第2話
「とりあえず、松原さんは、今日は初めてなので、流れを掴むために、移動基本はみんなの真似をしながらやってみて下さい。次回からきちんと指導しますので」
先生が言うと、今度は全員が二列に並び、前進しながら突きや受け、蹴りの練習をし、それを三十分続けたあと、また小休止を挟む。
次に、帯の色ごとに別れ、組み手と型の練習を三十分する。僕は白帯の小学生たちと一緒に、純平さんに指導を受けることになった。久しぶり体を動かしたせいか、僕はその日、一時間半の練習でヘトヘトになってしまったのだった。
空手を習い始めて一ヶ月ほど過ぎた、水曜の練習日の出来事だった。制服姿の美園ちゃんと聡史君が突然やって来た。美園ちゃんは、そのまま女子更衣室へと入って行った。
「どうしたの?今日、部活は?」
「中間テスト一週間前だから、部活動停止なんだ」
聡史君が、カバンから空手着を出し、制服を脱ぎ始める。
「どうせ家にいても、二人とも勉強しないからな。体も鈍るし、ここの練習は、部活に比べるとかなり緩いから、息抜きにちょうどいいんだろ」
純平さんが、優しい口調で言って笑う。
「そういうこと」
聡史君も、笑顔を見せる。そこに着替えを済ませた美園ちゃんがやって来て、練習が始まった。
そして、移動基本の練習が終わってからの出来事だった。不意に先生が、
「純平。修平を呼んできてくれ」
と、純平さんに声を掛けた。
「どうしてですか?」
「一般の大人の人と小学生が一緒に練習をするのは、やっぱり無理があるだろう。松原君の指導を修平に頼もうと思うんだ」
「…分かりました。呼んできます」
そして純平さんは、道場と隣接している自宅へと向かって歩いて行った。
「あの、修平…って?」
僕は美園ちゃんと聡史君に尋ねた。
「先生の息子で、純平さんの弟。俺らと同じ高校の空手部で、小学生の頃から、出る試合ほとんど優勝してるくらい強いんだけど…」
そこまで言った聡史君を切なそうな表情で美園ちゃんが見る。そして、聡史君が話を続けた。
「去年の世界選手権の決勝戦の途中で、純平さんが倒れて。検査したら、今まで空手が出来てたのが不思議なくらい、肺の状態がかなり悪いってことが分かって。そのせいで純平さん、空手が出来なくなっちゃって。それが原因で、修平も空手に対しての意欲を失くした、って言うか…」
「修平、世界選手権で優勝した純平さんを目標にして頑張ってたからさ。五歳年が離れてるから、中・高の試合で一緒になることもなかったし、一般の部で試合できるのをお互いに楽しみにしてたのに、純平さん、引退するしかなくて…」
そう話す美園ちゃんの声が少し震えていた。
「修平、純平さんが一人の時に相当泣いてたのを見てしまったみたいで。そんな姿見たせいか、推薦で高校に入ったから部活は続けてるけど、こっちの練習も出なくなったし、高校三年になってから、一度も試合に出てなくて。純平さんに遠慮してるのもあるとは思うんだけど、部活も今年で引退だし、修平強いし、実力もあるからもったいなくて…」
「そうなんだ…」
何だか、すごく切ない話に、胸がキュッとなる。
そこに「そういう面倒くせぇの、マジでイヤなんだって!」と、声が聞こえてきて、首ぐらを掴まれた制服姿の男が純平さんに連れられてやって来た。
僕は、思わず声を上げそうになった。そう、その修平と呼ばれていた男は、先日、僕に対して失礼なことを言ったあの高校生だったのだ。
この男に空手を教えてもらうとか、絶対に無理だ!でも、向こうは、僕のことには気付いていないようだった。
「とりあえず、空手着に着替えろ」
純平さんの手から、修平という男の胸に空手着が押し付けられた。
電車の中でも思ったけど、ネクタイはゆるめてあるし、カッターシャツはズボンの中に入れてないし、髪も明るく染めてるし、両耳にピアスもしてるし、ポケットに手を突っ込んだままで、何だかすごく怖く見えるんだけど…。
「修平、自己紹介ぐらいしたら?」
美園ちゃんが言う。
「ああ?うっせ、美園。俺はこんなことしたくねぇんだよ」
「葵さんて言うんだぜ。こんなカワイイ人を教えられるなんて、幸せだろ?」
「黙れ、聡史。俺のことからかうなら、今すぐここでブッ飛ばしてやる」
うわあああっ!口は悪いし、態度も悪いし、最悪だ!
僕をジロリと睨む。僕は聡史君の後ろに隠れるようにしながら、
「松原葵です。よろしくお願いします」
と、一応挨拶をした。
「また男にケツ触られたくねぇから、空手やんの?」
修平という男の言葉にカアッと顔が赤くなる。
しかも、みんなの前でそんなこと言うなんて、何て無神経な奴なんだ!本っっっ当に大嫌いだ、こんな奴!!
「へぇ。で、再会した高校生に教えてもらってんだ」
高倉が笑う。
「もう最悪だよ」
「でも、続いてるじゃん、空手。4月から始めただろ?」
そう。4月・5月はみんなで一緒に練習していたところに、6月に入ってすぐに、修平君から基本動作や型と組手を教えてもらうことになり、続けられるか不安にはなったけど、空手は真剣に教えてくれていた。教え方もすごく分かりやすくて上手で、空手の奥深さがとてもよく伝わってきた。たぶん、修平君は本当に空手が好きなんだろうな…と思った。だけど、あの口の悪さって…。
「お前の突きは遅すぎて虫が止まる」とか「次の動作に行く時にいちいちフラつくなよ!ひ弱か!」とか。習った通りに型をやっているのに、なぜか修平君と向き合い「足の運びが逆なんだよ!こっち向いてんじゃねぇ!」と注意され、基本組手の練習をすれば、修平君の突きが顎に当たり「受ける手が逆だ!どんくせぇな!」と怒られ…。毎回の練習が散々だった。それでもメゲずに通ってはいるけれど…。
ある日の練習を終えたあと、美園ちゃんと聡史君、そして修平君といつものように残って話をしていると、
「こんなに教えがいのない奴、本当に初めてなんだけど?小学生のほうが飲み込み早いし、まだマシ」
と、修平君がぼやいた。
「まだ始めたばっかりだし、気にすることないよ」
と、聡史君がすかさずフォローしてくれる。
「修平、もう少し優しく教えてあげたら?」
と、美園ちゃん。
「ごめん。なかなか上手く出来なくて…」
謝る僕に、
「もう年だから仕方ねぇのかもしれないけど、型とか組手って、頭で考えるよりも、体で覚えたほうがいいと思うぜ?」
修平君のキツイ一言。年って…。僕、まだ二十二歳なんだけど?いや、高校生から見れば、そりゃ四つ上なんてオジサンかもしれないけどさ…。
「でも、葵さん、来月の昇給審査受けるんでしょ?」
聡史君に聞かれて「うん。受けるように先生に言われた。自信ないけど」と、答えた。
「心配しなくても大丈夫だよ。審査委員長、林先生だから」
「え?」
「ここの県で一番偉い先生ってこと。美園も俺も、小学生の頃にコネで黒帯もらったようなもんだから」
「そうなんだ」
何だか安心したような、そうじゃないような…。
「甘やかすな、って親父に言っといてやる」
修平君が意地悪を言う。
そこに、
「修平が支部の練習に出てるって、マジだったんだ?」
と、声がした。
「小嶋…?何で?」
美園ちゃんに小嶋と呼ばれた男は、三人と同じ空手部のTシャツを着ていた。
「いや。うちの支部の先生が、この前の空手協会の会合の時に、林先生から修平が支部の練習に出てるって聞いたらしくて。確かめに来た」
「練習なんかしてねぇよ。親父命令で新人に型と組手を教えてるだけだ」
修平君が一気に不機嫌になる。
「何だ。また一緒に試合に出られると思ったのに」
「しつけーな。試合には二度と出ないって言ってるだろ。帰れよ」
「俺にずっと優勝されたままでいいのか?まぁ、試合に出たところで、部活以外の練習なんて、ろくにしていないお前が俺に勝てるとは思えないけどな」
「それでいいんじゃねーの?」
修平君は立ち上がると、自宅へとつながる廊下へと向かって歩き始めた。
「そんなに兄貴が大事か?兄貴のために試合に出ないのが兄貴のためだって、本気で思ってんのか?今時、悲劇の主人公じゃあるまい、バカじゃねーの?自分が弱いこと棚に上げてチキってるだけだろ!負け犬が!」
その瞬間、パンッ!!と道場内に乾いた音が鳴り響いた。そして僕は言った。
「言って良いことと悪いことがあるだろ!高校生にもなって、そんなことも分かんないの?修平君に謝れよ!」
頭に血が上った僕は、思わず小嶋君とやらの頬に一発ぶちかましてしまっていたのだった。
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