第27話

 息を吸った所でイミナはふと気が付いた。薄暗い部屋の中、ぼんやりと瞳の中へ移る陰影、女性を模したと思われる見知った女神の陰影がそっと耳元に囁いてくる。首を傾げて耳を傾け、視界の端に映る部屋の様相、肌で感じる空気の流れ、臭いと言うには微妙な匂い、女神の声が聞こえてくる。

 甘くて凛々しく音ではない。

 その声がそっと告げてくる。

 ここは大丈夫だと――。

 イミナは横たわっていた。記憶がある。記憶の中ではヤツザザキムカデに半身を食われていた。体が真二つになった痛みを思い出し、お腹に手を伸ばすが斬れているようには感じられない。あの感覚、失ったという感覚、痛みを通り越して、意識がもう肉体としての死は避けられないと察した時のあの感覚。恐怖に似て痛みに似て、喪失に似て、後悔に似て。

 走馬灯のようにあぁすればよかった、こうすればよかったと記憶と妄想が流れる。

 やり残したことがある、まだ、まだある。あの痛みは思い出すだけで心を焦がして身に染みる。

 再生されたのを理解する。冷や汗は出たが覚悟は決めていた。

 あぁ、このニオイは不快だとイミナは掛布団のニオイに顔をしかめた。

「起きたの?」

 母の声を聴いて視線を向ける。声だけでは安心できないけれど、姿を見る事で母マリアンヌだと安堵の息を吐いた。どうやら本格的に助かったらしいとイミナの体から力が抜けた。

 母=安全域と認識することに苦笑が漏れる。

 嫌な物だ。

 マリアンヌはイミナが起きたのを認めてコトリとテーブルへ果物の乗った皿を置いた。

 イミナは現在母親が苦手だ。嫌いだと言ってもいい。

「どうしてこんな事になったかわかる? お母さん言ったよね?」

 始まった――目覚めて最初の一言から責めの文句もくれば嫌になると言うものだ。昔からこうだ。風邪になれば不摂生しているからだと責められ、体調が悪ければ日頃の行いを正しなさいと責められる。弱っている時にここぞとばかりに責めてくるのが堪らなく嫌いだ。

 最初にかけて欲しい言葉は責めの文句ではなく心配の言葉だとイミナは母親から顔を背けるように横を向いた。ロストしかけた娘にかける言葉がこれかとイミナは唇を尖らせる。

 気分は悪くないが点滴が鬱陶しい。

「頭が痛い。責めるのは後にして。あんたに責められる謂れもないけど」

 これでも我慢して言葉を選んでいるとイミナは奥歯を噛んだ。頭が真っ白になって歯をむき出し感情を露わにしそうになるのはなぜなのか。

 反対にそれが母親に言うセリフか。心配をかけた母親に言うセリフかとマリアンヌは奥歯を強く噛んだ。もっと言ってやりたい、言う事を聞けと感情が露わになりそうになり、呼吸と共に深く飲み込む。そこから先の台詞を言うのを我慢して代わりに息を吐く。

 昔からこうだ。母親をウザがる。マリアンヌも通って来た道だ。先駆者として忠告しているのに全く無視をする。後悔するのはお前だぞ。私の言う通りになったのになぜまだ私の忠告を聞かないのか理解できない。得体の知れない反発感を、かつて自分も抱いたことをマリアンヌは忘れてしまっていた。その答えは自分の中にあるはずなのにかつての母親をなぞる。

 溜飲を飲み込んで、マリアンヌは次の言葉を続けた。

「みんなに感謝しなさい」

 無事でよかったと言わない母親に対して、イミナはウザいと目を細めた。そんなイミナの頬を女神が手で撫でる。こちらの方がよっぽど母親だとイミナは女神を眺めていた。


 イミナが聖女になってからイミナには常に一柱の女神が付き添っていた。一人の聖女につき一人の女神が付きそう。従うのではなく付きそう。

 女神が本当に女神であることの証明はなされてはいないけれど、聖女は彼女達を女神と呼んだ。

 女神は聖女を正しい方へ導いてくれるとされている。

 そのために女神は聖女を使い自らの力を行使する。

 女神が背中に手を当てることで、その女神の奇跡を聖女は顕現させ行使できる。人間には扱えないような奇跡を聖女は扱うことができる。天使以外で唯一無二。肉体が残っている限り人間を蘇生させることだってできる。

 イミナもその例に漏れず、その価値は人間の世界において計り知れない。

 ただそれは良い事ばかりではなかった。今回のような誘拐は初めてではないし、強引な勧誘も後を絶たない。イミナの行動はすべからく制限がついており、それは現在のパーティにおいても行われている。表四家と呼ばれる有力者の子息、息女で構成されたパーティに所属することを余儀なくされていた。忖度しろと言うのだ。人々が頭ごなしに忖度しろと言う。

 これならば誰も文句を言わない構成だ。

 ただ庶民のイミナにとって名家の三人とは価値観が違いすぎて息がつまるのも事実ではあった。それでも前よりマシなのはわかる。

 将来は天王子と結婚するのだと勝手な妄想とレールも敷かれている。本人たちに、少なくともイミナにそのつもりはない。

 聖女が聖女であるには乙女であり続けなければならない。それは処女を失うと聖女の資格を失うからではなく、万人にとっての乙女であり続けなければならないからだ。

 子供が出来たら子供を優先してしまう。恋人が出来たら恋人を優先してしまう。ただ一人の女になった聖女に女神は付き添わない。それならば普通の神官で構わないからだ。

 聖女は全ての人にとって限りなく平等でなければならない。

 他にもデメリットはあった。

 女神はイミナに良い道を教え、そして人の暗い面を見せてきた。

 イミナには正解と思しき道筋と邪な企みが見えてしまう。

 他者が自分の事をどう見ているのか、どう考えているのかがわかってしまう。それは良いことでもあったが、悪いことでもあった。

 母親が寧々を実の息子のように思っている事も、寧々が母を実の母親のように思っていることも、父親がそれを知りつつ、実の息子を思うために寧々に壁を作っていることも、実は弟がいて亡くなっていることもイミナは知っている。

 寧々の根底にある理想の女性がマリアンヌであることも知っている。

 他者の考えていることが肌を通して伝わって来る。

 温かい心根は人一番伝わり、悪しき思想には人一倍の嫌悪を覚える。

 他者に対する思いやりは増し、悪に対する嫌悪も増した。

 聖女が聖女であり続けることは困難だ。ある者は行き過ぎた正義を抱き僅かな欲望すら許さず、ある者は悪にすら慈愛を抱き、身が汚れることすら厭わなかった。

 イミナも例に漏れず――歴代の聖女と同じように女神の意思、慈愛や正義を感じてしまってはいた。ただその正しいとされる行動が、人間としての度を越えているとイミナは考えている。

 生まれ持ち両親から引き継いだ強力な自我と精神、そして価値観を持っていたイミナはその違和感にすぐに気が付いた。

 女神の正義や慈愛は人としての尊厳に対して自己犠牲があまりのもすぎる。

 全ての者は救えないと言う事実に対して女神の意思と力はあまりにも強く、それができると錯覚すら覚えるほどに強力に作用する。

 熱烈な殺人鬼だろうが改心して慈愛の使徒になると信じており、ありえないと言う事をありえると信じ込ませてくる。鴉は白いと信じ込ませてくる。

 世の中に絶対という言葉はある。女神はそれすら歪めようとする。

 現実で、そうであってはいけないのだ。

 殺人鬼が殺した子供の両親の目の前で幸せそうにしていてはいけない。それは理不尽だからだ。イミナは経験を持ってそれを肯定している。


 イミナが寧々に出会ったのは三歳の頃だ。まだ両親が探索者でボロアパートに住んでいた頃の話。母親の素性があまり良くなくて隠れ住まなければならなかった。

 そんなボロアパートで、隣に住んでいたのがたまたま寧々だった。

 寧々は何時も小汚い恰好をしていた。何時も同じ服装で、何日も体や服を洗っていないのかカップ麺の汁が放置されているかのような臭いが常に付きまとっていた。

 実際寧々の服には飛び散ったカップ麺の汁が染みついていた。

 子供の頃のイミナには寧々の境遇を理解することができなかった。不衛生な子で、ただ汚いと、家にあげて服を洗ってあげた。服を洗っても臭いが漂い、お風呂にも入れてあげた。

 寧々はあんまり喋らない子だった。虫歯で口は臭く、髪もひどく臭っていた。だけれど、孤独なイミナにとっては良き遊び相手でもあった。都合の良い相手だったとも言える。何時でも好きな時に遊ぶことのできる友達だったからだ。

 イミナは自分がやりたいことを寧々に言い、寧々は不満を言わずにそれに付きそった。それがイミナにとって楽しくないはずもなく、イミナにとっての楽しさの基盤ともなってゆく。寧々を従えることで養っていくリーダーとしての素質や傲慢さと我儘さ。癒されていく孤独と相殺されて丸くもなる。

 仕事の都合上、父であるリクジョウと母であるマリアンヌもイミナを放任していた。それはマリアンヌにとって、イミナが大切な存在だったことも意味している。

 自分の行いでイミナが傷つくのを恐れていた。

 マリアンヌは過去、他の街の人間がマリアンヌの所属する街を襲ったさいにその人間達を殺してしまっている。その数は一人や二人ではない。やらなければやられていた。しかしどんなに正当化したところで人殺しの業は容赦なくマリアンヌに襲い掛かった。

 自分の娘の存在を知られれば人質に取られてしまうかもしれない。もしかしたら殺されてしまうかもしれない。そう思考するとイミナの傍に近づけなかった。それと共に血にまみれた己のその両手でイミナに触れていいのか悩んでしまった。イミナが汚れてしまうのではないか。イミナにまで業を背負わせてしまうのではないかと境遇を恐れた。

 イミナの出産から一年――新たな命を授かったが生を与えてあげることはできなかった。

 マリアンヌの精神状態も、決して良いものではなかった。この子だけは守りたい。守り通したい。良いか悪いかは別としてそれはイミナを大切に思うがゆえの判断だった。逃げていたと言うのもある。


 ある日、寧々と一緒にお風呂に入っていたイミナは、寧々の体に青痣があることに気が付いた。昨日はなかった。その時イミナは気が付かなかった。寧々が顔を腫らしていた日もあった。でもイミナは気付かなかった。気づけなかった。世の中に、暴力を振るう大人がいることを知らなかったからだ。

 ある日母親であるマリアンヌが、寧々を見て顔をひきつらせた。

 父親であるリクジョウがその惨状を知って、寧々の父親と喧嘩した。

 寧々に対する注意を余計なお世話と跳ね除け、寧々に対する暴力をやめなかったからだ。

 一度は寧々に対する保護を訴え、監護者になると申し出たが寧々の育ての父親がごねた。

 イミナの父親が気に入らないからと言う理由で寧々の権利上の父親はそれを拒否した。まだ強い権利を持っていた。どうにもならなかった。

 隣から聞こえてくる寧々に対する暴言は、人として言っていい言葉をはるかに越えていた。少なくとも子供に言うべき言葉ではなかった。

 ――勝利を確信した寧々の父親は、あっさりと寧々を捨てて消えた。新しく愛する女性が出来たと、だけれど権利は父親の元にある。

 マリアンヌはひどく心を痛めた。

 寧々が泣きながら笑っていたからだ。ひどく歪んだ顔で、殴られて腫れた顔で、痛くて痛くてたまらないのに、泣いたら殴られるからと笑っていた。ひどく歪で心を痛めた。

 イミナと寧々は姉弟のように育ったけれど、その内壁はあまりにも厚い。

 寧々は十二歳になるまで育ての父親の部屋で暮らしていたし、皮肉にも、その事でマリアンヌはイミナの傍にいる理由を得た。


 リクジョウとマリアンヌは愛して結ばれた夫婦ではなかった。

 マリアンヌはディアブロマリアと呼ばれるほど強かった。鉄壁のマリアとも呼ばれた戦士だった。リクジョウもこの街のきっての聖騎士だ。二人共高レベルであり、街からその子供を望まれた。マリアンヌは放免を条件に子供を身籠ることを了承し、リクジョウは任務として精子を提供した。二人は形式上の夫婦であるが、二人共悪い事に思いやりだけはあった。二人の娘であるイミナに愛情と思いやりだけはあった。二人目の子供を得られなかったというのもある。リクジョウは罪悪感を、そしてマリアンヌは悲しみを味わった。

 マリアンヌは寧々を傍で見守った――その際に継続して発生した出費はマリアンヌが負担し、寧々は今でもそれをありがたく、そして申し訳なく感じている。

 それは決して寧々を息子の代わりと考えて行った支援ではない。


 イミナには寧々の気持ちがわからなかった。

 イミナと寧々の育った環境が、傍にいるはずなのに雲泥の差だったからだ。

 イミナは変わらなかった。難しい事は良くわからないと、寧々との関係が変わることはなかった。

 ただ周りの者が寧々と自分の関係をからかう時に、寧々が申し訳なさそうにする態度にはイライラした。

 イミナは自分になりに真っすぐ育ったと考えている。

 例えば容姿を好きになるなんて馬鹿らしいとイミナは考えている。

 では恋人、夫婦、その相手の外見が変わったのなら好きじゃないのかと言う話しだ。お金も例に漏れない。お金で結婚相手を選ぶというのなら、それは就職となんら変わらない。それは相手を愛するのではなく、お金を愛することだとイミナは考える。職場に不満を抱えたらやめるだろう。離職と離婚が同じだなんて眩暈がするとイミナは考える。退職金か財産分与に慰謝料かと言う話だ。

 自分の容姿がいいからとか、自信があるからそうできるとかそう言う話しではない。確かにその要因が無いとは言えない。だがイミナは子供の頃一度、全身がかぶれて爛れたことがあった。医療班は薬疹と判断したが、原因は乾燥保存され米櫃(こめびつ)に納められたお米に発生した昆虫の毒だった。昆虫の持つ毒がイミナの肌を爛れさせた。

 皆は当然のように避けた。どう接していいのかわからないから、単純に見ていられないから、どう声をかけていいのかわからないから、嫌だから、理由は色々ある。そこにはもちろん思いやりなども含まれていた。

 変わらなかったのは両親だけだ。

 父が全身に特別な軟膏を塗ってくれた。母が変わらずに頭を撫でてくれた。

 この二人にとって自分の容姿がいかなるものであっても変わらないことをイミナは理解した。存在を愛してくれていることを理解した。

 善悪の区別がつかない子供、同級生に、影で化け物と言われた。

 寧々は何も言わなかった。ただ困った顔をするだけだった。本性を暴いてやろうとかぶれた手で触ったけれど、寧々は振り払おうとはしなかった。ただ悲しむだけだった。

 自分がイミナの立場だったのなら――寧々がそう考えて泣いているのを見て少し笑ってしまった。代わりになれるのなら代わってあげたいと寧々が本気で考えているのがイミナとっては馬鹿らしかった。

 両手を握りその手を自らの心臓へと当ててきた。

 きっと心を痛めていると寧々が考えている事をイミナは察した。

 そんなことは別になかった。別に平気だ。他人がどう自分を見ようが自分は自分だ。

 ただ寧々の中に自分の存在を感じる事が嬉しかった。子供ながらにそれを察しイミナはそれをとても幸せな事だと感じた。他人の中に自分がいる。優しさを理解した。

 彼女の性質が、聖女になった瞬間でもあった。

 十三歳になった頃、二人の距離は大きく離れることになる。

 一方が盗賊、一方が聖女になってしまったからだ。

 寧々に対する風当たりは強かった。それは聖女の傍にいた妬みや嫉みもある。なぜお前のような冴えない男が聖女の傍にいるのか。何処がいいのかわからない。

 多感な中等部という場所、善悪の境目、まだ何が悪い事なのか判断できない子供達にとって寧々はあまりにもわかりやすい悪役だった。自分の好きな物を奪うから。

 人を愛するということは、その存在を愛するということ。

 かぶれが治り、成長すると良くイミナは告白された。でもイミナが相手の告白を断るのに時間はかからなかった。その好きという言葉が、イミナにはあまりにも軽いと感じられたからだ。

 好きと言う言葉を言うのは大変だ。それは理解している。でもその好きから先があまりにも軽い。付き合ってデートしてとか、楽しい事ばかり考えているのだろうなと察してしまった。現実は違うとイミナは考える。恋も愛も重いものだ。軽いものなどない。もし軽いというのならそれは相手が我慢しているか、本気で好きではないかのどちらかだとイミナは考える。

 恋人になるということは、夫婦になると言う事は、その人の一部を奪うということ。その人の人生の一部を奪うということだとイミナは考える。

 お互いがお互いの人生を奪い合いその奪った人生で奪われた自分達を補修し合える。それが自然に行えるのは稀であり、ずっと稀であり続けるのは困難だ。

 デートの間はお互いの時間を相手に割いている。誰かに何かを与える行為は、相手に自分の一部をあげる行為だとイミナは考えている。それが重くなくてなんだというのだ。重く感じていないだけだ。

 都合の良いことばかり考えているのだろうなとイミナの口からため息が漏れた。

 相手が自分の一部をくれると言うのなら、自分の一部を相手に与えなければいけないとイミナは考える。それが相手を大切にする。お互いがお互いを大切にする行為だと考えるから。それをどちらか一方しかできないのなら、長続きしないものだと考える。

 それは幼少の頃から寧々と実演していたことだ。

 好きだと言ってくれる彼らが自分から一方的に奪う人達だとイミナには感じられてしまっていた。言えばしてくれるというのなら、それはやがて負担になる。

 一方的に与え、強制的に奪うのなら意味がない。

 学生時代はいいだろう。お互い時間を合わせられる。でも将来はどうかな。社会人になったら時間を合わせなければいけなくなる。その負担を埋められるだろうか。お互いの時間を合わせ、時間を楽しく共有できるだろうか。趣味が合えばいいけれど、趣向が合えばいいけれど。

 私と遊びたい相手ならまだいい。

 でも大半は私で遊びたい相手だとイミナは考えてしまった。


 性格は遺伝(材料)や環境(レシピ)によって出来あがるものが変わるケーキだと言うけれど、イミナの性格を作る環境に影響を与えたのは紛れもなく寧々だ。

 寧々のモラルの影響を紛れもなくイミナも受けている。単純に寧々に対して見栄をはっていたのもある。

 私はすごいでしょう。もっと尊敬してよね。羨望の眼差しを望んでいる。心配されるのは百倍気持ちいい。気を許している。他人に文句は言わなくても寧々には言う。

 好きとか嫌いとか、愛しているとか愛していないとか、そういうものじゃない。長い年月が二人の間に降り積もっている。

 それは今でも変わらない。

 だけれどイミナに、寧々に対する風当たりを弱められるほどの、それだけの力があるのかと言えば否だった。

 止めようとした結果が良くなかった。なぜかばうのか、好きなのに許せない。私の、俺の方が好きだし相応しい。親ナシのくせに。出る杭は打つ。

 イミナが庇えば庇うほど、寧々に対する風当たりは強く、自分に身近な友達ほど寧々を嫌うようになってしまった。あいつにそんな価値はない。激高したし悲しかった。人の価値は存在の価値だ。寧々の代わりは何処にもいない。

 一番いい方法はどれかって、寧々にかまわないことだった。

 イジメなんてすぐにわかると言うけれど、子供達しか知らない場合も、そしてより狡猾な場合もある。いくら表で止めたところで今度は影で行われるだけだ。見えない所で膨れ上がりやがて破裂する。


 イミナは横たえて天井を眺めた。視界に入る点滴。落ちる雫。

 ロストする際に誰の顔が浮かんだかと言えば寧々の顔だった。

 機関受付前で、顔を背けたらショックを受けた顔をしていた。

 あんな顔見たくなかった。知らんふりをした。顔を背けてしまった。顔を背けられて胸が苦しかった。まるで心の半分が寧々で出来ているかのように。

 知らないふりをすることが、そうする事がお互いにとってベストな行動だと考えている。

 二人きりで会えれば普通に会話できるのに――そんな簡単な事すら難しい。

 今となっては気恥ずかしさや見栄っ張りな意地なんかも現れてしまうかもしれない。

 何時までこんな関係を続けなければいけないの。何時まで――。

 母親が寧々を養子にするか悩んでいた時期がある。父親がそれを断り、イミナも随分と悩んだが、悩んだ結果、拒否することを選んだ。

 寧々が母に優しくされるたびに、申し訳なさそうな顔をしてこちらを見てくる。それを知っていたからだ。

 母親であるマリアンヌがそこまで器用というわけじゃないのもイミナは知っている。

 マリアンヌは寧々を愛しすぎてしまう。血が繋がらないからこそ愛しすぎてしまう。

 似ているから嫌いだ。

 心の奥底で、マリアンヌと寧々が仲良くするたびに、私の寧々を取らないでと嫉妬していたことにイミナはまだ気づいていない。寧々が自分より他の人間を優先することにイライラしてしまう。自分がいるせいでイミナ達家族の時間を奪ってしまっていると寧々が考えている事が不満だ。

 寧々の理想の女性がマリアンヌだったのでマリアンヌを手本にして育ってしまった。

 もっと私を尊敬しなさいよ。もっと私を見なさいよ。一番すごいのは私よ。貴方の一番は私なの。子供っぽい意地っ張りな面がイミナの奥底に幼心として存在していた。


 マリアンヌが果物の乗った皿を差し出してきて、微妙な気持ちになる。不格好なリンゴだ。リンゴを斬るのが下手くそすぎる。嫌いだけれど、やっぱり家族だ。それでもやっぱり疎ましい。

 そんな不格好なリンゴの中に綺麗なリンゴが混ざっていた。

(相変わらず器用ね)

 イミナはそのリンゴを見て寧々が見舞いに来ていたのを察した。寧々が切ったリンゴは皮が上から下まで一直線に綺麗に剥かれている。器用さのなせる業だ。曲線が一切デコボコしていない。真ん中をくり抜いて輪切りにしたものもある。皮付きでリンゴを良く味わえる切り方だ。均一に、そしてイミナが美味しく味わえるように考えれられた厚さだった。

 それを取りイミナは口へ運んだ。

 噛むとシャリシャリと口の中で解けていく。良いリンゴだ。甘くて高くて美味しいリンゴだ。寧々が自分のために悩んで高いものを買ったのだろう。その様子が容易に想像できて微笑んでしまう。器用なのに性格は不器用で自信もないからおどおどする。女性を意識するのに好かれるわけもないからせめて不快にしないようにと振る舞うので余計に挙動不審に見える。他人を気遣うから視界内のちょっとした事に反応してさらに挙動不審に見える。

(私のことばっかりね)

 たまに厄介者だと口を尖らせる事もある。

 いつも優先してくれる。寧々にとっての特別は私だという自信がイミナにはあった。

 例え自分に恋人が出来たとしても、寧々と天秤にかけたさいに寧々を取ってしまうとイミナの無意識にはあった。それは寧々も同じだと信じている。それは弟を大事にしている姉のような感情でもあった。

 寧々の反らしがちな視線を想像するとイミナは穏やかな気持ちになった。

 寧々の一番は私だ。

 それはイミナにとって強力な自信の元でもあった。


 扉をノックする音。入って来たのはイミナのパーティメンバー、天王子だった。

 マリアンヌはイミナをサルページしたのが寧々であることを言わなかった。言ってやりたかった。突き付けてやりたかった。その現実を。でも言わなかった。それが寧々との約束だからだ。

 聞きたい――どうやってイミナを奪還したのかを聞きたい。けれどマリアンヌは寧々に事情を聞かない事にした。それが寧々への感謝の気持ちと愛情だったからだ。信頼している。実の息子のように愛している。二人共私の子供だと。

 ただ何もかもがままならない。

 愛しているというその言葉さへ、娘に対して伝えるのが難しい。

 マリアンヌも歯がゆくて仕方なかった。

 二人の子供はマリアンヌを優しくした。

 もうリクジョウを解放してあげてもいいんじゃないか。恋人の元へ返してあげてもいいんじゃないか。家族なんて考えたこともなく、子供を産むのはただ必要な事だったからだ。馬鹿だったと昔の自分を噛みしめている。

 イミナと寧々の事を考えている間だけは、マリアンヌはそれ以外を忘れられた。


 その夜。二人の客がイミナの元を訪れた。

「あたしってこんな顔だったかしら……もっと可愛いと思っていたけれど、外から見るとこんなものなのね」

「こんな時に、貴方は何を言っているのですか?」

 微睡んでいたイミナは寝ぼけ眼で二人を見た――一人は獣人、一人は天使だった。ここは病院。女神が驚いていた。驚愕していた。震えていた。

「あんたたち誰?」

 体を起こそうとするが上手に体が動かない。悪態を付きそうになる。

「これほんとにあたし? 私ってこんなブスだったっけ?」

「私に聞いてどうするのですか」

 獣人の女が意味不明な事を言いながらベッドに腰かけて来る。

「いい加減にしないと人を呼ぶわよ」

 獣人――獣人だ。私をこんな目にあわせた獣人が目の前にいるとイミナは体に力を込めた。否、別人ではある。別人ではあるのだ。でも獣人全体がイミナの中では警戒すべき存在と認識されてしまっていた。

「あーダメだ。こいつ私だわ」

「私をどうする気?」

「ちゃんと説明してあげたらどうですか?」

「あー無理。あたしってそういうの苦手なのよね」

「不憫でなりません。……そう思いましたが、貴方を見ているとそう言う気持ちがなくなりました。なぜでしょう」

「何を……何を言っているの? 誰かっ誰かっ」

「まだ魂の定着が緩いのね。良かったわ。ファニエル」

「イミナさん。大変だとは思いますが、頑張ってくださいね」

「何をよ……あんたたちは何なの」

「じゃあ……行ってらっしゃい」

「良い旅を」

 イミナの意識は目まぐるしく回った。途切れたようにも感じた。一筋の閃光が流れる。引き寄せられるように傍へ。そして重なった。自分から何かが欠けていく。欠けていく。欠けていく。

 寧々……。

(ネネ‼)

 イミナは寧々の名前を強く叫んだ。叫んだつもりだった。でも寧々が誰なのか思い出せなかった。苦しい。痛い。

 歪む視界の中、体が重い、雨が降っている感覚がする。体中が痛い。

「かふっ……はぁっ……ごふっごふっはぁあっひゅーはぁっひゅーはぁっひゅー」

 勢い良く呼吸する。止まった心臓が動き出したかのように全身が痺れて筋肉が軋み痛い。

「……なに? どういう……うあ……いつつ頭がクソッ違う。あたしは違う……レコード? レコードってなに? 上書きされる……」

 活動を再開させた脳が記憶領域に保存されていた記憶を再生させていく。しかし魂の意思でそれを否定し、レコードが記憶領域を改ざんして自己が確立されてゆく。

(何? 何が起こったの?)

「あたしはロザリタじゃない……あたしはイミナだ」

(どういう、こと、なの)

「なに……どういうこと、なの?」

(なにが、おこって、いる)

 それは二つの意識ながらに、確かに一つの魂だった。まるで誰かの意識に同調して何かを見ている感覚。

「……ファニエル。あたしに、何を、した、の」

(わけが、わから、ない)

 幼いミーナの中で、イミナは茫然とするしかなかった。

 ただ記憶の中のミーナに自らが重なって行くのを感じた。

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