上から目線の氷結王子、引き受けます
多田光里
第1話
うわっ…。まただ。
朝の通勤電車の中、お尻をいやらしい手つきで撫でられ、割れ目に指が沿う。一週間ほど前から、僕は毎日のように痴漢に遭うようになった。
「やめて下さい」と言う勇気も出ずに、痴漢のやりたいようにやられる日々。スーツを着てるし、僕が男だって分かっているはずなのに、何でこんな目に遭わなきゃいけないんだよ…!
お尻の穴へと食い込むように、痴漢の指先に力が入ったその時、
「おい、おっさん。いい年こいて、男のケツなんて触ってんじゃねーよ」
低い声がすると同時に、僕のお尻から手が離れた。
「指輪してるし、結婚してんだろ?今度同じことしたら、警察に突き出してやるからな」
僕は、混雑した電車の中、顔だけを後ろに向けた。
背の高い、顔立ちの整った男の人が、中年サラリーマン風の男の手首を掴んで高く掲げていた。
ああ…。何てカッコいい人なんだろう。まるで国宝級イケメンと言われる俳優さんのような、キレイな顔をしていた。こんな人に助けてもらえるなんて、何だかすごく得した気分になる。
電車が止まり扉が開くと、中年男は慌てて電車から降りて行った。
「あの、ありがとうございます」
お礼を言うと、
「お前、男のくせに、自分の身も自分で守れないのか?男にいいようにケツ触られて、バカじゃねぇの?」
そう言うと、痴漢から助けてくれた男も、電車を降りた。見かけないブレザー姿。学校の制服だろうか。肩からかけている重そうなバッグには「雄峰高校 空手部」という文字があった。
そんなことより、今、何て言った?
仮にも年上に向かって「お前」とか「バカ」とか?
あの男、絶対にあり得ない!!
「おはようございます」
職場に着き、ムスッとした表情のまま、僕はカバンを机の上に荒々しく置いた。
「どうした?めずらしく荒れてるな」
同僚の高倉が、驚いたように声を掛けてきた。
「今朝の電車の中で、ものすごく失礼な高校生に会って」
「失礼な高校生?」
「そう。初対面の僕に向かって、お前とか、バカとか言ってきて。本当に信じられない!」
少しでも、カッコいいと思って見惚れた自分が、それこそバカらしくなる。
「え?何で?理由もなく、急にそんなこと言ってきたのか?」
「いや、ちょっと電車内でいろいろあったのは、あったんだけど…」
さすがに、男に痴漢に遭っていたことは、いくら仲の良い高倉にもバレたくはなかった。
「ふぅん。まっ、今の若い奴らって、そういうの多いのかもな。ここにインターンで来る大学生も、タメ口とかで話したりするしな。あんまり気にするなよ。とりあえず、作業点検してしまおうぜ」
「…うん」
僕は電気関係の専門学校を卒業後、いろんな施設の電気管理の仕事をしていた。パソコンを触りながら、高倉に向かって呟いた。
「なあ、高倉」
「ん?」
「空手でも習おうかな…」
「は?何だ、突然」
「僕、女みたいってよく言われるだろ?外見や体付きは直せないにしても、せめて心身だけでも強くなれたらな、と思って」
「テレビか何かの影響か?それとも、今朝のことと関係あるのか?」
高倉は勘が良い。そういう面では、仕事でも頼りになるし、ずいぶんと助けてもらったりもしている。
「うん。まぁ…」
「いいんじゃね?何でも経験するって、大事なことだろ」
「そうだよね…。うん!よし、決めた。今日、家の近くにある空手道場に見学に行ってみるよ」
僕は、いつも帰り道に通る空手道場へ、仕事帰りに寄ることを決心したのだった。
そして、その日、いつも通勤の時に何気なく前を通っていた空手道場の中を少し開いていた窓から覗いてみた。その広い道場の前の方では、黒帯をした練習生たちが、揃って型の練習をしていた。あまりにもの華麗な型の動きと、その優雅さに、僕は息を呑んだ。
すごい…。何てカッコいいんだろう。空手の型って、あんなに綺麗なんだな…。思わず見いっていると、道場の先生らしき人と目が合った。その人が僕へと向かって歩いて来る。そして「どうしました?」と声を掛けてくれた。体がとても大きくて、はだけた空手着から、はち切れそうなくらいの筋肉が見えた。
「あの、ちょっと見学に、と思ったんですけど、中に入る勇気がなくて…」
僕みたいな華奢な人間は、すごく場違いのような気がして、急に恥ずかしくなった。
「どうぞ。中に入って下さい。ここで指導している林と言います。息子と二人で、指導にあたっています。ここは、小・中学生が多くて。一般の方は大歓迎ですよ」
僕は促されるまま、正面に回り、道場の中へと入った。空手の練習の説明を一通り受け、そのあとの練習を最後まで見学し、僕の決心はついた。
先生も、その息子さんの純平さんと言う方も、とても親切で気さくだったので、その日のうちに申し込み用紙をもらって、今度の練習から参加することになった。練習日は、水曜と土曜の週二日というのも、自分のペースに合っているような気がした。
もう、痴漢なんて自分でやっつけてやるんだからな!その時の僕の意気込みは、たぶん、痴漢よりもあの失礼な高校生に対しての方に向けられていたに違いない。
「今日から一緒に空手をすることになった、松原葵君だ」
小・中学生を中心とする練習生たちの前で紹介される。
「松原葵です。よろしくお願いします」
僕は軽く頭を下げた。ガヤガヤと、小学生や中学生たちが話したり笑ったりしている。やっぱり場違いなのかも知れない…と、早くからめげそうになる。
「とりあえず新入りなので、一番右側の端に並んで下さい」
「はい」
僕は先生に言われた通り、一番背の低い、白帯の小学生の男の子の横に並んだ。
空手の練習は、全員で輪になり、準備体操から始まる。そのまま、突き、受け、蹴りの練習が続く。それが終わると、しばらく小休止に入る。そこに、二人の男女がやってきた。その二人が持っていたバッグには「雄峰高校 空手部」の文字が入っていた。一瞬、ギクリとする。
「美園、聡史、ちょっと来てくれ」
僕の横に立って、先生が手招きする。
「今日から入門した、松原葵君だ。いろいろ教えてやってくれ」
先生が言うと、
「よろしく!女の子いなかったから、すごく嬉しい!」
美園と呼ばれた女の子が目を輝かせる。
「あ…、僕、男なんです…」
僕が言うと、
「マジで?俺も女の人かと思った。美園よりキレイじゃん」
と、聡史と呼ばれた男の子が言うと、美園と言う子に、思いっきり背中を拳でどつかれていた。
「私、伊原美園。美園でいいよ。大人の人が入ってくれて本当に嬉しい。ありがとー」
と、とてもかわいい笑顔を見せる。
「美園…ちゃんでもいい?女の子に急に呼び捨てが、ちょっと…できそうになくて」
「じゃあ、美園ちゃんで!一緒に頑張ろうね」
美園ちゃんの言葉が嬉しくて、つい僕も笑顔になった。
「俺、岡田聡史。美園と同じ高校三年生。よろしく」
ニコッ、と笑う。
「聡史君…。よろしくお願いします」
良かった、二人とも優しそうで。それに、こんな風に高校生と話すなんて、何だかすごく新鮮かも。
「この二人は、毎週土曜日、部活が終わったあとにここの支部にも練習に来てるんだ」
先生が言う。
「すごいね」
僕は感心した。
「うちの空手部、全員そうだから。みんな部活が終わってから、家から一番近い支部に練習に行ってて。さすがに平日は部活終わるの遅いから来られないけど」
美園ちゃんの言葉に、ふとある思いがよぎった。
ってことは、あの失礼な男も今頃どこかの支部に…?
良かったぁ、ここの支部じゃなくて。
「さぁ、お喋りはここまでにして、移動基本の練習を始めるぞ」
先生が、パンパンと大きく手を叩いた。
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