第23話 嫌いなものが多すぎる

 五分ほどで公安の職員が来た。

 二人で来たけれどコンビだと察する。

 公安は二人一組なのがデフォルトで良き伝統だ。

「君が通報者かな」

 一人が優しく声をかけて来て、もう一人がぶっきらぼうに佇んでいた。

「はい」

「家に不審者がいるとそう言う事でいい……大丈夫かな? 間違えない?」

「いえ、そのっ見知らぬ人達に家を占拠されてしまってしまいまして」

 しまってしまいましてってなんだ。

「本当に? 現場は何処かな? あっぼくは公安二課の安藤って言います。あっちのぶっきらぼうな方が公安二課の持永(もちなが)さん」

「ぶっきらぼうは余計だ。安藤、まずはカードだ」

「あぁ、そうだった。ごめんね。君は機関に登録しているかな? カードを見せて貰っても大丈夫?」

「はい。どうぞ」

 カードにはぼくの個人情報のほとんどが記載されている。性質に関しては任意だけれど公安に対して隠すのは得策じゃない。

「情報をコピーさせてもらうね」

「はい」

 情報のコピーも任意だ。でも積極的に協力する義務もある。

「ふーん。お前盗賊か」

「持永さん言い方、気を付けてくださいよ。そっちの子は?」

「この子はムギ。ぼくの妹です。戸籍に書いてある通り」

「なるほどね」

「エングリ(エンジェルリングがグリーンの状態)か。まだ犯罪者ではないようだな」

 エングリってこの街独特の古い言い方だ。

「持永さんッ。言い方。ごめんね君たち。ありがとうね。はいこれ、返すね。じゃあ早速行こうか。案内して貰っていいかな?」

「あっはい」

「まさかこのテントが家じゃあるまいな」

 持永さんなかなか言い方がキツイ。この人達は仕事で煽ったり窘めたり挑発したり説教したりするけれど、それって仕事に含まれているのか疑問に感じる。感情で言ってないよね。余計な一言が多い気がする。仕事だよねそれ。

 あれ、リザについては聞かないのかな。リザはぼくの隣にいるけれど公安が苦手なのかそっぽを向いてはいた。獣人の扱いについては街ごとで異なる。どの街でも繊細な問題だ。天使が保護しない国の人達だし、人を奴隷にする国の人達だし、だからと言って全ての獣人が人に対して敵意があるわけじゃないし、この街では表だって獣人に誹謗中傷する事や差別することは許されてもいない。建前上は平等で獣人が好きな人もいる。

 正直言って獣人を奴隷にする人達もいる。獣人の中には攻撃的じゃない種族も少なからずいて、個人差もあるけれど、何と言ったらいいのか……癒されるから。

 街としては獣人一人を害することによって獣人全体を刺激することを恐れていると察する。……お偉いさんしか知らないよそんなの。

「こっちです」

 リザにムギを任せて二人を案内する。

 トンネルの入り口にカードをかざして中へ。

「この辺りに住居ってありましたっけ」

「ここぁ発電所だろ。家が出来たのか。あ? なんだ? 守衛はどうした?」

 なんだろ。ガードマンが仕事してない。奥からいびきが聞こえていた。

「あっ。ぼくが機関に無理を言って発電所の隣の宿舎を十年間借りたんです」

「へぇ。中心からは離れているようだけれど、君はまだ学生だよね? 通学とか不便じゃない?」

「そうなんですけど、ムギもいますし、条件に会ったのがここしか無くて。あっ犬を五匹ほど飼っているんです。だから騒音とか他の人に迷惑をかけないようにしようと思って。ぼくの性質は……そのっ盗賊なので」

「なるほど。そうなんだね」

「ガキッ。嘘つくとためにならんぞ」

 持永のおっさんはぼくが公安を貶める罠を張っているのだと、そしてそれを警戒しているのだと察する。いや、ぼく持永さんじゃないから。

 なんか変。思考が鋭敏になっているのかもしれない。薬の弊害かな。意見が沸いては否定している。勝手に、自分勝手に思い込んでそれを真実だと考えないで。

「いえ、天使ポイントで借りたので……調べて貰えればわかると思います。戸籍の、監護者の名前もファニエルさん、天使になっていると思いますし」

「持永さん」

「おめーは甘いんだよ」

「ははっ。ごめんね。えっと寧々さんだっけ」

「あっはい。気にしないでください」

 トンネルを抜けるとさっきまで馬鹿騒ぎしていた人達が、酒を飲みながらのんびりお喋りをしていた。犬を叩いたり脅かしたりしている。

「こいつぁ……ガキ。こいつらは本当に知り合いじゃないんだな?」

「はい」

「嘘はついてないんだな?」

「はい。ついてないです」

「安藤。ちょっと若い奴を五、六人呼んどけ」

「わかりました。すぐに手配します」

「こいつぁ骨が折れそうだ」

 こういう時、前に出るのは持永さんの役目なのだろう。安藤さんはすぐにカードを操作して閉じた。持永さん普通にいい人そうだった。

「okです。十分以内には来られると思います」

「十分か。ガキ、お前はちょっと安藤と一緒に下がってろ」

「寧々さん。こちらへ。ぼくの後ろへ」

 ぼくたちが来た事に気づいたのか、男二人がこちらを向いて少し歩き前へ出て来た。

「おい。お前ら。ここは私有地だ。今すぐに出ていけ」

 持永さんが挨拶もなしにそう告げた。

「あ? なんだてめぇ」

 黒のタンクトップ。筋肉質。刈り上げた頭。金のネックレス。

「おい。まぁ、待てって。リュージ。ったくよ。けんかっ早くて仕方ねぇ。あんたら誰よ」

 偉そうな金髪の男が前に出て来て持永さんの前にたった。少し日焼けして肌は浅黒く、体はやはり筋肉質。

「俺達は公安だ。お前達は私有地に不法侵入、不法占拠している。大人しく縄につけ」

 不法侵入に不法占拠。もう退去するだけじゃすまないのがわかる。

「公安だぁ? はっ。知らねーのかよ。ここは俺の土地、俺の家だぜ。俺の家で俺が何しようが俺達の勝手だ。なぁ?」

「そーだぜ‼」

「証明できんのか?」

「いいぜ。ちょっと待ってろよ」

 男がカードを開いて戸籍を見せて来た。そこにはムギとぼくの名前が書いてあった。

「ここはな。俺の息子や娘と三人で仲良く暮らしている家なんだ。このムギっつーのは俺の血の繋がった娘なんだぜ。住所もここになってんだろ」

 ムギの実の父親――でもしかしこの人とぼくにはなんら接点がない。ムギはともかくボクとは本当に一切の関係が無い男だ。親権も監護権も無いはず。それをボクを含めて親だと言った。なんか……嫌だな。吐き気がする。頭の血管が拡張していくような感覚。

「息子……寧々さん。寧々君⁉」

 安藤さんが何かに驚いている。

「あ? なんだガキ。おめぇが寧々かよ。おい。パパだぞ。ハグしろよ」

 ため息が出る。

「おい。ガキ。どうなってやがる」

 その言い方だと持永さんの方がチンピラみたい。

「はっ。勘違いしたんだよな。寧々。些細な勘違いって奴さ。これは民事不介入って奴だぜ。公安さんよ」

 ぼくは自分のカードを開いて戸籍を表示する。

「残念ですが貴方はぼくの父親ではありません。ムギとは血の繋がった方かもしれませんけれど、ムギの父親でもありません。戸籍を見てください。何処に貴方の名前がありますか? 貴方には何の権利もありません」

「あっ? おいおい。まさか怒ってんのか? 今まで放置してたからよぉ。わかってっるってパパわよ。寂しかったんだよな。そんな事言うなよ。これから親子三人仲良くやろうじゃないか」

 それなら家を占拠するなよ。まず言う事があるだろ。まずは頭を垂れてムギに謝るべきだろ。ムギを抱きしめるべきだろ。あの子の父親ならどうして放置したんだ。なぜ今になってここへ来た。なぜこんな事をする。なぜ……外にいるムギを放置する。自分の中からふつふつ湧き上がって来るそれをぼくは知っている。怒りって言うんだ。

 コイツは信用できない。

「法律上。貴方はぼくの父親ではありません。赤の他人です」

「だとよ」

「おい寧々。二度目はねーぞ。何パパに歯向かってんだよ。なぁ? おい。こっちこいよ」

「やめろ‼」

 安藤さんがこちらへ来ようとした金髪を手で止めた。

「あ? さわんじゃねーよ‼ 暴力だろ‼ 暴力‼ おい‼ ふざけんな‼ 弁護士を呼べ‼ 弁護士をよ‼」

 初対面の人間がパパと言うものだから少しキレそうになってしまった。ムギには悪いけれど……。

「何度言われようが貴方は赤の他人です」

「てめぇ。調子こんてんじゃねーぞ。公安のお二人さんもよー。俺は鬼丸組だぞ」

 鬼丸組と聞いて安藤さんの顔色が悪くなるのがわかった。

 あぁコイツ……綱国の。あの男のグループか。いっそう笑いそうになってきた。あいつはきっとぼくの事なんて、わかりもしないのだろうな。今の状況すらわかっていないのだろうな。

「持永さん。ヤバいですよ」

「あ? 何言ってやがる」

「鬼丸組と言えば裏町を牛耳ってる組の名前ですよ。表では九条鱗を名乗ってますが」

「九条鱗財閥と鬼丸。なるほど。あのホスト野郎の組か」

「えぇ。二人じゃ分が悪いです。案件も関わってますし、下手に騒ぐと四課がうるさいですよ」

「四課なんかほっとけ」

「おい、何くっちゃべってんだよ。おい。寧々。こっちに来い。今すぐに頭を下げれば許してやる。早く来い」

 頭を下げるのはお前の方だろ。

 落ち着いて。

 落ち着けって言うのか。なぁ。あの男の関係者だぞ。

 イラつかないで。あいつの、あの男のグループだぞ。俺は……やめて。ぼくは、あいつと同じにはなりたくない。

「貴方はぼくの。ぼくたちの父親ではないです」

 なぜだか涙が零れそうになっていた。泣いてばっかりだね。

「てめぇ……」

 男が拳を強く握った。良く知っている。その暴力の味をぼくは良く知っている。

 上空を見上げる。手を挙げて天使を呼ぶ。天使を呼ぶのは最終手段だけれど、もう呼ぶしかない。

 実は公安部隊と天使は仲が悪い。

 天使の武力介入を公安部隊が良く思わないからだ。

 天使がいれば治安部隊も公安もいらない。そう揶揄されるほどに一方的に批判されている。それでも人を裁くのは人でなければならないという原則を作ってしがみ付いている。だから天使と公安の仲も良くない。天使は公安を歯牙にもかけないけれど。

 最初に天使を呼ばずに公安を呼んだ事で義務は果たしたはずだ。

 この二つは平行線が望ましいとぼくは考えている。ぼくの考えなんてどうでもいい。

 天使を信用しすぎず、人を過信しすぎず、仲良くなりすぎず疎遠になりすぎず、今の状態が望ましい。何様なんだぼくは……。

 上空にいて街を監視している天使の一人がすぐに降りて来た。

「どうかしましたか?」

「ちっ。寧々。てめぇ」

「寧々さん。それはあんまりだ」

 持永さんは意外と何も言わずに佇んでいた。ポケットから何かを取り出すような素振りを見せて、取り出せるものがなく、地面を軽く蹴る。

「チッ禁煙なんてしゃらくせぇ」

 タバコ取ろうとしたみたいだ。


 降りて来た天使にカードと戸籍を見せて、懇切丁寧に説明する。

「寧々さんの主張はわかりました。貴方は何かありますか?」

「だから言っているだろ。俺はそいつらの父親なんだよ」

「戸籍に名前がありませんが?」

「んなこたぁ関係ねーだろ。こっちのカードを見ろよ。記載があんだろ‼ 俺がムギの血縁上の父親ってのは確実なんだからよ‼」

「これは……更新されていませんね? それに正式な登録情報欄では無いようですが? 不正登録ですか。そうですか。良くわかりました。不法占拠及び不法侵入、器物破損、恐喝及び詐欺の容疑で貴方達を拘束します。これは統一機構、機関の意向です。従わない場合は実力行使を行います」

「ふざっふざけんなっ‼ 俺が父親なんだよ‼ 俺がコイツ等の父親なんだよ‼」

「そうだぞ‼ 天使のゴミクソ野郎がよ‼ なんぼのもんじゃ‼」

「おい‼ 馬鹿ッ‼ やめろ‼ リュージ‼」

 男が飲んでいた酒の缶を投げた。たったそれだけのことだ。たったそれだけのことで、男の腕は吹っ飛んだ。

「へぁ?」

 天使の放った光の弾はやすやすと空き缶、そして男の腕を吹っ飛ばした。

「うぇ? おっ俺の腕っ。なっなぁ? 俺の腕? しらねぇか? 酔ってんのかな俺? うぇっ? 腕っ。俺の腕っいてぇいてぇええええええ‼」

「攻撃の意思を確認しました。公務執行妨害の現行犯逮捕です」

 尋常じゃない回復能力を持つ天使にとって腕を吹っ飛ばすのは挨拶と一緒だ。少しでも歯向かえば人間は完全鎮圧される。再生できるしね。

「わかっわかった。従う。従うよ」

「わかりました。そちらの公安の方。この者達を機関へ連行します。お手伝いください」

「あっはい……えげつないな」

 安藤さんが腕を吹っ飛ばされて血を流す男を見て顔を反らし、持永さんはやれやれと言った様子だった。

「天使の法に基づき、貴方達に宣言します。貴方達には黙秘権がありますが、私達天使には自白強要権があります。貴方達は弁護人を立てることができますが、私達は貴方の罪を貴方の口から言葉として吐露させることができます。足掻くだけ罪が重くなります。今後のためにも協力的な態度をお願いいたします。人の法で裁かれなくとも天使の法で裁かれる可能性はあります。ご理解ください」

 圧倒的で容赦がない。これが人の世界に天使の介入を良しとしない強い理由だ。

「クソがッ」

 父親と名乗った男、そしてその仲間達がぼくを睨みながら連れていかれた。

 天使がぼくの所へ来る。

「私は天使アラニエル。貴方には損害、被害に応じて対象、加害者より慰謝料を受け取る権利、又和解する権利を有しています。何も申し立てがない場合、規定に基づいて処理されますのでご理解ください」

「はっはい。ありがとうございました」

「なお今回の件はアーカイヴに保存されます。場合によってはアーカイヴよりサルページ、情報として利用される場合がございます。ご理解ください」

「はい」

「付け加えてこれより二十四時間、保護プログラムにより天使の加護を授けることができます。これは人保護法より天使アラニエルが二十四時間貴方に寄りそうものです。ご利用なさいますか?」

 どうしようか迷った。さすがにそこまでと考えて、ムギの事を考えると安心安全のために利用したほうがいいかもしれない。

「お願いしても大丈夫でしょうか? 何か利用料金のようなものは発生しますか?」

「承りました。利用料金は発生いたしま――」

 アラニエルさんが言葉を途中で止め、上空を見上げた。上空には天使がいて降りて来た。

 ファニエルさんだ。

 ファニエルさんはアラニエルさんの隣に降り立つと二人は膝を曲げお辞儀した。

「アラニエル。この件は監護者であるファニエル。私が引き継ぐことが最善と判断します」

「ファニエル。そうですね。監護者である貴方が保護したほうがいいでしょう」

 アラニエルさんがこちらへ向き直って近づいてきた。ぼくのパーソナルスペースなどお構いなしで、近づかれたからと言って離れたら気分を害してしまうかもしれないと下がる動作を殺して留まる。口臭が気になって顔は反らしてしまったけれど。

 いい匂いがした。柔らかい良い匂い。幸せの匂いがした。妄想だけれど、彼女が台所に立って料理をする姿を思い浮かべるだけで何とも言えない幸せな気持ちになる。

「寧々さん。申し訳ありませんが私はここで離脱します。後はこの天使ファニエルにお伺いください」

「はい。あのっありがとうございました。アラニエルさん」

「貴方が良き市民であるならば、私は貴方のために良き天使であり続けることをお約束いたします」

 天使アラニエルさんはそう言うとお辞儀をして上空へ飛び去ってしまった。

 見えなくなるとファニエルさんがこちらへ振り向く。近い……。

「あの、すみません」

「なぜ謝るのですか?」

「こんな迷惑をかけてしまって」

「アラニエルより詳細は保管済みです。貴方が謝罪する案件ではありません。保護プログラムを使う事は承認しています。これより二十四時間貴方達は私の保護下に入ります。利用料金などは発生しません。ですが、施設などの維持費、管理費、冷蔵庫の食材及び水道、ガス、電気に関して私は消費しなければいけません。その点はご了承ください」

「あっ……大丈夫です」

「ありがとうございます」


 それからムギとリザを迎えに行き、テントを片付けて家に戻った。

 犬を労わり周りの掃除、家の中はほどほどに散らかされていて、ファニエルさんが掃除を手伝ってくれた。

 ロッカーをこじ開けようとしていた痕跡があり、危なかった。

 終わったらお風呂に――ファニエルさんとリザには先に入って貰った。

 天使と獣人にはやっぱりわだかまりのようなものがあるみたいで、ファニエルさんはリザを見ても無反応で、リザは逆に嫌そうだった。

「えーあたしは寧々と一緒に入る」

「この方は私が責任をもってお風呂へ入れますのでご安心なさってください。貴方は女性です。恋人、夫婦の間柄、または双方の同意の無い場合においての混浴は認められません」

「ウザッ。相変わらず頭かたいのね。天使って。特にファニエル」

「リザ、ごめん。だけど一緒に入って。ファニエルさんと」

「あたしと一緒にお風呂入りたくないんだ」

「……ぼく男だから」

「ははーん……しょうがにゃいにゃぁ。たっちゃうもんね」

 オブラートに包んで欲しい。

「ムギの前で変な事言わないで」


 二人がお風呂に入っている間にご飯を作る。ムギはもう眠いのか船を漕いでいるけれど、傍を離れようとしなかった。きっと不安にさせてしまった。台所に立つぼくの腰に張り付いている。

 遅い夕食はキノコ鍋。味は市販のゴマ豆乳。色々なキノコにベーコンや豚肉を巻いて軽く焼き、形を固定したらスープの入った鍋に投入していく。

 二つの鍋にそれぞれを作る。

 一つはリザとファニエルさんの分。

 もう一つはぼくとムギの分。

 後は豆腐とコンニャク、コンニャクはぼくが好きだから入れる。

 白菜をざく切りにして並べて煮足したら完成だ。

 冷凍庫にはうどんも入っている。残ったスープで鍋うどんを作るつもり。

 冷蔵庫を開くと見に覚えのないものが幾つか入っていた。お酒もギッシリ詰まっていて眩暈がした。連れていかれた父モドキの方々のものだろう。

「いい匂いじゃん」

「キノコ鍋。先に食べてて」

「キノコだけ?」

「うどんもあるから」

「冷蔵?」

「冷凍」

「きゃー愛してるわ」

「……都合いいことばっかり言って」

「喜びなよ」

「そっそんなことより……いっぱい食べて」

 ファニエルさんが鍋に近づき、味見をしていた。

「キノコに肉が巻いてあるのですね」

「キノコとお肉を一緒に食べて欲しいので」

 こうしてキノコの形を補完しておけば、鍋の中で崩れることもないし、肉を探して鍋をひっくり返すこともない。汁と具がグチャグチャに混ざりあうのもいいけれど、きっちりわかれた最後の出汁にうどんを加えて食べるのも乙なのだ。

「工夫なさっているのですね」

 こちらへ振り向いたファニエルさんが頭を撫でてきて少し困る。

「お口に合うかどうかわかりませんが、ファニエルさんも食べてくださいね。ぼくはムギとお風呂に入ったあとに食べますので」

「ご厚意、ありがたく頂戴いたします」

 いくら天使と獣人の仲が悪くてもこんな所で喧嘩はしないと……しないよね。しないよね。

 ムギを連れてお風呂へ――リザの隣を通る時にお礼をする。

「リザ、色々ありがとうね」

「んー……いいわよ別に」

 伸びて来たリザの手が頬を撫でてきて、甲が唇に押し当てられる。見上げるとリザはニマニマしていた。

「あんたの唇って柔らかいよね」

 良くも悪くもない――顔をしかめるしかなかった。


 ムギは二日ぐらいお風呂に入っていないらしい。

 頭と体を洗う。本当は自分で洗ってほしいけれど、ムギはぼくを見上げるだけで手を動かそうとしなかった。まだまだ自分で自分の事をしてもらうのは時間がかかるかもしれない。

 言って聞かせるのもいいけれど、今日はもう疲れも出ていてそんな元気もなかった。

 父親の事を……言おうかどうか迷って言わなかった。言えなかった。

 ムギを丸洗いして自分も丸洗い。湯船に浸かる。

 湯船に羽が浮いていてびっくりしてしまった。変な毛の塊はリザのものだろう。リザも二日ぐらいお風呂入ってなかっただろうしね。仕方ない。

 湯船に浸かっている間、ムギが体を寄せて来て、赤ん坊を抱きしめるみたいにムギを抱えていた。ぴったりと肌がくっついて、鎖骨辺りに頬がある。

 ムギは肌をくっつけるのが好きなみたいだ。

 両肩にムギの手の平がピッタリくっついている感覚がする。

 この感覚、少しわかる。人肌恋しいって言うのか、ぼくにもあった。今もある。誰かに抱きしめてほしい。誰でもいいから抱きしめてほしい。抱きしめられたい。

 得体のしれない不安をやわらげて欲しい。

 昔――そう言う時、ぼくを抱きしめてくれたのはマリアンヌさんだった。

 ムギにもそう言う欲求があるのかもしれない。そう考えて、ぼくもムギを抱きしめた。柔らかくて温かい。小さな命だと感じる。背中を撫で――。

「大丈夫だよ。ムギ。よしよし、よしよーし。寂しい思いをさせてごめんね」

 見上げて強くしがみ付いて来る。

 頭に何度も唇をつける。頭に頬ずりをする。ムギも顔を鎖骨辺りに擦りつけて来た。

 ムギは眠そうに目を閉じたり開けたり、もたれかかってぐったりも――もう少し頑張ろうね。

 十分に体が温まったらお風呂からあがり着替えて台所へ。

 リザとファニエルさんは鍋を食べ終えて寛いでいた。

 誰かがいるって幸せな事なのかもしれない。今日は寂しくないね。

 ムギと二人で鍋をつつく。

「美味しい? キノコ、大丈夫?」

 ムギはキノコを食べても苦手そうにはしていなかった。普通に食べている。ムギはキノコが食べられるみたいだ。白菜も良く食べるし白滝、豆腐やコンニャクも問題なく食べている。白菜の独特の臭いも平気なんだね。

「ムギ、苦手だったら言ってね」

 ムギがこちらを見上げたので頭を撫でる。具材は少なめだからすぐに無くなってしまった。ウドンでしめ。

 食べ終えたら片づけ――と言いたい所だけれど、さすがに疲れてもう動きたくなくなってきた。

「すみません。ぼくは今日はこれで、休みます。片づけは後でしますので。ファニエルさん申し訳ないですが、後はご自由になさってください」

 簡単に歯磨きとマウスウォッシュ。口腔洗浄機(水圧による歯間掃除機)は段ボールから出していないので明日。

「どうかしたのですか? そういえば、今日は随分お疲れのようですが? 顔色も優れませんね」

「……ちょっと忙しかったので。すみません。リザも自由にしてね」

「あーい」

 地下に移動する――服の裾を掴んでムギはついて来た。

「一緒に寝る?」

 そう言うとムギは手を伸ばして来て、あぁ、抱っこしてほしいのねと抱っこして連れていく。後ろにはリザもいた。ファニエルさんも。

 何か言おうかと口を開きかけて、けれどもうそんな気力もなかった。ムギ、軽い、温かい。子供って妙に体温が高くて温かい。今この温かさがぼくにとって致命的だった。睡眠欲求が加速する。

 地下ガラス前に置かれた敷布団。ムギを横にしてその隣で横になる。体が敷布団に沈む感覚、枕に頭を乗せるとぼくの意識は溶けてなくなった。

 なぜだか昔の夢を見た。昔って言うほど昔じゃないけれど。

 アイツ(実の父)の再婚を知ったのはアイツが再婚してから何年も経ってからだ。息子と二人の娘さんと奥さんと五人で歩いているところを見た。

 嫉妬にも似て怒りにも似て激情にも似て、苦しみにも似てひどく暗い感情に襲われて、不幸になればいいと強く睨んだ。見ていられなかった。不幸になって欲しかった。そんな事を考えてしまう自分が嫌で惨めだった。家に帰ってから腕を噛みながら泣いた。惨めだった。

 アレ(母)が再婚したのを知ったのはアレが再婚してからしばらく経った後だった。

 置いて行かれた奴(育ての父)がぼくを殴りながら教えてくれた。あの女はお前を捨てたと言われた。でも奴も辛かったのだろうと何も言えなかった。誰の子かもわからないぼくを引き取ってまで母と暮らしていたのに、母はあっさりと男もぼくも捨てた。

 アレは普通の男性と結婚して主婦になっていた。

 何年後かに見た。

 息子が一人いて幸せそうだった。

 過去を全て知った上で結婚してくれたんだって。

 全部抱きしめてくれて過去を乗り越えられたんだってさ。

 過去って何。もう過去は忘れるって。

 ファミレス(ファミリーレストラン)で親子三人楽しそうに会話していた。全てを包み込んでくれたって旦那さんの手を握り、うれし涙を流していた。

 息子の誕生日だって運ばれて来たケーキはサプライズ――周りのお客さんまで祝福していてなんとも言えない気持ちになってしまった。引きつっていた。顔の表面がざわざわと波打つ感覚。

 結局ぼくは祝わなかった。不幸になればいいと唇を噛んだ。見ていられなかった。心の底から嫌だった。もっと不幸になってほしいと願った。

 でも実際はどうかって。

 あいつらが不幸になって嬉しいのかと問われると、全然嬉しくなかった。自分が惨めになるだけだった。相手の不幸を考えるほど、自分が惨めになるだけだった。

 なぜって自分の現状が変わるわけじゃないから。奴らに何があろうとぼくの環境は変わらない。そして誰かを不幸にしたからと言って不幸になるわけじゃない。これが現実だ。

 家に帰ってから腕を噛んで泣いた。それしかできなかった。

 ぼくは一体なんなんだ――いくら考えてもそれがよくわからなかった。

 一言で言ってしまえば惨めだった。

 幸せそうな人を見るのが嫌だった。運のいい人を見ると嫉妬した。動画を見たくないのは成功している人を見たくないから。人気のある人を見たくないから。なんでこんな人が人気者なのだと、どうしてこんな人が認められるのかと、こんなのの何処がいいのと、不満ばかり、不満ばかり、不満ばかり。でも自分が認めたくない人達にすら自分は劣っていた。実際自分が彼らのようにできるのかと言えば否だったからだ。こんなセリフを言えない。こんな行動はとれない。こんな思考には至らない。物語なんて描けない。

 自分と同じだと眺めていた配信者のあの子。

 次第に人気になって沢山の人に囲まれていた。

 対して自分はどうなのかって対比して自分の現状を改めて思い知るのが嫌だった。

 それは今でも変わらない。

 女の子は自信のない男が一番嫌いなんだって。じゃあぼくの事が一番嫌いなんだね。そりゃ母親にすら愛されないわけだ。

 それでも次の日はやって来て、将来の不安や唐突な死の想像を突き付けて来る。

 イミナが聖女になった時、腕を噛んで泣いた。

 羨ましいとかそう言う感情はなかった。イミナが凄い性質で素直に嬉しかった。でも代わりに自分の中で何かが欠けて落ちるのを感じた。それは穴になってとても痛かった。

 ずっと傍にいた。そしてこれからも――恋人になんて言わないしそこまで望まないけれど、友達として傍にいられると、それだけでいいと、これまでみたいにと。

 現実は残酷で、それでも友達でいられるなんて甘い考えもあった。案の定そんなことはなく、それからはずっと一人だ。幼馴染は負けるって言うものね。

 誰でもいいから傍にいて。

 誰でもいいから愛して。

 誰でもいい。

 何度そう心の中で叫んだかわからない。

 でも結局、そんな人はいなかった。いてはいけなかった。

 誰かで代替えなんてできなかった。初めからわかっていたことだ。望むほど自分が壊れていくだけだって。

 心を殺せばいい。そう結論づけるのに時間はそんなにかからなかった。

「あぁああああ‼」

 目を開けて腕を認識していた――暴れるムギの手を優しく受け止める。

「大丈夫? ムギ? 怖い夢見たの?」

 傍にリザの視線を感じた――リザもフォローしてくれているみたい。リザ、不思議な人。何も知らない人、綺麗な人、傍にいてくれる人。でも代わりにお金を取る人。

 体を起こしてムギを安定させる。左手首を思い切り噛まれた。ぼくが自分の手を噛んだ時のような痛みだ。痛いけれど、我慢できないほどのものじゃない。

「大丈夫だよ。ムギ。いい子いい子。いい子いい子」

 手首を噛ませたまま後ろから抱えて抱きしめる。右手で頭を撫でて。

「あっ‼ あぁっ‼」

 気が付いたムギの言葉、涎と一緒に離れていく。過呼吸になり始め、ゆっくりとぼくの顔を伺うように視線を向けて来た。その視線には恐怖以外の何物も含まれていなかった。

「大丈夫、大丈夫」

 そんなムギの頭を撫でる――苦しかったね。辛かったね。大丈夫大丈夫。

 寝不足で少しばかり目が痛い――視覚としての機能が低下している。

「大丈夫だよ。ムギ」

 ムギの頭を撫でる――ムギの顔がくしゃりと歪んだ。本当はごめんなさいって言いたいはずなのに、ムギの口からは音が出てこない。手をこちらへ向けて掴む手を体ごと抱える。

「大丈夫大丈夫。大丈夫大丈夫」

 裏切られるのは嫌いだ。母を思い出すから。不倫や浮気は嫌いだ。母を思い出すから。

 ぼくが一番欲しい物を、他人が平気で投げ捨てるのが嫌いだ。どれだけ渇望しても手に入らないものを、ゴミクズのように扱う人達が嫌いだ。

 でもムギは大丈夫。ぼくの手を噛んでもいいよ。

「いい子いい子。ムギ、大丈夫大丈夫。大丈夫大丈夫」

 この手の痛みも、寝起きのイライラも、他人に取られる時間の感覚も、張り裂けそうな嗚咽も、一人ぼっちの悲鳴も、結局は全部自分のものであって他人のものではない。

 上手に育てられるかな――こんなお兄ちゃんでごめんね。

 久しぶりに泥沼のように眠った。今殺されても、いいと思ったから。

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