第3話
一瞬、空気が張り詰め、道場内が静まりかえった。
「葵さん、何もぶたなくても…」
聡史君が、驚いたように呆然としながら、静かに呟く。
「だって、今の言い方は、ひどすぎるよ」
「小嶋のこういうセリフ、いつものことだから気にすることなかったのに。修平のこと試合に出したくて煽ってるだけだから」
美園ちゃんが、動揺する様子もなく、淡々と説明する。
「えっ?そうなの…?」
また道場内が静まりかえる。ついムキになってしまった自分が恥ずかしくなって、一気に顔が熱くなったのが分かった。
「あ、あの、ごめんなさい。小嶋君…だっけ?叩いちゃって、本当にごめんなさい」
僕は小嶋君の頬を撫でながら、平謝りだ。その手をグッと掴まれる。
「気に入った」
「え?」
「あんた、名前は?」
「…松原、葵…です」
もしかして、訴えられるとか?急に不安になる。
「葵、ね。決めた。今度の地区大会、俺が優勝したら、俺と付き合え」
はあっ!?
「あの、僕、男なんですけど…」
「そんなこと、分かってるよ。でも、今ので完全に落ちた。もう決めたから」
「そんな、勝手に…」
「もし断るなら、今のこと訴えるけど?」
先程の不安を小嶋君に指摘され、つい言葉に詰まった。
「よっしゃあ!今度の地区大会、マジで気合い入れて頑張るぜ!じゃあな」
僕の意見など聞く様子もなく、小嶋君は、両手を組んで伸びをしながら、その場を去って行った。
「冗談…だよね?」
僕は三人を見た。
「いや、本気だろ」
聡史君が言う。
「うん。本気だね。小嶋、一度決めたら結構しつこいし。修平に対する執着を見てたら分かると思うけど」
美園ちゃんが答える。修平君は目を合わせてくれなかった。
「でも、地区大会って、そんなに簡単に優勝できないんでしょ?」
「高校の部で、今一番、県で強いのは小嶋なんだ。俺、葵さんのこと守ってあげたいけど、今まで小嶋には一度も勝てたことなくて…」
「私も女だから、男子とは試合できないし。小嶋に勝てるのって、修平ぐらいじゃないの?」
「そんな…。じゃあ、僕、あの人と付き合わなきゃいけないってこと?」
「だね」
「だな」
美園ちゃんと聡史君が目を合わせて頷く。
「うそ。どうしよう…」
美園ちゃんが、着替えの入ったカバンを持って立ち上がる。
「小嶋の奴、それを分かってて、そういう条件出したんだと思うよ。だいたい学校でも、かわいい子なら、見境いなく追っかけ回してるし」
「女の数でも、修平に負けたくないんだろ」
聡史君も、そう言いながら、空手着を脱ぎ始める。
女の数…?何か、今、すごい言葉を聞いたような…。
そこに、
「お前が挑発にのってどうすんだよ」
修平君が腕を組んで壁にもたれたまま、僕を睨んだ。
「そもそも、葵さんは修平のために怒ってくれたんだぞ?」
聡史君が修平君に向かって真実を突き付けてくれる。
「そうだよ。修平が試合に出れば、葵さんが小嶋と付き合わなくてもいい可能性が、少しは出てくるじゃん」
美園ちゃんが、修平君に焚き付けた。
「はあ?何で俺が。こいつが小嶋とどうなろうが、俺には関係ねぇし」
「うっわ、薄情!それでも男?信じらんない」
美園ちゃんは続けて容赦なく修平君に対してキツイ言葉を投げ付けた。
「もういいよ。自業自得だから。迷惑かけてごめん。お疲れさま。また来週よろしくね」
僕はそう言うと、着替えの入ったバックを持って、重い足取りで更衣室へと向かった。何よりも、修平君の言葉に胸が痛んだ。僕が、小嶋君とどうなったところで、修平君には関係のないことなんて当たり前のことなのに、どうしてこんなに胸がキュッと締め付けられるような切ない気持ちになるんだろう。不思議な感情に、思わずため息がもれた。
更衣室で着替えを済ませ、出口に向かって歩き出した腕を不意に掴まれる。ビックリして振り向くと、修平君が立っていた。いつものポーカーフェイス。あまりにもの整ったシャープな顔立ちに、一瞬ドキッとする。
「あ、何?どうしたの?」
「今回だけ…」
「え?」
「俺、マジですんげぇイヤだけど、今回だけ試合に出てやる。美園にも聡史にも、この先散々責められるの、面倒くせぇから」
うそ…。修平君がそんなことを言ってくれるなんて信じられなくて、耳を疑った。いつもは何に対しても無関心なのに、何だかすごく感激してしまう。でも、本当は事情があって試合に出たくないだろう修平君の気持ちを思うと、じわりと目頭が熱くなった。
「ごめんね、僕のせいで。本当は試合に出たくないのに、本当にごめんなさい」
僕が謝ると、
「今回だけだ。もう二度と俺に迷惑かけるな」
と言って、修平君は自宅へと続く廊下を歩いて行った。相変わらず上から目線だけど、僕の胸がふわりと温かくなり、先ほどとは真逆と言えるほどの何とも言えない柔らかな感情に、全身が包まれたような気がした。
「兄貴、ちょっといいか?」
修平が、純平の部屋のドアをノックする。
「何だ?入れよ」
純平の声がして、扉を開ける。
「あのさ、俺、試合に出ようと思うんだ。今度の地区大会」
純平は修平の目をみたまま、しばらく黙った。そして笑顔になると、修平の頭を自分の胸へと抱え込んだ。
「お前がそう言ってくれるのをずっと待ってた。前から言ってるけど、俺に遠慮することなんてないんだからな。小嶋にずっと優勝なんかさせておくな。お前には才能があるんだから、頑張れよ」
ガシガシと修平の髪を掻き回す純平は、本当に嬉しそうで、喜びで興奮しているのが伝わってきた。
「…兄貴、ありがとな」
「今、数値も安定してて肺の調子も良いし、少しなら激しく動いていいって医者が。どれだけでも組手の練習に付き合うから、いつでも言えよ」
「マジで?」
純平の言葉に、修平もつい笑顔になった。
そこに、着替えを済ませた美園が純平の部屋へとやって来た。
「どうしたの?めずらしい。修平が純平さんの部屋にいるなんて」
「別に何でもねぇよ。お前こそ、兄貴とイチャイチャしすぎて帰り遅くなんなよ」
ぶっきらぼうに言う修平の背中に拳が飛ぶ。
「いって…」
「バカ!修平!ほんと、無神経!」
バタン、と勢い良く扉が閉じた。
「何で来るの?」
昇給審査当日、道場には修平君、聡史君、美園ちゃんの姿があった。
「応援だよ、応援!テスト期間中で、ちょうど部活なかったし。ね?聡史」
「え?ああ。頑張ってね、葵さん」
「俺は朝早くに起こされて、いい迷惑だよ。だいたい美園は兄貴が目的だろ?」
あくびをしながら言った修平君のお腹に、美園ちゃんの拳が見事に決まった。
「うっ…!てめ…」
お腹を抱えて、修平君がうずくまる。
「バカ!修平!」
美園ちゃんがプイッとそっぽを向く。
この二人、本当に仲が良いんだな、と思うだけで胸がギュッとなる。それがどうしてなのか、僕にはまだ理解ができなかった。
「葵さん専属の先生、葵さんに何かアドバイスは?」
聡史君が冗談ぽく修平君に尋ねた。
修平君はしばらく黙っていたが、
「基本に忠実に。型は、いつも言ってるけど、ちゃんと相手が攻撃してくることを想定して、一つ一つの技を丁寧にやれ」
真面目な回答に、思わず戸惑った。聡史君と美園ちゃんは「おーっ!さすが空手部キャプテン」と言いながら、拍手をしていた。
「じゃ、帰るわ」
修平君はそう言うと、本当に道場を出て行き、自宅へと戻って行った。
その日、僕は無事にミスすることなく昇給審査を終えた。それだけでも満足なはずなのに、修平君が僕の審査に全く興味を持ってくれなかったことが、とても悲しかった。もっと聡史君や美園ちゃんみたいに、最後まで残って、少しは褒めてくれたっていいのに。
大人げのない、膨れた感情。気付くといつも修平君のことばかり考えている自分がいた。それが何故なのかは分からなかったが、ここ最近は、土曜日の練習がとても楽しみになっていたことだけは、確かだった。
そして、そんなモヤモヤした気持ちを抱えながら、いよいよ地区大会当日を迎えた。
「修平は?」
試合会場は、大きな県営体育館だった。開会式を済ませ、美園ちゃんが、高校ごとに割り当てられた観客席へと戻って来る。僕はそこから少し離れた場所に座っていた。
「まだ来てない」
僕が答えると、
「もう試合始まるのに!来たら、すぐに下に降りるように言っといて」
焦ったように言いながら、美園ちゃんは階段を足早に降りて、試合会場へと向かう。
「何やってるんだろ、本当に」
まさか、このまま試合に出ないとか…?あんなふうに、人に期待させるようなこと言っておいて、棄権するなんてこと、ないよね…。言いようのない不安に襲われる。そこに、
「ふぁ~あ…」
と、どこからともなく、声がした。
観客席の椅子の足元から突然手が出てきて、
「ひっ…!」
と、声にならない声が出た。
椅子の下にいた人物が、のそり、と出てくる。
「修平君、何して…」
「何か、寝てたみてぇ…。試合始まった?」
「寝てたの!?もう試合始まるよ!早く行かないと」
椅子の下から出てきた修平君の道着は、胸がはだけていた。しなやかな筋肉の付いた、綺麗な細身の身体。一瞬、目のやり場に困る。
修平君が、バッグの中を探る。その間に、僕は修平君の髪や空手着についているほこりを一生懸命に払った。
「あ…。帯、忘れた」
「ええっ!どうするの?」
「大丈夫だろ。どうせ、試合の時は青か赤の帯するし」
そして、そのまま試合会場へと降りて行った。
修平君は、自分の番が来るまでの試合待機中、胸がはだけたままの姿で、あぐらをかいて、ずっとウトウトしていた。
何、あれ!本当に、何なんだよ、あの態度は!あんな奴が、今までの試合、ほとんど優勝してるくらい強いだなんて、絶対に信じられない。みんな、ちゃんと背筋を伸ばして座って、自分の試合の順番を待ってるのに。
「あ、良かった。修平、間に合ったんだ」
と、美園ちゃんが戻って来た。
「試合、どうだった?」
「一回戦は勝ったよ!」
「おめでとう!…あのさ、修平君て、いつもあんな感じなの?」
「あんな…って?」
「何か、時間通りに動かないし、帯も忘れてきたみたいだし。試合を待つ時の態度も行儀も悪いから…」
「マイペースなんだよ。葵さん真面目だからビックリするかもだけど、慣れると、あんなもんか…って感じになってくるから大丈夫」
美園ちゃんが、さして気にしてなさそうに軽く流す。今の高校生って…。今の若者って…。もはや僕は、もう時代についていけていないのだろうか…と、つい頭を悩ませてしまったのだった。
「あ!修平の試合始まるよ!」
美園ちゃんが僕の手を引いて、試合が良く見える席まで連れて行ってくれる。そこに、一回戦を終えた聡史君も戻って来て、僕のすぐ側の椅子に腰掛けた。両者、向かい合って礼をする。審判の掛け声で、二人が気合いを入れ、構える。修平君が素早く動いたかと思うと「やめっ!」の声がかかり、審判が勢い良く修平君の方へと水平に腕を上げ、
「青、中段蹴り、技あり!」
と、声を張り上げた。二人が元の位置に戻る。
「え?何、今の…」
「修平の中段の蹴りが決まったんだよ」
審判の「始め!」の掛け声と同時に、双方の気合いの声が響き渡った。
「やめっ!青、上段突き、技あり!」
審判が、また修平君の方の腕を上げる。
「え?え?」
僕が戸惑っているうちに、試合はあっという間に終わってしまった。
「動きが早すぎて、全然見えなかった…」
すごい。すごすぎる。あんなに俊敏に技って出るものなんだ。僕はまださっきの試合の修平君のすごさに気持ちが追い付かず、呆然としていた。
「修平君て、本当に強いんだね。僕には全く見えなかったんだけど、二人には修平君の動きは見えてたの?」
「え?そりゃ、俺も美園も一応現役だからね。でも、確かに修平は動きも早いし、フットワークも軽いから、攻撃も一発で決まりやすい。そこにきて確実に相手の急所を狙ってくところが、やっぱり修平のすごさかな」
「そうなんだ」
「試合の時の修平、カッコいいでしょ?」
美園ちゃんがいたずらっぽく、こちらを見て笑った。
「うん…。意外だったけど」
「でも純平さんの方がカッコいいって言いたいんだろ?お前、小学生の頃から純平さんのことずっと追っかけ回してたもんな」
聡史君がからかうと、美園ちゃんの拳が聡史君の背中に命中した。拳をくらった聡史君が背中に手をやり、倒れ込んで膝を付く。
「心配しなくても、修平なら決勝まで行けるよ」
そんな聡史君のことを気にすることもなく、美園ちゃんが笑顔を見せる。
「でも、あんなに強くても、小嶋君に勝つのは難しいんだよね?」
「うん。かなりね」
そう言った美園ちゃんからは笑顔が消え、深刻そうな顔付きになる。
「いくら部活で練習してたとはいえ、二ヶ月ちょっと、試合にも出てないし、他の練習にも行ってなかったブランクがあるしな」
聡史君が、自分の背中をさすりながら話す。その言葉に、僕の心の中と、そして体にも緊張が走った。
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