第21話 聖女の不在(終)

 ケリヴアンダーソンという男に苗字はない。獣人にとって名前は呼称に過ぎないからだ。

 およそ五十年前、世界の様相が変わった時、獣人達は大いに喜んだ。人間という獣人にとって都合のいい種族が現れたからだ。知能は高いが力は弱い。強さが秩序を作る獣人達の中においてもっとも弱い種族が現れた瞬間だった。

 当然獣人達は自分達知能があり二足歩行する種族において人間を最弱の生き物として奴隷にした。それは獣人社会において大きな意味も持っていた。

 格差において底辺だった者にとって人間が奴隷になることで下がる溜飲は大きい。また上の者にとって獣人と言う一括りの種族を作り上げる絶好の機会でもあった。

 当時の人間の大半はこれに抗うことができず、多くの人間が獣人達の奴隷へとなり下がった。兵器を持ってしてもなお数に劣りまた地理に劣り、運動能力において劣っていたからだ。

 さらに地殻変動による各政府の麻痺、指揮系統の混乱がそれに拍車をかけた。

 ただそんな獣人達にも面白くないことはあった。

 天使を筆頭とした長命種が即座に反応し人間達を守り始めたことだ。

 人間を奴隷にしたことによって獣人国家と天使の仲はこじれにこじれることとなる。獣人国家に居住していた天使達が奴隷になった人間達を解放すると共に国を去ったためだ。

 獣人達にとって天使との離別は大きな痛手となった。

 医療系統が麻痺してしまったからだ。

 それは五十年経った今でもなお尾を引いている。


 天使は現在において二つの派閥に別れてしまっている。

 人側についた天使と、獣人側についた天使だ。

 しかし獣人側についた天使に問題があった。彼らは天使達に堕天使と呼ばれるような自分勝手な者達だったからだ。獣人達に同調し性や暴力に酔いしれ、癒しの技能を無くしてしまっていた。


 ケリヴアンダーソンという男には任務があった。

 それは聖女を自国へ持ち帰ることだ。獣人国家における医療はある程度進んでいたが限界があった。その医療技術は人間社会における二十二世紀の医療水準でもある。しかし異世界においてその医療水準では対応しきれないものが多々あった。

 カトブレパスという魔物の石化現象などがその一つである。

 獣人国家における医療において大きな問題が発生した時、それに対応することができなかったのだ。

 それを癒せる天使も、性質を持つ者も人間の奴隷しかなかったからだ。

 ある日、獣人国家における王族の女性がこのカトブレパスの病にかかった。獣人国家の医療では治す事ができなかった。

 王は決断した。

 天使か聖女か、そのどちらかを攫ってこい。

 その任務を与えられたのがケリヴアンダーソンだった。

 ケリヴは人間社会に当てはめれば犬の獣人である。年の頃は百三十二。老練の軍人だ。部下を伴い人間社会を探り、獣人に憎悪を募らせる人間社会の中で、獣人でも立ち入ることのできる街を探り侵入した。

 だがケリヴがどんなに頑張ろうと天使を捕獲することはできないと悟る。

 七人では天使一体と対自することすら困難だ。過去人間を奴隷にする前であったのなら、天使に頼むだけで治してもらっていただろう。しかし現在において天使は獣人と離別してしまっていた。

 それは単純に人間を奴隷にしたからではなく、獣人の本能に忠実な生き方が天使の性に合わなかったからだ。

 逆に人間達は興味深かった。本能と理性の狭間で悩み苦しみもがく姿が好ましかった。また良き天使達が見守り続けた存在。命を賭して生かした存在だったからだ。

 特に悩み苦しみもがく姿が天使達には興味深かった。

 その末に正しいことを見定めて決断して欲しい。

 決断のほとんどが落胆の色であったこともまた天使には好ましかった。

 本の一握りだけが自分を犠牲にしてでも他者の命を守ろうとする。

 本の一握りだけが〇を貫こうとする。

 天使とってそう言った人間を見守るのは好ましかったからだ。

 本の一握りの人間を〇するためだけにこの世界の天使は人間を守っている。


 ケリヴは天使を諦めて聖女を攫うことにした。

 弱い人間達から聖女を攫い連れ帰る。たったそれだけの任務のはずだった。

 街に侵入し聖女を探し素性を調べ上げた。

 対象は鳴時イミナ。身長183㎝。体重68キロ。バスト92㎝、ウェスト68cm、ヒップ98cm。父親は鳴時リクジョウ。母親は鳴時マリアンヌ。

 十歳ですでに聖女としての資質に覚醒し十三歳で聖女に認められる。

 パーティメンバーの素性やレベルを調べ、ケリヴはこの程度ならば赤子の手を捻るより簡単だとタカをくくっていた。

 なぜならばメインダンジョン内に天使は滅多に侵入してこないからだ。

 ダンジョン自体が天使を警戒している。天使一人が侵入することにより起こる未知は計り知れない。

 自身の女であるサウンドキャットを傍に、名前すらない六人と共にダンジョンへ侵入した。

 ダンジョン内六層にて接触。多少の警戒はあったものの、何度かの支援のちメンバーの一人定峰をサウンドキャットにて誘惑、態度を軟化させる。仲間の一人が十一階層付近で負傷し救援を待っていると嘘をついた。

 十一階層までの同行を取りつけ、人数が増えたことにより進行速度が上昇。イミナ達にとっては予定より早く、ケリヴ達にとっては予定通り十一階層ポイントDにて改め予定していたサディガンと会合した。問題はあった。負傷役の兵士が本当に負傷してしまっていたこと。

 しかしそのおかげで聖女とその他の分断に成功する。

 分断に成功し作戦は順調かと思われた。しかしここで天王子と戸部の手痛い反撃を受け兵士の三人が絶命。ケリヴ自らの手で天王子、戸部を絶命させたが定峰により天使の羽を使用され逃れられる。

 この時点で天王子らは天使の元へ帰還――天使による魂へのサイコメトリー、数刻のち獣人の強襲が知らされ発覚する。

 獣人達はイミナを追いかけポイントDからポイントFへ移動。サブダンジョンへの入り口と出口が何処へ通じているかはすでに把握されている。後はイミナを捕獲してポイントAへ移動するだけ――しかしここでケリヴにとって予想外の問題が生じる。追いつめていた鳴時イミナが地面を破壊したのだ。

 対象は落下しサウンドキャットが命令を無視して追従したため、ケリヴ目下兵士二人も対象を追う事を余儀なくされた。

 深度は当初予定していた層をはるかに超えて68階層へ。

 イミナ及び追従したサウンドキャットが巨大なムカデに襲われ破損。イミナの下半身はロストしサウンドキャットは頭の半分から下がロストした。

 着地後、サウンドキャットの魂を封魂瓶で回収、落下地点がグレムリンの巣であることが発覚、兵士の一人を犠牲にして敵意を反らすも長くはもたなかった。

 コイツ、上半身だけで動きやがった。

 ケリヴが驚愕したのも無理はない。

 イミナは下半身をロストした状態で自身の杖を持ち、グレムリンを退け手で這って壁際へ逃走、天使の羽を使用しようと壁際にて聖域を発現したのち絶命した。イミナの誤算は天使の羽が発動しなかった事――ケリヴの取り出した堕天使の羽に魂の誘導を阻害された。

 楽勝な任務だとケリヴは考えていた。その失敗の原因はイミナの精神を知らなかった事だ。しかしケリヴも引くわけにはいかない。撤退は自身を滅ぼす行為に等しい。このまま国に帰ったのなら任務失敗による実質的な処刑は免れず、街に潜伏し続ければそれは逃亡とみなされ一生を逃げて暮らすことになる。

 結果は散々足るものだったが、イミナの魂を回収できることに変わりはなく、後はサブダンジョンの入り口を見つけて街の中、又は外へ逃亡し国に帰るだけだった。

 ところがここでさらに問題が起こる。

 イミナの魂が聖域の中に閉じ込められており、効果がきれるまで回収できないことが判明した。残りのグレムリンも迫っている。聖域の中への逃亡を視野に入れるがケリヴは聖域の中へ入ることができなかった。

 ケリヴはグレムリンと戦闘をしなければならず、最後に残った兵士を囮にすることを視野にいれた。

 最後に残った兵士であるコリーヌアンは、ケリヴが自分を囮にすることを察していた。

 コリーヌアンにとってそれは良くないことだった。

 本来名前のないはずのコリーヌアン。しかし実は名前があった。

 コリーヌアンは獣人と人間との間に生まれたハーフビーストだった。獣人の父親とその奴隷の母から生まれた忌子。

 忌子として名も無き兵士、捨て駒として使われるはずだったコリーヌアンに名前をつけたのは奴隷であるはずの母親だった。

 コリーヌアンには弟が一人いる。奇しくも王女のかかった呪いと同じ呪いを受け床に伏せていた。今回コリーヌアンが作戦に志願したのはなんとしても弟を救いたかったからだ。

 イミナにとってコリーヌアンの存在は予想できないものだった。

 コリーヌアンは聖女を害する気が一切なく、ただ弟を救いたいという献身しか抱いていなかった。

 清らかな心をもつ乙女だったコリーヌアンは聖域の中へ侵入できてしまった。

 引っこ抜かれた聖者の行進と消失した聖域――ケリヴはほくそ笑み、イミナの魂を回収した。

 あとは逃げるだけだ――だがここでさらに問題が起こった。

 ケリヴは頭から下の感触を失った。

 全身の感覚が失われ体の動かし方を失った。

 膝から崩れ落ち、体がのけぞり反りかえる。

 逆さになった世界の中に人間が一人立っていた。その顔は無表情で、しかし瞳だけが爛々と輝いていた。

 襲い掛かるグレムリンが、その人間の傍へ行くと動かなくなる。まるで糸の切れた人形のように動かなくなる。動かなくなる。動かなくなる。

 ケリヴには彼が死神に見えていた。

「なんだお前は……」

 それはコリーヌアンにとっても同じことだ。

 コリーヌアンもまた体の機能を失っていた。それは恐怖で動けないとか身体的なダメージを負ったから動けないとか、そういう類の不自由ではなかった。感覚がないのだ。無意識に動かしていたものが動けという信号が遮断されているかのように動かない。糸の切れた人形のように不格好に垂れ下がる。

「なんだお前は‼」

 ケリヴの怒号――寧々は若干耳に痛みを覚えて顔をしかめた。生命探知によって到達したそこには二人の獣人があった。

 死体の傍へ行く――歩みはゆっくりとコリーヌアンは恐怖で歯を打ち鳴らしてその歩みを視線で追っていた。得体の知れない恐怖というものに襲われて汗が噴き出す。

「答えろ‼」

「うるさいなぁ……」

 イミナのコープスを眺め魂の幕を解除、身をかがめる。イミナの小奇麗な顔からは鼻血が垂れており、口から噴き出された血液が真っ白な服を赤く染めていた。瞳孔は開き視線は遠く――肉体としての機能を完全に停止し、ロストした事を意味していた。

 ケリヴの手から落ちた封魂瓶――寧々の視線はそちらへ向いた。

 寧々の拾った封魂瓶を取り返そうともがくケリヴ。大声を出すと声の出し方すらわからなくなった。

 魂の姿は皆朧で形が無い。脳が無いので記憶や意識が無い。

 寧々は拾った封魂瓶を開いた――自我や思考がない。それでも近しい者が見たのなら、その息吹を感じることができる。

 イミナの魂は両手を形作り、寧々の頬を包み込んだ。次いで小さな子供の姿を取り寧々の魂へと抱き着いてくる。幼い頃のあの頃のまま――幼心の君。

「良かった……」

 間に合って良かった――間に合って本当に良かった。気が抜けたように心の底から安堵して、寧々はイミナの魂を再び封魂瓶へ閉じ込め頬に当てた。

 口からはため息が漏れる――頭に上がっていた血液が下って来る。安堵のあまり涙が零れそうになる。

 封魂瓶を機関のロッカーに繋がったポケットへと大事に仕舞い込んだ。

 これでもし自分が死んでも天使達がイミナの魂を回収してくれるはずだと寧々は表情を緩めた。例え寧々の体が壊れてもコートは壊れない。

(なんなんだお前はあああ‼)

 ケリヴは得体の知れない寧々に対してそれ以外の言葉が浮かばなかった。自分でも間抜けなことは理解しているが、それ以外に一体何を叫べばいいのか。

 寧々はケリヴの顔を蹴った。痛みが全くない。弱い蹴りだったが、それでも歯が頬の内側に刺さり出血はした。

 次いで寧々はイミナのコープスを、千切れかけたイミナ自身の服で包みこみ、まとめて背中へ背負った。まだ温かく湿った血液を寧々は汚いとも感じなかった。大切な幼馴染の体だ。寧々にとってイミナは特別な存在と言って差し支えなかった。それはイミナが聖女だからでも美人だからと言うわけでもない。自分に唯一普通に接してくれた人間だったからだ。それは多少強引で我儘なこともあった。しかし憶病になっていた寧々にとってその強引さはむしろ救いだった。その強引さがなかったのなら、寧々とイミナの関係はすぐに途切れてしまっていただろう。自分からは絡みにいけないゆえに。

 そしてイミナの両親にも感謝している。それは好きとか嫌いとか、愛しているとか愛していないとかそういう話しではなかった。感謝しているのだ。心の底からイミナの存在に感謝している。それはイミナが聖女でなくても、整った容姿をしていなくとも変わらない。

 イミナがどう寧々を見ていようとも、今はもう嫌われていたとしても寧々が感謝していることに変わりはない。

「待っで……マッデ‼」

 コリーヌアンは聖女を連れて行こうとする寧々を見て急激に思考を取り戻した。ここで死ぬわけにはいかない。聖女を連れて行かれたら弟が助からない。涙と意味のわからない恐怖と嗚咽と鼻水にまみれた顔、それでも腕が上がらずにぬぐう事すらままならない。

 自分が死んだら弟はどうなる。聖女を連れて行かれたら弟はどうなる。

 コリーヌアンにとって弟は唯一の肉親であり、境遇に耐える支えだった。失ったら残ったのは――哀れで無価値な奴隷以下の自分。それは何もない人間が優しさだけはあるとしがみ付くかのような心情だった。

「づれでいかないでっなんでもずるっづれでいかないでっ」

 寧々はコリーヌアンを横目に見た。

「ばんでもする‼ ばんでもするから‼ おどうど(弟)が‼ やばい(病)なの‼ だすけて‼ おねがい‼ なんでもするがら‼」

 その言葉に寧々は息を吐いた。怒りはある。幼馴染のこんな様相を見せられて怒りがこみあげてくる。行方不明になっていたらと考えると、攫われていたらと怒りも沸く。でも同時に探索者なのだから常にロストの危機にあるでしょと自分に諭される。

 寧々はため息をついて向き直り、座り込んで動けないコリーヌアンの傍へ寄ると足を曲げて目線を合わせた。

「それでもイミナを連れて行かせることはできない。攫われた先でどうなるかわからないのは君でも想像つくよね」

「ばたしは‼ どうなってもい゛い゛‼ ばんでもする‼ だがら‼ おねがい‼」

 いいぞ。その調子で時間を稼げとケリヴは考えた。寧々の動揺を見てその手の話しに弱い人間なのだと察した。連れ去られ奴隷となった人間達の話をすれば誘導できるかもしれない。

(聞け‼ 人間‼)

 しかしケリヴがそう言ったと思考した瞬間には意識が宙へ飛んでいた。もう何も考えられない。もう何も意識することができない。自分という自我を失って、ケリヴの視線は虚空にありながら虚空すら見つめてはいなかった。

 ただ目の前に強固な魂があった――寧々は己が精神力を理解していない。


 レベル99。肉体の限界。その先にあるのは魂の強さではなく生命力と精神力の強さだった。魂の力という幕に隠されて見えない生命力と精神力の強さは寧々の身体能力を劇的に上昇させていた。残念ながら寧々はこれを魂の力だと勘違いしている。

 魂の力との生命力、精神力は別ものだ。

 種臓を壊すと中のエネルギーが肉体と魂に吸収され生命エネルギーとヌースに還元される。生命エネルギーは肉体に影響を与えて身体能力を著しく向上させ、ヌースは魂に加算され性質のレベルを向上させる。そしてこれら全てに一定の基準を設けて合算し数値化したものがレベルであり強さだ。カードはスキャンで持ち主の身体能力を把握し数値化、即座にレベルを表示する。肉体は性質に引っ張られてステータスが変化し、しかし人間の肉体が人間の肉体として構成されている以上個体差はあってもレベルは99で止まる。そこが人間としての肉体の限界だからだ。

 精神エネルギーは生命エネルギーと共鳴しサイコキネシスとなって強力に寧々の体を強化していた。

 これらのシステムは天使により作られたものだ。

 人に性質を与えたのが天使だからだ。

 だが天使にも誤算はあった。人をどう強くするのか、どうすれば強くなるのか悩み、参考にしたのが人の作ったゲーム、RPGだったからだ。本来この世界に必要のない数々の性質までも移植してしまった。それらは世代を重ね混ざり合い続き又は変色した。

 寧々の存在は天使にとってもイレギュラーであり、しかし天使が望んでいる姿の一つでもあった。


 寧々は封魂瓶でケリヴの魂を回収――誘拐犯なのだから治安部隊に突き出さなければならない。

 次いでコリーヌアンをロストさせようとした寧々の脳裏にムギの顔が浮かんだ。少々の呵責。

「……弟さんって何の病気なの?」

「せぎがっ。せぎがののろいでっ」

「コカトリス?」

「ちがっちがうっ」

「バジリスク?」

「ちがうっ」

「カトブレパス?」

「そうっ」

「本当なの?」

 コリーヌアンは僅かに動く首を上下に振る。

「名前は?」

「……あんっ。こりーぬあん」

 寧々にはコリーヌアンが嘘をついているようには見えなかった。それは盗賊としての直観であり、技能である【トラの威】の副次効果でもある。同時にそれはコリーヌアンが寧々の前では嘘をつけないことを意味していた。

 それでも攫うのは犯罪だと寧々は考える。治安部隊又は天使につきだすべきだ――そう考えて迷い寧々はため息をついてコリーヌアンをロストさせた。

 命乞いに弟を使うな。この女は人の良心に縋る卑しい奴だ。そう言う考えが寧々の脳裏に過り母と重なって吐き気も起きる。そしてお前は何様なんだと寧々は自分に言われた。

 弟のためなら犯罪でもする――コリーヌアンの言葉が寧々の脳裏をよぎった。

 美談かどうかは判断できない。

 なんとはなく寧々はそう呟いていた。

 ではムギが同じ状況にあったのなら犯罪でもするのかと言う話し、寧々の心は否だった。

 人は死ぬ。ムギが死ぬというのならそれは天命だ。看取れるのなら最後の最後まで傍にいるつもり。例え自分の大切な人を守るためであっても無関係の他人を傷つけてはいけない。

 それは相手が攻撃してきたのなら反撃はする。でも自分の大切な人が病気だからと言って、他人の財産や命、人生を勝手に消費していいわけがない。

「そうだよね」

 実際にそうあった時、自信はないけれど。確認するように口に出していた。

 辺りを見渡し、ケリヴの持っていたもう一つの封魂瓶(サウンドキャット)とグレムリンに食われた他の獣人兵の魂も回収する。イミナとコリーヌアンの封魂瓶は天使側のロッカーポケットへ。他の獣人達の封魂瓶は家に通じるポケットへしまい込んだ。

 瓶の中にはそれぞれの血液も少量入れてある。

 残念だけれどコリーヌアンの体はここに置いていく。

 食料として魔物に消費されるだろうけれど、それも自然の摂理だと寧々は考える。

 最後にイミナの魂の入った封魂瓶を取り出してしっかりと目視で確認、ポケットにしまってコープス(いみな)を背負い元来た道を戻り始めた。

 降りは早いが登りは重い。コープスの重さや空気抵抗も相まって登りきるのに寧々は丸一日を費やしてしまった。体力は消耗していたけれど、それでも聖女(いみな)を回収できたことに若干の余裕はある。コープスであるにも関わらず、イミナの髪からはいい匂いがし、内蔵類をごっそり失っていたのもあり大して臭わなかったのも相まって寧々が不快になることはなかった。あるいはコープスであったとしても聖女は聖女なのかもしれない。

 戻って来た十四階層で寧々はカードを出した。マリアンヌを探すためだ。

 カードのオートセーフティー機能は元々断ってある。

 オートセーフティー機能というのは所謂情報の上書きを自動で保存する機能のことだ。カードを再起動させ今までの情報を抹消する。

 改めて起動したカードには正常に起動したと表示が点灯した。

 ちなみにこのカードにはオートフィックスロケーション機能が搭載されている。通常はデフォルトで条件が設定されているが、自分で条件をつけ、その条件が満たされた場合、カードは自動的にその場へ移動する機能を持っている。この機能によって個人に紐づけされたカードが失われる可能性はかなり低い。

 フィックスロケーション機能なんて名前は行業しいけれど、素敵な名前なので採用されている。

 アップデート機能がオフになっていることを確認し機内モードを解除。

 カードにオレンジの通信マークを確認――それは近くに探索者いることを意味していた。この機能のおかげでダンジョン内であってもある程度の情報を共有、連絡できる仕組みとなっている。

 カードの着信履歴には同じ番号ばかりが表示され、その番号はマリアンヌのものであった。

 番号を押す――寧々がダンジョンから連れ帰るわけにはいかない。そしてイミナは聖女だ。聖女のコープスを見知らずの他人に任せるわけにもいかない。その預けた他人がその行為の対価を恩として求める可能性があるからだ。

 最初の呼び出し六回目で通話がオン表示となる。

 そして繋がったとして最悪ワン切りされることも寧々は覚悟していた。そうなったらかけ続けるまでだと高を括る。

 しかし驚いたのはマリアンヌの方だった。

 一度は出ずに今それどころではないと捨ておこうと考えたマリアンヌだが通話表示マークに違和感を覚えて仲間に進行を待ってもらいコールに応じた。

「マリアンヌ。急がないと。電話している場合じゃ」

「進捗かもしれないでしょ。ちょっと待って」

 現在マリアンヌ達捜索隊一行は十二階層まで来ていた。地上からの通信は探索者のカードをいくつも経由しなければいけないため負荷を考えれば実質的には難しいと言わざるを得ない。

 それにも関わらずダイレクトコールが来た。

 つまり半径三キロメートル以内に寧々の存在があることを、少なくとも寧々のカードが存在していることを意味していた。

 寧々とイミナは幼馴染、昔は仲が良かった。

 マリアンヌは眩暈を覚えそうになった。

 ダンジョン侵入前に一度寧々からコールがあり、マリアンヌは即切りしてしまった。寧々がイミナを心配してダンジョンに侵入することは物理的に不可能だと考えていた。

 寧々を我が子のように慕っているが今はそう言う話しではなく長女優先――そういう言い訳染みた思考が脳裏を過りマリアンヌの形相は悪魔のように歪んだ。

 自分で自分が許せそうにない。あの子も我が子だ。もしかして寧々にも危険が及んだのかもしれない。そう考えると自分が許せそうにない。もしそうであったのなら、マリアンヌは自分を抑えられないと憤りを覚えた。心を落ち着かせてコールに応じる。

「……すみません。お忙しい所。マリアンヌさん。ですよね?」

 最初の一声で寧々が無事であることを認識、安堵の息を吐く。

「どういうこと? 貴方今何処にいるの?」

 色々言い訳を考えようと思案していた寧々だったけれど、何処にいるのと聞かれたことによって通信マークの点灯から色々察せられてしまったことを知り大きく息を吐いた。

 逆に考えれば後はマリアンヌさんに任せれば問題ないと寧々は考える。すでに半径三キロ圏内まで来ている。

 返事が無い事を察してマリアンヌは自身の映像を映す――それに対して、あっマリアンヌさんだと寧々は間抜けな感想を浮かべてしまった。

 その映像の意味は、通話相手に偽りはないという証明と現状を伝えることだとは考えなかった。

「悪いけれど映像を映して頂戴」

 そして映像を映させることで相手の現状を把握すること。

 寧々は少し迷ってしまった。

「……今、マリアンヌさんだけですか?」

「いいえ。一人がいいなら移動するわ」

 まさか息子に何かあったんじゃないのか。すでに娘のことで頭がいっぱいな所、息子に何かあったのならマリアンヌはブチギレル。

「すみません。お願いします」

「一度ミュートにするわね」

 通話を切るのは危険だと判断し、マリアンヌは音声を消した。

「悪いけど、ちょっと待って頂戴。五分でいいわ」

「何かあったのか?」

 指揮をとっている夫、リクジョウも内心では焦っていた。マリアンヌの通話が神経に響く。

「息子からよ」

「あれは息子じゃない」

 リクジョウにとって寧々は息子ではない。表面上ではそう取り繕ってはいるが、どうしても息子とは感覚が違っていた。立ち位置は娘の友達で間違えない。身近な娘の友達。後輩という位置がもっとも正しいかもしれない。身内だがそこまでじゃない。遠い親戚のような存在がリクジョウにとっての寧々だ。

 マリアンヌの心情を考えれば受け入れてあげたいけれど、娘と法を守るのであれば線引きだけはちゃんとしなければならないというのがリクジョウの考えであった。

 マリアンヌは息子を失っている。

 寧々が苦しんでいた妻に僅かでも安らぎを与えてくれたことに関しては感謝をしている。

 だけれどそれとこれとは別の話しだ。

 さらにリクジョウは寧々の父親とも揉めている。

 リクジョウは決して非情な人間ではない――寧々を息子として受けいれないことは、実の息子との混同を避けるためでもあった。

「今、その議論をする気はないわ。あと、次あれと言ったらボコる」

 内心焦っており、あれと言ってしまったことをリクジョウは少しばかり後悔した。しかし娘を思えば僅かでも立ち止まるべきではない。その焦りは、なぜ寧々からこの場所へのコールが可能なのかと言う疑問を打ち消してしまった。

「先に行っている」

 そのセリフにマリアンヌは後ろ手をヒラヒラと振って返した。

「待たせたわね。他には誰もいないわ」

 マリアンヌは消した音声を戻し、映像を表示する。寧々も映像を表示し、まず寧々が画面に映っていることにマリアンヌは安堵する。次いで背景がダンジョン内であることを示して刹那理性が飛びそうになった。

(なんでダンジョンにいるの。何かあったらどうするの。私を心配させたいの。あぁ、コイツは私を殺したいのだ)

 怒りで我を忘れそうになり息と共に吐き捨てる。

「どういうこと?」

 マリアンヌの怒りの表情を見て、寧々は唇を強張らせた。

「あっあの」

 ダンジョン内地図を表示してポイントを示す。

「あっあの……この、ポイントDに来てください。イミナを確保しましたので……一人で来てください。お願いします」

「どういうこと⁉」

「一人で来て下さい。お願いします。待ってます」

 そう言うと寧々は通話を切った。

 マリアンヌは怒りを忘れて停止した。イミナを確保していると聞いたからだ。丁度先に行かせた所。表示された場所は十四階層。最短なら一時間もかからない。何があるにしろ行かないわけにはいかなくなり、マリアンヌは唇を噛みしめた。

 本当にイミナは確保されたのか。罠なのか。何のために。獣人達が裏側にいるという。獣人達の罠の可能性も考慮。タイムリミット。

(迷っている暇はない)

 最速で動き、罠なら突破して探しにいけば良い。もちろん敵はヤツザキだが。

 気持ちを切り替えてマリアンヌは十四層へ駆けだした。

 しかし物語の顛末はあっけのないものだ。

 現場へ到着すると寧々はイミナ救い出しており、周りの魔物すら殲滅して待っていた。ポイントDに到着したマリアンヌの強烈な殺気と警戒は見事に無駄となった。

 少し疲弊した表情の寧々が待っており、下半身の無い娘のコープスが整えられて置かれていた。

 傍に来たマリアンヌに、寧々はイミナの魂や首謀者の魂を渡していく。

 本当に娘の魂なのかと疑いもするだろうけれど、封魂瓶を手に取った時、これが娘の魂であることをマリアンヌは強く感じた。自身の魂と強く共鳴する。確かに私の娘だとマリアンヌは強く感じた。小さな頃を思い出す。生意気でどうしようもなかった。聖女になってからはムカツクと言うより嫌な奴だと感じた。

 言う事を聞かず自分の意思で動き始めた。

 おそらくそれは、自分にそっくりな性格なのだと察する。

 猛烈な安堵の念が押し寄せた。ロストしているとはいえ、行方不明になるのだけは避けられた。娘は守られた。ロストさえしなければ肉体の再生は果たせる。

(この馬鹿娘が)

 そうはののしってもやはり大切な娘だ。血が繋がっているからこそ暴言が吐ける。

「何も聞かないでください」

 寧々はそう言った。顔を上げたマリアンヌはふざけんなと睨んだが、寧々の表情を見て何も言えなくなった。悲しそうに眼を反らすさまがあまりに痛々しかったからだ。ひどく、疲れた顔をしていた。

(なんでこの子はこうなの。どうしてこの子はこうなの)

 譲り渡された魂を持っていた鞄へ大切に大切にしまいこみ、マリアンヌは寧々に向き直る。何も聞くなと言う。言葉を返せば何も言えないと言うことなのだろう。

 差し出された杖、聖者の行進を手に取り感謝しか浮かばない。

 誰かと何かを取引したのかもしれない。こんな事が可能なのは天使だけだとマリアンヌは考える。もしかしたら天使と取引をしたのかもしれない。その場合、寧々が払った対価はいかほどか。なぜそこまでしてくれるのか。イミナが好きだからか。それだけでここまで来られるのか。ここまでできるのか。命を賭けられるのか。

 彼の中での優先順位があまりにも高い。おそらく自分の命よりも高い。その順位の中で自分が上位にあるとも感じられる。自惚れかとも考える。

(どうして私はこの子の母親じゃない。どうして私はこの子の母親ではないのか)

 何度思考した所で血が繋がっていないという事実に変わりはない。

 そんなことは大した問題ではないと感じるのに、実際目の当たりにするとその問題が決して解くことのできない難問に見えて来る。

(時間が解決してくれるというのか。手を離したらすぐにでも離れてしまうと言うのに)

 三歳の頃から知っている。お風呂に入れたことだってある。十三年の積み重ねがあるのにも関わらず現状がこれだ。

 寧々の腕を掴み、逃げられないようにしてから両腕を背中へ回し抱きしめる。最初は強張ったものの、寧々は強く拒否はしなかった。

(だからと言って貴方が傷ついていいわけではないでしょう。だからと言って、貴方が無理無茶をしていいわけじゃないでしょう。何も聞くなというのはあまりにもひどい台詞じゃないか。こんなにも苦しいのに。こんなにも……クソが。私によくもこんな痛みを。このクソガキ殺す)

「ありがとう寧々」

 こみ上げる色々な思惑を唇と一緒に噛み殺しながらマリアンヌはそう告げた。


 それは寧々が生まれた時に贈られるべきプレゼントだった。それは子供たちが生まれて最初に受け取るべきプレゼントだった。

 Happy birthday――。

 だが寧々はそれを受け取ることができなかった。

 もう遅い。認識すらできず意味がない。

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