押し付けられ、片手で口を塞がれる。

一瞬、何が起きているのか全く理解できなかった。その人が僕のネクタイに手をかけ、勢い良く引っ張ると、次にYシャツを乱暴にズボンから引きずり出した。Yシャツのボタンが、いくつも引きちぎられ、そこで、間違いなく、僕の服を脱がそうとしていることに気付いた。怖くて、動けない。

僕は、その人物が、以前僕に痴漢していた人だということにも気が付いた。そして、ものすごく興奮しているのも分かった。必死に抵抗しようと、体を動かそうともがいても、相手が体を密着させ、力の全てを僕へと本気で向かわせていた。

唇が首筋を這う。ゾワッと鳥肌が立った。

「ずっとあんたのことを見てた。やっと俺のものにできるチャンスが巡ってきたよ」

耳を舐められ、胸のあたりまで舌が降りてくる。

「うーっ!」

声を出そうにも、手で塞がれていて、全く響かない。逃れようと、何度も何度も体を動かそうとしても、相手の力が強すぎて、一切身動きが出来なかった。僕は空手をやっていても、結局はこんな時に抵抗もできず、されるがままだった。ベルトに手がかり、緩んだところに、相手の手がズボンの中へとスルリと入り込む。

嫌だ!こんなの!誰か!!

「何してる!!」

大きな声がして、何人かの走る足音が聞こえたかと思うと、僕を襲ってきた男が大きな男に羽交い締めにされ、引き離された。その途端、僕は腰が抜けたかのように一気に脱力し、その場にしゃがみ込んだ。

「大丈夫ですか?」

一緒に走ってきたもう一人の男性が、僕の腕を持ち、そっと立ち上がらせてくれる。

「あ…はい。ありがとうございます」

「お礼ならあの子に言って下さい。あなたが路地裏に連れ込まれるのを見て、通報してくれたので。また後日、話を聞かせてもらうことになると思うので、連絡先だけ教えて下さい」

そう言って、警察官二人は僕を襲った男をパトカーに乗せ、連行して行った。

警察官が、あの子、と言っていたのは、修平君だった。

「大丈夫か?」

「あ…」

急に恥ずかしくなって、はだけた衣服と、ベルトを直す。でも、その手は、恐怖からか、カタカタと震えていた。

「あの、ありがとう。助かったよ。カッコ悪いところ見られちゃったね。全く抵抗できなくて、自分でも呆れちゃう」

情けなさと恥ずかしさのあまり、つい、早口になってしまう。

「無理すんな」

修平君が、白いTシャツの上に羽織っていた自分のシャツを脱いで、僕にかけてくれた。

僕は安堵感からか「ごめん」と言いながら、恐怖で震える体と、気持ちが落ち着くまで、修平君の胸にしがみついてしまったのだった。

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