第30話 消えゆく前にニマニマした。

 「……ん」

 今日も一日が始まり目を覚ます――前と違うのはムギとリタがいること。眠そうにするリタの顔。昨日はちゃんと寝たんだね。

 薄目を開けてこちらを見たリタは少し微笑んだような気がした。顔に手を伸ばしかけて――止める。ぼくたちはそう言う間柄ではない。引っ込めようとする手――リタに掴まれて頬に寄せられる。

 柔らかい頬。少し撫で、寝起きの口の中は汚いと言う言葉を思い出して体を持ち上げる。

 床に座り込み――目の前にある大きな水槽が光を受けてゆらゆら揺らめいているのが見えていた。

 リタとムギが膝の上に登って来る。

「今。……あたし、あんたの事考えてるよ? 嬉しい?」

 完全な依存はしない。警戒もしない。柔軟に対応する。だからぼくはリタに何も答えず。リタの頭を撫でた。心の内からリタと仲良くしたい。今以上に仲良くなりたい。スキンシップを取りたいと欲望も湧き上がって来るけれど、迷惑をかけるのはやめてと突き放す。

 それをすればリタはぼくから離れていくだろう。

 枕元のカードを手に取り時間を見る――そのまま背を伸ばして手を上に。

 改めてカードを見ると、時間は午前五時だった。丁度着信があり、経吉からだった。今起きたのかな。おはようと言う言葉におはようと返事を返す。

 良く寝ているムギを見て、少しは警戒心が解けたかなと頬を撫でる。

 ムギの頭を膝の上から横へずらし――ムギがパッと目を覚ましてしまった。

「ごめん。起こしちゃった?」

 ムギは首を振り、リタの頭を膝から下ろそうと。

「やーだ。やだやだやだ」

「リータ。ぼく朝練行かないと。ご飯も作らないとだし」

「ぶー」

「ぶーじゃない」

「ぎゅってして」

 差し出してきた手を強く握って頬に寄せる。毛むくじゃらの手。柔らかくて温かい。獣人の手の甲が毛むくじゃらなのは拳を守るため。獣人の打撃は人間の打撃より強い。

 立ち上がったムギが抱き着いてきて受け止める。目は開いているのに寝ぼけているのかもしれない。唾液を出さないように気を付けながら唇をムギのコメカミ、頭へと押し付ける。

 ムギの体温が唇を通して伝わって身に染みる。

「よく眠れた? いい子だね」

 朝の僅かに冷たい空気、ムギの体温が心地良く、柔らかい頬が首や鎖骨、耳下に摺り寄せられる。

 髪の匂いを無臭に感じるのは使っているシャンプーリンスが一緒だから。

 押し付けた唇にかかる圧力、音を出したいわけじゃないのに、キスをするたびに音が鳴り、音が鳴る度にムギが強く体を擦りつけてくる。

「そろそろ起きないとね」

「おいこら、あたしにもしろや」

 睨み付けてくるリタを無視し、立ち上がろうとすると阻害される。仕方なく手の甲に唇をつける。

「もっとしてよ」

 何度も繰り返すと、リタはにんまりしていた。もしぼくがリタの恋人だったのなら、朝からリタを強く抱きしめてそこかしこにキスしていたかもしれない。

 立ち上がり、部屋を出て洗面所へ――リタはついてこなかったけれど、ムギはついて来た。

 一緒に歯磨き、顔を洗って髪をまとめ直し――運動着に着替える。

 運動着はウェットスーツのような服だ。

 靴を履いたら朝の運動――外へ出て五匹の犬を解放。一緒にランニング――ムギも頑張ってランニングしていた。

 最初は一緒に走っていた犬達も、何周か過ぎると疲れて転がってしまった。老犬だからね。ランニングが終わったら犬の世話。糞を掃除して食事を提供。一匹ずつスキンシップを取る。

「よーしよしよしだぁあああ。うーしゅしゅしゅしゅ。うー……いい子いい子」

 一頭一匹、頭を撫で汚れるのも構わず全身で抱きしめて転がる。一匹ずつ毛並みが違い、抱きしめる感覚も違う。ムギにも行って貰う。ムギはどちらかと言うと抱き着いていると言う感じだったけれど。

「いっぱいスキンシップとって、いっぱい仲良くしてね」

 終わったら一緒にシャワーを浴びて朝食の準備。

 今日の朝食は生春巻きを作ることにした――野菜をライスペーパに巻いてドレッシングをかけるだけ。野菜を細切りにして詰めるだけだから簡単だ。ピーマン、人参、キャベツ、大根、トマト。後は器いっぱいの厚切りベーコン入りコンソメスープ。

「あーんして」

 ムギの口を開けさせて、半分に切った生春巻きを一つムギの口に放り込む。

「どう?」

 ムギは咀嚼を繰り返し飲み込む。野菜に対して好き嫌いが無いのが救いだね。ピーマンも食べられるし、ニンジンも嫌いじゃないのね。

 ムギはぼくの服の裾を掴み、見上げながら小さく口を開けた――もう一個欲しいのね。

 残りの半分を口に放り込み――出来た生春巻きを皿に盛り合わせてテーブルへ。

 温かいコンソメスープを一杯器に盛り、ムギを席へ座らせる。

 ムギは席に座り、ぼくが食べていいよと言うのを待っていた。

「食べていいよ」

 そう告げると、ムギは恐る恐るぼくを観察しながら生春巻きを口に運んだ。

「いっぱい食べてね」

 頭を撫でてリタを呼びにいく――リタは朝と変わらず地下で寝そべっていた。

「ご飯出来たよ」

「起こしてー」

 伸ばしてきた手を取り、起き上がらせる。

「抱っこしてー」

「リータ。重い」

「重くなーい。ん-……ふんふん。ん-ふふ」

 今日は甘えん坊だ――胸に埋もれて来て鼻を鳴らしている。何かあったのかな。事情は聞かない。カードを取り出して昨日の添い寝の料金を提示、リタのカードへ移す。体に寄りかかって来たリタを引きずって食卓へ運ぶ――前に洗面所で嗽をさせる。

 食卓に着いたリタは豪快にコンソメスープを飲み干した。なんか酒飲んでるみたい。

「ふいーおかわりー」

 リタは朝からコンソメスープを三杯のみ、生春巻きも食べてくれた。

 唇を舌で舐めるほど気に入ってくれたみたい。

「ふいーお腹いっぱいだわ」

「良かった」

 食べ終えたら片づけをしてコーヒーを入れる。ムギにはココア。三人でしばしのんびり。時間が来たら準備して学校へ行く。ムギを幼稚園か保育園に預けたいけれど、来年からは小学校へ入学する予定だ。とりあえず今日も機関へ預ける。

 お手洗いなどの所用を済ませ、ムギの出かける準備も手伝う。

「それじゃリタ、行ってくるね」

「いってらっしゃい。ん」

「ん?」

「んー‼」

「なになに? 怖いんだけど」

「行ってきますのチューしなよ」

「なんで?」

「いいからチューしなよ」

「意味がわかりません」

「いいからチューしなよ。ほらっ」

 リタの顔が近づいてきて、体が反射的にキスをしようと前へ出るのを感じて踏みとどまる。

(欲求不満? キスしたいの?)

 そう疑問が浮かび、それはキスできるのならしたいとは……やめて。

「チュッ」

 考えている間にそう音がして、頬にキスされた事に気づく。柔らかかった。体が上手に動かせなくて、どうすればいいのか迷ってしまって、嬉しいと引きつりそうになる顔を無理やり真顔に矯正する。

「ほらっ。あんたもチューしなよ」

 ぼくは思わず不機嫌そうにリタを見てしまった。決して嫌だとか、リタの行動が不快だったからと言うわけじゃないのに、不快な表情をしてしまった。

 ため息を付いて心を落ち着かせる――これも勉強だ。ムギには普通にしているでしょう。リタに近づいて、素早く頬に唇をつけた。心臓が飛び出るかのような錯覚を覚えて喉が渇いた。

「チュッ」

 音を出したかったわけじゃないのにそう音がする。

 離れてリタの顔を見ると、リタはニマニマしていた。

「気を付けて行くのよー」

 なんでぼくはリタの頬にキスしたのか。別にしなくてよかったよね――ムギが見上げていて、服を強く掴んでいた。

 屈み、ムギの頭に唇をつける。

「行こうね」

 なんだか他人がいるのが不思議だった。

 背を伸ばして奥へ引っ込んでいくリタに、イミナの面影が重なって見えた。強引な所がそっくりだった。そういえば小さい頃……子供の頃だけれどイミナにキスされてしまった時の事を思い出して、イミナに対して申し訳ない気持ちになった。小さかったから無効だよね。


 電車に乗って機関へ――今日は電車の中で絡まれる事はなかった。でも何処かでは電車が止まっているのだろうなと嫌な事を考えてしまう。

 なぜだか胸が痛かった。

 頬にされたキスを思い出す――湧き上がって来たのは嬉しさではなく怒りだった。

 どうして心に踏み込んでくる。いなくなるくせに。リタの奴。いなくなるくせに。ぼくを捨てる癖に。やめてと何度も言い聞かせる。落ち着いてと何度も自分に言い聞かせる。ムギはぼくを捨てないよね。そんな考えが脳裏を過って嫌だった。

 ぼくだけが一人だ。最後は何時も一人だ。ぼくだけが一人だ。リタの奴をめちゃくちゃにしてやりたい。ぼくがいないと生きられなくしてやりたい。ぼくだけがなぜこんな辛い気持ちを味合わないといけない。辛い。誰か助けて。誰か。誰でもいい。神様――。イミナ。

 イミナに頼ってはいけないし、イミナは貴方の側にはいないでしょ。もう貴方の事なんか眼中にないよ。それは死ぬほど苦しい一言だった。自分で言っていて自分でダメージを食らうのだからまったく最低な話だ。


 心がいくら悲鳴を上げても、助けてくれる人も神様もいないと理解している。

 イミナはもう……諦めなさい。遠くから眺めるだけでいいじゃないか。苦しいこと言うよね。でもそれが事実で真実で、ぼくが切り離さなければいけない感情だ。

 ムギを抱きしめたくなり、ムギを束縛したくなり、ムギを巻き込まないでと言い聞かせる。

 兄妹なんだから、ずっと一緒だよね。肯定と、そんなわけないでしょうと否定する。

 何時かムギはぼくの所からいなくなる――それを想像するだけで苦痛だった。

 また捨てられる。また一人だ。年を取って。何にもない。何もない。一人だ。

 でもこの辛さはぼくだけのものだ。誰にも関係ない。ぼくにしかわからない苦痛だ。他人には関係ない。ムギにもリタにも関係ない。

 何時かムギが離れて言ったら笑顔で見送ろうね。そう自分に言い聞かせる。

 多分ぼくは、手を噛んで泣き喚くだろう。その姿は想像にたやすくそんな姿を誰にも見られたくなかった。

 浮気も不倫も嫌いだ。最後まで愛して欲しい。お金じゃなくて、容姿じゃなくて、ぼくを愛して欲しい。ぼく自身を愛して欲しい。そう強く願っても、それを叶えてくれる人間なんておらず、又ぼく自身が憶病で疑り深いためにそこまで愛することもできない。

 愛だけじゃダメなんて嘘で言い訳だ。

 愛する人が一人いれば何でもできるじゃないか。

 たった一人の人で良い。辛くても悲しくても構わないから、心の底から愛されたい。

 世界にはぼくよりひどい奴は沢山いて、ひどい事を沢山するのに恋人や伴侶がいて、心の底から憎い。

 屈んでムギの頭を撫でる。やっぱりぼくはクソだな。

「ムギ。家には三つの家訓があるんだ」

 ムギの目を見てそう告げる。

「一つ、お天道様に顔向けできない事はしちゃダメ。悪い事はしちゃダメだよ」

 誠実に生きてなんて言えない。ぼくが誠実に生きていないから。

「一つ、自分を大切にして。貴方に何かあったら、お兄ちゃんは悲しい。貴方に幸せになってほしい。笑顔でいてほしい。だから、自分を大切にしてね。お兄ちゃんのためでもあるんだよ? お願いね」

 ちょっと押しつけがましいかもしれない。

「一つ、物事には原因と結果があるの。何かをする時は、その先がどうなるのかを考えてから行動してね。この三つ。お兄ちゃんと守って行こうね」

 ムギは左下を見て、服を強く握って来た。

 この家訓は鳴時家の家訓だ。本当はぼくの家訓なんかじゃない。

 機関へ到着したら、ムギを機関へ預ける――ファニエルさんが対応してくれて、忙しいのに申し訳なく。

「ムギ、いい子にしててね」

 膝を折り、目線を合わせムギの頭を撫でると、ムギが傍に来て頬にキスしてくれた。

「チュッ」

 リタの真似しているのかな。

「チューは大切な人にだけするのよ?」

 するのよってなんだ。ぼくは男なのに。

 頭を撫でてムギの頬に唇をつける。

 ムギの頬は熱を帯びて、少し開いた口と、目は何処か潤んでいた。心の中で謝る。寂しいよね。一緒にいられなくてごめんね。それでも行かなきゃいけない。

「午後になったら迎えに来るからね」

「責任をもってお預かりさせて頂きますね」

「よろしくお願いします」

「はい。それと……少しよろしいですか?」

「はい?」

 近寄って来たファニエルさんが頬に手を当ててきた。何かを拭うように振り払い、笑顔を向けて来る。

「いいえ。無理しないでくださいね」

「ありがとうございます」

 カードを向けて料金を支払い、ムギは笑顔のファニエルさんに連れていかれてしまった。

 学校行かなきゃ――一気に足が重くなってしまった。

 学校が終わったら今日は絶対にお金を稼ぎたい。

 後ろ髪を引かれる――ムギに依存しないで。一人ぼっちのぼくがうるさくて嫌になった。

 ムギの心配はいらない。天使に預けておけばまず間違えない。

 薬の材料が足りない。現地調達しなければいけない。今日中に作って明日には彼女に……名前なんだっけ。アン……だっけ。アンに渡さないといけない。

 電車に乗ってしばらく――学校へ。

 学校は何時も通り――じゃかった。

 校門へ入ると、何時か傘を預けてきた女の人が仁王立ちしていた。

「お前とは今日限りで終わりだ‼ 婚約も破棄する‼」

 えっ。なんだ。えっ。あっ。名家の人達か。名家と言うのは街において重要な役割を持っている家々の呼び名だ。

 表四家を筆頭に名家(めいか)と呼ばれる家の人達がいる。大手企業だったり、その傘下の中で重役になったりしている人達の事で、昔存在したと言う貴族がモデルになっている。

 他の街では華族とかそう言う風に呼ばれたりもするらしい。

 庶民とはちょっと違った価値観や生活体系が確立されているらしい。最たるもので婚約と言うものがある。

 家同士の繋がりを強くするために幼い頃から婚約者が存在するのだそうだ。

 触らぬ神に祟りなし――人だかりが出来ていて、みんな興味本位で見ているけれど、ぼくには関係のない話だ。

 なぜ婚約等に詳しいかと言えば、イミナにも良くそう言う類の話が来ていたから。ちなみにイミナには婚約者はいない。

 関係のない話……婚約破棄を言い渡された女性と目が合い、手がこちらへ向けて来るように促している。周りを見回して、横へズレたりしたけれど、その手はぼくを追従してきた。

 おずおずと近づくと差し出された日傘。ちょっと見かけないタイプの質の良さそうな日傘。持てと言う事なのだろうか。受け取って持つ。開いた日傘からは良い匂いがした。

「ふう……何をおっしゃるのかと思えば。それでその隣の方と一緒になるとでも言うのですの?」

 婚約破棄を告げた男の隣にはイイ感じの眉毛の女性が困惑の表情を浮かべて立っていた。なんかこの男女二人、何処かで見たことある。

「そうだ‼ 君の横暴にはもう耐えられない‼ 俺は彼女と一緒になる‼」

「横暴って……貴方とは数えるほどしかお会いしておりませんが。それにお家の方はご存じですの? 大体学校の前で行う発言ではないと思うのですが」

「君は納得しないだろう。決闘で白黒つけようじゃないか。俺が勝てば婚約は破棄。君が勝てば君の言う通りにしよう」

「……なんですのそれ。わたくしの事は何にも考えておりませんのね」

 男が何かを投げた――危ない。石だったら怪我する。性質が戦士でも石は痛い。スナップハンドでそれを掴んでいた。手袋……手袋なんで投げたの。

「ふんッ。なるほどっ。そう言う事か。そいつが君の代理と言う事だな‼」

 えっ。何が。何が何が。

「貴方……そうですの。わたくしのために戦うと言うのですね。まったくいい子ですわ。わたくしの傘を持つに相応しい男(おのこ)ですわ。よろしい。このままでは学校に迷惑がかかります。決闘は授業が終わってから、お互いの名誉のために人気の無い場所を準備しましょう」

「わかった。では放課後」

 みんなが学校の中へ入って行く。日傘の中の女の子は少しばかり悲しい表情をしていた。モデル体型と言えばいいのだろうか。メリハリがあり制服が良く栄える。ずーん。どーん。地味。そんなぼくとは全然違う。身長はぼくより高いのに体重は軽そう。イミナはもっとムチムチしているけれど、イミナとは違う嫋やかな花を想像させてくる。

「巻き込んで申し訳なく思うわ。参加費用に五十万。勝てば二百万お支払いいたしますわ。負けても百万お支払いいたします」

 なんだかイラっとした。ぼくはこの女性の事何も知らない。けれど、女性に悲しい顔をしてほしくなかった。

「参加費は十万でいいです。勝つので五百万お願いしますね。負ければなしで構いません」

 女の人は少し驚いた表情をした後、ニンマリと唇を曲げた。

「ふっかけるのね。それでこそわたくしのために戦う戦士でしてよ。よろしい」

「あっ後、勝ったら頬に触らせてください」

「ふふふっ。女の顔に触れたいだなんて。それは却下です」

 女の人はぼくが勝つとは思っていないのだろう。

 授業が始まって、普通に授業を受けた。朝の出来事は少し話題になっていたけれど、別段そこまで騒がれもしなかった。

「ちょっと来てくんね?」

 休み時間、そう呼び出されてトイレに連れ込まれ、絡まれてまたカツアゲされた。

「コイツ‼ 放課後決闘うけるんだってよ‼ マジ受けるんだけど‼」

「よわっちい癖によくやるよ‼」

 腹に膝打ちとパンチを何発か受けた。

「おらっ早くだせよ‼」

 カードに千円を表示して受け渡す。ぼくの他にも連れ込まれている男子はいて、お金を払わないと顔まで殴られていた。どうして学校はコイツ等を放置するのだろう。言わないから気づかないのだろうか。やっと解放されて授業を受けて放課後。

 授業が終わり支度をしていると、女の人が呼びに来た。

「決闘は武道場をお借りして行います」

 女の人が肩を掴んで来た。

「本当に申し訳ない事をしました。危ないと思いましたらすぐに棄権なさってください」

 朝とは違った複雑な表情だった。

 結論から言うとぼくは決闘相手をボコボコにした。

 問題はあった――武道場へ行くと、相手の男と女。そしてぼくからカツアゲする人達がいた。一対一とは言っていないって言う話しなのかな。

 相手は婚約破棄を告げた男だった。

「コイツ等は証人だ‼」

「うぃーす」

「貴様ら……」

 さすがのお嬢様もガチギレしていた。

 やるなら徹底的にやる。徹底的にやる。なぜなら報復や逆恨みがあるから。前に出て来た婚約者の男を開始同時に戦闘不能にした。ゴーストウォークから慣性を乗せた拳を叩きこむ。斜め上に持ち上げるように打ち上げるのがコツだ。体が浮いて体重で逃げられない。魔物相手ならアンプルを使って反応速度を上げないといけないけれど、人間相手なら問題ない。学生の平均レベルは三十~四十。高くて五十ぐらいだ。

 レベルには上昇負荷が存在し、男性なら八の倍数、女性なら七の倍数に到達すると負荷が増す。レベル五十を越えると劇的に上がらなくなるらしい。肉体的上昇負荷値とか呼ばれて研究されている。性質自体の研究はそこまで進んでいないらしい。

 ぼくはレベル十五付近で闘気法を覚えたのであまり実感がなかったけれど。

 基本的に魔物にもレベルは存在し、魔物のレベルは種臓に依存している。魔物と人ではレベルの形も違い、個体差はあれど魔物のレベル二十は人のレベル三十に相当する。

 つまり同レベルでは魔物の方が強くなる。

 特に神経系が人よりはるかに優れていて、常時人の反射神経並みの速度で動く個体も存在する。

 個体差はあれ、魔物ではアンプルを使って強化しないと反応速度が追いつかないけれど、人間相手ならアンプルを使わなくても対処できる。

 生々しい音がして肋骨が折れた音がした。支えて降ろす。呼吸困難になるよね。

「は?」

「全員が対象でいいのね?」

「は?」

 この場にいる全員をボコボコにする。性質が戦士と言えど骨は折れるし怪我をする。レベル差を使ってぶん殴れば相手は傷つく。体格が大きくとも強度が同じなので骨は折れる。

 トラの威で相手の動きを阻害して逃げられなくする。

 ぼくは暴力が嫌いだ。

 でも対人戦は探索者に必須だ。

 リーチの短いぼくの攻撃は相手の防御に簡単に阻まれるし避けられる。

 だから考えた。最初から防御している手を狙えばいい。


 今日、この場に、天使はいない。


 ぼくは早くて器用で運がいい。そして格下に有利だ。盗賊と言う名のチンピラがぼくだ。

 最初の一撃で戦意を削ぐ痛みを与える。腕の骨や足の骨を折る。顔や腹を殴る必要は無い。ぼくのリーチは短い。相手の腹や顔を殴るより相手の攻撃が入るリスクの方が高い。

 戦意を削いだら後は追撃で一人ずつボコボコにする。

「お金返して」

 そう言いながら男の襟首を掴み顔面を殴る。

「お昼にカツアゲしたお金返して。どうしてここにコイツ等がいるのか理解不能だけどお金返して。今まで取ったお金返して。ごめんなさいって言って。後カード出して」

 一人ずつ殴りながらカードを出させて情報を自分のカードに登録する。

「何かしたら家まで言ってボコボコにするから。後今日の事誰かに言ってもボコボコにするから。早く謝って。後今まで取ったお金返して」

 何か喋ろうとすると殴る。

「早く謝って」

 喋ろうとすると殴る。

「早く」

 拳が痛い。皮が剥けていた。握った拳がそのまま硬直してうまく開けなくなっていた。拳のまま筋肉と骨が硬直している。右手は怪我もしているから余計に痛い。

 ぼくは暴力が嫌いだ。

 全員に言質を取ったら殴るのをやめる。

 ぼくは暴力が嫌いだ。でもぼくは暴力を振るう事でしかお金を得る手段を知らない。人間相手に暴力を振るわなくとも魔物相手に振るっている。

 ぼくは暴力がきらいだ。殴られた時の痛みを思い出すから嫌いだ。

 ぼくは暴力が嫌いだ。高揚するところが二倍嫌いだ。ぼくは強い。こんなにすごいんだぞと勝ち誇ろうとする自分が嫌いだ。そんなの自慢することじゃない。情けない。ダサい。子供みたいで嫌だ。

 でも理不尽なのはもっと嫌いだ。

「勝ちました」

 お嬢様の傍に行き、そう告げるとお嬢様は尻もちをついた。

「……いえ。貴方、何者?」

「普通の学生です。探索者登録はしてますけど……」

「ごめんなさい。起こしてくださる?」

 手を出そうとしてやめた。両手が血まみれだった。

「ごめんなさい。両手がこれで」

「ぷっ。そうでしたわね。自分で立ちますわ」

 立ち上がったお嬢様はお尻の埃を払った。

「貴方、わかっていてふっかけましたわね?」

「そうですね。事後処理お願いしますね」

「わかっていますわ。勝利宣言してきますわね」

 お嬢様が前に出た。全員一応命までは奪っていない。救護班は呼ばないといけないけれど、名家なので処理してくれると考える。

「決闘はわたくしの勝利と言う事でよろしいですね? 正式にわたくしの方から婚約破棄を申し上げていただきますわ。これに懲りたら決闘などやめることね」

 決闘の勝敗を決める第三者はいないのかなと、そいつもぼくがボコボコにしてしまったらしい。

「では行きましょう」

 武道場を後にすると、婚約破棄した男の相手の女性までついて来た。

「ん? 貴方、どうかしまして?」

「あっあのっ。あの。今回はすみませんでした。私のせいでこんな事に」

「そうですね。自覚なさったほうがよろしいですわ」

「私、あの方に電車で暴漢から助けていただいたのですが、お礼を兼ねてお食事に招待いたしまして、なぜだかそれから多分です、けど、好意を抱かれてしまったようでして」

「あら? もしかして貴方にその気はなかったのかしら?」

「はい……。あの。私のせいなんです。婚約者がいらっしゃるのに、私とお付き合いは無理ですよって言ってしまって、私、まだ中等部ですし……そしたらこんな事になってしまって。ちゃんと断らなかった私の責任です」

 誰も救護班を呼ばないので話をしり目に救護班に連絡する――入り口を出ると外にいた大人の方々が中に入って行った。ちゃんともみ消してくれそう。

「そうですね。貴方がしっかりと断らなかったのが悪いですわ。曖昧な返事ではいけない事があります。押しが強くしつこい殿方もおりますので、対応はしっかりなさった方がよろしいと存じますわ。はっきり言って今回は貴方がしっかりと拒否しなかったことが原因ですわ」

「ごめんなさい。今回の件は私、戸部マリアがしっかりと責任をもって対処します」

「貴方、戸部家の方ですの。なるほど。まぁいいですわ。わたくしも婚約者の事などあまり考えてはいませんでしたから」

 水道の蛇口を捻り手を洗う――いたたたた。

「大丈夫ですか? ごめんなさい」

 さっき聞いた名前、戸部マリアさんがハンカチを持って来て手を拭ってくれた。

「お強いのですね」

 こんなのゴミだ。なんでこんな決闘なんて受けたのだろう。今になって少し後悔していた。何の意味もない。恥ずかしいだけだ。今回の件で妹やリザに迷惑がかからないか心配。

 見上げて来たマリアさんの様相に、電車の中で見た眉毛を思い出した。あの時の女の子みたいだ。どうでもいい。

「今回の件。しっかり処理してください。ぼくの事は他言無用にお願いします」

「……変わった子だとは思っておりましたけれど、こんな子が在野に生まれていたなんて」

「お嬢様。詮索とかもやめてください。ぼくにも家族がいます」

「今回の件はこのわたくし。大納言大友ノ雪太郎丸春ノ香であるこのわたくしが責任をもって対処いたしますわ」

 だいな……だいな、なんだ。ハルノカ。名前長いな。経吉と同じ感じの御家なのかな。

「本当にすみませんでした」

「お詫びは体でいいよ」

「……え?」

 ぼくはマリアさんの手を強引に掴んで引っ張った。

「ホテル行こ」

「あのっ。えっ? でも?」

「これだけの事をしたんだよね?」

「……すみません」

 大人しく引きずられるマリアさんを見てため息を付いた。

「なんで断らないの?」

「え? あの……」

「あのじゃないでしょ。君みたいな人が浮気するんだ。君みたいにはっきりしない人が、人を傷つけるんだよ。自覚して」

「……すみません」

「あんまり人の事をとやかく言う資格なんてぼくにも無いけど……」

「本当にホテルに行くのかと思いましたわ」

「未成年じゃホテルなんて入れませんよ……」

 二人ははっとして顔を見合わせ苦い顔をし少し笑った。彼女達の経済力なら入る事が可能なのかもしれない。

 意思が弱くて他人に依存する。母を思い出して嫌な気持ちになった。意思が弱くて他人に依存するのは自分も同じだと浮き彫りになり嫌になった。

「報酬の五百万ですけれど、申し訳ないのだけれど、今手元に二百万しかないのよ。残りの三百万円は後日の一括払いか、分割にしてもらえるかしら?」

 して頂戴と言わない当たりにお嬢様の貴賓を感じる。

「わかりました」

「必ずお支払いいたします。今回の件、非常に助かりましたわ。情報は必ず秘匿し、関わった者全員に絶対契約を結ばせますので」

 絶対契約とは重要な契約や名家同士の重要な契約に使用される契約の事だ。その名の通り交わされた約束は血の契約となって絶対に守られる。破棄できない。抜け道はいくつかあると聞いた。

 婚約破棄に関して、向こうから破棄するか、こちらから破棄するかでもお家の格に響くらしい。そんな小さい事まで気にしないといけないなんて名家は大変だ。

「急には無理だと思うし、優しいのは言い事だと思うけど、ちゃんと断る時はきっぱり断る。いい? 一度の間違えでも取り返しがつかない。念を押すけどね」

「……すみません。ありがとうございました」

「必ず守って」

 さらに念を押す。

「怖い顔するものじゃなくてよ」

 春ノ香――髪の表面、沈むような圧力、掻き分ける指の感触に表情が崩れる。正しくあるのは難しい。誠実である事はさらに難しい。

 寂しい時、優しい人に付け込まれる。

 悲しい時、傍にいてくれる人に付け込まれる。

 自信の無さを痛感し、話し上手でお洒落な相手に付け込まれる。

 いざ自分が不安定になった時、簡単に連絡が取れる友達と言う名の異性に付け込まれる。

 なぜって、ぼくの父(アレ)がそうだから。そうやって女性に付け込み陥れる。

 ぼくは弱いからいっそう気を付けないといけないし、そんな女性の傍にはいたくない。

 なぜって、ぼくの母(アレ)がそうだから。

 付け込む方と付け込まれる方ではあるけれど……。

 ぼくは二人みたいになりたくない――そうは言っても多分、同じなんだ。

 なぜぼくからカツアゲする人達が一緒にいたのかと言う話、どうやら彼らは決闘相手の男性に話を持ち掛けたのだそうだ。

 名家は金になるとでも考えたのかもしれないし、男の方も利用できると考えたのかな。

 マリアさんのお家、戸部家は庶民のぼくが知っているぐらい有名な名家中の名家だ。

 男としても大納言家より、戸部家の方がいいと考えたのかもしれない。

 どちらも美人で綺麗だし、この二人のどちらかを甲乙つけるとすれば後は家の差だったのかもしれない。

 男性はフォルダー別保存、女性は上書き保存と言うけれど、個人的には男性は女性に対する好感度が全て100%になり得て、女性は100%の中から分散して振り分けられているのだと感じる。

 つまり男性は、Aに対して100%、Bに対して100%、Cに対しても100%が可能なのに対して女性は、Aに対して60%、Bに対して30%、Cに対して10%と分散されるのだと感じる。

 60%でAが一番大切だけれど、何かしらの理由がってBが40%、50%とあがると、反比例してAが50%、40%と下がって行く。Bは50%になりAが40%になるとAよりもBが優先されると言う仕組みなのだと感じる。

 男性はAが60%で、40%であるBが50%に上がってもAの60%は下がらない。全部が別に感じる。

 個人の感想だし勝手な言い分だとは自分でも察する。

 戸部マリアと香お嬢様がぼくの傷んだ手にハンカチを巻いてくれた。

 もう関わる事は無い。

「それでは……あとはよろしくお願いします」

 ペコリとお辞儀をして離れた。臨時収入としては破格だ。でも同時にそれだけリスクのある案件だった。負けてボコボコにされる事もあったし、負けた事でぼくは決闘に負けた落胤を押されることとなり、又大納言家に恥をかかせた存在になる。名家に嫌われるのは銀行のブラックリストに乗るのと一緒だ。ネットで聞いた話が本当ならの話しだけれど。


 機関へ向かう。

 電車に乗っている間、手が痛かった。なんでぼくはあんな馬鹿な事をしてしまったのだろうと冷めて来た頭で考えていた

(自尊心は満たされた?)

 そう自分に言われてそんなわけないとは言えなかった。

(何時もカツアゲしてくる奴らをボコボコにして爽快だったんでしょ?)

 そんなわけないとは言えなかった。

 思考を切り替えて、ムギを迎えに行かなきゃいけないと。

 手、どうしよう。まずはムギを迎えに行ってから対処しようか。救護院は嫌だな。アンプルは作るのが手間だし、傷薬もただじゃない。

 この痛みを自分への罰として後ろめたさを誤魔化していた。

 そうこうダラダラしている間に機関に到着してしまった。

 カウンターへ向かうとすぐにムギを呼んできてくれた。

「すみません。遅くなりました」

「おかえりなさい。ほら、ムギちゃん。お迎えですよ」

 ムギはこちらを見ると駆けて来て服に抱き着いて来る。頭を撫でようとして手を見る。

 他人に暴力を振るった手でムギに触れるのか。その汚らわしい暴力を振るう手でムギに触れるのか。ムギは何も知らない。ムギには関係ない。

「……ごめんねムギ。遅くなっちゃって。ごめんね」

 立ち膝をついて、ムギを腕だけで抱きしめた。

「……お兄ちゃん馬鹿だから。ごめんね。遅くなって」

 ムギの熱がじんわりと伝わってくる。

「手、手当しましょうね」

「……え? でも」

「かまいませんから」

 ファニエルさんが手に触れて来て、その綺麗な手がぼくなんかの汚い手で汚されちゃダメだと引っ込めようとして、強く掴まれた。柔らかい他人の手、指の一本一本の圧力が手首を抑えていて、心が抗いたくないと動きを止める。

「いけません‼」

「……はい」

 医務室へ連れていかれて、椅子に座って、手の状態を観察され、消毒され、両手で包まれると、ゆっくりと傷口が塞がっていった。

 ムギが隣で見ていて不安そうな表情で苦笑いしてしまう。

「自分を卑下してはいけません。大切にしてください」

「……はい」

「貴方に何かあれば、私は悲しくなります」

「……すみません」

「午後からはどうするのですか?」

「……ダンジョンに挑もうと思っています」

「なおさら怪我には気を付けてください」

「……はい」

「はい。完了です」

 すっかり痛みの引いた両手、でも腫れだけは残った。

「あっありがとうございます。料金はいくらでしょうか?」

「……私は貴方の監護者です。これぐらいは自分の意思でしますよ」

「そんな……お支払いします」

「迷惑をかけたくないと思うのなら、怪我をしないでください」

「……はひ」

「私は貴方の監護者です。少しばかり他人より融通はします。貴方は天使ポイントを消費しているのですから、これは正当な権利です」

 包帯まで巻いてくれた。

「……すみません」

「午後からダンジョンに挑むのでしょう?」

「はい……」

「気を付けていってらっしゃい」

「はい」

 一旦お家へ帰り、お昼ご飯を食べる事に。もう午後二時を過ぎていた。

 最寄りのスーパーへ。

 豆乳、摺りごま、消費した干しシイタケの粉、豚骨スープの素、キャベツの千切り、ウィンナー。ムギのお菓子にグミ、チョコレート、ビスケット、煎餅を少量ずつ。最後にモモとりんご。どちらか迷ってお高いリンゴを買った。イミナのお見舞い。

 レジに向かい、籠を台に乗せて硬直した。

「いらっしゃいませー」

 リザがいたからだ。

「袋は入りますか? あたし用のチョコも入れておきますねー。今日の御夕飯は餃子がいいな。餃子の皮もいれておきますねー」

 気のせい。他人の空似。

「はい。おねがっえ?」

「半で終わりだから少しまってね。袋は五円でーす。一緒に帰るよー。煎餅もご一緒にいれておきますねー。ひき肉がありませんね。でも大丈夫。ここにあります」

「いや……」

「合計で二千三百二十八円です。カードでよろしいですか?」

「え……や」

「嫌じゃないよー。先に帰るなよー。カードでよろしいですね?」

 余計な物はいれないでよ。

 どうやらリザで間違えなく、お店から出たら備え付けのベンチに座ってリザを待った。待っている間にムギに餌付けする。

 丸型チョコレートを取り出して紙包みを開き口に入れ反応を見る。

「どう? 美味しい?」

 ムギは服を掴み、グーパーグーパーと緩急をつけて握って来た。美味しいみたいだ。

 次はグミの入った袋を開き、一つを摘まみムギの口へ。

 一口噛むとムギはぼくを見て、瞳孔が大きく開いていた。初めて食べたみたいだ。

 頭にキスをする。シャンプーの匂い。桃とイチゴに近い匂い。最近は自然のものがブームで、石鹸とかシャンプーとか無添加とかそう言うのが流行っているしい。

 ムギを思えば、そう言うものを使った方がいいのかもしれない。

 煎餅を取り出して袋から出す前に割、袋を開けて欠けた煎餅を取り出して咥えた。薄い塩味。ムギがこちらを見ており、煎餅を取り出して与える。硬い煎餅は歯や歯茎に良いかもしれない。お腹が減っているのか、噛むのに必死なムギを抱きしめて、頭にまたキスをした。

 ムギは噛むことに集中しながらもぼくを見上げていて、服を掴んで体を寄せて来て、手で引き寄せて支えた。

「はーやっと終わったわ」

 そうこうしているとリザが来る。化粧ッ気のないリザは思い切り伸びをして、ぼくの隣に座った。リザの体重でベンチが沈むのを感じ、乱暴に座りすぎだとリザを見て息を吐く。

 そんなぼくを見て、リザは気にするでもなく笑顔を向けて寄りかかって来た。

 ぼくの手から煎餅を取り上げて欠片を口に咥える。

「ひどくやったわね」

 そう言われて、リザの視線がぼくの手の包帯に向いていた。

「舐めたげよっか?」

 その次のセリフに笑ってしまう。

「もう治してもらったよ。腫れてるだけ」

「ふーん。天使に?」

「うん」

「噛んでいい?」

「……ダメに決まってるでしょ」

 リザの笑顔に何だか癒されたような気がした。でも何処かイミナの面影が重なってまた比べているとため息が漏れる。

「ねぇ?」

「んー?」

「あたしがヤバくなったら助けてくれる?」

「なんか悪い事したの?」

「してねーよ‼ どうなのよ‼」

「できることはするよ」

「命賭けられる?」

「……それは無理かも」

 たった数日知り合った人のために命をかけられない。そうは考えつつも、もしいざリザが大変になり、結果的に死にかけるとしても容認はすると心にはある。

「そこは賭けるって言いなさいよ」

「その前に、そもそも変な事しないで」

「うっさいわね。じゃあ、あんたの大好きなイミナちゃんのためなら命賭けられるわけ?」

「べっべつに好きじゃないもん」

 なんでこんなに動揺しているのか意味不明。顔に血液が上がって来て唇が上手に動かなくなり手で隠す。

 リザはそんなぼくの手を取ってニマニマしていた。リザの手、掴まれ、強引に口から手をどけて来る。力が強い。もしかしたらぼくより強いかもしれない。

「ちょっと」

「でっ? どうなのよ? 賭けられるの?」

 まともにリザの顔が見られない。

「……賭けられるよ」

 リザはフッと噴き出すように笑った。そして顔を背けている。リザとイミナは違う。イミナには明確に命を賭けられる。そこに損得は関係ない。

「あたしには賭けられないくせに……そんなに聖女が好きなわけ?」

「好きとか……嫌いとかじゃないよ」

「好きな癖に」

「ほっといてよ」

「好きな女がいる癖に、他の女と寝るんだねー」

「そう言う言い方はやめて」

 ムギに聞かれたら困るとムギを見ると、ムギは興味なさそうに胸に埋もれていた。

「……正直に言うよ。リザってイミナに良く似ているの。だから、何処か重ねている部分があって、それが辛い時がある。ごめん。リザはリザなのに。最低なの良くわかる。代わりにしてるわけじゃないって言いきれなくて……」

「……ふっふーん」

 なんでニマニマしているの。リザはやっぱり悪女な気がする。

「あたしねぇ。あんたの事好きよ」

 動揺している。ひどく動揺している。

「……カモだから?」

「違うわよ。好きなのよ。寧々。あんたの事がさ」

 リザの目が真っすぐにぼくを見ていた。その手が頬に添えられて撫でられる。体温に柔らかい毛並みが気持ち良くて、閉じようとする目を閉じないように我慢するから少し痙攣する。

「……からかって。何時かいなくなるくせに」

 絞り出す言葉。拒絶の言葉。自己防衛の言葉。

「今はそれでもいいわよ」

 顔が近い。柔らかい息が口元を撫でて痺れるように動けない。近づいてくる顔に目を閉じ。

「イミナが好きなの」

 なんでイミナが好きって言っているの。

「知ってる」

 なんで知っているの。おでこに押し付けられる感覚、何かを体温的な何かを押し付けられる感覚。目をゆっくり開くと、イミナの顔がすぐ傍にあった。唇が触れるか触れないかの距離に自分から前に出て唇を押し付けようとする自分がいる。そんな事は許さない。接触したおでこが熱くて痛い。

「大好きよ寧々」

 息が荒くなっていくのを自分でも感じていた。

 ゆっくりと頬に頬が擦れる感触。頬で頬を撫でられる感触。体中が自分の意思に反して硬直して。痛い。もっとと求めて。ダメだと反発する。絶対にダメ。手に力を込めてリザを引きはがそうと。セーブしていた力を徐々に解放しているのに、リザの込めている力が強く驚く。

「チュ」

 耳元で音がしてリザはぼくから離れた。

「うーッ」

「ふふふっ。可愛い奴」

「……こういうのやめて」

「イミナが大好き。愛しているって言うならやめてあげる」

 なにそれ。

「……そんな事、言えるわけないでしょ」

「あー言わないんだ」

「言ったらやめてよ⁉ イミナがだっ……くっくゆ。だいっくゆ。だいゆきだから。だっ……うぎぅ」

 なんでムキになっているの。自分でも焦って何がなんだか冷静になれない。

 好きだって言葉が出てこない。なんとか絞り出した言葉が全然ダメ。

「ふひっ……いいわね。がんばれがんばれ」

 なんで応援しているの。

「あい……あいしっ。くゆう……。あっ愛してるかや。うー……」

「あたしも愛してるわ」

「もー‼ 帰う‼」

 帰るって言いたいのに。

 ぼくたちは血が繋がっていないけれど、なんだか本当の家族のような気がして、それが違うとわかっているのに、リザとムギが手を繋いでいて、ムギの反対の手をぼくが握って。

 なんでこんなに、イミナと一緒にいる感覚するのか、ひどく混乱して、嫌になって嫌になって。イミナに無性に会いたかった。

 ぼくを見るリザの目が、その目が、妙にイミナに似ていてひどく苦しくて苦しい。

 恨めしくリザを見ると、リザはその顔を見てニマニマしていた。

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百鬼夜行燈 一般通過盗賊(シーフ】の日常。魂の職業が盗賊のボクが一般社会から犯罪者として冷遇されるのは当たり前だけど実はサイキョウな件について。 柴又又 @Neco8924Tyjhg

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