第24話 レコード
時は数時間前に巻き戻る。
白梅の花びらが湯船の中にある。湯船の中にあってなお咲き誇る白梅の花びらのような肌があった。
ファニエルは自らの体を確認していた。良く出来ている。人間を模して作られた体がしっかりと機能していることを不思議な感覚として味わっていた。
頬や耳に刺す紅梅。二つの色は混ざり合い水面に揺れる。
対比するは黄金の波。濡れそぼる毛並みは太陽を帯びた小麦畑。
「獣人国家は貴方を血眼になって探していますよ。マミーナ」
「……やんなっちゃうわよね。あたしっていい女だから、仕方ないのよねぇ。ていうか何マミーナってなに?」
「否定しないのですね。切り裂き魔ミーナ。あなたのあだ名ではないですか?」
「何その。何? 魔ミーナだからマミーナってちょっとやめてよねぇ」
「世紀の殺人鬼がこんなところで何をしているのです? ミーナ」
「あたしのおかげで停戦したのよ? もうちょっと良くしてくれてもいいんじゃない? 感謝してほしいぐらいだわ。ていうかしろし」
ファニエルはその言葉を意に介さぬと表情を崩さなかったが、内情ではこの切り裂き魔ミーナと言う名の女性を知りたいという欲求もあった。
謎――このミーナと言う獣人の女の存在は謎であった。獣人国家暗部で育てられた獣人の娘。しかしある時、暗部の人間を皆殺しにし王族の獣人に加え有力な軍部の獣人何人かを殺害して逃亡した。その後の消息は不明……のはずだったが、現にこうして目の前に存在している。情報より姿の一致。魂の波形の一致。
この暗殺により獣人国家の一つ王国シャンティエラは人間国家を攻められなくなった。それどころか存続の危機ですらある。
「殺害の目的は停戦だと?」
「そうよ。おかげで戦争は止まったじゃない。今後およそ五十年、獣人国家、少なくともシャンティエラに戦う力はないわ」
シャンティエラ王都は現在カトブレパスの呪いを受けてほぼ壊滅状態。それを行ったのは紛れもなくミーナである。
「なぜ?」
ミーナは気だるそうにファニエルを見つめた。ミーナには警戒しなければならない女が何人かいる。ファニエルはその内の一人だ。
「……ほんとはもっと色々言いたかったのよ。もっとなんか話したい事とかいっぱいあったのよね。でももうどうでも良くなっちゃったのよ。もうどうでもいいわ。あたしの邪魔さえしなければ、他の事は些細な問題だしどうでもいいわ」
「邪魔とは?」
「今の生活の邪魔をしないで」
「あの子を巻き込むと? 人質のつもりですか?」
「あの子って……寧々の事? あの子に獣人、天使を含めた人類の全てを敵に回してまで守る価値があると? そんなわけないでしょう? 人質の意味を調べてみたら?」
ファニエルの視線は鋭い刃となりミーナに突き立てられる。
少なくともファニエルには全人類を敵に回してでも寧々を守る理由がある。
「天使ってほんと嫌な存在よね。ファニエル。あんたは特に嫌いよ。ファニエル。あれはもうあたしのもんなんだよ。ファニエル。あんたは推し変でもすればいい」
天使の押し活を理解している。天使をある程度理解しているのねとファニエルはミーナに対する情報を更新した。天使は推し活をする。気に入った人間を影ながらこっそりと見守ると言う趣味がある。
そしてファニエルの推しは紛れもなく寧々だ。
理由はある。ファニエルは寧々の性格をいたく気に入っていた。
内側にほの暗い感情を持ち秘めつつ、愛がわからず苦しんで、それでも日々をコツコツと生きる寧々をファニエルは気にいっていた。
天使が人間に言えることはたった一言だけだ。
正しく生きなさい。
たったこれだけだ。
しかしそれは恐ろしく難解で難しい。
人を恐れず、人を選ばず、貴賤を抱かず、正しく生きなさい。
ファニエルにとってそれは人と触れ合うことでたどり着いた人間に対する一つの答えでもある。
人間にとって全ての生き方に対する行きつく先がこれだと、それこそファニエルにとっての悟りでもある。
この悟りに至った天使ファニエルとって、激情と嫉妬と憎悪にまみれながらも、それでもコツコツと生きる寧々の存在はこの上なく愛おしいものだった。
同時に内側をちくちくと刺されてもいる。いつかあの子が正しさを忘れるのではないか。何時かあの子が感情に飲まれるのではないか。
裏切るのではないか。
ほの暗いスパイスに揺さぶられ、それでも正しい答えを探し悩み苦悩し生き続けると信じている。ファニエルとって寧々を眺めることは夢見心地によく似ていた。
もちろんその能力も把握している。それを周りの天使又は人間にバラす気は毛頭ない。
「私はあの子の能力を理解しています。推し変はあり得ません。貴方にそれを咎められる理由もありませんし、やっぱり理由がありません」
「ミナをどうするつもり?」
「それも知っているのですね。ミナハーカーは人類にとって有益な方です。あの子はあの子なりに最善を尽くしてくれました。おかげで英雄の魂を一か所に集めることができた」
後は再生させて育てるだけ――とはファニエルは言わなかった。
あのチェコリッサがそうであるように、あの五条菜日束ノ経ト凛がそうであるように。ティティがそうであるように。
「最低ね。それで今度は何をするつもりなの?」
「安心してください。あの子はもう何もできません。最大仮想敵が傍にいるのですから」
あとは兄に育てられるだけ。
魂を攻撃できる人間は、魂を操り生きるネクロマンサーにとって最大の脅威だ。
「……本当に最低ね。勝手に作って勝手に利用して勝手に壊す。人間を改造して利用して保護と言う名で束縛する」
「貴方にはわからないでしょう。この世界に降り立った人間はあまりにも脆かった。この世界の食べ物すら食べられないほどに弱かったのです。苦渋の決断でした。肉体を改造し、性質を与えました。この世界の負荷に耐えられるように」
「それを人に言わないじゃない?」
「言って何になるのです? そんな事に意味がありますか? 人類は亡びなかった。これが全てで答えです」
人間の形を保っているのは人間達に対して敬意を示しているからだとはファニエルは言わなかった。肉体は何でも良かった。それこそ化け物でも良かった。でも人の形を保った。人として生きられるように最大限の配慮をしている。それは人間達に対する天使なりの敬意だ。
「寧々の体を勝手に改造したくせに」
ファニエルの瞳孔が大きく開いた。
そこまで知っている――この獣人をアカシックレコードの保持者だと即座にファニエルは理解した。ファニエルがここで言うアカシックレコードとは神が作りしこの世界の初めから終わりまでを記したレコードのことだ。針は乗せられた。後は音が鳴り終焉を迎えるだけだ。味わう音色はさぞ儚く美しい。終わらないで欲しいと願うほどに。そしてもっとも残酷なレコードでもある。必ず終わりが存在し、曲の終焉は世界の終わりを意味しているからだ。それは万物にとって避けることのできない絶対的な終わりだ。
とは言ったものの存在自体があやふやであり又は複数存在すると言われることから、本当に存在するのか、どのレコードが鳴っているのか、知ることができた者が現在のところ存在していない。
そして同時に別の意味も持っている。
過去から未来までを把握している者を別名レコード保持者と呼ぶ。現在において過去と未来を知ることができる者は未来から来た者だけだからだ。
可能性はあった。このミーナが未来からの訪問者であることをファニエルは理解した。しかしそれを行うのは限りなく不可能に近い。それこそ奇跡としか言いようがない。
ファニエルしか知らない情報を知っているのはファニエルの協力者だけだ。
そして過去から現在においてファニエルは情報を一切漏らしていない。
つまり未来の自分がこの人間に告げたことになる。
「なるほど、貴方は未来からの訪問者ですか」
この世界における物体ではない時間を超越することを物体が行うのは不可能だ。つまり物体でないものならば通過できる。これは一つの仮説で理論だ。
ミーナは物体でない魂だけで過去に戻って来たのだとファニエルは仮説を立てた。しかし魂にほとんどの自我や記憶は無い。それをもってしてなお強靭な意思で過去に戻って来たことになる。ありえない。記憶や意思のほとんどが欠落して新しい肉体と共に別の人格が形成されているはずだ。実行できるかも定かではない。それを実際に成し遂げて来た者がいる。おそらくここにいるミーナ以外には不可能だ。そしてミーナ自身、もう二度と時間渡り自体ができないはずだ。まさしく奇跡だ。奇跡は二度起きない。次にミーナが時間渡りを行えば、その全てを失うだろう。例えレコード(記憶の綴り)があったとしてもその存在自体を忘れたら意味がない。
そこに、おそらく時間渡りに自分も関与しているのだとファニエルは理解した。
あくまで仮説であるが、これがもっとも近い真実だとファニエルは把握する。そしてファニエルがレコード(記憶の綴り)を渡すほど協力する理由に心当たりもある。
ここで言うレコードとは未来の記録と記憶を記した魂のレコードだ。
問題は中身が誰かってこと――人類の未来に干渉した。しかし本筋自体は変わっていない。それが時間の制約である。
停戦はいずれ行われたという結果を意味している。それが遅いか早いかだけだ。
ミーナにはそれを早めなければいけない理由があった。もしくは独断で先行したかのどちらかだ。
どちらにせよミーナが時間を戻る原因となった現象は起こる。起こらないとなった時点でミーナの存在は矛盾により消えるからだ。
「綱渡りをしましたね。その体が本体ですか? それとものっとったのですか? その子の体を……」
「訓練で亡くなったこの子の体を貰っただけだわ。この子の魂はすでに消滅してしまっていた。丁度いい体だわ。ずっと欲しかったのよ。強靭な体が」
「……そこまでして戻って来たのですか」
自我や記憶をほとんど失った魂は自分が人間だったことすら覚えていない。肉体を認識できないのにそれを認識して乗っ取り可動するほどの意思が必要だ。
性質を持っている。回復系統の性質を持っている人間だ。
「とにもかくにももうあたしの邪魔はしないで。ただのんびり暮らしたいだけよ? お互い言わない事が多いというだけでしょう? 寧々の能力にしても貴方は誰にも言っていないのでしょう?」
「……よくわかりました。貴方が敵だという事が」
「そうよ。あたし達は敵だわ」
寧々の体が女性に近しいのは遺伝子的な欠陥である。ただし寧々が三度体を失った際に少しずつ寧々の体は最適化されている。より性質に馴染むように、より強靭に、よりファニエルの好みにそうように。
現在の寧々の外見にはファニエルの趣味が混ざっている。
髭もすね毛も生えず、筋肉質というよりは丸みを帯び、女性的でありながら確かに男性だ。
毛先へ行くほど黒から緑、黄色、そして白色へと変わっていく髪もその癖毛も、女性的で吸い付きたくなるようなエッチな乳首も。
全てファニエルの趣味である。
そしてファニエルは理解した。
ミーナが私の推しと恋愛する気なのだと。
それはファニエルにとって許容できない事だ。
ミーナは記憶のほとんどが欠落していたが、レコードで補完していた記憶を読み納めることで欠落した記憶をパズルのように構築することはできていた。このレコードに記載された内容は例え歴史が変わっても内容が変化することはない。歴史に干渉するものではないからだ。すでに描かれた本の物語がそれ以降に歴史が変わろうと内容が変更されることはないように、このレコードの内容も変化することはない。
ミーナはレコードを自分に授けたのがファニエルだとは言わなかった。
彼に会ってすぐにわかった。
深い深いため息が漏れた。それは落胆ではなかった。深い深い深いため息が漏れた。求めたものが目の前にある感嘆のため息だった。
でも接点がなかった。存在し言葉を伝え触れられる。その存在に魂と心臓が打ち震えるほどに。でも接点がなかった。現在の彼女は獣人だからだ。
嬉しかった――過去の私が触れた時と同じ反応をするのが嬉しかった。絶印を押してなお私に反応する彼の姿が愛おしかった。魂の半分。私の半分。やっと一つになれるとミーナは目を細めた。他の事はどうだっていい。
何の迷いもない。
これからイミナを殺すのに何の迷いもない。
それは彼女がこの世界に存在し続けるために必要な事だからだ。
今が最良のタイミングだ。
そしてイミナが殺害される歴史は確定している。なぜならすでにミーナが過去へ戻る原因となった事柄は取り除かれているからだ。それに対してミーナは消滅していない。
現在もゆっくりと進行しているのがわかる。自分が上書きされていく感覚を理解している。
ミーナにとってここから先の三日間は長い長い時間だった。
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