第7話

全国大会も無事に終わり、高校三年生の三人が部活を引退し、進学に向けての本格的な準備が始まった。週2回の支部の練習には来ていたけれど、そのうち修平君が姿を見せる日がほとんどなくなった。10月に入ってからは、一度も会うこともなく、気付くともうすぐ11月に入るところだった。

 僕たちは、初めて関係を持ってから4ヶ月間、修平君の方が空手の練習や学校行事などに時間を取られ、ゆっくり二人きりになれる時間もなく、まだ二度目というものが…なかった。初めての時も、余韻に浸ることもなく、すぐに服を着たのは、やっぱり、一度きりの体だけの関係だったからなのかも…、という疑いが、日を追うにつれ、拭えなくなってきていた。

「最近、修平君、全く練習に来なくなったね」

 しばらく練習に顔を出せないとは、最後に会ったここでの練習日に、一応本人から聞いてはいたけれど、理由を聞いていなかった僕は聡史君にそれとなく尋ねた。

「修平、色んな大学から推薦の声が掛かってるからな。今年も全国大会優勝したし、どこの大学も、躍起になって訪問してきてるから。決めかねてて、放課後、担任といろいろ話してるみたいだし」

「推薦?」

 初めて聞いた、そんな話。でも確かに、そういう時期に差し掛かっているのは間違いない。

「聡史君は、もう進路決まったの?」

「俺は空手部のある県外の大学に指定校推薦で行くことにしたから、もう決まった感じ」

「美園ちゃんは?」

「あいつは、この先、本格的に空手はしたくないって。純平さんと離れたくないのもあるんだろうけど、地元の看護専門学校、もう受かってる」

「看護師目指すんだね。すごい」

「めちゃくちゃおっかない看護師になるぜ。俺なら絶対に違う人に看病頼むな」

 と、話してるところに、

「聡史が入院したら、マジで覚えとけ」

 と、美園ちゃんが現れた。

「修平は?今日も練習来ないのか?」

「知らない。クラス一緒だけど、ほとんど話すことないし」

「修平君の進路について、何か聞いてる?」

 僕は恐る恐る美園ちゃんに尋ねた。

「純平さんからしか聞いてないけど、東京の大学に行くように説得はしてる、って」

「東京?ここからだと、かなり遠いよね」

 ショックで、一瞬、血の気が引いた気がした。思わず足元から崩れてしまいそうな感覚だった。

「空手で有名な大学だろ?オリンピック出てる奴も、ほとんどそこの出身だもんな。顧問が修平にその話してるの、俺もたまたま聞いて。考えておきます、って返事してた。もしかしたら、本当に東京の大学に行くかもな」

 そんな大事な話、僕は一切聞いていなかった。恋人なら、普通は一番に相談するべきことだと思うのに。

「最近、小嶋とつるんでるみたいだし。毎日のように、小嶋が教室まで修平のこと迎えに来てて。駅まで一緒に帰ってるから」

 美園ちゃんが、サラッと話す。

「小嶋君と?どうして?」

 あの二人の仲の良さを知っているせいか、つい胸がざわつく。

「同じ大学から声かかってるのかもなー。地元じゃ、空手部のある大学なんてないし。続けるなら、どうしても県外になるしな。でも、もしかしたら純平さんみたいに…」

 聡史君の話の途中で、先生の「集合!」の声が掛かった。


 練習が終わってから、

「葵さん、何か元気ない?」

 聡史君から、声を掛けられた。

「え?そうかな?」

「あ、俺がいなくなるから寂しいとか?大丈夫だよ。春休みとか夏休みの長期休暇には、ちゃんと帰省して、ここの支部の練習には来るからさ」

「うん。そうだよね。会えなくなるワケじゃないもんね」

「そうそう。修平も、もし県外に行ったとしてもちゃんと帰って来ると思うから。元気出しなよ」

 聡史君が笑う。何も触れてはこないけれど、僕の気持ちなんてお見通しなんだろうな。

「ありがとう」

 聡史君の優しさが、ものすごく心に沁みた。

「そういえば、美園ちゃんと純平さんて、付き合ってるんだよね?結構、長いの?」

「いや。葵さんがここの道場に入るちょっと前くらいからかな」

「え!?じゃあ、まだ一年経ってないってこと?あんなに仲良しなのに?何も言わなくても、意志疎通が出来てるし、お互い信頼し合ってる感じなのに…」

「いや、純平さん、美園のこと全く恋愛対象として見てなかったから。5歳も下だとさ、純平さんが高校生でも美園はまだ小学生だろ?純平さん、あの容姿だし、優しくて温厚で性格もいいから、やっぱり彼女とかも、途切れない感じだったし」

 そうなんだ。それを知ってた美園ちゃんは、いつもどんな想いでいたんだろう。

「純平さんが社会人になってから付き合った人が、すごく綺麗で優しい人でさ。全部の試合観に行ってたし、ここの練習にも差し入れ持って、しょっちゅう来てたから、結婚するんだろうな、って思ってたんだけど…」

 聡史君が、少し周りを気にしながら、誰もいないことを確認する。

「純平さんが倒れて、空手が出来ないって分かった途端、ここに来なくなっちゃって。俺、何も思わずに、最近、あの人来ないんですね、って聞いたら、空手が出来ない弱い人に興味はないから、って振られた、って、純平さんが笑いながら言ったんだよ」

「え?それって、ひどくない?空手が出来なくなって一番辛い思いしたのは、純平さんなのに…」

「そう。本当に俺もそう思った。そしたら美園がさ…」


『そんなの、本当に純平さんのことが好きなんじゃなくて、空手で世界一っていう、肩書きが好きだっただけでしょ!私なら、純平さんが車椅子になったとしても、寝たきりになったとしても、絶対にそばにいる!ずっと一緒にいるもん!本当に好きなら、その人がどんなことになったとしても、普通は離れないよ!』


「って、泣きながら純平さんに向かって言ってさ。何か、マジで感動したって言うか、心が打たれたって言うか…。純平さん、いつも、からかい交じりで美園の気持ちを軽くあしらってたから、それも切なく感じちゃって」

「泣きながらそんなこと言う美園ちゃんの気持ちを考えると、辛すぎて、泣けてくる…」

「そうなんだよ。そこで、何故か、修平の父ちゃんがすげぇ泣いちゃってて」

「先生が?」

 ヤバい。真面目な話なのに、意外すぎて笑えてしまう。

「そこからかなー。しばらくしてから、純平さんから、美園が18歳になったら、付き合ってほしい、って言ったみたいで。運が良いことに、美園4月が誕生日だったから。で、今に至る…ってとこかな」

「美園ちゃん、カッコいいね。もしかして看護師目指すのも、純平さんのため、って言うのもあるのかもしれないね」

「たぶんな。美園はキツイけど、一途だから。あ、遅くなったね。長く話してごめん。着替えて帰ろうか」

「ううん。こっちこそ、いろいろ聞いて、ごめんね。何だか、すごく感動する話を聞けて良かった。純平さんと美園ちゃん、本当に幸せになってほしいな」

「なるよ。絶対」

 聡史君が、笑顔を見せ、空手着を脱ぎ始める。

「そうだね。じゃあ、また」

 僕も着替えを持って、更衣室へと向かった。

「寒い」

 着替えを済ませ、外に出ると、あまりにもの空気の冷たさに思わず肩をすくめ、首もとのマフラーに顔を深く埋める。そこに、見覚えのあるシルエットが、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。修平君だった。

「葵?今から帰るのか?」

「うん。修平君こそ、毎日、こんなに遅いの?」

 久しぶりに会った修平君は、髪も黒くなっていて、ピアスもしていなかった。推薦に向けて、身だしなみも整えているんだと思うと、いつもは見惚れてしまう制服姿の修平君の顔が、一切見られなかった。本当は、聞きたい。こんな遅い時間まで、毎日どこで何をしてるの?って。でも、重いとか、面倒くさいって思われるのが怖くて、どうしても聞き出せなかった。胸が痛くて、やりきれない。

「あ、そうだ。お前の連絡先…」

 話し出そうとする修平君の言葉を遮って、僕は急き立てるように話始めた。

「推薦の話、聞いたよ。東京の大学に行くかもしれないんでしょ?そんな大事なこと、どうして黙ってたの?僕が止めるとでも思った?」

「は?」

「まだ恋人だと思ってくれてるなら、ちゃんと相談して欲しかった。僕って、そんなに頼りない?そんなに足手まといになる?」

「何だよ。何で急にそんな話…」

 わざと誤魔化してるように感じて、僕はめずらしく苛立って感情が抑えられなくなった。

「もういいよ。勝手に東京でも、どこにでも行けば。僕には関係のないことだし、好きにすればいいよ」

 僕は修平君の顔を一度も見ることなく、背を向けて歩き出した。

「葵」

 腕を掴まれる。

「離して。修平君とは、今日で別れてあげるから。もう会わない。修平君が大学に行くまで空手にも来ないから、安心して」

 腕を振り払って、僕は足早にアパートに向かって歩き出した。頬を伝う涙を何回拭っても、あとからあとから溢れて止まらなかった。

 アパートに着くと、僕はその場にしゃがみ込んで泣き続けた。追いかけて、弁解もしてくれない修平には、もう不信感しかなかった。こんなことになるなら、まだ会える距離にいられた片想いの方が、ずっとずっと良かった。それから僕は、しばらく仕事が忙しいという理由を付け、先生に連絡をし、空手に行かなくなってしまった。


 修平君と別れてから、一ヶ月が過ぎようとしていた。いつも週に2日は必ず練習で会っていたせいか、お互いの連絡先を交換すらしていなかった僕たちは、本当に空手という共通点がなくなった今、全く会うこともない。ただただ、毎日同じような時間だけが過ぎて行く。

「明日から12月だなー。マジで一年早くないか?松原、来週の忘年会、出るだろ?俺、今年幹事なんだよな」

 少し残業になった金曜日の仕事終わり、高倉が声を掛けてきた。

「そっか。もうそういう時期なんだね」

「最近、何か元気ないし、来週は思いっ切り飲んで、いろいろ発散しろよ。あんなに楽しそうだった空手にも、行ってないみたいだし」

 ずっと何も言わなかったのに、気付いてたんだ。

「ありがとう。でも大丈夫。もう吹っ切れたから」

 そう。僕が自分から言い出したことなんだ。どんなに辛くたって、我慢して耐えしのぐしか、術がない。

「そっか。それならいいんだけど…」

 そう言いながら、高倉と二人で事務所の戸締まりを始めると、突然、高倉の携帯が鳴り出した。相手は奥さんのようだった。

「悪い。何か子供が急に熱出したとかで、今から急患センター連れてくって。心配だから、俺も一緒に付いてこうと思って」

 高倉は、先月子供が産まれたばかりだった。

「分かった。あとの戸締まりは僕がしておくから。早く行って」

「悪いな。頼むよ」

 片手で、ごめん、と手で合図するようにして、高倉は急いで帰って行った。僕は一人、ゆっくりと戸締まりをして、会社をあとにした。

「忘年会か…。本当に早いな。いろんなことがあった一年だったな」

 4月に初めて修平君に出会ったこと。修平君が僕のために試合に出てくれたこと。そして付き合うことになったこと。八月の全国大会で優勝したこと…。

 あの時、あのまま試合にずっと出ていなかったら、推薦の話もなかったのかな…。

 そんなことを考えながら、一人、帰路に付く。電車を降りてからの帰り道、修平君と歩く時間が本当に幸せだった。どんなに願っても、時間は残酷に過ぎて行く。いつまでも、聡史君や美園ちゃん、そして修平君と過ごしていた楽しい時間に留まることなんて出来ないことぐらい、僕にだって分かる。

「もっと冷静に話をすれば良かった…」

 あんなの、ただの駄々をこねてる子供と一緒だ。いい大人が恥ずかし気もなく高校生につっかかって、情けないにも程がある。あの時、修平君が「お前の連絡先…」と、言いかけてたことに、少し気持ちが落ち着いてから気が付いた。

「お互いの連絡先も知らなかったのに、相談して欲しかったなんて、無茶苦茶な話だよ。本当に僕ってバカすぎて、自分でも呆れる…」

 でも、もう今更、どんなに後悔しても遅いということも分かってる。修平君も、こんな僕に嫌気が差してるに違いない。

「しかも、自分から別れるって言っておきながら、未練タラタラ…」

 ため息が漏れる。毎日、毎日、イヤと言うほど修平君のことを考えている自分がいる。本気で好きだったからこそ、なおさら勝手に進路を決めようとしていた修平君をどうしても許せなかった。

 アパートに着いて、鍵を開けて玄関の扉を開くと、突然背後から、その扉を一気に開けられる。ビックリして振り返ると、そこには修平君が立っていた。

「え!?何?」

「お前、この俺を怒らせておいて、ただで済むと思うなよ」

 僕の体ごと部屋へと押し入ってくる。玄関の扉が勢い良く閉じた。

「ちょっ…」

 乱暴に寝室のベッドへと押し倒される。冷え切った衣服。修平君の手が、とても冷たかった。残業で少し遅くなった僕を外でずっと待っててくれたのだろうか?

「明日、座れないようにしてやるから、覚悟しとけ」

 乱暴な口調とは裏腹に、僕のことを抱いた修平君は、とても優しかった。


「市役所の内定?」

「そう。10月にもらった」

「東京の大学は?」

「そんなの、初めから行く気なんてねぇし。勉強嫌いだし、市役所の空手部に行くって最初から決めてた。支部の練習に出られなかったのは、毎日学校帰りに市役所の練習に参加してたからで、毎週土日は遠征でほとんど県外に行ってて。今日から期末テスト始まって、やっと練習休めた」

「それなら、最初から言ってくれれば」

「9月の公務員の試験にも受からなきゃだったし、面接もあったし、内定も決まってないのに、言えるか。もしかしたら、ぬか喜びになるかもしれなかったんだぞ?」

 修平君は、僕が思うよりも、ずっとずっと大人だった。もし、その話を先に聞いていたら、内定をもらっていないのに、僕は嬉しさのあまり、一人ではしゃいでいたに違いない。

「人の話もろくに聞かずに、勝手に一人で先走りやがって。あの日、あの野郎…マジで覚えとけ、時間できたら、ただじゃおかねぇからな、って思ってた」

 こっ、怖い…。まるで初対面の日を思い出してしまうような発言だ…。

「だって、あんな話を聞いたら、誰だって勘違いするよ…」

「俺の兄貴も空手の推薦で市役所に入社したって、肝心なところは聞いてないんだな」

 そう言えば、あの時、聡史君が何か言いかけていたのを思い出した。

「あの時は、動揺してて…」

 言い訳しようとする言葉を

「で?」

 と、遮られる。

「え?」

「別れてあげる、って、めっちゃ上から目線で言ってたけど?俺とどうしたいんだ?」

 うっ…。上から目線返し…。

「そんなの、聞かなくたって分かってるくせに…。毎日、ずっと修平君のことばかり考えてた。本当に後悔しかなくて、修平君に、ものすごく会いたかった」

 言うか言わないかのうちに、涙が零れた。

「泣くな」

 細く長い綺麗な指で、涙を拭ってくれる。

「ごめんね。何も知らずに、修平君のこと責めて」

「いいよ。もう。お前の気持ち、分かったから」

 額に優しく唇を押し当ててくれる。すごく温かくて、柔らかい感触が広がる。

「やっぱり僕、修平君のこと、好き過ぎて、辛い」

 涙が止まらない僕を優しく抱きしめてくれる。

「じゃあ、そろそろ本気で行くからな」

「え?」

「さっき言っただろ?覚悟しとけ、って」

「そんな…。今のもかなり激しかったし、僕の体が持たな…」

 言うか言わないかのうちに、明らかに先ほどより激しいキスをされる。抵抗なんて、出来るワケがない。絶対に言えないけど、ずっとずっと、こうされるのを待っていたのだから…。


 修平君はテスト勉強のこともあり、夜遅くにはなったけれど、その日のうちに家に帰って行った。ちゃんと連絡先を交換したあとで。

 翌日、何度も何度も擦りに擦られた粘膜が、椅子や床に座ることを許さず、僕は一日の大半を、立つか、横になって過ごすこととなったのだった。

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