第29話 ムギ

 「だぁーただいまぁ」

 ムギの瞳は寧々を捕らえた瞬間に好感で満たされていた。暴力を振るわない。嫌な事をしない。近所のスーパーで買って来たであろう花束と荷物を置く寧々を待っていた。こちらに近づいてくると鼓動が高まる。抱きしめられるのには少し体に抵抗が起こるけれど胸に抱きしめられるとトロンとする。心臓の鼓動が聞こえてトロンとする。それは嫌じゃなかった。続いて頬擦りをされる。頬に頬を寄せられる。

 そのまま持ち上げられて抱えられて、コメカミや頬に唇が寄せられる――その行為の意味がムギには理解できなかった。

 しかし柔らかい唇の感触に心臓が何度も波打って得体の知れない気持ちに襲われる。上手に動けなくなる。動くのがまどろっこしくなる。もっとしてほしい。もっと触れられたい。

 それなのに体と思考の何処かでは警戒音が鳴る。

 寧々の表情を見る――笑みを浮かべる寧々の表情に安堵し、嫌な事をする誰かの影と重なって体が硬直する。寧々の表情は変わらないのに、ムギは自らの表情から感情を悟られたと感じた。体が硬直するのを悟られた。

 何時殴られるのか、何時嫌な事をされるのか、何時ののしられるのか、寧々に重なった影がムギの思考に深く根を下ろす。

 それと同時に優しくされるのを恐れる。好きだという感情を恐れていた。裏切られるのが怖い。優しさの次に来る絶望が嫌。初動から導き出される結末が、何時も決まって心を痛めるもので辛い。

 今、現実に嫌な目に合っているわけではないはずなのに、思考だけでムギの心は傷ついていた。

 頭に唇の感触。

「大丈夫大丈夫。大丈夫だよ。ムギ」

 そう言われるたびに嫌な思考は払拭されるのに、離れるとすぐに暗い痛みに支配される。それはムギの心がひどく傷ついている事を意味していた。

 確かめるように肌を寄せる。抱き着いても怒られない事にひどく安堵する。服を掴んでも怒られない事に安堵する。払拭された未来の映像に安堵する。

 もう殴る人はいない。もうののしる人はいない。

「今日はカボチャのスープ作るからねぇ」

「あらおかえりぃ」

「ただいまぁ。はい。これお土産」

「なにこれ?」

「翡翠の香炉」

「これが翡翠? ほんとー? 人工石でしょ」

「翡翠知ってるの?」

「知らないわよ。でも、せっかくだから受け取っておくわね。ありがとう。お礼にチュウしてあげよっか?」

「……それはいいよ」

「おっぱいが良かった?」

「リタ‼ ムギの前でそう言う事言ったら怒る‼」

 一緒に暮らしている獣人の人の事はムギも良く理解はしていない。ムギは寧々の事もロザリタの事も、家族とすら認識していなかった。

「そっちの花束は?」

「ファニエルさんに。お世話になったから」

「あの天使なら定時に帰ったわよ」

「え⁉ そうなの⁉」

「帰っておりません。おかえりなさい寧々さん」

「たっただいまです。あっあの‼ こっこれ……お世話になったのでお礼にとおもって」

「素敵な花束ですね。ありがとうございます」

「あたしと態度ちがうんじゃない? 犯されたいの? そっかー。犯されたいからそんな態度取るんだね。良く分かったわ‼」

「よくわかってない‼」

 手を出そうとしてくるリザの手を寧々は手で払って威嚇した。

 全然わかってないと威嚇音を鳴らす。


 ムギは家族を理解していなかった。

 聞いていないので母の名前という概念が無い。習っていないので箸の持ち方という認識がない。だからムギは寧々の事もロザリタの事も、傍にいる同種の大人と言う認識しかしていなかった。

 それはペットの猫と父母の区別がつかない事と同義だ。

 寧々に触れられても痛くないから触れてもいい。抱きかかえられると心がじんわりするので抱きかかえられてもいい。認識としては本能と一緒だった。

 それは痛いから叩かれるのは嫌。甘いと言う味覚が体にとって心地良いから砂糖が好きと言っているのと同じだ。習っていないので真似するしかない。寧々やロザリタを真似して自分を確立しようとしている最中だ。

 

 ムギは今のこの生活が嫌いじゃなかった。同時にやはり怖かった。だから言われたことだけをする。寧々が望むことだけをする。そうすれば嫌われないから。望まれる事だけをすれば、寧々は殴らない。攻撃して来ない。寧々の攻撃の引き金を引かぬように望まれる事だけをする。

 一緒にお風呂に入った。ぽかぽか。

 寧々が丁寧に頭や体を洗ってくれる。湯船に浸かる。

 湯上り、着替え、席に座って夕食を食べた。ぽかぽか。

「ムギの新しいお洋服買ってきたんだけど……ちょっと不安だから、一回洗濯してから着ようね。今日はぼくの服で我慢してね」

「うまっ……あんた料理得意よね」

「……普通だよ」

「普通でこんな美味しいスープは出てこない」

「……カボチャが良いから」

「これ、浮いているのってパンよね」

「……パン」

「スープが染みて美味しいわねぇ。それにすごいモチモチしてる。あれ……もしかして宿儺?」

「……よくわかったね」

「本当に美味しいですね」

「お口に合えばいいのですが……」

「とっても美味しいですよ。料理が趣味なのですか?」

「そういうわけじゃないですが……よっ良かった……です、その、へへへっ」

「チッ。マジできもい」

「……それは言い過ぎでしょ」

「デレデレしてるお前が悪い」

 ムギはカボチャのスープを一口含む。果実だけを丁寧に裏ごしし作られたカボチャのスープは甘くて濃厚で今まで食べたことのない味がした。脳が蕩けるような感覚に襲われた。言われてないからダメなのにスプーンが止まらなかった。撥ねたスープが頬や衣類に付着して戦慄した。殴られる――恐恐と寧々を見る。寧々が笑顔で怖かった。隣にいる獣人の人は音もたてずに丁寧に飲んでいて、自分がやらかしたことを悟って心の防御を展開した。

 寧々の手に握られる布巾――頬が拭われた。頬を撫でられる。

「美味しい?」

 怒られない。ムギは上目遣いで寧々から目を反らさず、スプーンでスープをすくって飲み込んだ。手が止められない。美味しい。もっと飲みたい。ダメなのに抗えない。柔らかく弾力のあるパン――しみ込んだスープが口の中いっぱいになって、柔らかくて美味しくて、モチモチしていて甘くて複雑で。

「いっぱい食べてね」

 おかわりしても怒られない。

 自分が美味しく料理を食べることが、寧々を喜ばせる方法だとムギは学習した。美味しそうに食べれば攻撃されない。

 学習した。抱きしめられて、拒否しなければ攻撃されない。学習した。寧々を学習した。触れるのを拒否しなければ攻撃されない。学習した。

「では、寧々さん。時間を過ぎましたので、私は機関へ戻ります」

「ファニエルさん。本当にありがとうございました」

「いいえ。何かありましたら私を頼ってくださいね。花束ありがとうございます」

「いっいえ。こちらこそお世話になりました」

「こちらは私の非常用コードとプライベートコードになります。特に用がなくともプライベートコードは利用してかまいません。非常用コードは非常時にお使いになってください」

「……何から何まですみません」

「かまいませんよ。いい子ですね」

 頭を撫でられ、飛び立つ天使を寧々は見送る――夜空の先は満点の星(ホログラム)。

「ムギ。湯冷めしちゃうし部屋に戻ろう?」

 手を引く寧々を見ていた――温かい手に握られて、寒さすら忘れそうになる。

 台所で洗い物をしている寧々を見ていて、胸の奥から湧き上がって来る要求に抗えず服を握った。洗い物をする寧々がこちらを見て、恐恐とした。攻撃される。寧々は笑顔だった。攻撃されない。学習した。

 ムギの心の奥底から飢えのようなものが沸き上がってきた。心の奥底にあった抗いがたい欲求はムギを暴走させた。背後から背中に抱き着いてしまった――やってしまった。やってしまった後に後悔してムギは寧々を見上げた。怒られる。攻撃される。拒否される。

 口を開けて見上げた先の寧々――怒られなかった。攻撃されなかった。拒否されなかった。

 驚いたように寧々が背後を振り返り、その表情をムギは見た。今まで一度も向けられたことのない表情だった――否、これまで何度も向けられてきた表情だった。

 柔らかく崩れて形作られた表情。まるで愛しいものを見るかのような表情にムギは目を反らして強く抱き着いた。もどかしい。もどかしい。

「あたしが茶碗拭いてあげよっか?」

「え? いいよ。そのままで。仕舞う棚もないし」

「えーじゃあこのまま放置するわけ?」

「……そうだけど」

 怒られない――もどかしい。もどかしい。

 終わった茶碗洗い。ムギは動けなかった。体がふにゃふにゃして動けなかった。手を伸ばしてしまう。怒らないで。拒否しないで。押さえつけて来たものがムギの内側から押し寄せてきて抗えなかった。

 それを知ってか知らずか抱きかかえてくれる。思わず寧々の肩を噛んでしまった。あむあむと何度も歯をたてて噛みついてしまう。手が寧々を掴んで離せなかった。

 頭に添えられた手が優しく撫でてくる。背中まで流れてきて、ムギは強く寧々に体を寄せた。

 歯磨きをするために降ろされるのが嫌だった。嫌だ嫌だと心の内から湧き上がって来る。離れるのがとにかく嫌だった。それでも歯磨きはしないとダメだと諭される。渋々行う歯磨きに、終わればまた抱き着けると目は冴えていた。

 歯磨きを終えたら寝る時間だって――。

「はーい。横になってください」

 布団にゴロン――寧々のトンビ座りしたモモの上。

「ムギは猫耳だねぇ。痛かったら言ってね。ごしごーし。ごしごし。綺麗綺麗しようねー」

 傷めないように優しく優しく耳を掃除される。

「あたしの耳はー?」

「構造が違うでしょ……」

「あっ獣人差別だね」

 外側の溝を這う耳かき棒、内側を柔らかく擦る感覚と耳の通りが良くなる感触。何度も意識を失って。

「よし。反対側にごろーん」

 ゴロンするのが嫌で、でも言う事を聞かなきゃと動かす体はもどかしかった。

「はーい。綺麗になったねー」

 寝る時、寧々の顔をじっと見ていた。撫でられるのが嫌じゃない。その手が離れたり触れたりするのが心地良かった。優しい視線から目を反らせなかった。もっと見て欲しかった。

 温かくて気持ち良くて、獣人の人は柔らかくて、気絶するようにムギは眠りについた。

「あんたの耳かきもしたげよっか? 五千円に負けたげるよ?」

「……値段上がってるよ」

「あんたが獣人差別するからでしょ」

「……そんな事してないってば」

「最初いくらだったっけ?」

「……三千円じゃないの?」

「そうだったかしら」

「……適当なんだから」

「させなさいよ。噛みつくわよ」

「……それより耳出して」

「……してくれるわけ?」

「してほしいんでしょ?」

「ひっひっひっ」

 何時もの夢を見た。父親に頭から熱湯をかけられる夢だった。母親は笑っていた。

 目が覚めて、でもムギには夢という認識がなかった。暴れた景色はお風呂場ではなかった。何かを殴ってしまった感触、蹴ってしまった感触、寧々を見て絶望した。

 寧々を殴ってしまった。獣人の人を蹴ってしまった。押さえつけて来た寧々の手を思い切り噛んでしまった。やってしまった。捨てられる。壊れそうだった。自分という構造が崩れるような錯覚に囚われていた。

 寧々を見るのが怖かった――。

「大丈夫。大丈夫だよ。ムギ」

 恐る恐る顔を上げたムギの目の中に寧々の顔が映った。

「大丈夫大丈夫。怖かったね。もう大丈夫だよ」

 噛んでいた手が口から零れ落ちた。生臭い、味のある液体、赤かった。

 沸いて沸いて仕方が無かった。

 抱えられて抱きしめられた。背中を支えてくれる手。攻撃してしまったのに――理解不能。ムギの脳はひどく混乱した。自分がなぜ涙を流しているのかも理解できず、沸いて湧いて流れて落ちて、同時に自分を攻撃してきた父や母の顔が脳裏を過る――自分が重なって、そして攻撃された寧々が、自分が攻撃された時の痛みを味わっている事を同感する。

 ごめんなさいと謝る言葉は喉からでずに、呼吸すらままならないほどの嗚咽だけが漏れた。

 コメカミに寄せられた唇。理解不能。意味不明。その心理を察せられない。なんでこんなに痛くない。なぜ痛みが襲ってこない。柔らかい。気持ちが柔らかい。包まれている。

「大丈夫大丈夫」

 目が覚めた時。ムギは自分がどういう状況なのか理解できていなかった。泣き疲れて意識を失ってしまった。昨日何があったのか、何をしたのかを思い出す。

「……ごめん、起こしちゃった?」

 ムギは寧々を見た。寧々の表情を見た。その表情がムギにはたまらなかった。

 許されている――御でこに寄せられた唇の感触に酔う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る